霧中:前編
「・・・・・こら。」
作業場に鉈を取りに行っただけなのだけれど。そう言い訳するセレナにタイタンは大きなため息をひとつ零した。
木の削りかすまみれのスカートが彼女の反論に合わせて揺れ、ぽろぽろと床に木屑が落ちてゆく。
「午前中からそう寝ろ寝ろと言われても、眠れるわけがないじゃないの。ちょっと手を動かしたかっただけだわ?」
「そう言った数分後に突然眠ってしまうだろうが・・・。」
セレナの体に異常が起きてからというもの、彼の過保護は悪化している。
別に少し体調が悪くて、あと突然眠ってしまうというだけで、眠気がないときは普通に活動できるのだ。一歩部屋を出たくらいで大騒ぎしないでほしい。第一タイタン1人でできる仕事というのも限られているのだし、ある程度はセレナが動かないと生活が回らないだろう。
そうやって自分を抱きかかえる男を諭しても、
「鉈を握りながら突然眠ったら怪我をするだろ。」
そう言ってすぐに布団に寝かされてしまう。
2人で暮らし始めて、セレナが病気をしたのは初めてのこと。看病をする彼は・・・予想はできていたことではあったが、やはり、セレナからしてみると面倒極まりなかった。
薄着をするな、裸足で歩くな靴下を履け。野菜を多く食べろ、油を摂りすぎるな。
それだけならまだしも、部屋から一歩出るとタイタンが飛んでくる。部屋で大きな物音を立てるとタイタンが飛んでくる。まるで囚人にでもなったかのようだ。
いくら病人とはいえ部屋に閉じこもっていては気が滅入るのだし、そのくらいは勘弁していただきたいものだ。
「・・・むう。暇だわ。魔道具作りはともかく、木工やお裁縫ぐらいは許してくれてもいいじゃないの。」
「馬鹿言え。」
だらだらするのは好きなくせに、いざ何もするなと言われると落ち着かないらしい。
不満げな彼女を諭し、タイタンは首まで布団をかけてやった。
「いいか。体がどんなことになっているのかわからないんだから。絶対に、絶対に大人しく寝ていろよ。」
タイタンはそのまま部屋を出て行こうとした。
だが、その動きがぴくりと止まる。タイタンの羽織った冬用の水色のカーディガンの裾が握られていた。
「・・・どうした?」
細い指が、心細そうにタイタンを呼び止めている。セレナは申し訳なさそうに目を伏せた。
「少しだけでいいの。話し相手になって頂戴?あとはお本を読んで大人しくしているって約束するわ。・・・だから、その、少しだけ。」
・・・ああ、クソ。そんなに本気で寂しそうな顔をするんじゃない。俺があんたのその顔にどれだけ弱いのか、わかっているくせに。
「・・・洗濯ものが乾くまでな。」
そう言ってベッドサイドに座ってやれば、満面に花開く向日葵の笑顔。
喉が鳴る。だが、彼女がこうして笑っていられるのはいつまでなのだろう?
先の見えない不安がタイタンの心を苛む。今こうして、自分のわがままにタイタンが付き合ってくれたことを喜ぶ彼女の笑顔を、2度と見ることが叶わなくなるかもしれないだなんて。
・・・耐えられない。
「・・・・・。」
「そんな、心配そうにしないで。こうして普通に起きて貴方と話しているでしょう?」
まったく、よく出来た人だと思う。不安なのは彼女の方だろうに、こうしてタイタンが少しでも弱ったところを見せれば不安がらせまいと強がってみせる。
「俺に、魔導が出来れば良かったんだが。すまない。力になれなくて。」
セレナだって辛気臭い話がしたくてタイタンを呼び止めたわけではないだろう。こんな仮定の話をしたって仕方がない。だがそれでも、謝らずにはいられなかった。
タイタンは力仕事、セレナは魔導を。何かを癒す仕事を全てセレナに任せていたツケだ。
もしタイタンが風呂上がりにソファで寝そべっている時間を、例えば魔導や医学の勉強の時間に充て続けていたなら。
一年も時間があったのだ。それだけの時間勉強を続けていたら、何かが変わっていたかもしれないと、そう思ってしまうのだ。
そうやって首を垂れたタイタンに、少し考え込んだセレナは一言。
「・・・・・貴方。きっともう魔導が使えるわよ?」
「はあ!?」
何となしにセレナがそう言い放ったものだから。
タイタンは目を剥いてベッドから落ちかける。そんな話は全く聞いていない。
タイタンは記憶を一度失っている故に、思い出記憶の量が足りない。それはたった1年セレナと過ごした程度では補いきれるものではなかったはずだ。
思い出記憶が足りないと、魔導で最も重要な「世界の承認」の工程が行えない。だからタイタンには魔導は使えないだろう。そう言ったのは他でもないセレナだ。
「あっ、ええと。勘違いしないで頂戴?私を癒すことができるという話ではなくて。私たち魔導使いの様に魔導を振るうのにはあと10年はかかると思って頂戴。」
「・・・なら今その話は関係あるか?」
てっきり今すぐにでもセレナを診察できるようになるのかと思った。がっくりさせられたタイタンがセレナをじとりと睨むと、彼女は慌てて言い訳を始める。
「だ、だって思い出したんだもの。・・・ほら、あの大剣を渡した時に言ったことを覚えている?」
「グリムメタルを刀身に練り込んだのだったか。ああ、」
今はタイタンの部屋の壁に立てかけてある、セレナがくれた大きな剣。
あれを渡してくれた時、確かにセレナは「使い方を覚えれば魔導的な戦い方もできるようになる」と言っていた。
「そう。要は大掛かりな魔道具と同じなのよ。貴方の承認を肩代わりする為の機能をあの刀身には組み込んであるわ。あとは、貴方がどんな魔導を振るいたいのかをあの剣に設定してやればいいだけよ。それを私が設定してしまうのは簡単だけれど・・・それでは貴方の肌には馴染まないと思うのよね。」
要するにセレナは、あの剣をタイタンが最も使いやすいように、タイタン自身で調整しろと言っているのだ。
セレナがあの剣に炎を吹く機能を設定すればあれは炎の大剣に変貌するし、風を吹く機能を設定すれば風の大剣へと変貌する。
だが、それはあくまでセレナの肌感覚で、タイタンに合う様にと、予想して作られた機能に過ぎない。
刀の研ぎ方ひとつ、筋肉の鍛え方ひとつに細かく拘るタイタンの一番重要な戦道具に、タイタン以外の人間の手がこれ以上介入するのは、実際あまり望ましくないことではあった。
「注意することは、グリムメタルに魔導を設定できるのは一度きりだということ。前にも言ったわね?グリムメタルは消耗品、一度設定した魔導を消すことなどできないわ。そうなったら一からあの剣を叩き直すことになるのだから・・・そんな面倒はさせないで頂戴?」
そう厳しく言われずとも、剣を叩き直せば、などと安易には考えていない。
あれはセレナ曰く、もう2度と作れる気のしない逸品、だそうだ。唯でさえ疲弊しきっている彼女に・・・いや例え平時だろうとタイタンのミスの尻拭いなどさせるつもりはない。
だが。
「・・・その、設定なんて一体どうしたらいい。魔導と言われても、俺は台所の火を点けるのが精一杯なくらいのド素人なんだぞ。」
そう急に難しいことを要求されても、というのが正直な所だ。戦いにおいては常に自信に満ち溢れているタイタンも、今回ばかりは少々困った表情をしている。
「台所の魔道具を扱えるのでしょう?それと同じよ。それに少しだけ気持ちを乗せてあげればいいの。本当に魔導を使うのとは違って、式を組み立てる必要などないのだし・・・。」
「感覚で喋らないでくれるか。気持ちを乗せるって何だ。意味がわからん。」
既に匙を投げてしまいそうだ。あんただったら分かるんだろうな、生憎俺は魔導の天才ではないのだ・・・と不貞腐れた態度で伝えてやる。
「そのままの意味なのだけれど・・・。ええと、ああでも、そうね。確かに・・・魔道具の扱い方というものをきちんと貴方に教えたことはなかったかしら。」
確かにそうだった。何かと物覚えが良いタイタンは、セレナに教えられずとも魔導式の台所の使い方を感覚で理解してしまっていたのだ。
それさえ出来てしまえば他の魔道具も似たようなもの。
この森で生活するうち、いつの間にか彼は転移装置の様に余程大掛かりな魔道具でなければ扱えるようになっていたのである。
だが・・・基礎を教えていないのは確か。そんな状態で魔道具に命を吹き込む繊細な作業を任せるのは、確かにあまりよろしくない。
「秋島たちが来るまですることがないものね。タイタン、やることを一通り片付けたらちょっと出かけましょう?」
「出かけるって。家でなにかやるならまだしも、外に出るのは・・・。」
咎めるタイタンをセレナは一蹴する。
「貴方が居るならもし眠ってしまっても危なくないでしょう?それに、そう遠出をするわけではないもの。」
「・・・どこに連れて行く気だ。」
「転移装置の前までよ。あれを扱えるようになったのなら、あの剣のことを任せても大丈夫だと思うのよ。」
何もしていないとよくないことばかり考えてしまう。こんな状態だからこそ、手を動かしていないと落ち着かないのだ。
数分の問答の末、そのくらいならいいか、とタイタンが折れることとなる。
にっこり笑って上着を羽織ったセレナは、心底楽しそうに魔道具を鞄へ詰め込みはじめた。
「・・・それで?出迎えが遅れたって?」
「仕方がないだろう・・・。セレナさんが眠ってしまったら、転移装置は動かせないんだから・・・。」
既に太陽は沈み、大きな月が怪異の森を照らしている。昼過ぎには森に到着していた秋島とディアンは、森の入り口で通信装置をわなわなと握り締め、「あの音信不通馬鹿が!!」と叫ぶ羽目になった。
ディアンも転移装置があることは知っていたし、装置が扱えぬタイタンの代わりに何度かあれを使って北部まで飛んだことはあった。だが鬱蒼と茂る森の中を案内なしで装置まで辿り着くことなど不可能。闇雲に歩いてタイタンも発見できないような場所に迷い込んでは堪らないと、秋島と2人、森の入り口で待ちぼうけを食う羽目になったのである。
「言い訳するなクソ坊主。お前が。今日俺たちが来ることを知りながら。部屋に通信装置を放置して出かけたのが悪い。なあ。記憶を失くしてもその性根が治らねえとなりゃ後は殺すしかねえんじゃないのか?アァ!?」
「本当に!!悪かった!!急いで来てくれたことには本ッ当に感謝している!!」
こうなるともう平謝りするしかない。タイタンは額に青筋を浮かべて怒る秋島とディアンに、机に頭を擦り付けて必死の謝罪を繰り返す。
セレナが大変なことになったと聞いて旅程を早め、車を飛ばして来てくれた秋島たちを、危うく危険な夜の森に放ったらかしにする羽目になったのだ。
「お前、マジでさあ。そろそろ英雄の称号を剥奪するよ?」
ディアンは呆れ顔。件のセレナは自分の部屋で夢の中。
転移装置を動かすためだけに叩き起こされ、装置を動かした彼女は、その後すぐにタイタンの背中で眠ってしまい、2人とはまだ再会の挨拶すら交わしていない。
「・・・どうだ。何か分かるだろうか。」
「眠っている人間に対して僕ができることなんかないよ。」
意識のない人間に対してディアンが出来ることは殆ど無いのだそうだ。精々セレナが見ている夢にぼんやりと干渉できる程度で。セレナが起きたら頼ってくれ、とだけ言い、ディアンはベッドから身を引いてしまった。
「秋島はどうだろう。こうなった原因は何となく分かっているが、せめてもう少し症状を軽減する方法でも見つからないだろうか?」
タイタンは布団に頭を沈めてすうすうと眠っているセレナの頰を撫でた。こうして見ているだけなら、普段眠っている様子と特に変わらない。
だがセレナの不調が発覚して以降、タイタンはかなりセレナを注意深く観察していた。その甲斐あってわかったこともいくつかあって。
「まず一度眠ったあとの起きるまでの時間が前より長い。そして、眠りが異常に深い。何度か揺すり起こそうとしてみたが生半可な衝撃じゃ起きやしない。後は食事が一度に多く食べられないと本人が言っていた。でも腹は減るから、何度も間食を挟んでいると。・・・具体的な症状はこのくらいだろうか。」
