化け物:後編【怪異の森】
タイタンの前に現れた1匹の狼。
瀕死の狼はとある条件と引き換えに、タイタンに助力する取引を持ちかける。
それは、タイタンの最期の退路を奪う、文字通りの悪魔の取引。
タイタンを救ったのが最後の力だったのだろう。
タイタンの膝元にどさりと倒れ込んだ狼は、全身の毛が焼け焦げ、見るも無残な姿であった。
必死に走ったのだろう、爪が折れ、肉球は火傷で腫れ上がっている。
火傷、背中の大きな傷。医療に詳しくないタイタンでも、この狼が間も無く絶命すること、どんな優れた医師でもこの狼に為す術がないであろうことが理解できた。
傷を見ようと慣れない手つきで触れようとしたタイタンを狼が制す。
「いらん。時間がない。・・・いいか、おれの話を黙って聞け。聞かれたことだけに返事をしろ!」
地響きのような低い声。ぐらりと目眩のような感覚にタイタンは眉を寄せた。
狼の低い声は、タイタンの脳に直接響くようだ。
どういう理屈かは知らないが、この不可思議な現象はおそらく魔道の一種だろう。
狼が魔道を振るう。俄かには受け入れられない現実に動揺するが、そんなタイタンを無視して狼は話を進める。
死を前にした狼の声はどこか安らかで、しかし森を守る者の威厳に満ちていた。
狼はタイタンを見定めていた。
ここまで弱っていても、気を抜くとこの狼に食い殺されてしまいそうな、そんな恐怖と緊張をタイタンは抱いていた。
「お前は、セレナを、この森を、守ると誓えるか。」
「・・・っ、当たり前だ。」
僅かに弱くなった言葉尻を狼は見逃さない。
「何があっても、守ると誓えるか!」
「誓える!」
その為にタイタンはここまで走ってきた。
そんな問いは今更だ。
セレナが1人で泣いていることが許せない。セレナが1人で苦しむことを許せない。
セレナには笑っていてほしい。できることなら、それが自分の隣であってほしい。
それだけが今のタイタンの願いであり、全てだ。
目の前の狼は恐ろしかったが、タイタンのそれだけは決して折れない。
狼は僅かにタイタンを見つめ、その瞳の光を見て満足そうに頷いた。
「然るべき時に、セレナに渡すように、母さんに預けられていたものがある。しかしおれはもう死ぬ。寿命を超えた魔道の稼働でおれの体はもう限界だったのだ。・・・だからそれを渡す役目をお前に任せたい。役目を果たすためのおれの力を全てお前に渡したい。」
「渡す、もの・・・?」
「おれにも、それが何なのかは分からん。ただ、母さんが『然るべき時までセレナに渡すな』と言った。セレナを見定め、計画に必要な力を取り戻したとわかった時に、渡せ。できるか。」
「な、何を言っているか分からない!」
質問にだけ答えろと言っただろう!と狼が声を荒げ、血を吐く。
ごぼり。と。
ゼリー状の塊になった血が、大地に吸い込まれることなくてらてらと艶めく。
「お前たちはこの森を探索することを始めていたな。それでいい、それを続ければいいはずだ。」
「セレナさんのお母様の研究資料を見つければいいのか?そうしてこの森の結界をより強固にすると・・・そういうことか?」
「・・・?どうしてそんなことになっている?どうしてそんな無意味なことを?」
無意味?首をかしげるタイタンに狼は呆れたような声をかける。
なにもわかっていないのか、と。
狼は当たり前のことを言うように、軽い口調でそれを告げた。
「結界を守ってどうする。世界を救わねば、崩落を止めねば、何も解決しないだろう。」
「世界を、救う・・・?」
タイタンは僅かにぽかんとする。
あまりにスケールの大きすぎる一言だった。それはタイタンの想像を超えた一言だった。
いや。想像を超えてなどいない。
それはタイタンの脳裏にありながら、しかし、できるわけがないと無意識に記憶の外に追いやっていた一言だ。
脅威を脅威と認識できない。
・・・自分はセレナを責められまい。この世界の人間を責められまい。結局自分も同じだった。
恐ろしいとは思った。崩落を防ぐ結界を守るため、ありとあらゆる手を尽くさねばならぬと思った。
それよりもっと単純な、セレナと自分が一番幸せに生きる方法を、タイタンは不可能だと切り捨てていた。
世界を救う。その言葉に固まるタイタンだったが、その瞬間、確かに。
タイタンの胸に、小さな炎が燃えた。
「・・・こんな簡単なことを説明している時間はないんだ!やるのか、やらないのか!?」
突然のことに混乱するタイタンだが、しかし、心になにか欠けたものが、ぴたりとはまったような感覚だった。
そうだ。自分が本当にすべきことは、これだ。
そんなことが、もし本当に可能ならば。
「やる。」
タイタンの心に燃えた希望の炎が、ぱちぱちと楔色を燃え上がらせる。
死に瀕した命を目の前にして、それでもタイタンの表情は希望に満ちていた。
狼はそれを見て・・・嬉しそうにニヤリと笑い、タイタンの膝を鼻でこつんと突いた。
「まだ問いは終わっていないぞ若造。」
狼は再び冷徹な声でタイタンに問いかけた。
「・・・今からおれの血を輸血する。狼の血が歪に混ざったお前は異形となり、同時にとある記録と、狼の絶大な権能を手にする。計画のために、ヒトでない何かに成り果てる覚悟はあるか。」
「構わん。そのくらい、どうということはない。」
即答するタイタン。狼は少し間を置いて、再び語り出した。
「お前の記憶を奪ったのはおれだ。あと一発魔道を使えばおれは死ぬ。おれが死んだら、お前の記憶を取り戻す機会は永遠に失われる。永遠にだ。・・・構わないか。」
