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死とは終わりのない停滞である

保護区での動乱の後、セレナたちは怪異の森へと帰還した。

半月近く家を空けるのは、長く住んでいるセレナも初めてのこと。

自宅の食料庫は無事だろうか、何者かに荒らされていないだろうか、と心配していたが、放ったらかしにしていた自宅は・・・まるで時間が止まっていたかのように、あまりにも「そのまま」だった。

例え自分がいなくなろうと、この森はずっとこのままなのかもしれない。

平穏に、平和に。ちっぽけな自分なんかがいなくても、この森はありのままに生命が循環していくのではないかと錯覚してしまう。

だってこの森は偉大なる尊き大魔導士の加護の元にあるんだもの。

・・・2週間ちょっと放っておいたくらいで何も変わるわけがないわ、と。

必死に生態系を守ろうと戦ってきた自分が、少し惨めになるくらいには。












肌寒い季節になってきた。だが長く森を空けていたせいで秋の支度が全く整っていない2人は、夏の夜用の薄い上着を羽織って生活をする羽目になっている。

「・・・まだ起きないのか?」

「もうちょっとだけ・・・ふあ・・・。」

震え上がるような極寒というわけでもない、すっと頭が冷え渡るような秋の気温がセレナは好きだ。この時期の朝の温かな布団も。無骨な指先が食ってしまった髪の毛を優しく取り払う。

「秋の準備をしないと、って言っていただろ。そろそろ朝食にしよう。スープとパンくらいしか用意していないが。」

なるほど、自分のベッドの端に腰掛けたタイタンの服からコンソメのような香りが漂うのはそういう訳だったか。ぼんやりとセレナは考える。

鍛錬を終えたあとシャワーを浴びた朝の彼からは、いつも石鹸の良い匂いがする。それに混じった料理の匂いが、寝惚けたセレナの意識を再び微睡みに沈めてゆく。

「・・・髪、伸びたな。切らないのか?」

短く肩で切り揃えていた髪は、季節が移り変わるうち、いつのまにか肩甲骨のあたりまで伸びていた。

「面倒よ・・・結べば良いもの。」

「耳を見せるのは嫌じゃなかったのか。」

ごそごそ。寝返りを打つ音。

「貴方しか居ないもの。いいじゃない・・・。」

秋という季節のせいか、保護区での疲れがいまいち抜け切らないせいか。最近のセレナは猫の様に怠惰だ。

いつもは鍛錬を終える頃には起きているセレナが、こうして朝食の時間まで起きてこなかったり。いつもは作業場に篭っているはずの時間に、ソファで寝転んで目を閉じていたり。

料理担当は彼女だったはずが、だんだんとタイタンが食事を用意することが多くなった。

まるで死んだ様だ。不吉な考えを頭を振って払う。

あんたは確かに面倒臭がりでガサツなところがあったけれど、ここまで怠惰ではなかったはずだろ。

ここは怪異の森。自然の中で生きる我々に怠惰など許されるものか、と。

こうした時に彼女を叱り飛ばすのが、タイタンの役目のはずだったが・・・今回ばかりは不思議とそれができず、彼女を甘やかしてしまうのだった。

「・・・もうちょっと寝たら起きろよ。先に食ってる。」

誰より一生懸命にセレナを見てきたのは自分だ。彼女の変化には誰より敏感なつもりでいる。いや、そうでなくてはならない。そんな自分の勘が、騒めくタイタンの焦りをそっと宥める。

今は、そっとしておいた方が、良い。

自分にそう言い聞かせて、タイタンはセレナの部屋を後にした。






鼠色の空。ぼんやりと曇った思考に鞭打ち、タイタンは薄い上着を羽織った。

セレナが朝食を食べ始めたのを見届けて、タイタンは外に出かけてゆく。

冬用の服なら以前のものがあるが、程々に防寒のできる秋用の衣服は持っていない。裁縫は未だ全くできないタイタンは、せめてセレナを手伝おうと布地を管理している倉庫へ布を見繕いに歩き出したのだ。

間も無く紅葉が始まるのだろう。比較的針葉樹の多いはずの北部でも、ちらほらと赤や黄に色づいた樹木たちが見受けられた。来週頃に南部に出かければ、きっと素晴らしい紅葉が見られるに違い無い。

