番外:タイタン様の愉快な冒険譚
前書き
このお話は「大穴:後編」にてタイタンが語った「タイタン様の愉快な冒険譚」を番外として纏めたものです。
時系列としては「化け物:後編【怪異の森】」と「化け物たちの休日」の間になります。
本編と合わせてお楽しみいただけたら幸いです。
2020/11/3 藺草鞠
夢を、見ていた。
夢というのは記憶のパッチワークのようなもの。現実と現実が本来有り得ない形で繋ぎ合わされるが、夢の世界を歩く限りそれに違和感を抱くことはできない。
タイタンはあの暖かい家の前に立っている。木漏れ日が差し込み、記憶にあるよりも傷の少ないテーブルを照らしている。
「おかあさま!!」
舌ったらずな声と共に、走って来た顔も見えない誰かが、透明なタイタンの体を通り過ぎて走り抜けてゆく。
記憶にあるよりも背が低い。見たこともないはずの幼い真白の少女が、作業場の扉を開いて中へと走っていった。
幽霊にでもなったかのようだ。少女は自分を見ることなく通り過ぎてゆく。
それが何だか悲しくて、タイタンはそっと背を向け家を出た。
外は真冬。必死に歩いて来た旅路を引き返す。この森に自分の居場所はない。
夢を、見ていた。
どくどくと自分の血が雪原を染めてゆく。朦朧とする意識の中、自分を追って来たセレナが自分の胸にナイフを突き立てる。指一本動かせない自分に、容赦なく、セレナは笑みすら浮かべながら、何度も何度もナイフを振り下ろす。
「もう一度来たら殺すと、そう言ったでしょう。」
沈む。沈んでゆく。意識が暗黒に沈んでゆく。
怖くなって必死にセレナに手を伸ばした。助けてくれ、そうやって伸ばした指先が刃となってセレナの胸を貫く。
「ーーーーーー」
機械の電源が切れたように、がくりと力を失ったセレナがタイタンの腹に倒れ込んできた。
脱力した彼女の重みに押され、タイタンはずぶずぶと雪の中に沈んでゆく。
夢を、見ていた。
タイタンは今月の上に居る。きらきらと降り注ぐ星々が御伽噺のよう。
つるつるとした銀色に輝く球体の上を、おぼつかない足取りでタイタンは一歩、また一歩と進んでゆく。理由などわからない、自分はただ前に進まねばならないという確信があった。
気が遠くなるような時間前に進み続け、タイタンはようやく目的の場所へと辿り着く。
「・・・・・あ。」
天から吊るされたオーロラの天蓋が気怠げに、柔らかい巨大なクッションの上に横たわって居る。真っ白なクッションもまた天蓋と同じく、煌めく星々を銀の糸で縫い付けて飾られていた。
まるで城の大広間だ。ベッドと呼ぶにはあまりに巨大すぎる真白のクッションの真ん中、一匹の鳥がのんびりと眠っていた。
「・・・セレナさん?」
タイタンは靴を脱ぎ、クッションに足を取られながら懸命に彼女の元へと進む。
おかしな話だ。だが、あの鳥がセレナなのではないかという疑念が、自分を突き動かす。
何故なら、鳥の羽根は水晶のように透き通り、月の光を足元から浴びてプリズムを放ち煌めいて居るから。鳥の羽根は、彼女の羽根にそっくりだった。
「セレナ、さん。なんでこんなところに1人で居るんだ。帰ろう。」
タイタンは鳥の足元に辿り着く。この鳥は一体どれほど大きいのだろう。まるで山の麓に立ったかのようだ。
タイタンがもしセレナのように動物に詳しかったら、この鳥が何の鳥なのかを判断できたかもしれないが。生憎彼にはこの鳥が白鳥なのか、隼なのか、それとも鳩なのか、それを判別することはできない。
「・・・・・。」
見上げた遠く、銀色の山が途切れた先に天蓋の内側に描かれた天井画が見える。
「セレナさん。」
銀色の羽毛の山に臆することなく、タイタンはその銀色の嘴を両手で揺すった。
それが擽ったかったのだろう。鳥は虹色の睫毛を震わせ、ゆっくりと瞼を開く。