「俺だって医者じゃねえんだよ。まあ・・・そうさな。魔導がぐちゃぐちゃ、というのは的を射ているのかもしれん。血流や生体電気、リンパだとか・・・まあそういった体を巡る流れのようなものが酷く疲れ切って緩慢としている。」
「・・・そういうものが見えるのが秋島の魔導なのか。」
確か、秋島の魔導は炎を操ったり、空気の温度を操ったりと、熱に関わるものが多かった。
「・・・サーモグラフィーみたいなものか。」
「なんだそりゃ。茶々を入れないでくれ、集中してんだよオッサンは。」
秋島はセレナの額に、手首に、臍に、順番に触れてゆく。
彼女の体を巡る熱、命のエネルギーが、彼女の拍動に逆らうかの様に全く違う不規則なリズムを刻み、時折ピタリと動きを止めてはまた不規則に動き出す。
どくり、どどっ、どっ、どっ、どどど。
「・・・うえ。」
乗り物酔いのような気持ち悪さが込み上げ、秋島はセレナから手を離した。こんなもの、見たことがない。魔導の変質というものについて話は聞かされていたが、これほど体の根幹を揺るがすものだとは。
「命の流れが滞ると魔導も滞る。いや、嬢ちゃんの場合は逆かね。しかし・・・こう触れてみると、嬢ちゃんの体が人間とまるっきり違うのがよく分かるもんだ。こりゃ保護区の医者には手出しできねえ。薬や外科治療でどうにかなるもんじゃねえ。”根本解決”しねえ限りは悪化する一方だろうさ。」
「・・・魔導の変質を落ち着ける、か。クソ、やはりそれしかないか。」
秋島が推察するに、本来自然と変質する魔導の性質というものに、無理にセレナが逆らっている故に体に異常をきたしている、とのことだった。
「嬢ちゃんも無意識なんだろうさ。変異する魔導そのものに対してか、はたまたその原因となった感情に対してか。それは分からんが、とにかくそれを嫌悪する強い気持ちが魔導の変異を無理やりに堰き止めている、なんて感じか?嬢ちゃんほど魔導が使える人間だからこそできる芸当ってやつだ。嬢ちゃんが常人だったなら、逆らう暇もなく魔導の変質に押し流されていたんだろうな。」
「・・・なら。セレナさんが起きている間に診察すればもっと詳しいことが分かるんだな?」
その辺りは秋島よりもディアンのほうが詳しいだろう。タイタンがディアンに向けて顎をしゃくると、
「セレナの感情を覗けって?無茶言わないで。」
ディアンはげっそりとした。
「僕がどんだけあの人に警戒されてると思ってるのさ。素性を喋っちゃった以上、もう心の深いところは絶対に覗かせてくれないよ。」
ディアンならなんとか出来るんじゃないのか。だってディアンは・・・そうタイタンが反論しようとした時。
・・・一瞬だけ。秋島からディアンに対して、ピリピリとした感情が向けられたのを感じた。
冷たい。タイタンの背筋がぞくりと冷え上がる。何事かと驚きタイタンは秋島を見やった。
だがそれは勘違いかと思うほどに一瞬のことで。
次の瞬間には、秋島は何事もなかった様に口を開いていた。
「いくらディアンが優秀でもな。精神に干渉する魔導ってのは催眠術みたいなもんで・・・警戒心の強い人間には通じにくいし、術者は相手に警戒されたらおしまいなんだよ。それをいかに信用させるかが術者の腕。魔導自体がどれだけ洗練されようと、精神魔導自体が元々秘めている弱点はどうしようもねえのさ。」
「・・・セレナさんが嫌がってでも、魔導の変質を嫌がる理由を話させろと。結局それしかない。やっぱり、そういうことか?」
無言の肯定であった。秋島は親指の爪を噛み、ディアンはやれやれと溜息を吐く。
「原因を俺たちに話して解決するかなんて、確証は・・・ない、だろ。」
「でもこのままセレナが1人で悩み続けて解決する可能性は無いよ。」
タイタンのしどろもどろな返答は、ディアンにぴしゃりと切り捨てられた。それはまるでいつかの仕返しの様な。
何でもかんでも、心の全てを打ち明けることが信頼であるとは思わない。
だけれど、彼女からありとあらゆる情報を引き出す覚悟がなければ、世界は救えない。
タイタンが彼女と共に生きる未来を渇望するならば、例え彼女を傷つける結果になったとしても、彼女の心の深いところに踏み込まなくてはいけないのだ。
あの時とは違って、今度はタイタンが不満げに黙り込む番だった。悔しげに、ただセレナに縋る様に、彼女の手を握って俯いた男の背中を、2人は黙って見つめる他なかったのである。
「・・・しっかし。本当に・・・保護区では考えられないくらい良い暮らしをしているな。正直見るまで半信半疑だったぜ。」
感心した様に部屋を見回す秋島にタイタンの心臓が跳ねる。本当は、こんな異常事態がなければ、秋島操を北部まで招く気などなかったのだ。
南部の罠を避けるための生体反応装置の存在を見抜かれた瞬間、秋島に吐いてきた嘘が全て無意味となる。
本当はそんなリスクは踏みたくないし、そもそもセレナは今でも納得していない。
『秋島の魔導の腕は未知数だわ。秋島が魔導を極めて、私の様にものを見通す力を手にしているとしたら、南部の罠が一本線でどこかに繋がって居ることなんてすぐにわかるでしょう。』
セレナの千里眼。
それは各々の魔導を極めた先に辿り着く1つの境地なのだとセレナは仮説を立てた。世界に承認を求めることで存在を許可される魔導というものは、本能的に世界を見通すことを欲して居るのだ、と。
『いかなる魔導も、最後は世界を見通す力というものに辿り着くのよ。その過程はそれぞれのものだけれど、最後はそこに辿り着く。回帰する、と表現した方が正しいのかしらね。・・・ふふ、こう小難しい話をしていると、魔導学者らしいでしょう?』
・・・小難しい話は正直よくわからなかったが。
とにかく、年季と経験を積み、ハンター協会でも一二を争う実力者である秋島ならば、その境地にたどり着いているかもしれない、とセレナは危惧しているのだ。
「まあいいわ。良い話と悪い話、どっちから聞きたい。」
「・・・あれ以上悪い話があるのか。いや、話すにしても飯を食いながらだ。ちょっと待っていろ。」
タイタンはソファから立ち上がり、冷やしてあった鹿肉を取り出した。
鹿狩りに精を出す以上、一生懸命に鹿を食べねばならない。色々と悩ましいことはあるが、食う量の多い男が2人も増えたのは素直に有難い。これを逃す手はなかった。
「ディアン、手伝ってくれ。漬けてある鹿肉は俺が焼くから、あんたは適当に副菜を考えてくれるか。」
「はーい。」
ディアンは慣れた手つきで食料を漁り、冷凍してあったエンドウを発見する。適当に他の野菜と煮付けてやれば十分な副菜になるだろう。
「・・・おお。なんだ、最近の男は皆料理ができるのが当たり前なのか?」
「セレナと過ごしていれば嫌でも覚えるって。一緒に暮らすとあの子1人に任せるのが申し訳なくなってつい手伝っちゃうんだよね。」
「教え方も上手いしな。保護区の2週間でディアンは俺より上手くなった。」
セレナ料理教室の生徒たちが手際よく調理をこなすのを、感嘆して秋島は見つめている。
これは、自分も講義を受けてみたいものである。ハンター協会の食堂の料理は少々若者向けというか、油っこすぎて年老いた自分が食べるには少々胃もたれする様なメニューばかりなのだ。
トラ婆も協会に住んでるけど自炊しているしな。男なら料理は嫁にやらせろ、という考えも古臭いし。
トラ婆に頭を下げるのは癪だが、嬢ちゃんに教えを乞うなら、まだプライドが許せる気はする。
秋島が小さく決意する中、若者2人は阿吽の呼吸で調理を進めていった。
「・・・ありゃ。野菜はあんまりない感じ?」
「秋の収穫に手を付けられていなくてな。適当に畑から引っこ抜いて来てもいいんだが。」
「いいよ面倒臭い。あー、でもキノコはよく分かんないな。どうしよ。」
「蓮根を漬けたのが棚に残ってたはずだ。大皿を仕舞ってる棚の奥。」
「はーい。」
何度も背中を預けて戦ったおかげか、保護区で毎日朝食を2人で作っていたおかげか。2人のコンビネーションは台所という戦場においても遺憾無く発揮される。
例え喧嘩をしていようと、気まずい話をしたあとでも、生きていれば腹が減る。台所にだけは余計な感情を持ち込まないのが気性の荒い2人の暗黙のルールになっていた。
蓮根とエンドウを炒めるフライパンから、新鮮なニンニクの香りが立ち上がり食欲を唆る。
セレナが作ったキノコとハーブのタレは、酵素で鹿肉を柔らかくジューシーにする効果があるらしい。表面だけ焼いたそれを皿に乗せてオーブンに突っ込んでやればあとは待つだけ。
その間に汁物とパンを用意してしまおう。作り置いている鹿のブイヨンと卵、そして玉ねぎを取り出した。洋風の卵スープだ。
「味見役は要るか?」
「要らん。座ってろ。」
暇だからといって首を突っ込むな。同時に2人に睨みつけられた秋島は怯えてソファの陰に身を隠した。
ちょっと茶々を入れただけでそんなに怒るなよ、とぶつくさ文句を言う声を無視し、2人は料理へと立ち向かう。
台所は戦場なのだ。例えかつての上司だとしても、生半可な覚悟でここに割り込むことなど許されないのである。
「・・・秋島。そろそろ話をだな。」
「すげえ。うめえ。やべえ。」
てっきり、小食なのだとばかり思っていたのだが。
秋島はその不健康に痩せた体躯には似合わぬ食いっぷりで、エンドウと蓮根の炒め物を次々胃に放り込んでいった。彼はハンター協会で提供される所謂ガテン系の食事を好んでいないだけで、こうしたシンブルな野菜の多い料理は大好物だったのだ。
協会でちびちびと料理をつまんで酒ばかり飲んでいたオヤジとは別人の様な食いっぷりである。
「・・・できれば鹿肉を消費してくれると有難いんだがな。いや、ディアン、違う。あんたは野菜を食え。どうせすぐに腹一杯になるんだから・・・聞け!自分で作ったくせに炒め物を全部秋島に押し付けるんじゃない!」
肉ばかり食うディアン、野菜ばかり食う秋島、そして何でも食うタイタン。
男だけの食事というのはどうしてこう品がないのか。自分の食い汚なさを棚上げし、タイタンはため息をついてパンを口に放り込んだ。
「偏食はよくない。何でもバランスよく食うことで体が作られるんだぞ。」
「うっせー筋肉マニア。育ち盛りなんだよ。」
「そうだそうだ。俺とディアンでバランスが取れてるだろうが。」
「誰が筋肉マニアだ。というか仲が良いな、あんたら・・・。」
保護区を旅立った時は、ディアンを秋島に任せることに正直不安があった。ディアンはどうにも秋島を目の敵にしている節があったし、秋島は秋島で問題のある大人だ。
この男、普段は適当だけれど肝心なところはしっかりしている・・・であれば良いのだが、残念ながら真逆の「普段はそこそこしっかりしているのに、肝心なところが適当」という最悪な振る舞いをする人間なのだ。
真面目なディアンが秋島に振り回されて余計な気苦労を背負っていなければ良いのだが、とタイタンは少し心配していた。だが不器用な真面目男と器用な不真面目男は欠点を補い合ってそれなりにうまくやっていたらしい。
「こいつを手伝う代わりにな。こっちの仕事も少し手伝ってもらってたんだ。・・・もご。いやあ、俺がここまで早く後処理から解放されたのはこのクソチビのおかげだ。流石第4部隊の元隊長様。組織の根回しに関しちゃプロ中のプロだぜ。」
「・・・感謝しているならクソチビ呼ばわりはやめてくれる?お前がさっさと仕事を片付けないと僕の要件も片付かなかっただけ。」
「いや・・・何だか安心した。結局あんたらに全部丸投げして帰ってきてしまったからな。何だかんだと色々あったが、早めに近況が聞けたのはよかった。」
タイタンは肉のお代わりを用意するため立ち上がった。男が3人も居ると自分の取り分が足りない。セレナの言った通り肉を多めに漬けておいて正解だった。
「それでな。・・・ええと、良い報告としてはな。嬢ちゃんの用意した魔道具作りのマニュアル。ありゃ最高の魔導の参考書だぜ。反乱軍の残党にだけ提供するはずがいつの間にかデータ化されて協会にこっそり出回っているくらいの大評判だ。あんまり良いことではないから大声では言えないが。」