狼は誠実だった。自分のしたことは全て明かす。
そのことに気付いた。彼が申し訳なさそうにしていることにも。
「・・・記憶のことは、申し訳なかった、人間。」
「・・・いいんだ。要らない。記憶を取り戻せば、きっと俺はセレナさんの敵になる。・・・そのくらいは、自分でわかっているから。記憶は要らない。あんたのおかげでセレナさんと出会えた。そのことに、感謝している。」
狼が身体を怠そうに起こし、タイタンに立ち向かった。
「本当に、いいんだな。」
「記憶をなくす前の友人、家族。彼らに糾弾されようと。不誠実だと後ろ指を指されても。俺は過去を切り捨てると決めた。俺は悪魔になる。鬼になる。覚悟はできている。・・・だから、あんたは何も考えるな。切り捨てたのは、俺だ。」
狼の瞳が揺るぎない楔色を映し、悲しげに揺らめいた。
仕掛けたのはおれだ。そう仕向けたのはおれだ。理想の展開に喜んだのはおれだ。
どの口で言うのだと、そう言われてしまうかもしれないが。
・・・まさか、お前がここまでの人間だとは思いもしなかったんだ。
狼はその言葉をぐっと飲み込み、最期の言葉を告げた。
「この森を探索すれば、嫌でも母さんのことを知ることになる。母さんが何者で、母さんがどんな人生を辿ったのか、お姉ちゃんと一緒にそれを知れ。それこそがおれには成せなかったこと!全く腹立たしい!やはりおれでは役目を果たすには不足だった!ああ、嫉妬で狂いそうになる!おれは死に、お前はお姉ちゃんの愛も、役目も、おれが欲しかった全てを手に入れ生きるのだから!ああ、殺してやりたい!殺してやりたい!」
「・・・お前。」
同情を振り切るように、さながら狂気に侵されたかのように、狼は最後の力を振り絞り、吠える。
「さあ始めようか!手を差し出せ!俺の後悔も、怨念も、全て背負って進め!タイタン!!」
体を起こした狼が、タイタンの手首に思い切り噛み付く。
痛みに顔を歪めるタイタンに、狼は詩を詠むかのように高らかに告げる。
「これより始めるのは尊き大魔導師の子たるおれの最期の魔道だ!お前は異形に成り果て、記憶を取り戻す機会も永遠に失くす!決して元の道に戻ることはないし、もう戻れない。・・・それでも、お前は前に進め!その為の力はおれが与えてやる!」
どくどくとタイタンの手首から血が流れる。同時に、狼の牙から流し込まれた血が、タイタンの体に流れ込む。
「ああ、殺してやりたい。犬畜生の体では、母さんの見たかった世界を見ることは叶わなかった。お姉ちゃんを最後まで守ることも叶わなかった。・・・ああ、殺してやりたい。殺してやりたい・・・」
ぽつり、と聞こえた声は遠い。
大地がタイタンの血で湿り、狼の体からがくんと力が抜け、そしてタイタンの意識がぶつりと途切れた。
記録再生。
巨大な金属の建造物が眼前に立つ。
アスファルト、の大きな道路を、歩く人、人、人。
大きな映画館で流れるラブストーリー。
光り輝く建物の前でキスを交わす恋人。
ストリートでは何か菓子が焼ける匂い。
甘いものが食べたいと母親に強請る、子供の声。
記録再生。
オレンジに燃え上がる夕焼けの空。
部活動を終えた空腹に、どこからか漂うカレーの匂いが染み渡る。
こっそり買い食いでもしてしまおうかと、悪戯な気持ちを抑える。
歩き慣れた道を歩く。
そっと前を見れば同じ委員会の先輩が。
人間が、結局声をかけることはないまま。
次の通りを曲がっていく先輩の背中を横目で見守る。
記録再生。
カフェオレにパンを浸して食べるパリジェンヌ。
記録再生。
起きたら太陽が天辺に登ってしまっていた薄暗い部屋のカーテン。
記録再生。記録再生。記録再生。記録再生。
記録再生。記録再生。記録再生。記録再生。
記録再生。記録再生。記録再生。記録再生。
記録再生。
「ええ、これで完璧。あとはセレナに後を託すだけ。ふふ、私はそんなに情けない顔をしている?・・・まあ、自覚はあるわ。私は私の役割を果たすことなくこの世界を去るのだもの。無念とはきっとこういう感情なのね。ええ、きっとセレナはうまくやれるわ。・・・でも。やっぱり。セレナには、若いうちに・・・甘いアイスクリームを食べたり、素敵な恋人を見つけてドキドキしたり、可愛いお洋服を着て笑ったりして欲しいの。本当は・・・セレナにプレゼントしたかったのは、こんな狭い森じゃなくて・・・崩落のない世界。崩落なんか、私たちの世代でケリをつけたかった。次の世代の人間達には、価値に満ちた素晴らしい世界を受け渡したかった。・・・いつだって私は後悔してばかり。」
「ええ、あなたが?あなたがセレナを手伝うというの?それは、その、嬉しいけれど。その体では。・・・改造を、受けるですって?駄目よ、セレナが怒るわ。あなたにそんなことをしたと知れたら・・・内緒にするって・・・。」
「・・・もう、そこまで言うなら仕方ないわ。あなたの体でも、私と同じ魔道が使えるようにしてあげる。本当は隠しておくつもりだったけれど、これも、あなたに守ってもらえるなら都合がいいもの。あの子が成長して、立派な魔道使いになったら、これを渡してあげて。そしてセレナが立派な魔道使いになれるように助けてあげて。・・・その頃には私は祈ることしかできなくなっているかもしれないけれど。過酷な役目かもしれないけれど。・・・でも、お願いね、ルゥ。」
優しい優しいセレナを、守ってあげて。
そう言い、母さんはおれの頭を撫でた。
「ーーーーーッ!!!」
タイタンの意識が浮上した。
ノイズ。ノイズ。ノイズ。ノイズ!