目覚めたピジョンブラッド。まだ眠そうなルビーの瞳がころころと動き、タイタンを捉えた。
セレナとは、違う色だ。
「悪い。人違いだ。」
「・・・・・ん。わざわざ起こしておいて、そんなつまらないことを言わないで頂戴?」
だが、言葉とは裏腹に鳥は楽しそうだ。鳥は華奢な首をそっと持ち上げ、その硝子細工のような羽根で大きく伸びをして・・・・再び眠そうに首を擡げてしまった。
「この私の寝所に踏み込んで、眠りを邪魔して。人間でなかったらとっくに殺しているわ?」
「その、すまない。探している人があんたとよく似ていたんだ。」
「私に似ている?私と見間違えるほど美しい存在がこの宇宙に居るわけが・・・ああ、そういうこと。」
よく分からないが、鳥は納得してくれたようだった。ピジョンブラッドが優しい光を讃えてタイタンを見つめ、
「探している人はここには居ないわ?ふふ。でも急ぐ必要などないの。ここは夢の世界の果ての果て、時と空間の渦の果て。安心して。ゆっくりと来た道を引き返せば、貴方のお家に帰れるわ。」
そう言って一枚の羽根をタイタンの掌の上に降らせた。
「ここでずっと1人で眠っているのか?」
「ええ。ええ。誰も居なくて退屈だから、ずっと眠って夢の世界で遊んでいるの。」
「寂しくはないのか?」
「当然寂しいわ。ええ、でも・・・ふふ。大切な人を待っているの。それが楽しみだから、前よりずっと平気だわ。」
恋する少女の瞳だ、と思った。彼女のルビーが熱に浮かされ甘く溶けている。
どうやら彼女もまた、誰かに恋をしているらしい。
ならば、少女のベッドに他の男が踏み込むなど無粋だろう。そう思い、タイタンはここを去ることを決めた。
「ふふ、優しいのね人間さん。貴方のお名前は?」
「タイタン、という。本当の名前ではないが。俺のことはそう呼んでくれ。」
「名前に本当も嘘もないわ。一番気に入っている名を名乗れば良いのよ?」
鳥は自分の長い首にそっとタイタンを乗せ、柔らかなベッドの上を歩く。
見送りのつもりらしい。歩きにくいクッションの上からつるつるとした硝子玉の月面に、鳥ぬはタイタンを降ろしてくれた。
「ふふ、私を恐れない人間は好きよ。背中に乗ると皆恐縮してしまってつまらないの。ほら、早く行くといいわ。」
「・・・ありがとう。あんたは?」
「私?」
「ああ、あんたの名前。」
鳥はきょとんとした顔をして・・・少し考えた後愉快そうに笑った。
「ふふ、そうね。一番気に入っているのは別の名だけれど、それは内緒なの。ふふ、人間は皆私を■■■■■■と呼ぶわ?」
「そうか。ありがとう■■■。あんたの待ち人が、早く来ることを祈っているよ。」
「ええ。貴方の探している人も、早く見つかるといいわね。」
■■■はそれだけを言うと、元の寝所に引き返して行った。
タイタンも脱いだ靴をそのままに元来た道を引き返す。
つるつるの月面を裸足で歩いてゆくと、がくんと意識が暗闇に落ちる感覚。一体どこまで自分は落とされるのだと、震えたその時。
「・・・・・・が。」
沈むような感覚と共に、頭を煉瓦に叩きつける痛みが走る。
鈍い痛みに顔を歪め、はっとする。
ほんの数分の仮眠のつもりが、深く眠ってしまったようだった。
「クソ。・・・いや、仕方ないか・・・。」
タイタンは気怠い体を無理矢理に起こす。体育座りで眠ったせいで体があちこち軋むし、眠りすぎで頭痛が酷い。
冷たい煉瓦造りの建物に声が反響して消えた。
「怪我は・・・よかった、傷口は乾いたな。」
足の裏にばっくり開いていた切り傷は乾いて瘡蓋になっていた。多少歩くくらいなら平気だろうが、無理な動きをすれば瘡蓋が割れて、またブーツの中が血まみれになる。
・・・全く、油断しなければよかった。