「まあ・・・ハンターが魔道具作りに精を出してしまったら反乱軍の立つ瀬が無いからな。でもまあ、知識が万人に開かれること自体は悪いことじゃないし、役割分担がきちんとできれば問題ないだろう。」
やはりセレナは学者を名乗るだけあって、魔導の知識はピカイチ。そして彼女は教え上手だ。
直接指導できないことを気に病んでいたようだったが、その不安をバネに作り上げた”参考書”は最高の出来だった。
「結局魔道具作りを一から教えるとなると、魔導の基礎から叩き込む必要がある。その部分がきっちり纏まっているから、そこだけ切り取って候補生の魔導授業に使おうかって話も出てる。」
「・・・僕は複雑だけどね。なんっで僕に教える時だけあんなスパルタなんだよ。優しい指導ができるなら最初からそうしろってーの。」
ディアンはぶつくさ言いながらポケットからスキットルを取り出した。
「この家は禁酒だディアン。・・・あれはディアンが元々魔導に精通した人間だったからだろう?セレナさんは俺と違って無茶は言わん。それに、ディアンに一度教えたからこそ、あの参考書が書けたんだろ。自分が当たり前にやっていたことが実は無茶に近いものだったと気づいたから、セレナさんは一生懸命教え方を考え直したんだ。」
参考書は保護区から帰る道中、セレナが車内で書き上げたものを直接ドライバーに渡すことで提出した。本当はデータ化して通信端末で送るはずだったそれを急いで書き上げるのに、セレナがどれだけ頭を悩ませていたかは隣で見ていたタイタンが一番よく分かっている。
「・・・ま、そういうことだ。魔道具発注の投票も進んでる。坊主どもの企みは大変上手く進んでる。今んとこ問題なしだ。良かったな。」
「秋島、この家は禁煙だ。分かった。セレナさんもそれを聞けば喜ぶ。・・・で、だ。問題の、悪い話というのはなんだ。」
一転。賑やかな食卓の空気が張り詰める。
ディアンは一度心配そうに秋島を見上げる。そう、空気が張り詰めたのは他でもない・・・秋島の纏う雰囲気が、一気に剣呑なものへと変わったからだ。
「・・・秋島。言いにくいなら僕が。」
「いい。保護区の動乱で手を抜いた俺のミスでもある。先に謝る。・・・すまねえ。」
タイタンは目を疑った。
あの秋島が、タイタンに頭を下げている。食卓に手を付き、土下座の様に頭を下げた秋島から、ただ事では無い雰囲気は見て取れた。
「協会の勢力が二分した。おチビの・・・女帝の権力が危うい。あいつが保護区のトップに立てなくなったら、この森の不可侵は保証できなくなる。いや、それどころか・・・最初に狙われんのは、間違いなく、ここだ。」
「女帝が・・・?いや、ここが最初に狙われるってどういうことだ。」
タイタンたちが保護区を発っておよそ一月。あれほど磐石だった女帝の治世が、この短期間で揺らいだなど、にわかには信じられない出来事である。
「元々、協会内に不穏な動きはあった。俺たち女帝派と、副曹派。奴らは若い女帝に保護区の治世と崩落の予知を全て任せるのは効率が悪いと訴えるが、単に女帝を傀儡にして副曹のエピドスに保護区の政治を握らせたいだけだ。あの保護区の動乱で、副曹派の連中が次々保護区に帰還し、そのまま居座り始めた。そしてどんどん協会内で力を増してる。」
「女帝の人気が高いからこそ、なんとか持ち堪えてるけどね。あとリーベックさん・・・ええと、このオッサンが虎ババアって呼んでる偉い人が頑張ってる。だけど、もし女帝派が副曹派に押し負けたら・・・もう僕らの約束なんか関係ないわけ。この森に人が居て、しかも保護区をより発展させる可能性のある果てしない価値がここにあることは奴らにばれちゃったわけだし。」
ディアンは心底面倒そうにフォークを肉に突き立てた。
自分たちが森でのんびり過ごしている間も、彼らは戦っていたのだ。戦場で戦う以外に能のないタイタンでは一瞬で負けてしまうであろう、権力闘争を彼らは続けていたのだ。
「・・・そういうわけでまず頼み事の1つ目だ。もう少しクソチビを借りるぞ。こいつが居るからあの第4部隊が軒並み女帝派に寝返ってくれている。正直、俺とババアの老いぼれコンビじゃおチビを守りきれねえ。」
タイタンはディアンの顔を伺い・・・その瞳に浮かんでいるのが不満でなく決意であることだけを確かめた。
「それは構わん。それより、だ。・・・女帝の危機だというのに、あんたがわざわざこの森を訪れた理由は何だ。」
「・・・・・。」
秋島だって、本当はずっと女帝の側に居てあげたいはずなのだ。娘のように大切に思っている女帝が、秋島の手の届かない場所に連れ攫われようとしている。
実の娘の様に可愛がっていた女帝が敵対する人間の手に落ちるというこの危機に、わざわざこの森を訪れた理由。それを問われた秋島はふう、と息を吐き、薄ら冷たい仮面を被った。
出会ったばかりの頃、あの保護区へ向かう車内で、秋島が浮かべて居たのと同じ表情だ。
「お願い事をしに来た。お前の大好きな、取引だ、坊主。」
・・・サングラスが何だと言っていたが、本題はそれだなこの野郎。しかも、相当きな臭い話題と見た。
「俺たちがこの森を探索することを許可しろ。坊主、お前はそれが嬢ちゃんにバレない様見張れ。そして”この森に張り巡らされている生体装置”の対象に俺を追加しろ。これを呑まない限り、俺たちはこれ以上嬢ちゃんの体のことに一切協力しない。」
「ーーーーーッ、秋島ァ!!!!!!!」
轟音は家の外まで響き渡った。
怒る人狼の尾が吹き飛ばした椅子が玄関に転がっている。
「何が取引だ!?俺たちを脅迫しに来たって訳か、アァ!?」
胸ぐらを掴まれた秋島の表情に先程の焦りは一切無く。
ただ光のない、底知れない深淵が真っ直ぐにタイタンの怒りの形相を捉えていた。
「あんた達も、あんた達もセレナさんを利用する気か!?セレナさんにバレないように、だと!?この森で一体何をする気だ、いくらあんた達の危機といえど、セレナさんを裏切る様な真似をこの俺が見過ごすと思ったか!?」
家を揺らす様な大騒ぎだというのに、セレナは一切起きてくる様子がない。
ディアンは慌ててセレナの様子を魔導で確認した。彼女の意識が未だ深く眠りに沈んでいることを確認し、安堵する。
セレナが起きたら全部終わりなんだぞ、と内心ヒヤヒヤしながらディアンは冷静を装い、
「オッサン。もうちょっと順繰りに説明しな。頭ごなしに言われたらタイタンがブチ切れるのなんか目に見えてたでしょ。」
そう言ってスープを飲んだ。
「俺たちが無償で協力すると頭から信じ切ってたこいつが悪い。目を覚まさせるためにパンチ食らわせてやっただけだ。」
「ーーーッ、ディアン、お前も!セレナさんにあれだけ世話になっておきながら・・・!」
「いいから座って話聞いて。僕がセレナよりこのオッサンを取ると思うの?」
嫌に冷静なディアンの言葉に、少しだけ頭が冷えた。タイタンは喉だけで低く唸り、納得のいかないと言った態度で吹き飛ばした椅子を拾い、座り直した。
「・・・はあ。二人とも忘れないでよ。ここはセレナの拠点、お膝元なの。僕らはこれからセレナを出し抜かないといけない。もし失敗したら、計画も、保護区も、全部纏めておしまいなんだから。」
セレナを信じ切るな。ああ、いつだったか自分に、そう忠告した人間がもう1人いた。
セレナと打ち解けつつも彼女を警戒することを決してやめなかった黒曜の瞳と、地底に沈んでいったジルコニアの輝き。
出会ったことなど一度もないはずの2人の瞳が、タイタンには重なって見えたのだ。
「魔導機械H-003の回収。それが俺たちの目的だ。」
追加された肉はあっという間に食い尽くされ、台所のシンクには使用済みの皿が積まれている。
テーブルにはタイタンの用意した食後のお茶が並んでいる。だがそれに誰も口を付けようとはしない。それは偏に、未だ不機嫌そうに尾を揺らしているタイタンから秋島とディアンに向けて放たれる殺気のせいであった。
「H-003。ディアンのくれた俺のデータにも書いてあったな。それは何だ。」
この森を協会が長らく探索しようとしていた理由。それが森の内部に遺棄されたと思われる魔導機械H-003の回収。たしかにあの資料にはそう書いてあった。
「ブラックボックスさ。H-003は原初の大魔導士アレクサンドラが崩落直後に作り上げた魔導式の記録装置だ。そこには崩落以前の世界の様子、崩落直後の世界の様子、そしてどうやってアレクサンドラが結界を作り上げたのか、その実験の一部始終が記録されている。結界を拡大することを願っている保護区・・・・・まあ主に副曹派の連中が、血眼で欲しがっている代物ってわけだ。」
H-003は、元々保護区に厳重に保管されていたらしい。だがそれは、ハンター協会結成直後に何者かによって結界の外へと持ち出された。そのまま行方不明になり、再発見を諦められていた魔導機械の信号を、つい30年ほど前に協会が発見したのだそうだ。
「副曹派が力を持ってしまったら、そいつらは即座に森への不可侵を破棄し、ここに攻め入ってくる。だから回収したい。そういうことか?」
「ああ。俺たちが回収したことを知れば、森に矛先が向くことは当分無いだろうからな。これはもし・・・想像もしたくねえが、万が一俺たちが敗北した時に、坊主と嬢ちゃんを安全圏に逃がすために必要なことなんだ。」
そう言って秋島はニヤリと笑う。恐らく本心は別にあるのだろう。
だがそれはタイタンの知る由では無いし、秋島が言っていることも決して嘘では無いはずだ。
秋島が保護区を守る目的に背くことなど決して無いのだ。タイタン達が保護区に害を為す行為を選択しない限り、世界を守る行為を続ける限りは、秋島がタイタン達を真に裏切ることなど有り得ない。そう信じて、秋島の主目的については見て見ぬ振りをしてやることに決めた。
「もともとアレには居場所を知らせるためのビーコンが取り付けられてんだ。ビーコンを感知するための簡単な装置さえあれば、アレの在り処は誰でも割り出せる。この堅牢な森の罠さえくぐり抜けられれば、発見自体はそう難しいことじゃない。そのはずだった。なあ、ディアン。」
秋島はディアンに目を向ける。その表情は、どこか彼を咎めている様・・・というか本気で怒っている様で。
「・・・悪かったって。まさかセレナがあそこまでしてくると思わなかったんだよ。」
「・・・セレナさん?どうしてそこでセレナさんの名前が出てくる?」
再び。秋島の目線が酷く冷たい色を帯びた。ああ先ほどの妙に背筋が冷える感覚は、秋島がディアンへと怒りを向けるのを感じ取ったからだったのか。
「この馬鹿野郎はな。嬢ちゃんにハッタリ勝負を挑んで無様に負けたのさ。ええ?坊主に協会の秘密暗号を渡したんだろ?」
秘密暗号。思い当たる節はひとつも・・・いや。
暗号といえば。ディアンが渡してきた封筒の中にあった、意味のわからないメモ書き。
「そうだ。あの封筒に入っていたメモは結局なんだったんだ?」
「・・・あれはね。記憶を失う前のお前なら、間違ってもその辺に放置しない代物なの。ハンター協会秘密暗号。12桁の数字に末尾2ドットの数列を渡されたら、それは協会所属の人間以外・・・いや、他の協会員にすら見せるな。速やかに暗号解読を行い、数列は速攻破棄せよ。ハンター協会の人間なら研修の一番最初に教わることなんだ。」
そんなに重要なものだったのか。タイタンは驚き、そして申し訳なさそうに謝った。
「それは俺の情報伝達不足だ。俺は思い出記憶どころか一部の知識記憶も失っている。ハンター協会や崩落のことも、セレナさんに教えられて知ったくらいなんだ。」
セレナにバレない様に情報を伝えたくて、ディアンがその手段を選んだのだとしたら、タイタンはそれを思い切り裏切ってしまった形になる。
だがタイタンの謝罪に対してディアンは1つも表情を変えず。
「いや、それはいい。タイタンの態度を見て何となくそれは分かってたから・・・お前が本当にあの暗号を読めないかどうかを確かめたくてあれを渡したの。」
「え・・・っと?」
疑問符だらけのタイタン。読めないかどうかを、確かめた?