「紅葉が終われば、冬か。ここに来て、もうすぐ1年になるのか。」

長いようで、とても短い時間だった。1年近く経つというのに、結局セレナとの距離感もそれ程変わって居ない。タイタンがここを出ていくような大喧嘩も、逆にセレナと急激に親密になるような甘酸っぱい出来事も起きることなく、ただ平坦に2人の間を1年が過ぎ去ろうとしている。

日に日に熱を上げてゆく恋情に耐えられず、あまりにも苦しくて、ああはやく彼女を自分のものにしてしまいたいと叫んでいたはずだった。今もそれは変わらない。だが、それと同時に、唯、こうして彼女と共に重ねる時間が愛おしく思う。

まるでこの森の紅葉のよう。一粒の種子に過ぎなかったこの気持ちは芽生え、大きく葉を広げ、そして燃え上がる様な赤い色をつけた。かけがえのない友人から愛しい人へと、2人の関係が少しずつ色を変え移ろうこの時間を、ただゆっくりと慈しんでいたい。

「ずっと・・・こうしていられたら、良いんだがな。」

それでもタイタンはセレナを急かさねばならない。タイタンの部屋に置いてある通信端末には、サングラスを返せ馬鹿野郎と、保護区から秋島がここを訪れる旨を記したメッセージが既に届いていた。

彼女がいくら留まりたがっても、既に事態は動き始めている。

そして、1年、という時間にはもう1つ大きな意味がある。

「期限は、迫ってる。・・・時間が切迫すれば、記憶のことを隠しきれなくなる・・・。」

タイタンの記憶を維持できるのは1年だけ。それを過ぎればタイタンはセレナのことを忘れ去り、脳に無理矢理ねじ込まれた2000年前の人類たちの記憶に脳を侵食され、発狂する。

そのことさえセレナに告げれば、きっと彼女も死に物狂いで計画を進めようとするのだろうが・・・狼がそれを禁忌だと止めた。ならばきっとそうした方が良いのだ。

彼が止めるのならきっと深い理由があるのだろう。どうして、と考えることさえすれど、それに逆らうほどの理由は今の所タイタンにはなかった。

だからこうして、セレナの調子が回復するのを待っているのだが。

「・・・はあ。どうしたら良いんだろうな。」

今までは、自分の生存以上にセレナの尊厳や生存が大事だった。絶対に間に合わせると決意してはいたが・・・もし計画が間に合わなかったとしたら、迷惑になる前にここを去ろうと決めていた。

彼女さえ生きていてくれれば良かった。例え自分が記憶を失うことになろうと、計画が彼女の人としての尊厳を奪うものであるならば、タイタンは迷いなく自分を切り捨てる覚悟でいた。

・・・だけれど、タイタンは、もしもその時が来てしまったとしても・・・自分がここを去ることなどできないと気づいてしまった。

「・・・2人で、生きたい。彼女の未来に俺が居ないのは、耐えられない・・・。」

セレナの隣で生きていたい。出会った当初から口にしていた願いはどんどんと膨れ上がる。

セレナをここに1人で置き去りにはできない。大切な人に再び置き去りにされた彼女が一体どれほど傷つくのか、長くなった付き合いでより強く理解できてしまった。

2度と誰も殺さなくても良い世界を、2人で生きるのだと、彼女と約束したのだ。それを裏切ることは、今のタイタンにはもうできない。

「全貌すら見えない計画に縋り続けるのはもう限界なんだ、お互いに。秋島の言った通り。俺たちが必死に縋っているものは何の信用もできない夢物語だ。何か・・・せめてひとかけらでも、計画について知ることができたなら。」

時間が切迫して来た今、多分、このままでは間に合わないだろうという予感がある。

安息を望む彼女を、大きく変える決定打が必要だ。

その一投を胸の内に秘めながら、タイタンは悩んでいた。

「・・・クソ。無茶でも通すのが俺の数少ない美点だろ。」

露に濡れた靴底が枯葉を踏み、小気味好い音を立てる。

間も無く保存食用の倉庫だ。それを通り過ぎてもう少し歩けば、生活雑貨を詰め込んでいる小屋がある。

「・・・ええと。風景が変わって分かりにくいな。食料庫は・・・あっちか。」

家の周囲にいくつか分けて設置されている食料庫は、それはそれは厳重に管理されている。

塹壕のように地面に掘られ、魔導で蓋をされた食料庫。それだけでも十分なくらいだというのに、その上、セレナは注意深く食品の匂いを消し、ただの自然の土山にしか見えないように丁寧に埋め、食料を隠している。