「油断、というか。予想外と言う方が適切だがな。」
タイタンは一昨日、川を渡ろうとした。
なるべく浅瀬を選んで、それでも足首ほどの深さのある川を、ブーツが浸水するのを嫌って裸足で渡ろうとした。
・・・まさか水底に居たタニシが鋭いナイフのような殻を持っているとは知らずに。タイタンの足の裏はスパッと切れてしまい、川から慌てて上がるとタイタンの足はどくどくと嫌な鼓動を繰り返しながら、ピンク色の肉から血を溢れさせていた。
罠でもそこそこダメージを受けたが、これが一番痛い。歩くたび足が痛む。本当は足を引き摺って歩きたいくらいだが、弱った真似を見せた途端に、今まで睨んで追い返していた野生動物たちがタイタンに牙を剥くのだ。
他にも、右腕に真っ直ぐに走った引っかき傷、筋肉質な腹には大きな青痣。細かな擦り傷はもう数え切れない。痛み止めでもあれば無理矢理にでも走れるのだが、そんなものはセレナは投げ渡してくれなかった。
今持っているのは元々持っていた旅用の荷物、そして水とパンが詰まった布袋。
といっても、旅用荷物は殆どがあの大怪我で駄目になってしまっている。今持っているのはセレナのものらしい大きなリュックに着替えが二着、簡単な身支度の道具。それに縄やナイフ、火起こしの魔道具が詰まった工具箱。あとは砥石と結界装置、壊れて蓋が割れてしまっている通信装置。そのくらいのものである。
タイタンは水をがぶがぶと呷り、大きなパンを3口で頬張って飲み下した。
一度パンの詰められていた袋の中身を覗き、やめた。パンは残り2つ。食事の心配をすれば、パンが尽きるより先に精神の限界が来る。
「保って後二日・・・いや。違う。考えるな・・・。」
建物に据え付けられていた水道を捻り、一滴も水が出てこないことに溜息を吐く。
顔くらいは洗いたかった。まあいい。どうせ自分は南部から川を遡るように北に進んでいる。冬の凍りかけの川で身を清めて目を覚ますことにしよう。
タイタンはドアを開く。夜明け前の真冬の外気が、まるでタイタンを拒むように建物の中へと押し込まれて来る。
セレナの元を追い出されてから10日ほど経過している。比較的温暖な南部は既に遠い。
恐らくここは森の中心部までもうすぐ、といった辺りだろうか。
セレナの家の辺りほど雪は深くないが、それでも真冬の森の強行軍はかなり過酷だ。足の怪我もあり一昨日からかなり進むペースは落ちている。パンばかりの食事で栄養が偏り、体に力も入らない。しかもこれで方向が合っている確証も無いのだから。
「・・・・・キツい、なあ。」
タイタンは結界装置のボタンを押す。確かにセレナの言った通り、結界装置には地図を表示する機能が付いていた。だが。
「確かにそうだ。ここはハンターの未踏の土地なんだ、ハンターが作った地図が当てになる訳が、ない・・・。」
全面に表示される「LOST」という赤文字。方位磁石代わりにもならない。なのでタイタンは毎日必ず夜明け前に起き、朝日の昇る方角を確認する。冬の太陽は南東から昇る。北を絶対に見間違わないように、前日進んで来た方向に入念に目印をつける。
日課を終え、タイタンは荷物を背負い建物を出た。
北から南に飛ばされた。分かるのはそれだけだが、とにかくセレナの生活している痕跡さえ見つけられればそこから辿れるはず。とにかく真っ直ぐに北へと進む。
「・・・まあ建物が見つかったのは収穫だが、なあ。これ、セレナさんも知らずに放置しているんじゃないのか。」
タイタンは一晩世話になった塔を見上げる。優しい土色のレンガで作られた塔の屋根には、金属製の装飾が細かく施されている。
特徴的なのは、建物の上部に設置された時計、だろうか。乳白の文字盤と、屋根と同じく鉄色の装飾。だが老朽化した建物から察しがつくだろうが、時計は止まってしまっている。