様々な記憶、様々な感情、様々な土地、様々な匂い、様々な色がタイタンの意識の中で混濁する。ここはどこだ。ここは、ここは、今は何時で、何が起きて。
タイタンの楔色が、オレンジが、黄色が、赤が、緑が、ぐるぐるぐるぐる渦巻いて。
気分が悪い。吐きそうだ。誰かこれを止めてくれ!
「ーーー」
パン!!!!
体に叩き込まれた衝撃。冷や水を浴びせられたようにはっとすると、突如いつも通りの森が眼前に広がった。
あれからどれほど時間が経った。まだ混乱しているタイタンは、目の前に立ち塞がる少年の姿を見て、ハッとする。
「・・・はあ、はあ、はあ、ディア、ン・・・!」
「突然痙攣して叫び出すから驚いたよ。そのまま死んでおけば楽だったのにな。」
ディアンはタイタンの腹に叩き込んだ丸太を投げ捨て、再び構えた。
「馬鹿馬鹿しい。最後まで聞いてはみたけれど、有益な情報はなかったね。お前はここで死ぬ。これでおしまいだ。」
「っ、どうやって聞いて。いや。」
タイタンは痺れの取れた体で、再び剣を構えた。
「わかった。あんた、空間を転移していた訳ではないのか。他人の思考に介入してるんだ。あの不自然な動きはそういうことだったのか。」
「・・・。」
ディアンは怪訝な顔をする。魔道に翻弄されっぱなしだったはずの彼が急に、まるでこちらが"見えて"いるかのように話し出した。
「それで?」
「あとあんた、馬鹿馬鹿しいって、嘘だろ。あんまりそう思ってないんじゃないか?」
何を。ディアンはたじろいだ。
「この世界の脅威を正しく認識し、恐怖し、絶望している。あんたはまだ、終わってしまっていないんだ。・・・恐怖の中にいれば、人は慣れようとする。何も感じないことで自分を守ろうとする。かつての俺もきっとそうで、記憶を失って初めてそれに気付けた。だが。」
認識を阻害しているはずのタイタンの楔色が、真っ直ぐにこちらを射抜いた。
「っ、何で。」
「あんたは。あんたは・・・ハンターとして戦い続ける中で、恐怖を失わなかったんだな。それはもう、才能だ。」
「何の。」
「世界を救う才能だよ。あんた、敵にしておくには惜しい。俺に味方してほしい。」
飛んできた石粒は容易に薙ぎ払われる。
「これが返答だよ。僕にハンター協会を裏切れって?」
「・・・あんたたちと最終的な目的は同じだ。崩落を止める。ただその過程で生じる、ハンター協会に敵と思われかねない行為を黙認して、場合によっては戦力としてこちらに加担してほしい。どうだ?」
「・・・。」
どうだ、と言われても。
一瞬でこちらに歩み寄ったタイタンは既に、ディアンの本体の首筋に剣を突き付けており、選択の余地など既に無かった。
認識阻害を破られても、当然ディアンはその後の対策をしている。服の中に隠した武器や薬、小型の爆弾まである。だがそれらを振り翳す前に、決着をつけられた。魔道も無いのに、タイタンは身体能力だけで、ディアンの目の前に移動したのである。
「僕が裏切るとは思わないの?おめでたい男だね。」
「そうしたら斬り捨てるだけだ。だが、あまりそうなるとは思っていない。」
「・・・まあ、僕があんたでも同じことをするかな。協会内部に協力者を得られる機会を逃す理由は無いよね。」
「それもあるが、単純にあんたが必要だと思った。それに、あんたも、こっちに来たそうだ。」
ニヤリと笑い、タイタンは剣を収めた。
「こんな世界はウンザリなんだろう?あんたも運が良いな。」
降参だ。自分に降りかかるリスクのことなど、ディアンは最早考えられない。ここで頷かなければ、自分は何か大きな流れを逃してしまう。それは絶対に嫌だった。
「俺はもう行かないと。頼まれたからな。セレナさんのことを。」
そう言い、タイタンは事切れた狼に歩み寄る。
痩せ細り、酷く軽い狼の身体をそっと抱き上げ、柔らかな草地に横たえた。
獣の表情など分からないが、満足気な死に顔、などとはとても評せない。
歪んだ眉間、力なく伸びた舌。後悔らしき負の感情に満ちた、壮絶な死に顔だった。
思えば、今までだってセレナ1人でこの森を防衛できていたわけがなかったのだ。
タイタンはこの森に侵入できた。セレナはディアンを止められなかった。
一個小隊が侵入しただけでこの大混乱だ。セレナの魔道は強烈だが、この森を完璧には守れていなかった。
セレナが取り逃がした外敵を倒し続け、この森を防衛していた存在が、多分もう1人いた。
セレナもきっと知らなかった、もう1人の森の番人。多分それは。
「あんたも、この森の為に戦い続けた1人だったんだな。セレナさんに会わせてやれなくて、すまない。」
焼け焦げた体毛の奥に、深い傷跡、こりこりした肉の凝り、抉られて窪んでしまった皮膚。
何度も怪我をして、治った後に再び怪我をして。そうやって壮絶な戦いを続けた戦士の肌がそこにあった。
「・・・。」
タイタンは、1人の戦士の死を見届けた。
悔しさで歪んだ死に顔をじっと見つめ、目を閉じ、タイタンは背を向けた。
いつまでも彼を悼んでいたらきっと怒られる。それは彼の望みではないのだから。
「俺はセレナさんを助けに行くよ。あんたは、どうする。」
ディアンは既に背を向けていた。真っ黒な装束が既に夜闇に溶けだしている。
「・・・仮にもハンター協会の人間だからな、僕は。お前を見定めてやる。お前が隊長にぶっ殺されたら・・・僕はこの森から逃げて全てを協会にバラしてやることにするよ。」
ディアンの姿が掻き消えた。だが、見定める、ということはどこかで見ているのだろう。
タイタンは再び走り出す。
遠く、焼け焦げた匂いの向こうに、セレナの甘いクッキーの香りがした。
暗闇の中、ぼとぼとと血が落ちる。
激しい金属音と、血が落ちる音だけが静かな森に響く。
ガキガキガキガキン!!!