食料がここにあることを、万が一にも森の動物に勘付かれてはならないからだ。

魔導の使えないタイタンは、セレナの許可なしではここを開けることすらできない。そのくらい、ここは森での生活に大切な、厳重に管理された場所であるのだ。

「・・・ん?」

枯葉が不自然に退かされている。食料庫の真上に、真新しい掘り返し跡があった。

森に帰って来てから、2人は一度もここを訪れていない。およそ半月放置されていたはずの食料庫に、明らかに意図的に誰かが蓋を開けた跡があった。まさか。

タイタンは土の下から覗いている木の板に手をかける。セレナの魔導の許可がなくとも、その板にタイタンは触れることができた。

「・・・やられてる。穀物と固めた蜂蜜が軒並みか。」

山積みにしてあった小麦と米の袋は破られ、倉庫内に食い荒らされた穀物が散乱していた。

冷やし固めていた蜂蜜瓶が割られ、べたべたと床に散乱している。

塩漬けにしていた肉類や野菜は食われていないが、これらは熱湯消毒した瓶に入れることで長期保存を可能にしている代物だ。いくつか瓶を割られてしまった塩漬け野菜は虫が集り、もう駄目になっている。

「この食い方は間違いなく動物だな。多分草食の生き物だ。」

タイタンは顔を顰める。小麦を入れる倉庫はいくつか分散させていたが、ここは特に穀物類を多く保管した倉庫であった。

これが昨年の穀物だからまだどうにかなったというもの。2人は明日にでも今年の穀物を収穫し、この倉庫に纏めて仕舞ってしまおうと話していたばかりだ。

少しでもタイミングが遅れて、今年収穫した小麦まで軒並み食われていたら・・・想像するのも恐ろしい。

「・・・はあ。服よりこっちが先だな。」

タイタンはとりあえず蓋を閉め、急いで来た道を引き返した。




「・・・ああ。成る程ね。見て。装置が少し潰れているわ。」

セレナが指差す部分を座り込み覗き込めば、穴の底で、グリムメタルの複雑な金属部品が僅かに歪んでいた。

食料庫の真横に埋めてあった魔導鍵の装置が潰れ、回路がうまく回らなくなり、食料の匂いが倉庫の外に漏れ出した。

食料庫が動物に見つかってしまった原因は間違いなくこれだとセレナは言う。

「土に埋めた装置がどうやったら潰れるんだ?」

「保護区に行く前に、装置を点検したわ。装置がうまく魔導を拾ってくれなくて、その時は時間がないから応急措置で・・・少しだけ浅い位置に装置を埋めなおしたのよ。それを秋の鹿がたまたま見つけてしまったのでしょう。」

自分の浅慮悔いたのは一瞬。過去を悔いることで明日の飯が食えるわけではないのだから。

セレナはそっと木の陰を見る。消えかけだが確かに残った蹄の痕は間違いなく鹿の子のもの。それを辿ってみると落ち葉の陰に乾いた鹿の糞が落ちている。

「鹿は寝床に穴を掘る生き物だもの。浅く埋められた装置を掘り当て、踏みつけて、それで装置が歪んだのだと思うわ。でも、鹿たちがわざわざ私たちの縄張りに踏み込むなんて・・・。」