6時46分を指したまま止まってしまっている大時計を見上げ、タイタンは白い息を吐く。
「・・・世話になった。久しぶりに風の凌げる場所で休めた。」
本当は建物をもう少し探索すべきなのかもしれないが。そんな時間も体力もない。
煉瓦造りの時計塔は螺旋状に階段が設置されている。危険があっては困るので、一応上階に登って確認はしたが、タイタンが登れたのは3階までだ。それより上に続く扉は木の板と釘で厳重に蓋がされていた。
余計なことに首を突っ込む必要はない。この森では好奇心は命取りだ。
何が封印されているかも分からないのだから、わざわざ扉を突き破る必要はないだろうと、それ以上の探索は諦めることにしたのだ。
タイタンは一礼し、風化してしまった時計塔に背を向けた。
深い雪のせいで、罠の位置が読みにくい。
タイタンは踏み出しかけた足を止め、一歩だけ右にずれると再び歩きだす。
せめて南部に設置されていたような転移装置を見つけられれば、と目を凝らして先に進んでいるが、一向に見当たらない。ひょっとしたら、とっくに通りすぎた南部の装置とセレナの住む北部装置の2つだけしかないのかもしれない。
「クソ。本当に方向は合っているんだろうな・・・。」
歩いても歩いても変わらない風景。朝から歩き続けても、何時間歩いても、視界はずっと真白のまま。あと一時間もあれば日は傾き出す。今日も、ああ。
発狂しそうだ。意味もなく叫びだしたくなる衝動を必死で堪える。
ずきずき、ずきずきと痛む足。おそらく瘡蓋はとっくに割れているだろう。
何日も何日も何日も何日も、代わり映えしない景色の中を進んで来た。
この数日で見つけたものはあの塔だけだ。自分は一体いつになったら彼女に会える?
「どう、して、ここまでしているんだろうか。」
記憶をなくしたとて、生きたいなら彼女のいう通り保護区に戻ればよかったではないか。
命の恩人とはいえ、出会ったばかりの人間だ。今ここで見捨ててしまえば、彼女との日々はきっといつかは風化する。
そんな、出会ったばかりのセレナが1人で泣いているのが、ここまでするほど嫌なのは、一体どうしてだろう。
「・・・・・。」
意識が朦朧とする。何があったという訳ではない。
何日も時間をかけて、じわじわと限界は迫っていた。
視界に霞がかかったようだ。
先ほどまで明瞭だった視界が、数歩先を見るのが限界な程に、霞む。
「チッ・・・」
どうしてここまでしているんだ。それを考えてしまったのが運の尽きだった。
自分に通っていた一本芯が、ぼろぼろと崩れて行く。
もし、ここで死んだら。
「煩い。黙れ。クソ。」
彼女に会いたい。会って早く文句を言ってやりたい。
「セレナ、さん。」
そう思って踏み出した一歩。何か弦を爪弾く音が耳に入った。
「ーーーーーーッ!!!!」
違う。これは楽器でもなんでもなく。
つま先で踏んだ細糸。タイタンの顳顬を石製の弾丸が掠める。
しゃがみ、雪面を滑るようにそれを避ける。しゅん、ごん、がん。耳を塞ぎたくなる風切り音と共に頭上を丸い弾丸が通過した。
どっと冷や汗が吹き出る。霞みかけた視界が眩しすぎるほど明瞭に戻り、落差で目眩がする。
倒れかけた体を支えようと踏ん張った右足。だがその足が、何か薄い板を踏み抜いた。
「あ・・・?」
中にあったのは木の筒。その細い筒を、タイタンの右足が奥に見える”金色の魔導機械”に押し込んでしまった。
ーーーー絶対にマズい。
タイタンは踏み抜いてしまった”雷管”の横をそのまま全速力で走り抜ける。
飛んでくる鏃を剣で弾き返す。これは足止めだ。絶対に止まってはいけない。
あのトラップを踏んだ後、逃げる足を一歩でも止めてしまえば・・・・
ドッ!!!!