「・・・はあ、・・・はあっ・・・!!!」
「っ、そ・・・こ!!!!」
セレナが後方に放った鎖は剣に弾き返され、セレナの頰を掠める。
「・・・っ!」
「隙だらけよ、お嬢さん!!!」
セレナの首めがけて容赦なく放たれた斬撃。間一髪で避けたセレナは、しかしよろめき大地に倒れこむ。
「・・・おしまいね。」
既にディディは、セレナを生かそうという気持ちを消していた。
自分を生かす為、仲間たちが死んだ時から。
何としても生きて帰る為、たとえセレナを殺してもこの森を脱出するのだという覚悟が。
死んでいった仲間達の命が、その細い刀身に乗せられていた。
「・・・急に反撃が弱くなったけれど。とうとう魔力切れ?」
大地に倒れ伏し、息を切らせるセレナはぼろぼろだ。
肩からの出血、長すぎる肉弾戦。
それでも、セレナの魔道はまだまだ尽きない。片腕を失った相手を仕留めるのに、ここまで手間取る理由はなかった。
セレナがディディを追い詰めている。その事実は未だ揺らいでいない。
それでも、セレナの手が震える理由は。
「貴方、どうして動けるの。そんな、そんな体で・・・!やめなさいよ、もう、死んでいるのと同じじゃない・・・!!」
セレナは込みあげる吐き気を抑え、顔の潰れたディディを見つめた。
人間の部位が残っている場所の方が少ない。
皮膚はほとんど全て削げおちている。剣を握っているのは筋肉のへばりついた骨だ。歩くたび血痕が大地に染み着き、言葉を発するたび潰れた頰からぼたぼたと血が落ちる。
セレナの悲痛な声に砕けて半分になった頭蓋骨がけたけたと笑った。
「やっぱり優しいのね、お嬢さん。血が苦手なの?無理に戦場に立ったりしなければいいのに。」
「う・・・え・・・っ。」
セレナは口を押さえる。
先ほどまで凛として部下たちを率いていた美しい女性は見る影も無い。
セレナが潰した腕、セレナが砕いた頭。セレナが刺した槍。セレナが削いだ皮膚。
セレナが与えた傷が、セレナを追い詰めようとセレナに迫る。
「そんな、そんな魔道が許されていいはずがないわ。貴方の目にはどんな世界が映っているの・・・?」
「魔道は使えないの、私。これは、他の人に魔道をかけてもらったの。痛覚を鈍らせて、恐怖を鈍らせて、感情を鈍らせて・・・人らしく振る舞えるようになるのは大変だったけど、仲間も、地位も、力も手に入れられた。こうでもしないと、魔道の使えない人間は戦えないのよ。ルーヴみたいな例外を除いてね。」
「いや、来ちゃ駄目・・・!!!」
だってそこには。もうこれ以上彼女が崩れるのを見たくない!
セレナの絶叫に首を傾げたディディ。その歩みがぴたりと止まる。
ディディが踏み抜いたのは魔道のトラバサミ。獣を狩るにも大きすぎる巨大なトラバサミが、ディディの真っ赤な足を食らった。
ばきん、とディディの右足が砕かれる。
「ーーーーっ、もう、おしまいよ!おしまいに、してえええええ!!!」
セレナは左足を鎖で巻き取り、潰した。
暖かいものがぷしゃりと顔面に飛び。セレナは思わず目を塞いだ。
「・・・っ」
そして恐る恐る目を開く。
片足をトラバサミに阻まれ、電池が抜けたようにディディの動きが止まっていた。
ようやくディディの歩行を止められる。安心して息を吐いたセレナに
「あら、ありがとう。高さが違うと歩きにくいのよね。」
絶望的な声。
がきん。
ディディは自らの右足を叩き切った。
ディディの膝だった場所が、大地を蹴り、セレナに飛びかかる。
「ひ・・・・・っ!!!」
ぼとぼとぼとぼと!!セレナの頭上から降り注ぐディディの黒くなった血。
「もう、いやああああああ!!!!!」
セレナの絶叫に呼応するように鎖がディディをはじき返す。
その鎖の隙間、ディディの膝だったものがセレナに迫る。
「・・・あ!!!」
気づいたセレナが慌てて防御するが、遅い。セレナの腹部に全力の蹴りが叩き込まれた。
「ぶ・・・・っ」
膝だけの蹴りが、見事に鳩尾にめり込んだ。
体の空気が全て口から吹き出し、セレナは思い切り岩場に叩きつけられた。
「あ・・・・あ、うあああああ、」
呼吸がままならない。息を吸い込んでも、吸い込んでも、足りない、足りない、足りない!!