セレナは考え込む。家に呼びに行った時は食卓でぼんやりとスープを啜っていたが、段々と頭が回ってきたらしい。森のプロは流石である。

「猪はともかく、鹿たちはこちらに踏み込まないからな。」

「鹿たちは危機意識が高いぶん、特に魔導に敏感よ。・・・タイタン、蓬山の鹿に異常はなかったかしら?」

確かに、朝の鍛錬の時。普段は蓬山で眠っているはずの鹿たちが1匹もいなかった。

冬になると鹿たちは東に帰るのだと聞いていたので、もうそんな季節なのかと思ったのだが。

「まだそんな季節ではないわ。初雪はずっと先だもの。」

セレナは立ち上がり膝の土を払う。真っ白の綺麗なカーディガンが土で汚れてしまっている。

「・・・蓬山の鹿に何かあったのだろうか。」

「初めてのことではないし、大丈夫。予想はつくわ。」

「予想?」

セレナが歩き出したのは蓬山とは反対の方向。東方向へと。

「まさか東部に行くのか。」

「そこまでは行かないわ。多分もっと手前に、鹿が屯しているはずよ。」

セレナの言った通りだった。突然踏み込んで来た人間たちを見て、何事かと驚き逃げ去る足音。

比較的自宅に近い地域だというのに、見たことのない黒い毛色の鹿たちが、見かけただけでも数十頭。

「お、多くないか!?」

10分に1頭は確実に見かける。人慣れしている蓬山の鹿はともかく、その他の野生の鹿など1日探して見かけるかどうか、というレベルだったはずなのだが。

「恐らく、東はもっとよ。・・・鹿が増えすぎたんだわ。東の鹿たちが、東方に居場所をなくしてこちらまで逃げて来たのね。」

元々蓬山の鹿たちもそうやってこちらに住み着いたらしい。東で権力闘争に負け、居場所がなくなりこちらに逃げて来た。どうしても寒さに耐えられない冬だけ仕方なく東部に帰り細々と暮らし、春になるとセレナの元へとまた逃げ込んでくる。

「じゃあ、蓬山の鹿はこいつらが怖くて隠れているのか。自分たちのせっかくの逃げ場に故郷の鹿たちが踏み込んで来たから・・・。」

「北部でイノシシが増えていたのも、ひょっとしてこれが原因だったのかしらね。東部の餌場が枯れるのを見越してこちらに・・・。まさかイノシシが霞むほど鹿が増えていたとは思わなかったけれど・・・。」

最初こそ蹴られたり一悶着はあったが、1年近く、毎朝鍛錬のたびに見守っていた連中である。

最初にタイタンに懐いた子鹿は、夏に立派な角を生やし、先日可愛らしいお嫁さんを見つけた。鹿の長老が亡くなった時には、鹿たちと一緒に墓を作ってやった。

彼らが困っているなら、なんとかしてやりたい。彼らはよそ者のタイタンを受け入れてくれた良き友人なのだ。

「一応。・・・放っておいても、問題はないわ。実害がないわけではないけれど・・・今でさえ東の鹿は飢えているもの。きっと多くの鹿はすぐにやって来る厳しい冬を越せないわ。そうして多くの鹿が冬に死んで、生態系は正常になる。鹿が食べすぎた木の芽もドングリも、そのうち元どおりになるわ。・・・だけど。」

「もともと立場の弱い蓬山の鹿たちは・・・絶対に冬が越せない、か。」

そう珍しいことでもないとセレナは頷く。

東部の実態は謎に包まれているが、恐らくは鹿を食う肉食の羆や狼が居て、草食の鹿が居て、鹿が食べるドングリなどの植物がある。

鹿たちを食らう肉食動物のボスが亡くなると、鹿が一時的に増える。増えた鹿に食われた植物が減り、鹿が減る。増えた鹿を食い、増えた肉食動物に食われて鹿が減る。鹿が減ると肉食動物が減り、植物が増える。

何年も時間をかけてこの循環を繰り返すのが自然の摂理。当たり前のこと。今回は規模が大きいが・・・それ自体はセレナは何度も見守ってきたことだという。

「多分去年ごろに、大きな肉食動物が亡くなったのね。それで、今年の春に鹿が増えすぎて・・・1年かけて東の植物を食い尽くして、ついに今困窮したのよ。今からどうにかしてあげられることではないわ。私たちにできるのは、少しでも東部の鹿を狩って、残った鹿が生き延びる確率を上げることぐらい。・・・それでも、いいかしら?」