足が無くなる。
背後から押し寄せて来た煙と二酸化炭素、そしてタイタンの全身を焼き尽くさんと迫る熱気が、彼の体を吹き飛ばした。
「がっ・・・・!!」
あれほど歩くのが億劫だった道のりが一瞬にして眼前を通り過ぎ、そして、タイタンの鼻先に樹氷で飾られた大樹の幹が触れる。
ひくりと口の端が引き攣った。自分の頭が柘榴のように弾け飛ぶ想像が頭を過ぎる。
とっさに体を捻り、全力で大樹の幹を蹴った。殺し切れなかった衝撃が全身に走る。
ぶち、ぶち。筋繊維の切れる嫌な音が、やけにゆっくりと体内を通って鼓膜に届いた。
「痛・・・・・ッ!!」
怪我をした足の裏が悲鳴を上げる。どさり。まるで荷物か何かを落としたかのような音を立てて、タイタンの体が地面に着地した。
五体満足。首の皮はなんとか繋がっている。大丈夫だ、生きている。
はく、はく、と浅い息が唇から漏れる。心臓はまだ不気味な鼓動を立てている。頭の血が急激に下がって行く感覚。目眩と強烈な吐き気、だらだらと首を気持ちの悪い汗が伝う。
そのままタイタンはずるずると座り込んだ。
あの崩落を目の当たりにして以降、自分はなんだかとても弱い人間になってしまった気がする。
片手で荷物を探り、水を取り出し飲み干す。残りのボトルは一本。食事だけではない、真水だって残り少ない。駄目だ駄目だこんなことでは、本当に死にかねない。
とにかく今日はここで止まっていい。いや止まっては駄目だ。こんな全身ぼろぼろの状態で先に進めるわけがない。
「・・・っ、クソ。怪我を、確認。どこをやった・・・?」
ブーツの中は案の定血まみれだ。傷口に更にダメージを与えてしまったせいでますます痛みは酷くなっている。歩ける気がしない。このまま放置して化膿したら目も当てられなくなる。
最後に気を蹴った時に足首もやった。脹脛が酷く痛む。上半身は服と髪が焦げた程度で済んでいる。長い髪はこういうときに邪魔だ。
「焼いて塞ぐか・・・はあ。痛いのは変わらないが、血が出ないだけマシだろ。」
こうなるなら最初からやればよかった。そこまでしなくても、と躊躇した結果がこの有様だ。
タイタンは工具箱から消毒用のアルコールと金属ナイフ、着火装置を取り出す。
とりあえずは傷の処置、後のことはなにも考えるな。
ナイフの刃先を、装置の先端の円筒から吹き出した炎で炙る。
夜でもないというのに薄暗い。
オレンジ色の炎が燃えるのを、何も考えずぼんやりと見つめているうち、固まってしまった思考に油が差され、少しずつタイタンは冷静さを取り戻していた。
「今日だって、かなり進めた。大丈夫だ。焦って下手に進む方がマズい。ここは森だぞ、冬とはいえ食事なら狩りでどうとでもなる・・・煮沸すれば水は手に入る。死ななければ、死ななければどうとだってできるんだ。」
自分にそう言い聞かせる。タイタンは自分のシャツの袖だけを脱ぎ、口に咥えた。
そして灼熱に熱されたナイフの面を、タイタンは自分の足裏・・・何度も何度もブーツの中で擦られ、ぐずぐずに熱を持ち、今尚どくどくと血を溢れさせる裂傷に、押し当てた。
「ーーーーーーーーーーーー!!!!」
・・・独り言を言う余裕さえなくなってきた。
かろうじて歩ける状態までは回復したが、精神的に余裕がないのは変わらない。むしろ悪化している。
ゆっくり進めば良い、と考えたのがよくなかった。
一刻も早くこんな状況から脱したいのだ。
続けば続くほど余裕がなくなるのは当たり前のことで。
「・・・・・は、あ。」
北に進んでいる、そのはずなのに。代わり映えしない景色、一面真っ白の極寒の地に閉じ込められ、タイタンはもう限界だった。
「きっつい・・・・・ん?」
タイタンは眉を顰める。異臭がする。
嗅ぎ慣れない、少なくともこの森で一度も嗅いだことのない匂いだ。
「火事か?いや・・・。」
セレナから追い出された身とはいえ、この森で異常が起きているなら見過ごしたくはない。
タイタンは臭いの強くなる方へと歩いて行った。
「なんだ、これ・・・。」
タイタンは絶句する。疲れ果てた自分が、都合の良い幻覚かなにかを見ているのかと疑い、タイタンは頰を抓った。
「・・・痛い。」