ディアンは心底気まずそうに口を開いた。
「お前があの暗号を読めるのかどうか。お前はセレナに封筒を暴く隙を見せる人間なのか。お前の封筒をセレナは暴く人間なのか。もし万が一あの暗号を解く方法をセレナが知っていたら。そしてもし・・・極小の可能性だったけど、あの暗号の答えに対して、セレナがどう行動を起こすのか。いろいろ情報が取れるだろ。お前と話す時間なんてセレナのお膝元のこの家じゃ殆ど無い。だから僕なりに色々情報を得ておこうと思ったんだよね。」
タイタンは驚き・・・そして感嘆した。流石は隠密部隊。情報戦のプロ。ディアンが思案していたであろう自分を探られたという不快さは全くなく、むしろディアンという人間をより信頼に値するという感動がタイタンの胸を包んだ。
ディアンはたった三回の来訪で、セレナ、そしてタイタンの人となりを把握するために、行動を起こしていたというのだ。全く知らなかった。
「そしてこの馬鹿チビは見事に悪手を踏んだ。嬢ちゃんは坊主の隙を見て封筒を暴き、どうやったか知らねえがハンター協会の秘密暗号を解読し、そしてその暗号の答え・・・H-003の隠し場所に辿り着きビーコンを破壊し、ご丁寧に隠し場所まで変えやがった。」
「・・・・・・・は、あ!?」
顎が外れるかと思った。タイタンは驚き口に含んだ茶を吹き出した。
「ご、ほっ、ちょ、ちょっと待て!?セレナさんが俺の封筒を・・・いや、そもそもなんであの人がハンター協会の秘密暗号を解けるんだ!?というか、H-003をセレナさんが隠しただって!?」
「おう。1週間前の俺と全く同じことを叫んだな。・・・俺がH-003探索をこの馬鹿チビに申し出たとき、こいつはようやく自分のやらかしたことがとんでもないことだったと気づいて俺に土下座したのさ。H-003がそんなに大事なものだなんて知らなかったんだ、ってな。」
ディアンが一回り小さく見える。
・・・どうやら本気でブチ切れた秋島に叱り飛ばされたらしい。ディアンは確かに少々ビビリの気はあるが、彼がこれ程萎縮するとは・・・秋島操の本気の怒りはどれほど恐ろしいのかタイタンですら想像したくない。
「・・・だって、さあ。旧世界の記録装置だなんて知るわけないだろ・・・。あんなん副曹の骨董集めの道楽だと思ってたんだよ。セレナの本性を暴く山車に使ってやれ、って思ってさあ・・・。」
「作戦の第一目標に挙げられている一等遺物を、発見したにも関わらず放置し、実物がどんなものなのかを確認すらせずに、あろうことか骨董集めの道楽だと?研修生からやり直せ馬鹿野郎。ったく、結界外部隊の教育がここまで行き届いていないとは。」
可哀想に萎縮してしまったディアンは、気まずそうにティーカップに手を伸ばした。
いや、しかし。
「・・・確かに面倒にはなったかもしれないが。ディアンの作戦はかなり有益な情報を齎している。つまりセレナさんは・・・俺の預かり知らぬところで暗号を解いて、H-003を隠した。彼女にとって、その魔導機械は協会に決して奪われたくないものなんだ。」
封筒を暴き、暗号を解くこと自体は・・・まあ彼女ならやりかねないと思う。あの人はそういう人だ。
ディアンがセレナを疑っていたように、セレナもまた、ディアンとタイタンのことを疑っていたのだから。タイタンだけに渡す秘密の封筒、などと餌を吊るされたら絶対に食らいつくに決まっている。
「そうだ。副曹派にこれ以上の力を与えないため・・・何より、万が一俺たちが敗北した時、この森の被害を最小限に抑えるため、H-003を女帝派の俺たちが所持している必要がある。そこに見事にあの嬢ちゃんが立ち塞がりやがったわけさ。しかも・・・どうも事情を話せば渡してくれる、といった雰囲気では無さそうだからな。嬢ちゃん、俺を森に入れるのを相当嫌がったんじゃないのか?」
「・・・そう、だな。」
「その上俺にハンター殺しの罪が発覚するのが怖い、とか何とか、適当言ったんじゃないのか。・・・そんなもの、とっくに俺にバレていると知りながら、だ。」
ひく、とタイタンの頰が引き攣る。やっぱりか。いつまでも隠し通せるものではないと思っていたが・・・一体どの段階で勘付いていやがったのだ。
「・・・俺たちを裁く気は無いんだな?」
「・・・腑が煮えくり返ってるのは確かだがよ。それでも、お前たちがどうしてそうしなくちゃいけなかったのか、という事情は察せる。敵にならん限りはおチビにも黙っておいてやる。」
敵にならん限り、か。嫌な言葉だ。ここまで事情が分かれば秋島たちに協力しない選択肢は殆ど無くなったようなものだが、もしあの時怒りのままに秋島を森から叩き出したら一体どんなことになっていたやら。
息をほっと吐いたタイタンに、ああ、と秋島は何ということはなく告げる。
「だがな。腑が煮えくり返ってることは、決して、忘れるなよ。」
瞬間。秋島のティーカップが文字通りに沸騰して蒸発した。
急激な温度上昇に耐えられなかったティーカップがピシリと音を立てて割れる。
秋島の冷たい目線が、今度はタイタンに向けられていた。
タイタンの殺した、あの赤毛の女ハンターの、絶命の瞬間の、光なき瞳。
そして今は協会に捕らわれているであろう、ロータスの憎悪に歪んだ表情。
いや、タイタンの預かり知らぬところで、セレナが殺して来た数多のハンター達の怒りが、後悔が、秋島操という男を依代にタイタンを睨んでいた。
「・・・・・ああ、そうだな。それは、忘れない。」
タイタンは眉根を寄せた。ただ、それだけの言葉を秋島と彼の背負う数多の亡霊達に返した。
謝りはしない。
それは、セレナが生きるために行ったことを否定する行為だ。
自分は決してそちら側に立つことはない。ただ、もし、唯一できることがあるならば、それは、彼らが生きていたこと、そして彼らの命を自分が奪ったことを、忘れないことだけだ。
「・・・・・。」
永劫のように思える沈黙が、流れる。
秋島操の内に今も生きている数多の亡霊達を、タイタンはただじっと見返した。
「そうかい。」
その言葉が秋島のものだったのかどうか。タイタンにはもう分からない。
亡霊達との対面を終え、タイタンがひと息つく頃には、話題はとっくに次へと進み始めていた。
「・・・・・で、だ。嬢ちゃんはこのことにとっくに気がついている。そのはずだ。嬢ちゃんは至近距離で、俺とあの赤毛との会話を聞いてたんだから。」
「あの時・・・あんたがロータスとセレナさんに割って入った時か?」
秋島は割れたティーカップを拾い集める。
「そうだ。俺はあの時赤毛に、こいつらが人殺しなのはとっくに知っている、と。嬢ちゃんに聞こえるようにはっきり言った。あの耳聡い嬢ちゃんが聞き逃すことはあるまい。」
「・・・だがそれを秋島が知らないという言い訳がないと、セレナさんは俺を説得できなかった。結局俺が強引にあんたを招いてしまった訳だが、確かに・・・あんたがとっくにその事実を知っていることが分かっていたなら、俺はあんたを招くことを躊躇しなかった。」
見事に一本の線が繋がった。
タイタンの預かり知らぬところでセレナはディアンと戦っていて、タイタンの預かり知らぬ理由で、セレナは協会と真正面から反発する様な行動をしてみせた。
「・・・くそ。やっぱり俺は、あの人のことを、何にも、知らないな。」
悔しかった。腹立たしかった。
頑なに魔導の変質を嫌がる理由も、どうして協会と敵対するような真似をしたのかも、何も話してくれないまま呑気に眠っているセレナにも・・・そして、1年近く彼女と共に過ごしておきながら、彼女の心の柔らかい場所に未だ触れられない自分にも、腹が立って仕方がなかった。
「・・・だから、これから知るんだよタイタン。協会云々を抜きにしても、H-003の発見は計画に必要なことだから。」
「・・・計画に、か?」
ディアンは頷く。それが、自分がこの裏切りに加担した理由だと、ディアンは語る。
「H-003をセレナが隠したがった理由は、多分セレナの魔導の変質に大きく関わってるだろ。僕らにはもうセレナを待つ時間なんか無いんだよ。」
「保護区の崩壊より先に・・・いや。これはそれ以前のお話だ。坊主、俺たちを・・・いや、保護区の人々を巻き込んだ以上は真面目にやれ。ガキどもの色恋沙汰に巻き込まれるなんざ御免だ。そんな奴に俺は命を預けるつもりなんかねえ。」
「ーーーーーーーッ。」
図星。タイタンの息が詰まる。
それは返す言葉すらないほどの正論だった。
「時間が無い?保護区が崩壊する?いや、それ以前の大前提を坊主達は忘れているな。”今、この瞬間、崩落によって数多の人々の命が脅かされている”。急ぐのなんか当たり前だ馬鹿が。お前らがうだうだ悩んでいる間に、何人の命が崩落に沈むと思ってやがる。」
手が震えた。
人間を嫌っている彼女は、セレナのことしか考えていない自分は、秋島に叱られるまでこんな当たり前のことにすら気づかず救世主を気取っていたのだ。
甘ちゃん。自分の未熟を、ああ、これほど痛感した日が他にあるだろうか?