絶叫し地面を転げ回るセレナに、ざり、ざり、と肉塊が迫る。
絶望が歩み寄る。
「お母様・・・お母様。助けて、お母様・・・」
うわごとのように呟くその唇が震える。
涙に滲む視界。人の形をした影が、こちらに迫ってくる。
「・・・あ。」
今夜は新月。
美しい月は瞼を閉じ、空からその姿を消す。
月を追いかける狼も、愛しい銀色に焦がれて寂しく吠えるしかない、そんな夜。
しかし、その男にそんなものは関係ない。
彼にとっての月は地上にあり、新月の夜も眩しく翼を広げ輝いているのだ。
その光を守ると誓った。月が光り輝く限り、狼は何があっても彼女を見つけられる。
月が彼を見放さない限り、彼はどこまででも月を追う。
風に靡く狼の耳は彼女の声を逃さず聞くために。
その鼻は彼女の匂いを嗅ぎ分ける為に。
悠然とそよぐブルーグレーの尾。
「触るな、触るな。俺の宝物に、触るな!!」
セレナの滲んだ視界に、煌めく大剣と、怒りに輝く楔色が飛び込んだ!
「がああああああああああ!!!!」
その遠吠えにディディが気づき、慌てて振り返るも。
その瞳がタイタンを映すより、ディディの後頭部が叩き潰されるほうが早かった。
「タイタン・・・?」
がちゃん。剣を鞘にしまったタイタンはセレナに歩み寄る。
「どう、したの、その耳・・・」
タイタンの姿が、おかしい。
人間の耳があった場所は上にまっすぐ伸び、毛むくじゃらの獣耳が生えている。
「しっぽ、が・・・ふさふさ。」
尻から伸びた尾が、ブルーグレーに輝き。
「タイタン、タイタン?ねえ、どうしたの。ねえ、聞いている?」
心無しか牙も伸びている。
「タイタン、どうしちゃったの!?ねえ、一体何があったの!?答えなさい、答えてよ!ねえ!!」
その姿はまさしく異形。そう、まるで化け物と嘲られ続けたセレナと同じ・・・
タイタンに何かが起きてしまった。タイタンに言葉が通じなくなってしまったら?タイタンの魂までもが変わってしまっていたら?このままばくりと食べられてしまったら?
どうしたらいいのだろう。
無言で迫ってくるタイタンに怯えたセレナは、かたかたと震える。
思わずぎゅっと閉じられた目。映るまぶたの裏が僅かに暗くなったことで、タイタンが目の前にやってきたことを理解した。
おそるおそる目を開く。
タイタンが、体を起こしたセレナの元に膝をついていた。
その腕がセレナに伸ばされ・・・セレナをぎゅう、と。力強く抱きしめた。
「・・・会いたかった。」
セレナの肩に、タイタンの顔が埋められる。
「会いたかった。もう、帰って来ないかと思った・・・!やっと、見つけた・・・!」
セレナは気づく。セレナの背中を、暖かい雫が伝っている。
あのタイタンが、泣いている。
「タイタン・・・」
「俺が酷いことを言ったから。このまま1人でセレナさんが死んでしまったら、どうしようと、思った。無事で・・・よかった。殺されてしまうかと、思った・・・!」
「・・・ふふ、私が簡単に負けるわけないでしょう?タイタンは泣き虫さんね。」
あの崖の上の喧嘩からずっと、いや、セレナが勝手に消える度、タイタンはこんなに不安になっていたのだろうか。泣き出したくなるくらい不安な気持ちを必死に抑え込んで、セレナの前で必死に格好つけていたのだろうか。
ここにしか居場所がないのに。タイタンには他に帰る場所などないのに。
セレナがここを出て行けと繰り返すたびに、タイタンの心は泣いていたのだろうか。
「・・・私こそ、情けないことを言って、ごめんなさい。酷いことをして、ごめんなさい。」
タイタンの小さく丸まった背中を撫でさすった。そしてタイタンの背後に目を向け、セレナは息を飲む。
「タイタン、どいてッ!!!」
タイタンを突き飛ばしたセレナの手元に、銀色の光が命中する。
「・・・まだ動けるの。信じられない・・・」
腹に突き刺さる直前でセレナが握りしめた刃。
ぽとぽと、セレナの手から血が流れ落ちた。
ディディの体はタイタンに真っ二つにされた。
その真っ二つにされた右半身が、剣を振るっている。
膝だけの一本足。どういう理屈で歩いているのかわからない。
大剣で裂かれたぐちゃぐちゃの断面から、ぼとぼとと内臓がこぼれ落ちる。
小腸と大腸、膀胱。全てが腹のなかでかき回されても、それでもディディは剣を振っていた。口を叩き割られ、もう言葉を発することができない唇が、ゆっくり言葉を形作る。
ばけもの、ばけもの。と。
ディディは混乱していた。突如現れた謎の化け物に。
人の顔から生えた獣耳、長い尾。隆起した筋肉。人と獣が歪に入り混じった悍ましい姿。
この森には、この少女以外にもう1匹化け物がいた!
ここは恐ろしい化け物が2匹も住む、怪異の森。
ああ、ここは怪異の森であったのだ!
2匹の化け物が、侵入する人間を殺し尽くしていたのだ!