頬を抓っても変わらず。この極寒の森にあまりにも相応しくない光景が、目の前に広がっている。
最初は池だと思った。だが明らかに人工的に整備された池の外周、そして池から立ち上る湯気。
「風呂・・・?」
池に湯が張られている。よく見れば横に魔導式のポンプが付いており、定期的に熱い湯を循環させているらしい。この構造自体はセレナの家の風呂で見たことがあった。
「・・・・・いや、いやいやいや。」
どうして屋外に風呂が。そもそもこの匂いは何なのか。疑問が次々浮かぶが、結局、
「まあ・・・この森だもんな。何でもありか。」
その一言で片付いてしまうのだった。
湯から異臭がするので、ポンプ自体は老朽化しているのかもしれない。
だがおそるおそる触れてみると、タイタン好みの熱めの湯。匂いは気になるが、肌に触れた感覚では異常なさそうだ。
「・・・寒いんだよな。ああ、うん。体を温める必要があるんだ。うん。仕方ない、仕方ないな。」
ここ数日血を流すために震えながら冷水で身を清めていた。正直多少のリスクはあろうともこの湯に浸かりたいのが本音。
タイタンの判断は早かった。即座に服を脱ぎ捨て、腰にタオルを巻いて足から湯に浸かる。
「いってえ・・・!沁みる・・・。」
足の火傷跡に湯が沁みてとても痛い。それでなくても全身細かい切り傷だらけだ。さっさと体を入れなければ極寒で心臓が止まる、入ると全身の切り傷に湯が沁みて激痛が走る。
1人悲鳴を上げながら全裸の男が湯に入ってゆく姿は、とてもじゃないがセレナに見せられるものではない。頼むから来ないでくれよと祈りながら、タイタンは時間をかけて肩まで湯に浸かることに成功したのだった。
「・・・・・はあーーーーーっ・・・。」
若者とは思えないオッサンじみた溜息が漏れる。
極楽だ。
少しどろりとした、透けた乳白色の湯が全身を包み込むかのようだ。
ここ数日の不安に凍りついていた心が溶けてゆく。怪我の痛みばかりに気を取られていたが、全身が末端まで冷え切っていると言うのも相当なストレスだったことに、ここでようやく気付いた。状況は何も改善していない。相変わらず食料は殆ど尽きかけ、進む方向が正しい確証はないまま。だが、こうして心を癒す機会を得たことは、殆ど限界状態だったタイタンの支柱を取り戻してくれたのだ。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!!私そんなもの知らないわ!?」
「・・・む。いいところなんだから横槍を入れるなよ。」
セレナが机を叩いた衝撃でハーブティが少し溢れてしまった。わなわなと震えるセレナと反対に、タイタンは涼しい顔だ。
「温泉だろ、多分。今思えばあれは硫黄の匂いだったし。妙に傷に沁みたのもただの湯じゃなかったからだろうな。」
「・・・温泉?」
セレナが首を傾げるのも当たり前のこと。地底のマグマが崩落でぐちゃぐちゃに掻き回されている現代に、天然温泉など存在するわけもない。
「地底で温められた湯が地上に吹き出した、天然の風呂みたいなものだ。岩に含まれるミネラルなんかが溶け込んでいるから、ただの湯よりも体が温まるし、健康にもいい。あんたのお母様がどこまで再現しているのかは知らないが、あれは限りなく本物に近い代物だと思うぞ。」
「な、なによそれ!!私が心配している間に、そんな良い思いをしていたの!?」
セレナの顔にははっきりと、羨ましい、と書いてある。
「・・・俺を極寒に投げ込んだのはあんただけどな。」
「徒歩で戻ってくると知っていたらやっていないわよお馬鹿!」
駄目だ。このままだとまた水掛け論で喧嘩になる。
話にはまだまだ続きがあるのだ。
「もうそれはいい、それは・・・。まだ続きがあるんだぞ、ここからが面白いんだからな。」
面白い話、と言われると流石にセレナも黙るしかない。
悔しいがこの男、普段は無口なくせに話が上手い。自慢話となるとますます饒舌だ。
・・・話の続きが気になる、と。
期待の眼差しでじっと見つめられ、タイタンは心底楽しそうに、口を開く。
「温泉から出てまた歩こうと思ったらな・・・。」
浸かりすぎて少々上気せるほどだった。