「・・・その、通りだ。悪かった。」
タイタンは素直に、いや、心から頭を下げた。
保護区の為に戦う秋島を味方に付ける以上、当たり前のこと。自分たちがしていることは真剣に計画に協力してくれた秋島やディアン、女帝、彼らを軽んじる行為だ。
「確かに俺たちは、自分たち・・・この森を守るために世界を救おうとしている。だが・・・そんなもの、秋島や女帝には、関係のないことだ。秋島たちを巻き込む以上は、秋島たちの願いにも真摯であるべきだ・・・。」
どんな事情があろうと、セレナが自分の我儘で計画の進行を遅らせることは決して許されない。そんな当たり前のことに気付かず、あろうことかタイタンすら彼女の過ちを見逃してしまっていたなど。
「・・・このくらい嬢ちゃんが素直だったら良いんだがな。あいつはお前以上のガキンチョで、捻くれ者だ。俺に叱られた程度で叩き直せる性根じゃねえし、下手な手を打てば逆ギレして俺の敵に回るのがオチだ。逆上してH-003を破壊でもされたら目も当てられねえ。そうなれば嬢ちゃんは副曹派の宿敵・・・本物の犯罪者になっちまうんだからな。」
「そう。タイタンはとにかく僕らがH-003を回収するのを待って。タイタンがセレナに説教するのはあれをセレナから取り上げてから。・・・いいね。」
ディアンは俯いたままのタイタンを心配そうに見つめた。セレナを心から信頼している彼だから、そして、真っ直ぐで義に反する行為を嫌う彼だから、秋島の言葉を真正面からぶつけられたら絶対にショックを受けるだろうことはよく分かっていた。
「・・・分かった。協力する。」
だが、予想に反してタイタンの言葉は決意に燃えており。
「彼女の過ちを正すのは、彼女の隣に立つ俺の役目だ。セレナさんが歩みを止めようとするなら、引きずってでも歩かせる。」
眩しいほどに輝きを放つ楔色を見て、秋島も、ディアンも、かつての英雄の面影を彼に重ねずにはいられなかったのである。
「・・・ナルコプレシー?」
「昔からある病だ。脳の神経細胞の異常で起きる、過眠症の一種。嬢ちゃんの症状は見事に当て嵌る。」
セレナは聞いたこともない病の名前に首を傾げている。だが嘘っぱちというわけでもなく、ナルコプレシーという病は実在するものらしい。
真実と嘘を入り混ぜて話すのが何とも嫌らしい。今の所セレナも見事に騙されているようで、あのセレナを騙してみせる秋島の手腕には感服するばかりだ。
「でも・・・私の症状は病気だというよりは。」
「魔導の変質が原因なんだろ。それは聞いてる。」
セレナは朝食・・・時間的には昼食だが、食事の手をぴくりと止めた。
「魔導が乱れるのは体の気の流れが乱れるからだ。ナルコプレシーに似た症状が出るのは間違いなく魔導の変質が原因だろう。それは嬢ちゃんの気持ちが解決しない限りどうにもなるもんじゃねえ。時間がかかる。それは仕方ねえ。」
食卓に一人分だけ並んだ朝食。セレナのパンを食べる手は遅い。先ほど起きて食べ始めたばかりだと言うのに、彼女はもう満腹になってしまったようだ。
「俺たちは今から保護区に戻って症状を落ち着ける薬を貰ってくる。それまでの辛抱だ。・・・と言っても、それまで眠気が酷いままだと辛いだろうしな。それまではこっちの薬を飲んでいろ。」
そう言って秋島は錠剤を詰めた瓶を取り出した。
「これは魔導回路を止めちまう薬だ。魔導を使って暴れるような奴相手に使うもんだが・・・嬢ちゃんの症状が魔導の乱れから来るものなら、これを飲めば恐らくは収まるはずだ。その代わり、これを飲んでいる間は魔導が一切使えなくなるがな。突然眠ってしまうのが怖いならこれを飲んでおけばいい。」
「魔導が使えなくなるの・・・?」
セレナは不安げに、机に置かれた瓶に顔を近づけた。薄ピンク色の錠剤はまるで菓子のようで、そのような危険な効果があるようにはとても見えない。
「薬のことは秋島から一通り教わった。一度飲めば1日効き続けるくらい強い薬で、副作用で微熱と食欲減退が起きる。常に風邪を引いているような状態になってしまうそうだ。だから、勿論、飲んでいる間は絶対に、絶対に1人で出歩くなよ。いいな。魔導が使えないまま出歩いたら・・・。」
「わ、分かっているわ!危ない真似はしないから睨まないで頂戴・・・!」
・・・下手に1人で行動できる様にしてしまう方が怖いのだ。このくらいキツく言っておかないと、釣りをするだけだとか花を摘みに行くのだとか、眠気が収まったセレナは何かと理由をつけて出かけようとするに決まっている。
「今回ばっかりは僕もタイタンに味方するから。薬の副作用もあるし、そもそも魔導が使えないセレナはただのか弱い女の子なんだから。いい?絶対に余計な真似はしないで家に居て。この薬を渡すのはセレナが風呂で寝て溺死しかけたとか、鉈を握ったまま寝たとか、このままだと家の中でセレナがうっかり死にかねないからだからね?」
「鉈は、鉈は未遂でしょう!?話を盛ったわねタイタン!!」
顔を真っ赤にしてぷるぷると震えるセレナは・・・突然表情を暗くし、
「・・・そう。具合が悪いのは変わらないのね・・・。」
しょんぼりとして俯いた。
「突然眠るよりよっぽどマシだ。秋島たちが戻ってくるまでの辛抱なんだし、その間だけ我慢してくれ。」
「そう、ね。秋島、ディアン・・・迷惑ばっかりかけてごめんなさい・・・。」
セレナは頭を下げた。だがその下げた頭ががくんと揺れる。
「・・・もう辛そうだ。いい。ベッドに運ぶから眠ってしまえ。」
「気にすんな嬢ちゃん。俺たちは全員嬢ちゃんに恩があるんだからな。」
「ん・・・・・。」
秋島の優しい表情を見て安堵したセレナがそのまま机に倒れこむ。
頭で皿を割る寸前、タイタンに抱きとめられる。そのままセレナはタイタンの腕の中で眠りについてしまった。
「・・・・・今のうちだ。生体装置を使え。起きたらすぐに薬を飲ませるが、万が一にも痕跡は残すなよ。」
「おっけ。秋島、皮膚を少し貰うよ。」
ディアンは秋島の肘から切り取った皮膚片を持つとセレナの部屋へ入っていった。
生体感応装置は、あくまで罠を反応させなくするだけ。恐らく、侵入者を知らせる警報は、生体反応装置の登録者だろうと容赦なく反応する。
「以前俺が迷子になった時、セレナさんは警報を頼りに俺を探していたから。彼女の頭に直接響く警報から逃げるには、セレナさんの魔導を止めてしまう他ない。」
「・・・協力しろと言ったのは確かに俺なんだがな。こう容赦がない作戦を即座に提案してくるとは流石に思ってなかったぜ。」
普段から結界の外で活動している2人ならば、絶対に対魔導使いの薬を持っている。タイタンの脳裏にはハンター協会の拷問や薬物の知識が未だ強く焼き付いて居る。
だから、薬を持っているだけ寄越せと言い出したのは他でもないタイタンだった。薬でセレナの魔導を封じ、強い副作用でセレナの行動を封じることで、警報の見抜けない2人でもセレナに見つかることなく森を探索できる様に。
「セレナさんを相手にするなら手を抜くな。下手を踏んだら容赦しない。絶対に上手くやれ。失敗は許さん。」
「へいへい。」
「いいか。警戒すべきは警報だけじゃない。この森にはセレナさんの味方が山ほどいる。」
彼女とこの森を見つめてきたタイタンだからわかる。彼女を欺くことがどれだけ大変なのかを。この森が余所者にどれだけ厳しいのかを。
「セレナさんの親しい動物・・・特に栗毛の鹿には絶対に見つかるな。あいつらは森に異常があるとすぐに俺たちに知らせる。」
「分かった。」
「セレナさんがものを隠しそうな場所には正直当てはない。だが彼女自身が行ける場所となると・・・まず森の南、中央付近。西も可能性はあるが危ないから立ち入るな。罠だらけの森の西と、東の霧が深い地域と、ここより北の断崖絶壁は危険だから近寄るな。まず帰れなくなる。」
「西の罠は生体装置が別にあるんだったな。分かった。まず中央から探索することにする。」
タイタンは思いつく限り、森の知識を頭の引き出しから引っ張り出し、2人に伝えた。
食べられる植物、食べられない植物。どの動物が危険で、出会わないためにどうしたら良いのか。出会ったしまったらどうしたら良いのか。この森で生きる為に必要な知識をありったけ、タイタンは彼らに伝えた。
どれほど2人がプロのハンターだったとしても、彼らは森の初心者。そして相手取るのは森のプロ、ハンター殺すプロのセレナさんだ。
全く知らない土地、生まれて初めて立ち入る大自然の中で、生き延びるだけでもどれだけ大変なことなのかは、タイタンはよく知っている。
「・・・死ぬなよ。」
結局、最後に2人にかけた言葉はそれだけだった。
タイタンは家を出て行く2人の背中を見届け、その背中が険しい森の樹木の表皮の、その隙間に消えてゆくまで、じっと見つめていた。
「・・・うう。」
セレナは羽根で自身の体を抱き寄せた。
そう、魔導が使えないということは、彼女の羽根を隠す魔導も解けてしまうのである。
「・・・今日は熱が高いな。このままベッドに居ろ。」
「嫌。起きていられるだけでいいの。眠ると・・・嫌な夢ばっかり見るし、もう起きられなくなりそうで、怖いもの・・・。」
秋島たちが旅立って既に2日が経過した。
セレナが副作用を嫌がって薬を拒否した時の言いくるめ方ばかり考えていたタイタンだったが、その心配は杞憂に終わった。セレナは発熱や関節の痛みで辛そうにしながらも、毎朝しっかりと渡された薬を飲んでいる。