・・・ぎらぎらとまっすぐこちらを睨む2匹の目。
追い詰められたディディの目に映る4つの光がディディの精神を削る。
変形した獣の耳。風になびいた銀の化け物の耳から生えた羽根。
・・・化け物達は美しかった。ディディが今まで知り合ったどんな人間より美しかった。
白銀の翼は悠然と広げられ、暗闇で煌々と輝き少女の完成された美貌を照らす。
彫刻のような筋肉を持ったもう1匹の化け物。ゆらゆらと揺れる尾の透けるような蒼色。
その化け物は美しい。その姿が美しいことこそが人間の否定であるようだ。
自分たちは滅びゆく人間よりも先に進んだ生き物であると、その怪異が語る。認めたくない事実がディディを追い詰める。
ディディは剣を構える。戦う。負けない。負けてたまるか。
2匹の怪異が、今、ディディを殺そうと、暗がりの中ゆっくりこちらへと歩み寄る。
「・・・あんたに化け物呼ばわりされる筋合いはないと思うがな。」
胸糞悪い、と、タイタンは吐き捨て、剣を構えた。
「セレナさん、これは魔道か?」
「・・・っ、そうよ。誰かがこの人に魔道をかけている。タイタンに魔法陣を刻んだ時と同じよ。この人、どれだけ傷つけても、動き続けて・・・」
「セレナさん。」
タイタンはまっすぐ敵を見据えたまま、セレナに問いかけた。
「俺も一緒に、戦わせてほしい。これから先、戦場で、あんたに背中を預けたい。」
「・・・タイタン。」
「ああ。俺が、もう血に濡れなくていいように。あんたが、もう人を殺さなくて済むように。その為に俺は戦いたいんだ。」
「・・・もう、殺さなくていいように、戦う・・・」
セレナはタイタンが傷つくのが嫌だった。タイタンが血に濡れるのが嫌だった。
優しいタイタンの目に映る世界は、優しいものであって欲しかった。
それでも、ハンター達はやってくる。セレナの生活を脅かそうと。タイタンを連れ戻そうと。
血に濡れるのが自分だけであれば、きっとタイタンは綺麗なままでいられる、タイタンの世界を綺麗なまま守れると、セレナは思っていた。だけれど。
「・・・タイタン、お願い。私と一緒に戦って!・・・そんな幸せがあるなら・・・私も、その為に戦いたいの。」
セレナが血に濡れることを嫌だという、タイタンはそんな優しいひとだから。
きっと私たちを化け物足らしめるのは翼ではなく、尾ではなく。
その手に握った槍と大剣なのではないかと、タイタンが気づかせてくれた。
「ありがとう、セレナさん。」
これをいつか、手放してみせる。
かきん。セレナの槍が、タイタンの剣が、僅かに擦れて小さく音を立てた。
「時間がない。剣撃は俺が引き受ける、あんたはあの得体の知れない魔道を止めてくれ。」
返事を聞くより先に、タイタンはディディに向かい、駆け出した。
一瞬で視界から消えたタイタンに、セレナは焦って叫ぶ。
「・・・ちょっと!?無茶を言わないで!人の魔道を切り崩すなんて、術師の場所もわからないのにできるわけないでしょう!?」
「そいつの体から細い糸が見える!それを断ち切れ!多分肉片1つでもここから逃げられたら情報を持ち帰られる!いいからなんとかしろ!魔道の天才なんだろう、絶対失敗するな!」
「だーーーかーーーらーーーー!」
セレナは既にディディに襲いかかっている背中に叫んだ。
糸なんてセレナには見えない。どうして魔道のことなどこれっぽっちもわかっていないタイタンにそんなものが見えるのだ。魔道を極めたはずなのに、その自信がなくなりそうだ。
「タイタンの、あの姿に関係あるのかしら。・・・集中して、見えるのならいいけれど。う・・・うーーん・・・」
セレナはじっとディディを見つめる。動揺した気持ちを、ゆっくりと抑え、落ち着いて。
それでもディディは赤黒い塊のままだ。糸なんてタイタンの勘違いではないのか。
「・・・だめ。匂いがわからない。魔道の仕組みが分かればまだしも・・・」
「お嬢さん。あれは肉体の機能を外部で補っているんだよ。」
セレナが慌てて振り返ると、背後に小柄な少年が立っていた。
「だ、誰・・・?」
「いいから、僕の話を聞いてくれ。体内に魔法陣を刻んでいるんじゃない。ハンター協会の拠点に中継の魔法陣を置いて、細く細く線を伸ばして、魔道をここまで繋いでいる。欠損した内臓の機能、痛覚とか各種神経の機能抑制・・・そういったことを外部から補っている。肉体再生とか大規模な魔道はできない代わりに効果範囲がめちゃくちゃに広い、というわけ。」
「・・・脆い、ということ?」
ディアンは満足そうに頷く。偉そうな態度が鼻につくが、助けてくれるならこの際誰でもいい。
「あれはただの管だからね。本部から届く魔道をここまで届ける機能しかない。他人の魔道に無理やり干渉する、なんて難しいことだと考えなくていい。あれは魔道を通すただの管。ただの、管。」
「・・・ただの、管・・・ただの、管。」
「そうだ。あれはただの管だ。少し僕に気持ちを預けて。」
ディアンの手がセレナの肩に添えられる。彼の魔道が、セレナの体を通る。視界がくるりと一回転し、思わずセレナが目を閉じた・・・瞬間。
セレナの脳に、ディアンのイメージが共有された。
「・・・見え、た・・・!」
セレナの目にもはっきりとそれが映る。そして次の瞬間、その構造が2人の頭に雪崩れ込んだ。
森の入り口、その外からずっと伸びている魔道。神経系に負荷をかける魔道。
各種内臓機能を補完し、脳機能だけを維持。痛覚はほとんどない。
「ほとんど操り人形じゃない!なによこれ!」
セレナの目に見えたのは細い細い、ピアノ線のような管がディディに絡みついている光景。