「やろう。ついでに計画の手がかりが見つかれば御の字だ。」

セレナたちは狩りの準備と、壊されてしまった食料庫の修繕のため引き返す。




狩ると言っても食べられる範囲で。いくら鹿を守るためと言っても無用な殺生は控える。

2人が普段食べている肉類は、南部に仕掛けた狩猟罠のものが主。その罠を一度取り払い、これからは自分の手で狩った北部の鹿を主食に据えるように変える。容赦なく鹿の捕獲を行うのは嫌だと言ったタイタンにセレナが提案した折衷案がこれだった。

その気になれば鹿を減らすことなど容易いだろう。鹿の群れに違和感なく紛れこめる監視機械。一度に沢山の鹿を縛りあげられる魔導縄。自然の団栗と見分けのつかない毒餌。セレナが取り出して来た罠の数々はどれも大変効率的にたくさんの鹿の命を奪うことのできる代物だった。

だが、その容赦のない殺戮機械の数々を見た途端、なんだかとても恐ろしくなって・・・タイタンは、それを仕舞う様にセレナを咎めてしまった。

自分の決めて居たはずの線引きというものをこのまま進んだら踏み外す。このまま進んだら彼女の隣に立つにふさわしい人間ではなくなる。そんな気がした。

「鹿たちだって生きたくて必死なんだ。異常事態と言っても、狩りのルールに反することはしない。」

「それでいいのなら、構わないけれど・・・」

仲の良い鹿だけを守りたいということ自体が我儘なのだ。形こそ違えど、命に手を加えるという点においては、お母様とやっていることは変わらない。

「過去の人間たちだって自然保護のためにやってきたことだわ?外来の生き物が増えすぎて自然を荒らすから、それを一匹残らず捕まえたりだとか・・・。これは森を守るために必要な行為、貴方が罪悪感を覚える必要など1つもないわ?」

「放っておいても森が滅ぶわけじゃないなら、問題ないだろ。」

あんたはそれでもいいかもしれないが。タイタンは狩用の槍を肩で鳴らす。

「・・・俺がそうしたいだけなんだ。あんたには悪いが、俺の我儘に付き合ってくれないか。」

「別に良いと言っているでしょう、貴方の言うことも理解できるもの。確認がしたかっただけだわ。」

彼女はそう言いながら、どこか安堵している様に見えた。

今日のセレナは髪を結い上げ、動きやすい膝丈のズボン姿だ。茂みを歩くのに足は出さない方が良いと思うのだが、肌がかぶれるよりも無駄な布がある方が嫌なのだそうだ。

普段は力強く地面を踏みしめる細脚が、今日は何だか妙に頼りなく。それがタイタンの目には酷く艶かしく映った。

「・・・私が動きを止めるから、貴方は鹿を気絶させて頂戴。」

「・・・ああ。」

早速遠方に、寝転んでいる鹿が見える。セレナは息を殺し、鹿の居る方向にそっと鎖を飛ばした。耳元に吹いた一陣の風に、セレナがびくりと体を揺らす。それに呼応するように鎖が一度ちゃきりと鳴いた。

「・・・・・あ。」

勘付かれた。鎖は空を切り、驚いた鹿は脱兎の如く走り去ってゆく。

「・・・・・・・・・むう。」

しゅん。第二投の鎖が鹿を追いかける。

「追うな追うな。そんなもんだ、狩りなんて。場所を変えよう。」

ムキになりかけたセレナの肩を叩き、促す。鹿を追った鎖はセレナを宥めると、仕方ないわね、と言わんばかりの態度で彼女の元へと帰って来る。

「たまたまよ。たまたま。ええ。東部の鹿はすばしっこいのね。あまり狩り慣れていないのだから仕方ないわ。ええ。」

「そんなに必死に言い訳しなくても。俺に森の狩りを教えたのはあんたなんだからさ。」

昨年の冬。百発百中で鹿を次々狩り、彼女の二倍の大きさはあるだろうという巨大な熊を打ち倒し。・・・家の前の雪山に肉を次々と山積みにして自慢げに笑った彼女を見て、出会ったばかりのタイタンは思わず絶句したのをよく覚えている。

弘法とて筆を誤ることはあるのだから。今更そう必死に言い訳せずとも、彼女の狩りがどれほど正確で苛烈なものなのかはよく知っている。それに。

「・・・やっぱり調子が良くないんだろ。」

こうして何度も戦場で背中を預けていれば、彼女の言う「鎖が鈍る」様は見てわかる様になってきた。保護区でロータスと戦っていた時は、まるで大蛇の様に滑らかに空中を滑っていた鎖が、今は油を挿すことを忘れた機械の様。