一度家の外に出かけそうになったのをタイタンに見つかって捕まった以外は、特に問題なく過ごしている。羽が出っ放しなのは不便そうだが、調子が良い時は台所に立ったり、作業場で魔道具作りをしたり、タイタンの冬用のセーターを編んだりしてのんびりと過ごしていた。
「眠らなくても、目を閉じているだけで少しは楽になる。」
覚悟は決めたつもりでいたが、彼女を目の前にすると罪悪感で潰されそうだ。
セレナにこれほど副作用の強い薬を飲ませることを提案したのは自分。命を賭して守るべき相手を敢えて苦しませるような決断を下したのは自分だ。
いくらタイタンであっても、必要なこと、とそうそう割り切れるものではなかった。
「・・・・・すまない。」
タイタンはベッドに伏せたままのセレナに、小さな声でそう詫びた。
「貴方が気に病むことなんかひとつもないわ?・・・結局全て私が悪いのだし。」
セレナは人差し指で羽根を摘んで弄りながら、ぽつぽつと言葉をこぼす。
「私の迷いに、貴方やディアン、秋島も巻き込んで。最低だわ。秋島たちだって忙しいというのに。」
「サングラス1つ取りにわざわざここまで来るくらいだ。そこは心配要らん。あんたが頑張ったおかげで今は保護区もかなり落ち着いているそうだから。」
宥める様にセレナの頭を撫でる。
「・・・・・ありがとう、タイタン。貴方の優しさに、私はいつも甘えてばかりだわ。」
保護区は落ち着いている。セレナが言いたがらないのであれば、魔導の変質を嫌がる理由は詮索しない。自分はただ、セレナの気持ちの整理がつくのを時間をかけて見守る。
今まで通り、そういう態度を装う。
「お互い様だろ。いいさ、このくらい。」
セレナが優しさと呼んだのは、こうして甲斐甲斐しく世話を焼いていることに対してか、それともセレナの内緒ごとに触れないでやっていることに対してか。
「・・・スープくらいなら食えるだろ。今用意して・・・・。」
その時。
「ひゃっ・・・!?」
セレナの部屋が傾いた。何か大きなものが落下した様な衝撃で家が一度大きく揺れる。
セレナの机から落下した、作りかけの魔導ランプが床に激突して悲鳴を上げた。
「!!」
セレナは反射的にソファから飛び降り、外套を羽織った。その表情には最早弱り切った少女の面影は無い。冷徹な森の守護者の仮面を纏ったセレナは旋風の速さで家を飛び出そうとしていた。
「待っ・・・馬鹿!!」
慌ててタイタンはセレナの首根っこを掴んだ。平時なら魔導で振り払えるであろうタイタンの腕力にセレナは逆らえない。
「魔導が使えないくせに何をする気だ!?」
「ーーーッ、黙りなさい!森の異常を解決するのは私の役目でしょう!!」
わあわあと喚くセレナをタイタンは無理矢理にベッドに押し込む。
「今はもうあんた1人の仕事じゃないだろうが!」
ひくり、と体を揺らしたセレナを諭す様に、タイタンは言葉を続ける。
「あんたの力が必要になったら呼びに戻る。魔導が必要なら薬が切れるまで待って事態の解決に動く。約束する。」
「・・・分かっているわよ。でも、ええ。くれぐれも感情的になって無茶はしないで頂戴?」
信用ならない、という表情でセレナはタイタンをじっと睨む。
前科が山ほどあるだけあって耳が痛い。
「・・・胸に刻んでおく。」
セレナがベッドに戻るのを見届け、タイタンは剣を担いで家を出る。
頼むから大人しくしていてくれ、と家に向かって一度手を合わせ、タイタンは音の鳴った方へと歩き出した。
早速秋島たちがやらかしたのだとばかり思っていたのだが。
「・・・そんな感じでは、ないな。」
音が鳴ったのは丁度先日タイタンたちが修理を終わらせた食料庫の付近。
つい昨日まで元気に葉を茂らせていた5mほどの銀杏の木が根元から薙ぎ倒され絶命していた。これが恐らくはあの大きな音の発生源。
そして、そこには明らかに罠の作動した跡が残っている。魔導式のくくり罠が無理矢理に引き千切られた残骸が、銀杏の根元に転がっていた。
「秋島たちが罠にかかる訳がない。侵入者か。それも・・・この付近まで来られるということは相当の手練れだな。」
ただ、流石に侵入者も無傷とはいかなかったようで、地面に僅かに血痕と引き摺る様な足跡が残っている。
神経を張り巡らせながら、その足跡を追っていく。数分と経たずに辿り着いたその場所を見た瞬間、タイタンは頭を抱えた。
「・・・早速セレナさんが必要になってしまったんだが。」
南部への転移装置。セレナと一緒に魔導具を使う鍛錬を重ねたのも記憶に新しいその装置に、べっとりと血が塗りつけられていた。
「クソ、魔導使いが相手か。南部に飛びやがったな。」
いくら南部に行ったとはいえ。このまま帰ってくれるだろうと思うのは希望的観測に過ぎない。
このまま生き絶えてくれれば良いのだが、生き残って余計な情報を外に持ち出されても困る。
「・・・試すか。試してダメならセレナさんの薬が切れるのを待つしかない。」
セレナと練習した時はかなり惜しいところまで行ったのだ。転移ができるまでは至らなかったが、セレナが使った時と同じ様に、中央に嵌められた青い宝石が光り輝かせることはできたのだ。
タイタンは装置の宝石に触れる。
「・・・感情を乗せる。南部に飛ぶのだという意思を、自分の生命で練り上げた魔導のエネルギーに、乗せる。」
『魔導に必要なのは強固な目的設定よ。そしてそれを決して揺らがせない強い意思。目的、理論の組み立て、承認。例え魔道具で後の2工程を飛ばせるとしても、その魔導の大原則を決して忘れないことよ。』
何となく、感覚だけでやっていた、魔導式コンロに火をつける行為を、なるべく理論的に脳で噛み砕く。
火を点ける時は、指先に力を込める。自分の体に巡る、血液とも電気信号とも違う熱量を、心臓を使って練り上げ、それを指先に込め、放つ。
『そう。やっぱり筋がいいわね。魔導のエネルギーの練り上げ自体は問題なくできているわ。あとはそれに命令を乗せる感覚を身につけるだけ。』
一度大きく息を吐き、呼吸を整え、もう一度挑む。
『貴方は魔道具に助けてもらうんじゃないの。魔道具に、貴方の内を巡るエネルギーに命令をして従わせるのよ。ふふ。貴方の様な人間なら簡単なことでしょう?』
セレナのいたずらっ子の笑顔が、瞼の裏に浮かんだ。
『戦場で私に命令する様に。魔導に命令しなさい?絶対に失敗するな、何が何でも成功させろって。』
「・・・絶対に、失敗するな。俺を南部に飛ばせ。御託はいい。何でもいいから動きやがれ!」
その瞬間。今までに無かったような強い質量が、指の血管、筋肉の間を突き上げた。
今までちょろちょろと細く水を垂れ流しているだけだったホースに、突如蛇口が大きく開かれ大量の水が雪崩れ込んだの様な。
吹き出す。タイタンは咄嗟に石に触れた右腕を、暴れない様に押さえ込んだ。
「ーーーーーっ。」
堪えなければ。それだけを考え、必死に右腕を抑えているうちに。
肌に触れる空気が。鼻から吸い込む土の香りが。
北部のどこか澄んだ匂い、森の香りが、南部の力強い生命の香りに変化したことに気付く。
「・・・出来た。出来たぞ!?」
タイタンは拳を突き上げた。やっと成功した!ここまでできる様になるまで、一年もかかってしまった。
セレナに何かあるたび、彼女に家に置いていかれるたびに、自力で南部に飛べないことをどれだけ悔しく思っていたか!これでようやく彼女を頼らずとも南部に移動できる。
「さっすがセレナさんだ。うんともすんとも言わなかった機械が、彼女に教わっただけでこうもすぐに扱えるようになるとは。やっぱりあの人は凄いな。」
1人ではこうはいかない。彼女の言葉がやはりうまいのだ。必要な感覚を的確に言葉にしてくれる彼女の教えがあってこそ、ここまですぐに転移が出来るようになったのだろう。
達成感に包まれ踊り出したい様な気分のタイタンは、慌てて頰を叩き緊張を取り戻した。
「・・・いけない。落ち着け。侵入者を追うんだろ。」
周囲を見回さずとも、血痕は柔らかな緑の草地にべっとりと残っていた。
「とにかく状況の迅速な把握。侵入者が敵意を持っているなら・・・処理を。」
タイタンは背中に背負った剣を手に持ち直し、足早に前へと進む。その大剣が、タイタンの手に触れた瞬間に、一度、銀色に鈍く輝いたことに、歩くことに必死なタイタンは気づきもしなかったのである。
痕跡らしきものはそう遠くまで歩くことなく見つかった。再び、くくり罠を無理矢理に抜けた跡がある。千切れた縄の横、薄水色の小さな花をつけた植物の茂みが、人間1人が通り抜けたようになぎ倒されていた。
「・・・・・呼吸の音がする。居るな。」
わざと大きな声でそう呼びかけると、頰に触れる振動が一度大きく動揺に揺れる。
上だ。薄茶色に色づいた栗の木の上で息を必死に殺す音。タイタンは栗の実を収穫する要領で、思い切り木を蹴った。すると。
「わーーーーっ!?」
ボロ布の塊が頭上から転げ落ちてくる。地面に落ちてきたそれをタイタンがすっと避けると、それは一度地面でバウンドし、ごろごろと茂みを転がった後に呻き声を上げて停止した。
「・・・・・子供?」
タイタンは驚く。タイタンたちに害を成そうと侵入してきたのだから、てっきり屈強な男や、秋島の様な戦い慣れした人間の姿ばかり想像していたが、目の前で傷を抑えて呻いているのはどう見ても10歳にも満たない幼い少女だった。
「ころさ、ないで・・・ころさないで!!ころさないでえええええ!!!!」
少女は可哀想に、突如自分を木から蹴落とした屈強な大男に怯え、顔を真っ青にして震え上がっていた。