だが溜まっていた疲れが湯に溶けて消えてしまったかのように、体が軽い。
それどころか、癒しの魔導使いの作った温泉というだけはある・・・ちょっと浸かっただけだというのに、全身の細かい傷が綺麗に消えているのだ。
重症だった足裏や捻った足首などは、完治とまではいかないが痛みが多少収まっているように感じるし、腹の青痣は少し小さくなっていた。
これならまだ少し頑張れそうだ。とにかく体が動くうちに食料を確保する。
獣の血抜きはまだ慣れないが、食べられるのであれば多少獣臭い肉でも我慢する。
贅沢など言えない、命には変えられないのだ。
「手頃な獣を・・・あまり大きくない方が良いな。駄目にしたら勿体ないし、申し訳ない。」
タイタンは気配を殺しながら周囲を注意深く探索する。冬眠せずに冬の森を生きている動物も珍しくない。ここ数日で幾度となく大鷲や雪兎、鹿を見かけていた。襲う体力の残っている今なら狩るのはきっと難しくない。
・・・そのはずが。どれだけ粘っても野生動物が捕まらない。鳥の一匹すらも見かけない。まるでここら一帯を動物たちが避けているかのよう。こんなことは今まで一度もなかった。
タイタンは首を傾げて、狩場を変えようと歩き出す。
「できれば、鹿が・・・。ん。」
遠くから温泉のある方向へと、のしのしと歩いてくる気配。
身を隠すことなく堂々とした振る舞いは、間違いなく強い、危険な獣だ。
生憎そういった輩とやりあう気はない。今ばかりは強い奴はお呼びでないのだ。
タイタンは彼の進路に入らないよう、慎重に茂みを迂回した。
だが。
「・・・む。目を付けられてるな。何でだ。」
タイタンが進路を変えた途端、囲い込むように獣の進路が変わった。
一瞬にして立場が逆転する。狩人は自分ではない。
獣はタイタンを狩ろうと立ち回っているのだ。
「恨みを買う真似は極力しないよう振る舞っていたはずだが。」
こうなっては追い返すほかない。追われながらこの強行軍を続ける気は無いのだ。
疲弊したところを襲われたら終わり。自分は生きてセレナの元に帰らねばならないのだから。
タイタンはゆっくりと、温泉のある広場へと後退する。
すると、ごそごそと茂みを踏み潰す音。タイタンを追っていた者はすぐに正体を表した。
「・・・・・ぐる。」
羆だ。タイタンの倍は背丈のある羆が、タイタンに向かい怒りを露わにしていたのだ。
「・・・俺はあんたに恨まれる覚えがない。」
羆とは元々、人の気配を察知したら自ら去っていくような生き物のはずだ。それがどうして自ら人に襲い掛かるのか。
だが深くそれを考える暇はない、羆はタイタンの喉を喰い破らんと襲いかかった。
「・・・・・ぐ、っ。」
流石のパワーである。少々回復したとはいえこちらも万全では無い。剣で羆の拳を受け止めた瞬間に肘関節に鈍痛が走る。
全力で暴れまわる羆相手に真正面から立ち向かうなど、ましてやこいつを狩ろうなどとはこれっぽっちも思っていない。
・・・とにかくおとなしく諦めてもらう。
「熊肉はあまり好きじゃないからな。・・・それにしても。」
どうして襲ってくるのか、その理由が不可解だ。羆の体当たりを間一髪で避ける。
その瞬間、鼻を掠った羆の体毛。
野生動物にしては整った毛並みから、僅かに硫黄の香りがした。
「そういうことか!」
ここはこの羆の縄張りなのだ。この辺りで野生動物を見かけなかったのもそういうことだ。
極寒の森の中、この極楽をこの羆は独り占めしているのだ。
「・・・縄張りに入ったのは、悪かった!だけど、ここに入りたい動物だって他にも居るだろ。独り占めするのは良くないぞ。」
「ぐう。」
煩い、黙れ。そう言わんばかりの態度。
むっとしたタイタンが一度睨みつけると、熊は挑発するように鼻先をそっぽにくいっと向けて
「がう。」
こちらに向けて一度腹を叩いてみせた。
「・・・・・。」
ぶちり。
舐め腐った態度にタイタンの顳顬がひくひくと動き。
「あん、たなあ。自分勝手もいい加減にしろよな!!」
イラっときた。
それだけの理由でタイタンは先ほどの誓いを全て忘れ去り羆に向けて剣を抜いた。
ここは極寒の森。温泉を賭けた男と男の仁義なき闘いが今、幕を開けたのである!