先ほどの一投は金属輪がぎしぎしと軋み、今にも砕け散りそうなのを必死に堪えている様にすら見えた。

それに加え、狩りの作戦を話し合っている最中すらセレナの目はとろんと溶けて、今もぼんやりと空中を見つめて居る。狩りの最中に彼女がこれほど集中を切らすなどあり得ない。本調子でないことくらいすぐに見抜けた。

・・・それはやはり図星だったようで。流暢に言い訳していた小さな唇は、ぐう、と一言音を漏した後に黙した。

「保護区では至って普通に見えたんだが、俺の勘違いだっただろうか。」

「あの時は本調子だったわ。でも・・・ここに帰って気持ちが落ち着いたらまた魔導がぐるぐるして、何かをするとすぐに眠くなって・・・駄目ね。こんなことでは、駄目だわ。」

別に、悪いことではないと思うのだが。

迷うことぐらい誰にでもある。セレナが何を迷っているのか語りたがらない以上安易なことを言うつもりはないが、その程度で迷惑に思うほど器の小さい人間ではないつもりだ。

「戦場に立つ土壇場まで不調を黙っていたらそれはよくないが。今は狩りとはいえ、慣れた近所の森だ。命の懸かった戦場でもなんでもないんだし、そこまで自分を責めることはない。・・・それに、そういうことはもうしなくなっただろ、あんた。」

保護区でのセレナは・・・正直よくやったと思う。あの短期間で魔道具開発を完了させた根気といい、真っ先に秋島や女帝と打ち解け警戒を解いた手腕といい。戦闘においても魔導のプロの名に違わぬ活躍をしてみせた。

最後の最後で計画を台無しにしかける危うさこそあったが、あの怒りは当然のものであるし、ディアンの言った通り、立場が逆ならタイタンだって全く同じことをしていたのは間違いないので、そう強く責めることはしない。

・・・などと、自分が女帝に剣を向けて大騒ぎを起こしたことをすっかり忘れ去っているあたりが彼らしいのだが。

「こうして森の安寧を手に入れ、保護区から協力を取り付け、保護区の人々を救う手助けができたのは、あんたの尽力があったからだ。多少の不調くらい、いくらだって跳ね返してここまで来ただろう。そう不安に思うことなんかないさ。」

「・・・それは、分かっているわ。大丈夫。そのくらいで負担に思う貴方ではないのはよく分かっいる。そうじゃ、なくて。」

愛しの月光が憂いに震えていた。こくりと飲み干されてしまった言葉の続きは、どれだけ待っても続くことはない。





しばらく右へと歩いてゆくと、急に視界が悪くなる。

霧だ。ここはもう東部の入り口なのだ。先ほどまで歩いて来た方向すら見失いそうになる深い霧。突如2人を包んだ異常にタイタンは思わず身じろぎした。

「碌な装備もしていないんだもの。今日は東部に踏み込むのは無しよ。引き返すわ。」

「この霧が晴れることはないのか?」

年中霧が立ち込めているなど、普通はありえないことのはずなのだが。

「どうなのかしら。もともとそういう地形だとお母様は言っていたけれど・・・お母様が嘘を言っていたとはあまり考えたくないわ。」

確かに周辺に比べると高地ではあるが、それでも一年中霧がかかっているなど異常以外の何ものでもないはずだ。タイタンはじわりと湿った頬を一度拭い、歩いて来た方向をそのまま引き返す。