「・・・・・落ち着け。蹴落としたのは悪かった。俺たちに酷いことをする大人が森に入ってきたのかと思ったんだ。」
「ぐず、ぐず。うえええええええん!!!!!」
一歩タイタンが近寄っただけでこれだ。子供の相手などしたこともないタイタンは、泣き喚く少女に困り果てた。
「殺したりしない、しないから。怪我をしているんだから暴れない方がいい・・・聞け!!泣き喚いたって何も分からないだろうがッ!!!」
思わず感情的に怒鳴り散らし、すぐにハッとする。思い浮かぶのは出会った当初、タイタンに叱り飛ばされ涙目になっていたセレナの顔。
「うぇ、うえええええええええええん!!!!!」
栗色の癖毛の少女は大きな丸い瞳からぼろぼろと涙を零し、そばかすだらけの頰をびしょびしょに濡らしている。この目の前の大男に今にも殺される。自分の命はここでおしまいなのだと怯え泣き喚いていた。
「・・・くそ。はあ。」
どっと疲れが全身に押し寄せた。
確かにタイタンは人殺しだが、必要のない殺しを好き好んでやる様な人間ではない。
もしこの子供がセレナに害を為すのであれば今すぐにでもその小さな体を引き裂いてやるのだが、現状それを判断するのは不可能だ。
「・・・警告するが。あまり大声を出さん方がいい。余計なものを呼ぶ。」
タイタンはその場にしゃがみ込む。
「この辺りの動物は気性が荒いんだ。自分たちでも狩れそうな獲物が来たことに気付かれたら・・・。」
タイタンの耳は既に、こちらをじっと伺って居る4本足の地面を擦る音を聞き取っていた。
「こうなる。はあ。面倒を呼びやがって!!」
タイタンは少女の逃げ腰を無理矢理片手でひっ掴み、前方へと飛んだ。
「ひ、ひゃあああああああ!!?」
「だから大声を出すな!!口を縛って塞いでやろうか!?」
少女の喚き声をかき消すほどの大声で一喝。少女はひっ、と息を飲み込み両手で口を塞いだ。
「よし。そのままいい子にしていろよ。」
タイタンはそのまま栗の木を駆け上がり、木と木の間を飛び移る。まともに相手をする気などなかった。恐らく、この子供が呼んでしまったのは、南部でもとびきり面倒な相手・・・少なくとも、怪我をした子供を小脇に抱えて戦う様な相手ではなかったからだ。
「な、なにあれえ!?」
少女は木の下を覗き込み、絶句した。
高い木の上に逃げてしまった獲物を、悔しげに、早く降りてこいと威嚇していたのは、少女の常識にある動物のどれにも当て嵌まらないものだったからだ。
「ただの馬・・・だったら楽なんだがな。普通の馬と違ってあいつは肉食だ。今ここで俺が足を滑らせようものなら、2人まとめて内臓を食い千切られる。」
真っ黒な毛並みを持つ、三メートル程の体躯を持つその巨大な馬は、透明な後ろ足を使って必死に幹を蹴り、2人を蹴落とそうと木を揺らしていた。
馬は白目を剥き、口から涎を垂れ流した、明らかに異常な興奮状態が見て取れる表情で、やわらかな子供の肉を喰らおうとしている。
「馬だから足が速い。走って逃げられたものでないし・・・どうしようか。あんた、なんか良い方法を知らないか?」
「知らない!!知るわけないじゃん!!」
「分かっている。今のは皮肉だ。」
タイタンはそれだけを言うと、少女を比較的太い枝に座らせた。
「何とかして落ち着ける。あんたはそこで体を小さくして隠れていろ。」
「大丈夫・・・?」
少女はようやく、タイタンが自分を守ってくれたこと、自分を害する人間でないことに気づいたようである。剣を構えたタイタンを心配そうに伺うその丸い瞳が大きく揺れている。
「大丈夫だ。」
タイタンはそれだけを言うと、少女の頭を一度撫で・・・そして木の枝から飛び降りた。
狙うのは馬の足。真上に飛びかかって来た大きな剣を避けようと身じろいだその瞬間に、地面スレスレで足を薙ぎ払ってやる。
タイタンは予想どおりタイタンを避けた馬の立っていた場所にそのまま着地し、剣を横払いに振った。だが馬もまたタイタンの行動を読んでいた。剣に何か当たった様な感覚はなく、空気を切る重い音だけがタイタンの耳に届く。
馬はそのまま大きく上に飛んだ様だ。
「踏み潰す気か。」
いくらタイタンでもあの馬に踏み潰されては一溜まりもない。タイタンは馬の影が落ちる場所を避けるため横に転がった。だが。
「みゃあああああああああ!!?」
「はあ!?」
木を登れないのは、タイタンを少女から引き離すための演技だった。馬はタイタンの体躯の何倍もあるであろう大きな木をジャンプで飛び越し、少女のボロ布を口で咥え走り出したのである。
「た、たすけてええええええ!!!」
あっという間に視界から消えていく馬と少女の姿。タイタンは慌てて地面を蹴った。
「くっそ!!!待ちやがれ!!」
巨大な馬は一歩が大きい。普通の馬の比ではない。走りにも体力にも自信があるタイタンだったが、複雑に木の生えた森の中を慣れた様にぐるぐる走り回る巨大な黒馬に翻弄され、距離は離される一方で。
「・・・はっ、はあ、セレナさんが居れば、鎖で足止めでも何でもしてくれるんだが・・・」
タイタンが止まったが最後、馬は安全な場所まであの少女を連れ去り食らうのだろう。
走り始めてかなりの時間が経過し、馬の姿は既に豆粒ほどの大きさに変わり、酸素の枯れ果てた体は視界を点滅させ、タイタンの限界を彼に伝えていた。
「き、つい・・・ッ、クソ。」
出会ったばかりの、敵か味方もわからぬ子供だ。
だがセレナならきっと見捨てない。この森は彼女の森、彼女の矜持が息づく森だ。
郷に入らば郷に従え。タイタンはこの森で生きる彼女の矜持を汚したくはない。
いや、それ以上に、タイタンは、あの子供を見捨てたくない。
「自分の守りたいと思ったものを、我儘に、助ける!!そうだよなセレナさん・・・ッ!!」
タイタンは棒のようになった足で無理矢理に地面を蹴って前へと進む。
右手に持った剣が普段の何倍も重く感じる。汗で滑る柄をぎゅっと握りなおした。
ああ、彼女が隣にいてくれたら。額から汗が滴る。
どんどんと開いていく馬と自分との距離に焦る心。
タイタンは、今、セレナが隣に立って戦ってくれることを渇望していた。
「守ると、決めたくせに。はあ。情けないな、俺は・・・!」
だが、どれだけ祈ろうと彼女はここには来ない。彼女は今、ベッドで病に伏している。
タイタンの守りたい人はいつのまにか、かけがえのない相棒になっていた。
いつのまにか、彼女なしでは戦えなくなっていた。彼女が戦場に立つことを、あれほど嫌っていたくせに、自分はもう彼女が隣に立っていてくれないと、100%以上の力など出すことができないのである。
「・・・セレナさん。力を貸してくれ。頼む・・・!」
そう、祈ってしまった。
もし今振り返ったら、あの美しい銀色の翼がタイタンを運んでくれるのではないだろうか、あの頼もしい銀色の鎖が馬の足を搦め捕り少女を助け出すのではないかと、情けなくも希望に縋ってしまう。
そんなわけが、ないだろう。一度伏せられた楔色の瞳に、何か、見慣れた光が映った。
「・・・セレナさん。」
思わず、そう呼びかけてしまった。タイタンの右手に構えられた大剣の金色だったはずの光はいつの間にかセレナの瞳に似た、銀色の光を帯びて鈍い光を湛えていた。
「・・・・・・・ああ、成る程。そういうことか?」
タイタンは立ち止まり、腕をまっすぐ前に伸ばし、剣を横に構えた。
彼女は今ここに居ないが、だが、彼女がタイタンに託した思いは、今ここに、タイタンの右手に握られている。
そのことに気づいた時、ふっと緊張が解けた。
「単純な男だな、俺は。」
タイタンは自嘲気味に笑う。気づいた。自分の剣に必要なもの。今ここで、この剣に吹き込むべき命の形を。
彼女がいつか言っていた言葉が脳裏によぎる。
『タイタンが世界の形というものを強固にした時・・・一体どんな魔道を振るうのかしらね?』
これが答えだ、セレナさん。
タイタンの世界の中心にはいつもセレナがいた。タイタンの世界はセレナを中心に回っている。
『タイタンのお馬鹿!またそうやって靴下を脱ぎっぱなしにして!』
真っ白な頰を膨らませた怒り顔だとか。
『タイタンは本当に美味しそうにご飯を食べるわね』
にんまりと揶揄う様に笑った表情だとか。
『ふふ!タイタンはやっぱりお馬鹿さんだわ!』
タイタンを振り返った時に揺れた白いスカートだとか。
『駄目よタイタン。おイタは今日だけよ?』
頰を赤らめ、照れた様に笑った白鳥。自分が恋に落ちた、忘れもしないあの冬の日のこと。
「好きだ、セレナさん。愛している。」
未だ彼女にその思いを告げる勇気など無い。小さく呟かれた声はこの森に溶けて消え、セレナの耳に届くことなど無い。
だが、タイタンは、セレナが好きだ。
今こうして彼女の過ちに、我儘に振り回されているとしても、やっぱり彼女が好きだ。
彼女は塗り潰されてしまったタイタンの世界に差し込んだ光なのだ。
彼女の笑顔が好きだ。彼女が誰かを救うのを見ているのが好きだ。彼女の隣に立っているのが好きだ。彼女と共に食事をするのが好きだ。彼女の声が好きだ。彼女が好きだ。大好きだ。
彼女こそが俺の世界の、全て。
だが不思議と支配されているという不快さは全く無く・・・むしろ、それが心地よい。
初めて扱うというのに、その力はまるで使い慣れた武器の様にタイタンの肌に馴染んだ。
「止まれと、言っている、だろうがあああああ!!!!」
タイタンの腰から伸びた尾が衝撃に揺れる。
タイタンの手にした剣が、銀色に激しく光り輝いた。
そして、タイタンの袖から、何十本もの”銀色の鎖”が飛び出す!