「もう、もういいから!!いつまでそのお話は続くの!?」
「むう。ここからが良いところなんだぞ。羆の腹に古傷があってな、そこを弱点だと見抜いてすぐに蹴りを・・・。」
「もう!!いいわよ!!大体野生動物の挑発に乗るなんて、貴方本当に分別が無さすぎるでしょう!?」
この自慢話は一体いつまで続くのだ。タイタンの戦いの一挙手一投足を聞いているうちにティーポットが空になってしまった。
「・・・それで?結局どっちが勝ったの?」
「いや。やりあって居るうちに打ち解けてな。最後は一緒に風呂に浸かって帰ってきた。」
「はあ!?」
椅子から転げ落ちそうになった。
嘘だろう。ここまで話を引っ張っておいてそのオチはないだろう。
「良いパンチをするんだよあいつ。いやあ、久しぶりに良い鍛錬になった。」
・・・しょうもない。あまりにしょうもない。
あの瞼の大怪我も、切れてしまった綺麗な髪も、泥と血に塗れた衝撃的な姿も。
セレナがあの時必死で癒した傷は、全てこのしょうもない大喧嘩によるものだったというのだ。
「横暴だが悪いやつじゃないんだ。結局俺は進路を東に大きく逸れていたらしくて。それを教えてくれたのもあいつだったんだ。」
「温泉は東部にあるということ?・・・あの霧の中を迷ったのね。それは確かにここまで2週間もかかるわけだわ・・・。」
あの霞がかかったような視界の悪さは疲弊のせいではなく、東部に一年中立ち込めている霧のせいだったのだ。
そんなことにも気付けなかったとは、タイタンも自分のことながら信じられない。
「だからな。最後は羆がここまで乗せてくれたんだよ。」
「・・・・・へ?」
「ああ。じゃあ北部はどっちにあるんだと聞いたら、羆が背中に乗れと言ってくれてな。」
待ってくれ。
あまりに突拍子がなさ過ぎる。
頭が疑問符だらけのセレナを置き去りに、タイタンはどんどんと話を進めてゆく。
「そこからは半日もかからなかったぞ。途中で空を飛ぶ兎に襲われた時は度肝を抜かれたが。兎の群れを羆が次々喰いながら走って、俺は剣で叩き落として、騎馬戦のようで楽しかった。」
「それも知らないわ!?東部には一体何が居るのよ!?」
せっかく潤した喉が怒涛のツッコミで枯れてしまいそうだ。
自分がまだまだこの森について無知なことは重々分かっていたが、それにしても、酷い。
「それで羆が転移装置の辺りまで送ってくれたあたりで、セレナさんの悲鳴が聞こえたから。そのままロクに別れも言わずにここまで走ってきてしまって。あの羆とはそれっきりなんだ。いつか東部に行くならまた会いたい。良い奴なんだよ。」
タイタンは懐かしむように遠い目をした。離れ離れになった気の置けない友を懐かしむ、彼にしては非常に珍しい優しげな表情。感動的な場面に思えるが、相手は野生の羆である。
「・・・この際当たり前に羆と意思疎通をしていることには突っ込まないわ。ええ。貴方も熊みたいなものだし。同類なのよねきっと・・・。」
「失敬な。」
失敬なものか。100人が聞いたら100人が同じ感想を言うだろう。
セレナは呆れ顔で最後のクッキーを口に投げ込んだ。
全く、確かに面白い話ではあったが、何と言うか、
「本当、何から何まで無茶苦茶よね、貴方って。」
それに尽きる。
「悪いか。生きてあんたに会えたんだからなんだって良いだろ。」
一番話したかった部分を遮られ、タイタンは不満そうに茶器を片付け始めた。