だがその霧の向こう、一頭の鹿が首を大きく伸ばしたのをタイタンの目は見逃さなかった。

「・・・やれるか?」

セレナは今度こそ慎重に、鎖を鹿の足へと巻きつける。

キュイイ。

的確に放たれた鎖。今度こそ無音で迫った鎖に気づくことはなく、鹿は悲鳴と共に地面に倒れ込んだ。

「ありがとう。そのまま逃さないよう押さえつけていてくれ。」

鹿が暴れないようゆっくりと、タイタンは歩み寄る。

「・・・・・。」

最初こそ逃げようと大暴れしていた鹿は、目の前に槍を持った大男が現れたことで観念したのか怯えたのか、ぴくりとも動かなくなった。

くるりとした丸い目。若い雌鹿のようだ。

愛くるしい表情は、あの蓬山の若い雄鹿の番を思い出す。

「・・・大丈夫だ。なるべく苦しませない。」

鹿は一度だけ、逃げようとした。だがセレナの鎖に引き戻され、無念にもずるずると前膝を地面に擦ることとなった。引き戻された鹿はタイタンの目をじっと見つめた。

諦めたのか、運命を受け入れたのか。いや、そんな想像は人間のエゴだ。

タイタンは思考を振り払い・・・暴れる鹿の脳天を槍の柄で叩いた。

パシイ!!

乾いた音が鳴る。鹿は一撃で気絶した。そして。

「・・・・・。」

心臓をひと突き。手に肉を抉り抜く鈍い感覚が走り、悲鳴を上げることすらなく鹿は絶命した。

「お見事。」

ぐったりと脱力した鹿の体から命だったものが零れ落ちてゆく。

先ほどまで可愛らしく震えて居た鹿から今確かに、命が欠落した。

「・・・・・っ。」

タイタンは妙に軽くなってしまった鹿の体から槍を引き抜く。

どこか遠く、哲学的な世界へと飛んでゆこうとする思考を、一度大きく息を吐くことで地面に縛り付ける。

引き抜いた槍は鹿の血で真っ赤に染まっていた。

それを一度じっと見つめ。地面に置く。

「・・・・・・。」

タイタンとセレナは膝をつき、鹿にそっと手を合わせた。手を合わせ、瞼を閉じ、そしてもう一度開いた時に・・・タイタンは、ああやはり、セレナの提案した魔導での大量殺戮を断って良かったと思った。

彼女なら、例え魔導装置に数多の鹿をかけたとしても、その一匹一匹の悲鳴を胸に刻むことができるのだと思う。だが、自分にはきっとそれはできない。自分はその気になれば眉ひとつ動かさずに、何の罪悪もなく命を奪える人間なのだから。

これから人間、動物、数多の命を奪いながら歩んでゆくのだとしても、奪った命のひとつひとつに向き合うことだけは辞めてはならない。

セレナの様に、ごく当たり前に奪った命に心を痛められる人間でない自分には、こうした線引き、儀礼・・・無理矢理にでも心を痛める時間というものを用意することが必要なのだ。

痛むことを忘れたが最後、自分は真に化け物に成り果てる。

「・・・ふう。少し戻れば川があるわ。そこで内臓を抜いて冷やしておきましょう。」

「わかった。担ぐから案内してくれ。」

ぼと、ぼと、鹿の胸から滴り落ちる血液が服を汚す。

引き返すうちに、煙の様に濃かったはずの深い霧は、少し、また少しと晴れていった。





まず、鹿の後ろ足を棒に括り、それを太い樹から縄で吊るす。

こうしたほうが血が腹に残りにくいし、腹を捌きやすい。

「セレナさん、布を貸してくれ。ナイフが滑って怪我をしそうだ。」

「はあい。」

セレナは穴を掘り、残滓となってしまった鹿の内臓を埋めていた。

どの鹿も飢えていたせいか、内臓を食うには小柄すぎる。心臓を焼いたものがタイタンは好きなので、それだけを確保して今回は残滓にすることに決めた。

「その子を捌いたら少し休みなさいな。」

横の川には既に4頭、内臓の抜かれた鹿が水に沈められ冷やされている。とりあえずこの鹿が終わったら、あとは自宅で処理を行えば良い。

セレナから渡された布で手とナイフを綺麗に拭き取り、タイタンは鹿の真っ白な腹にナイフを突き立てた。

「蜂蜜飴でいい。くれ。腹が減った。」

「持ってないわ。お昼ご飯は家に帰るまで辛抱して頂戴?」

肛門側から丁寧に腹を切り開いてゆく。腹の中は指が痺れる様に酷く熱い。その熱い腹の中にタイタンは手を突っ込み、内臓を取り出した。

肉と繋がった管を一本一本ナイフで切り離す。最早手慣れた作業ではあるが、柔らかな鹿の白い産毛の腹に、引き摺り出されたグレーとピンクの内臓たちがだらんと垂れ下がる様は酷くグロテスクで、正直何度見ても慣れない。