ディディの体に突き刺さった箇所から魔道が延々と注ぎ込まれ、彼女の生命を維持している。
無限にガソリンを注がれる機械のようなものだ。彼女が痛みで動きを止めないように、感情と痛覚を鈍らせて。無限に戦いを続けさせるためだけに、死という尊厳すら奪う、悪辣すぎる魔道がそこにあった。
「っ。お前、この一瞬であの魔道を解析したのか?」
セレナが理解した凄まじい計算式が同時にディアンの頭に流れ込む。まるでコンピュータに直接繋がれたかのようだ。
今ディアンとセレナはほとんどの神経を共有している。しかしセレナに耐えられることがディアンに必ずしも耐えられるわけではない。それでも、ディアンが気絶したらセレナの視界を維持できなくなる。
酷い頭痛で意識が飛びかけるのを、血が滲むほど指を噛んでディアンは耐えた。
そんな、とんでもない負荷に気絶しかけるディランを放置して、セレナはぶつぶつ呟く。
「ええと、神経系は・・・これ。肉体保持は・・・こっちから伸びていて。なら、要は。同量の同じ魔道をこっちからぶつけたら、ショートして止まるわ。少なくとも、一番近い中継地点の輸送管は、壊せる!!タイタン!!」
ぶつん。神経共有が切れ、ディアンは倒れこむ。息を切らせて見上げた前方に、真っ白な翼が。
「っ、おい!あの戦いに割り込む気かお嬢さん!!おい聞けよ!!」
ぱたぱたと去っていく白い羽根が、激しい剣の応酬の中に割り込んでいく。
それは愛しい人狼の元に無邪気に飛び込む小鳥のようで。
「・・・助けてやった僕には礼もなしか。はあ・・・」
まああいつが助けるだろ。
ディランはそう呟いて倒れ込み、薄青い空を見上げる。
新月の夜が、終わろうとしている。
がっ、がっ。
大剣と細い剣がぶつかり合う金属音だけが森に響く。
「太刀筋がなっていない。そんな生易しい剣で、俺に勝てると思うな。」
人狼の力を得てからというもの、タイタンの腕力、瞬発力、動体視力、体力、全てが凄まじく上昇していた。
大剣もまるで棒でも振るうかのような軽さ。本来あった重量がないことに違和感を覚えるくらいだ。
「・・・しぶとさだけは人一倍だな。全く、見苦しい。そんな悍ましい剣で、セレナさんに傷を負わせたのか。」
悍ましいのはどちらだ、ばけもの。と。
そう動いた唇が、ゆっくりと弧を描く。
「・・・その言葉をセレナさんにも投げかけたのか。」
ダン!!大きく薙いだ体験に肉塊が吹き飛ばされる。
「セレナさんを化け物と蔑んだのか。」
ガツガツと、タイタンのブーツが音を立て肉に近寄る。
「二度とその言葉を口にするな。化け物でもなんでも構わない、俺はセレナさんを愛している。セレナさんを蔑んだお前は、殺す!」
ぶつり。
肉塊の腹に突き刺された剣が、大地と肉を串刺しにする。
最早流れ出る血液もない。弾けた細かい肉片が大地に吐き出される。
しかしまだ、砕けた腕はタイタンの足をつかもうと、ずるずるこちらに這い寄ってくる。
かちゃん。3本しかない指が再び剣を握ったのを見て、タイタンが仰け反った瞬間。
「タイターーーーーン!!!!そこを、どいてええええええ!!!!」
耳に聞き慣れた声が飛び込んでくる。
ぎょっとして声の主を見る。魔道を使ったセレナが爆速でこちらに走ってきている!
「っ、セレナさん!?馬鹿、危ない、ぶつかる!!!」
「いいから、どいて!!!私に、任せなさい!!!」
セレナの脳はフル回転していた。
脳内で組み立てた計算式。紙に書いたら10枚は軽く超えそうなそれを、とにかく急いで頭に叩き込んだ。一文字でも忘れたら全てが瓦解する。他のことに脳のリソースは割けない!
覚えたそれがセレナの頭から消える前に、とにかく早く、早く、早く!
「くそ、俺の無茶振りを二度と責めるなよ!」
凄まじい速度で地面に激突しようとするセレナを、柔らかい尾が巻き取る。
タイタンはそのまま敵の剣を蹴り飛ばそうとする。しかしそのつま先の先には、既にセレナの体があり、タイタンの額から冷や汗が吹き出した。
「あん、た。何を。」
タイタンの剣と肉塊の間に割り込んだセレナが、ゆっくりとしゃがみ、頬骨に手を添えている。
一ミリでも大剣を動かせばセレナの柔肌に傷がつく。微動だにできなくなったタイタンに気づかないまま、セレナはその指先にそっと魔道を込めた。
丸い眼球が、ゆっくりとセレナを視界に入れ、その悲しそうな、痛みを堪えるような表情を捉えた。
「・・・おい!!あんた、なにやって・・・!!!」
こんな状態で悠長にしている場合かと。タイタンは怒鳴りそうになり・・・気づく。
肉塊の指先が、筋繊維が、解けている。
「死は、人に等しく与えられる尊厳であるべきよ。あなたの仲間も、弟も、あなたがそんな姿になってまで戦うことなんか望んでないわ、ディディ。」
ディディ。
セレナは肉の塊を、許しがたい言葉を2人に投げかけた彼女を、確かにそう呼んだ。
「もうお休みなさい。あなたは、とっくの昔に私に負けているのよ。」
ディディの瞳は、ゆっくりとセレナの月光を写す。
本物の月は今日は見えないけれど、いつか弟と見上げた月は、こんな風に美しかった気がするわ。安堵した瞬間、ディディの胸に、魔道で抑圧されていた感情が吹き出した。
怖かった。
いくら弟のためでも、数多のハンターが命を落とした地に踏み込むなんて怖くて仕方なかった。
不気味な夜の森のざわめきが怖かった。
自分を信じた部下たちの命の責任を負うのが怖かった。
少女が自分の体を次々削ぎ落とすのが怖かった。
こんな姿では二度と弟に会えないと。自分も化け物になってしまうことが怖かった!!