「ーーーー!!」
タイタンの体から発射された鎖は一本、また一本と馬に向かって飛んでゆき、タイタンには到底詰められなかった距離を走り抜ける。
枯れた樹木の色で染まっていた森に、煌めく銀色が突き抜けてゆく。
それは、まるで虹の様な。
太陽を弾き返して強く輝く銀色の鎖は、秋色の森に虹の橋を掛け、漆黒の大馬に今、迫る。
「ぎいいいいいい!!!?」
大馬の足に、首に、大きな腹に。巻きついた鎖は大馬を転倒させた。
鎖まみれになった馬は突然の攻撃に目を回し、胴から地面に倒れ込んでしまった。
「いやーーーーーっ!!?」
夢遊していたタイタンの思考は、少女の金切り声によって現実に引き戻される。
レーシングカーも顔負けの速度で走り続けていた馬が急停止したのだ。その口に咥えられていた少女は大砲から発射されたが如く前方に吹き出される。
死んだ。少女はそう覚悟した。眼前に大岩が迫り、少女がぎゅっと目を瞑る。
「させるかーーーーーーーーーーッ!!!!!!!」
タイタンは馬に繋いだ鎖を、思い切り縮めた。馬の背中に向かってタイタンの体が飛んでいく。
まるでジェット機にでもなったかのようだ、と思った。あれほど遠かった馬の背中がもう目の前に。彼女はいつもこれほどの衝撃に耐えていたのかと、どこか他人事の様に思った。
「おらァ!!!」
タイタンはいつの間に足元になっていた馬の背中を思い切り蹴る。その瞬間一度馬を縛っていた鎖を消し、そしてそれを今度は少女に巻きつけ手繰り寄せる。
「・・・・あ、れ。」
硬い岩に叩きつけられ砕け散るはずだった少女の体は逞しい人狼の腕に抱きとめられた。
転んだ馬は気絶してしまった様だ。タイタンはただ、少女の瞳がゆっくりと開き・・・そして、タイタンの顔を、その耳から生えた毛むくじゃらの耳を映すのを待った。
「・・・・・。」
予想どおり、だった。少女の目がくるくると動き、そしてタイタンに生えた狼の耳を映した瞬間、恐怖に見開かれた。
「い・・・いや・・・・。」
「すまない。驚かせる気は無かった。」
タイタンはゆっくりと少女を地面に下ろしてやった。少女は恐怖で足をもつれさせ転び、タイタンから後ずさる。
「ば、化け物・・・・!」
胸が痛まなかったかと言われると嘘になる。この姿を見て動じなかったのは、秋島たちの肝が座りすぎていただけ。子供というものは彼らよりも遥かに純真で、残酷だ。
「そうだな、その通りだ。」
ここにセレナさんが居なくてよかった。この言葉を受け止めるのが、彼女よりも傷つきにくいタイタンだけで済んでよかった。
「別に俺のことをなんと呼ぼうと構わないが。話だけはきっちり聞かせてもらう。行くぞ。」
タイタンは再び鎖を少女に伸ばす。逃げようと暴れる少女を無理矢理引き摺り、タイタンは転移装置の方へと歩き出した。
北部に連れてきたのが間違いだった。タイタンは脛に残った青痣をさすりながら後悔していた。
「だからと言って!!そんな奴隷商人みたいな真似をする必要はないでしょう!!」
「っ、仕方ないだろ!!逃げられたら困るだろうが!!」
転移装置で北部に飛び、セレナの目につかないようにと少女を物置に連行したあたりで、嫌な想像で頭を支配され、遂に少女は大声で泣き喚いた。
ここで泣かれたら野生動物より面倒なものが飛んでくる。焦るタイタンの予想どおり、血相を変えたセレナが家からすっ飛んできて、幼い子供を鎖で引き摺るタイタンの姿を見るなり、彼を思い切り蹴り飛ばしたのだ。
「どうせいつもの調子で子供相手に怒鳴り散らしたのでしょう!?そんなことしたら私だって逃げ出すわよ!タイタンのお馬鹿、大馬鹿!!」
まるで子供を倉庫に閉じ込めて拷問しようとしたかのような言い草だ。不名誉にも程がある。
セレナに会わせない様にしたのはタイタンの気遣いだ。まず誤解を解き、これ以上彼女が子供に深入りしない様に止めなくてはならない。
タイタンはセレナを倉庫から引摺り出し、子供に聞こえない様小声で囁いた。
「・・・違う。子供が俺の耳を見て、化け物と怖がったから。あんた、傷つくだろ、そういうのは。」
セレナははっとして自分の羽根を手繰り寄せる。
薬が効いているうち、セレナは羽根を隠せないのだから。
いつもの調子で人助けをするのとは訳が違うのだ。
子供は気が動転して倉庫の中で泣き喚き、今はセレナに見向きもしていない。今のうちに身を引かせるべきだ。
これ以上彼女が子供の前に姿を晒すのは良く無い。もしあの子供がセレナまで化け物呼ばわりしようものなら、きっとタイタンも怒りを隠せないだろうし。
「・・・っ。でも、怪我してるわ。」
「いい。俺がやる。治療の魔道具を俺に寄越せ。あんたはこれ以上あの子供に深入りするな。」
タイタンはそれだけを言うとセレナの肩を自宅に向かって押した。だが、セレナの体はその場所を一歩も動くことはなく。
「・・・・・セレナさん。言うことを聞いてくれ。」
「あの魔導具は医療の知識があって初めて扱えるものよ。ただの魔道具と同じと思わないで頂戴。ただ闇雲に差し込めば治るというものではないのよ。」
「なら魔道具の治療はしない。応急処置の心得はある。」
「私が横で指示をするわ。貴方は魔道具を使って。」
水掛け論だ。セレナは一歩も譲らない。
「傷つくのはあんただぞ。」
「構わないわ。」
何が構わないだ。タイタンは反射的にそう返そうとし・・・やめる。
代わりに出てきたのは大きな溜息。
「・・・・・勝手にしろ。」
何かを助けようとする彼女を止めることなどできるものか。タイタンはセレナが自宅に治療道具を取りに走る後ろ姿を、目で追った後に物置へと戻った。
「タイタン、次はここ。」
「・・・・・。」
少女は困った様にセレナの羽根と、人間のものに戻ったタイタンの耳を交互に見つめていた。
それに気づかないふりをして、セレナは真摯に少女の体を観察し、的確にタイタンに指示を出す。
「こう、か?」
慣れないながら指先で魔道具に力を注ぎ込むと、どくどくと血を溢れさせていた掌の傷がやわらかく発光した後に塞がった。
成る程、魔道具といってもただ魔力を注げば良いのではないのだと、セレナが言った意味はよくわかった。
損傷した体の筋を辿る様に魔導で動線を引き、一種の魔法陣を描くことで体の治癒力を高めているのだ。体の構造、怪我をした時に弱る部位などを的確に把握できる医療の技量、医学の知識がなければこの魔導具は扱えない。
苦戦こそしたが、少女の足首から膝にかけてぱっくりと開いていた傷口は僅かな跡を残して塞がり、打撲で傷ついた腹部の筋肉は大方繋ぎ直した。
骨折をしていなかったのが幸いである。あとは体力さえ回復すれば少女は問題なく動き回れる様になるだろう。
「・・・どう?他に痛む場所はないかしら?」
「大丈夫。」
少女は案外素直にそう答えた。だがその瞳には未だ警戒の色が濃い。
「さて。動ける様になったなら話を・・・もご。」
「貴方は。口を開かないで頂戴。怖いもの。・・・貴方の、お名前は?」
ムッとするタイタンは、しかし素直にセレナの言うことを聞いて口を閉じる。少女はそっぽを向き、セレナに目を合わせないまま答えた。
「シンハ。」
「ふふ。ありがとうシンハ。その・・・シンハはどうやってこの森に入ったの?その、このお兄さんが言うには、貴方は最初はこの辺りに居て、それから転移装置を使って南部に移動したのでしょう?」
そう。少女・・・シンハの侵入経路は不可解なのだ。森の中心に近いこの家の近辺に、森の外と通じる場所はない。どんなルートを辿ろうと、この小柄で痩せ細った少女が生きてここに辿り着けるはずなどない。そういう難攻不落の土地だからこそ、セレナはここに家を構えているのだから。
「わかんないよ。ずっと霧の中を迷ってて。やっと霧がなくなったと思ったら罠が出てきて。なんか変な機械に触ったら全然知らない場所に居て。そしたらお兄さんと馬が追っかけてきた・・・。」
「・・・霧だと?」
口を閉じろ。セレナが振り返ってこちらをぎろっと睨む。
「・・・こほん。ええと・・・シンハはこの辺りの集落の子なのかしら?」
「ネピドの村。知らない?」
「ごめんなさい、知らないわ。その・・・できればすぐに貴方をお家に帰してあげたいのだけど。貴方も霧の中を来たならあの中を進む難しさは分かるでしょう?あの霧の先にあるものについて、私たちは多分、シンハより無知なのよ。」
セレナは申し訳なさそうにそう言った。シンハの丸い瞳が一度不安に見開かれ、そしてすぐに無感情に整えられた。
「べつに、いいもん。村の人のことなんか知らないもん。シンハのことなんかどうでもいいんだから。」
「・・・何かあったの?」
「・・・・・・・。」
それきりシンハは黙ってしまった。いくら羽根や耳のことがあったとはいえ、シンハがここまでこちらに不信感を抱いてしまったのはタイタンの態度も原因の1つ。
こんなことになるならシンハを蹴落としたりしなければよかった。
「とりあえず、私たちのお家にいらっしゃい。貴方は嫌かもしれないけれど、ゆっくりご飯を食べて、今日は寝てしまいなさいな。」
セレナがシンハを自宅に促すと、シンハは素直にそれに従った。だがセレナの伸ばした手は握られることなく、シンハは家に着くなり夕飯も食べずに、与えられた作業場のベッドにさっさと潜り込んでしまった。
「東部から来たとなると、帰してあげるのは大変だわ。あっちは本当に行ったことがないの。どうしたらいいかしら・・・。」
食卓に突っ伏してセレナはぱたぱたと羽根を揺らしている。
「集落の人間が迷い込むこと自体は珍しいことじゃないのよ。でも大体の人は森を迷って命を落とすか、その前に私が見つけて上手いこと追い返しているの。多少なら森の資源を持ち出すことも許しているし。だけど・・・いくら魔導が使えるといったって、こんな深い場所までただの子供が迷い込んでくるなんて初めてだわ。」
「・・・ただの子供なもんか。あの縄を魔導で引きちぎって逃げる様な子供だぞ?それに、なんだあんた。まさかその体調で東部に行くとは言い出さないだろうな?」
タイタンがじっとセレナを睨むと、やはり図星だったようで。セレナは一度気まずそうにタイタンから視線を逸らしたが、毅然とタイタンを睨み返した。
「早く帰してあげないと可哀想でしょう?集落の人だって心配しているわ。いざとなったら薬を飲むのをやめて・・・。」
「それで、どうする気だ。霧の中で突然眠って、方角がわからなくなるのがオチだろ。」
うっ、と黙り込んだセレナが再び口を開く前に畳み掛ける。
「俺1人で行け、というのも無しだぞ。あんたの体がどうなるかわからん以上、俺はテコでも動かん。どうにかしたいならせめて秋島が戻るのを待て。秋島の薬とやらを飲んで、あんたの体がどうなるか。それが落ち着くまで東部に行くのは絶対に認めん。」
「・・・む、う。その間あの子をずっとここに置いておく気?可哀想よ。私たちのことが怖いでしょうに・・・。」
「仕方ないだろ。子供の扱いは得意そうじゃないか。もう少し一緒に暮らしていれば打ち解けられるさ。話ならその後に聞けばいい。」
そう言ってタイタンはしゅんしゅんと鎖を振った。話は終わりだ、と言わんばかりに彼は鎖を使って食料庫から冷やした茶を取り出す。
「・・・それにしても。本当に悪趣味ね貴方。よりにもよって私の魔導を真似るなんて。」
「俺が一番頼りにしている魔導だからな。この鎖が側にないと安心して戦えないんだ。」
本心は、まだ打ち明けてやる気はない。彼女がタイタンに心を打ち明けてくれない限りは、タイタンだって自分の一番大切な感情を彼女に明かしてやる気などないのだ。
「・・・本当に、悪趣味。」
そう言ってそっぽを向いてしまった彼女に、
「言ってろ。」
タイタンはニヤリと笑い返してやったのだ。
その夜、セレナはふと目を覚ます。薬のおかげで深く眠ることがなくなったおかげか、いつもぼんやりと微熱が出ているせいか、薬を飲み始めてからはこうして夜中に一度目を覚ましてしまうことが多かった。
がた、ごそ、と台所、いや、玄関から音がする。
タイタンだろうか。いや、タイタンの気配は彼の部屋からする。
ならば。嫌な予感でベッドから跳ね起きたセレナは慌ててドアを開き、ぼろぼろ布鞄いっぱいに冷蔵庫の食料を詰め込んで逃げ出そうとするシンハの栗毛を見つけてしまったのだ。
「・・・ま、待って!シンハ!」
小さな子供の影が脱兎のごとく玄関を飛び出して行く。それを衝動的に追おうとし・・・セレナは踵を返し、タイタンの部屋の扉を開いた。
「た、タイタン!その、ごめんなさい!起きて起きて!!」
遠慮がちに揺すったところでタイタンは起きる気配もなく。セレナはタイタンに馬乗りになってぼこぼこと体を叩く。
「んえ・・・って、せ、セレナさん!?あんたなにやって・・・・ッ!!」
「顔を赤くしないで!!変な勘違いをしないで頂戴ッ!!」
セレナはまだ寝ぼけているらしいタイタンの腹に最後の一発をお見舞いした後に、ベッドを飛び降り、外套を彼の布団に投げた。
「シンハが逃げたの!!こんな夜中に子供が森を出歩いて無事で済むはずないわ!!」
「!!」
「悔しいけれど、今は貴方なしではどうにもできないもの!急いで支度をして!」
それだけを告げるとセレナはタイタンの部屋を飛び出す。
どうせ彼の足ならすぐに追いついてくる。セレナは慌てるタイタンを置き去りに家のドアを開け放ち、駆け出した。
幼い子供の頃、何度もお母様から逃げ出そうと夜の森へと脱走していたセレナはよく分かっている。土地勘の無い人間が夜の森を出歩くことがどれだけ危険で、そういった弱い人間にこの森はどれだけ容赦なく牙を剥くのかを。
「シン、ハ!!待ちなさい!!」
セレナはシンハの向かった先・・・東の方向へまっすぐに走り出す。
霞みがかった満月が、もうすぐ雨が降り出すことを彼女に教えていることにも気づかずに。