瞬間。
ぼろり、と眼窩から眼球がこぼれ落ちた。
最期に僅かに震えていた肩を、セレナは宥めるように、ずっと優しく撫でさすっていた。
「片付いたか。」
「あ、さっき助けてくれた・・・偉そうな男のひと?」
「・・・ディアンだ。偉そうは余計。」
懐いた小鳥のように、無邪気にディアンに駆け寄るセレナと・・・僅かな殺気。
ディアンはタイタンに生えた尾が、ふさふさ不機嫌そうに揺れ始めたのを見た。
「別に、お嬢さんとの蜜月の邪魔はしないよタイタン。ただ僕ももう行かないといけないから、今後の話だけはさせてくれ。」
「蜜月・・・?」
「・・・セレナさん、そいつを殺すからどいてくれ。さっき殺したハンターの部下だ、ディアンは。」
驚いたセレナが跳びのき、タイタンの陰に隠れる。満足そうにゆらりと一度揺れた尾。
意外とアホかも、こいつ。ディアンは呆れた。
「つれないな。さっきはあんなに熱烈に口説いてくれたのに。」
「返答次第だ。どうだ、俺を見定めるのは終わったか。」
今後の話をしたいと言ったじゃないか。そう言いディアンはニヤリと笑う。
「・・・条件を1つ。飲んでくれたら全面的に協力してやるよ。ハンター協会と結界内の情報が欲しいだろ?」
不安げにタイタンを見上げるセレナの目。安心させるように頭を撫で、タイタンは漆黒の瞳に向き合った。
「月に一度。・・・まあ任務の間にバレないように立ち寄るから不定期になるけど。僕にお嬢さんを貸してくれ。」
「はあ!!?」
え、私?完全に部外者だと思い油断していたセレナが驚き震える。
「断る。」
「馬鹿じゃ話にならないや。お嬢さん。・・・頼む。僕に魔道を教えてくれ。」
ディアンはゆっくりと頭を下げた。今までの態度からは想像できない潔さだ。
「魔道って。貴方の魔道は・・・完璧じゃないの。その微粒子を使って精神に干渉するのかしら?さっきの魔道、本当に見事だったわ。」
「違うんだよ。・・・お嬢さんと同じさ。僕も魔道が変質してしまったんだよ。もっと幼かった頃・・・初めて振るった魔道はもっと別のものだった。」
ぴくり。セレナが僅かに動き、そして一歩踏み出した。
先ほどの怯えた少女の目が、剣呑な光を帯びたことに気づいた。あ、ここで話すのはマズかったか。
「やめて、その話は。・・・いいわよ。貴方が欲しいものはわかった。タイタン。この人は、信用できるのね?」
何か2人の間に隠し事があるのは・・・正直死ぬほど気に食わないが。
「人間性は・・・信用していい。協会にバレるなよ。」
「それなら心配しなくていい。僕はここから先結界内に帰る気はないから。というか隊ができる前からそうだったし。隊が壊滅した報告も書簡だけで済ませるつもりだ。隊がここに立ち寄ったことを知る人間はもう僕だけだし、疑われることもない。・・・心配?」
「信用していると言っただろ。ならいい。セレナさんが反対しないなら、俺も異論は挟まない。」
タイタンも軽くディアンに頭を下げた。しかしその尾は再び不機嫌そうに揺れ始め。
「・・・忠犬だなあ。」
「放っておけ。・・・長居すると悟られるんだろ。事情は俺から話しておくから、早く行くといい。・・・死ぬなよ。」
「そっちこそ。期待を裏切るなよ、英雄。」
ディアンはひらりと手を振り、セレナにウインクをし・・・タイタンが瞬きをした瞬間に目の前から掻き消えた。
その目にはなかったはずの光が戻っていたように見えたのは、登り始めた朝日のせいか。
家に帰り、やっと眠れると一息ついたのもつかの間。
タイタンはセレナを膝に乗せて尋問を開始した。
ゆらゆら揺れる暖炉の炎。ゆらゆら揺れる不機嫌な陰。
「タイタン・・・その、だから、言えないの。怒らないで・・・?」
「ずっとあんたと一緒にいたのは俺だ。あんたを守るのも俺だ。なんであいつと隠し事なんかする。」
タイタンは驚くと、ではなく、怒ると尻尾が出てしまう体質になってしまったようだ。
不機嫌そうにゆらゆら揺れる尻尾が、ばさばさとセレナの膝裏をくすぐる。
片腕でチャイルドシートのように捕まえられたセレナが足をばたばたさせて笑った。
「ふふ、タイタン、タイタン・・・。ほら、腕を緩めて頂戴?別に逃げ出すわけじゃないんだから。」
言われた通り渋々腕を緩めると、くるりと対面に座りなおしたセレナが、ぎゅう、とタイタンを抱き寄せた。
「沢山心配かけて、ごめんなさい。」
「いい。俺も・・・そうだな。言いたいことがあったんだ。」
セレナの背中に回された大きな手が、ぎゅっとワンピースを掴んだ。
くる、と。セレナに巻きつくようにふさふさの尻尾が丸まった。
「化け物でも人間でもなんでもいい。俺はセレナさんがセレナさんでいてくれるならなんでも構わない。それだけが伝えたくて、俺は今日あんたの元に走ったのに・・・言うのを忘れていた。」
ぴたり、セレナの体が硬直し、瞳が開かれる。
「・・・っ。そう、ね。ふふ、まさか貴方が狼になってしまうなんて思わなかったけど。」
せっかく取り繕ったのに、ばさばさと背中に羽根が開いてしまった。ああ、驚いたのがバレバレだ。
それ以上、セレナは何も言わなかったが、膝から降りて後ろを向くとき一瞬見えた瞳が、いつもより潤んでいたように見えた。
夜更かしで疲れ果てた2人が爆睡する中、厳しい冬は終わりを告げ、世界は春を芽吹かせる。
時間は流れ、新たな年が始まる。
時が止まってしまった女にも、新たな時が流れる。
時を失った男にも、新たな時が蓄積する。
そう、この日、年の始まりのめでたい日。
人類保護区では春を祝いささやかな祭事が執り行われるこの日。
4059年4月1日。
名もなき大魔導師の遺した森は、2人の化け物によって怪異の森と成り果てた。