「・・・・・ふう。」

肛門を丸く切り取り、内臓を鹿の体から切り離す。今回は鹿の腹にそこまで血も残らなかった。

処理を上手くできたことにタイタンはほっとする。

ここまで手早く獲物を処理できる様になるまで、いったい何頭の鹿の命を駄目にしたやら。

血の処理に失敗した獣の肉の味がどれほど酷いものなのか、できれば2度と味わいたくないものである。

タイタンは軽くなった鹿を川へと沈めた。

「涼しい季節は焦らなくて良いから楽だな。多少手間取っても腹が膨れてくることがあまりないし・・・。」

「虫も集らないものね。・・・あら。」

セレナはとことこと歩き出し、茶褐色の木の根もとにしゃがみこむ。

「どうした?」

「ふふ、今度はキノコ狩りに来ましょうか。この辺りは湿っぽいせいかキノコが多いのよね。」

セレナが枯葉をめくると、そこには黄土色のキノコが2本生えていた。

「チチタケは傘の裏に白い粘液がつくの。ほら。」

キノコをもぎ取ったセレナの指に、まるで乳のような白い液体が付いている。

「・・・それ、食って大丈夫なのか?」

「美味しい出汁が出るの。・・・他に無いかしら。柄が短いから見逃しやすいのよ。」

セレナは夢中になって枯葉を搔き分けて始めてしまった。

このままだと日が暮れるまでキノコ探しに没頭しやがるに違い無い。

タイタンは、逃すまいとセレナの首根っこを掴んだ。

「今日は鹿が本題だろ。家に台車を取りに行くぞ、ほら。」

「むーーー。良いじゃない少しくらい・・・。」

絶対に少しで済まないのを知っている。あんたの少しに2度と騙されるものか。

渋るセレナを促し自宅へと歩き出す。これから鹿の皮を剥ぎ、解体する作業が残っている。ここで時間を食うわけにはいかないのだ。




セレナが皮を剥いだ鹿を受け取り、足を落として解体する。いくら餓えた鹿とはいえ、若い雄鹿の肉は引き締まっており中々上等だ。

「ふ、う。」

ポニーテールから垂れて来た長い髪を邪魔そうに避ける指先。

「面倒なら俺が切ろうか?」

「絶対に嫌。」

セレナは毛皮から丁寧に脂肪と肉を剥がしてゆく。これを鞣し液に漬け込んで乾燥させると見慣れた毛皮になる。

ディアンの冬用の敷物と、タイタンの新しいコートになるであろう毛皮に、ひとつひとつ手作業でセレナは向き合う。

「ぶきっちょタイタンに任せたら耳まで切られてしまいそうだもの。」

「失礼だな・・・。」

最後の一頭の足を削ぎ落とした。これで今日食べないぶんの肉を冷凍してしまえばおしまいだ。

「ああ、半分は塩漬けで処理をするから冷凍しないでおいて頂戴?貴方のおかげで冬場の狩りもできるようにはなったけれど、貯蓄が全く無いのも怖いものね。」

「冷凍では駄目なのか?」

「冷凍は劣化するけれど、塩漬けは熟成されるものなのよ。冬の前半は冷凍肉を、後半は塩漬け肉を食べているの、毎年ね。」

冷凍保存を無限だと考えてしまうのも、現代・・・いや、2000年前の知識に毒されている故だろうか。

腐らないというだけで、肉を冷凍で長期保存すれば、現代の技術であろうともひと月で劣化するのが当たり前だったのだ。

それに加え、セレナが言うには、この森の冷凍技術は2000年前には遠く及ばない代物、らしい。

「食品というのはできる限り急速に冷凍することで鮮度を保てるの。だけれどこの冷凍庫はものを凍らせるのが遅いのよ。だから味が落ちやすいのよね。」

「・・・腐らなければなんだって良い気はするが。」

「厳しい冬で滅入る気持ちを保つのに、美味しい食事というのは大切よ。貴方も身をもって知っているのではなくて?」

そう言われて返す言葉はなかった。西部探検で偏った食事にストレスを溜め込んだ結果どれだけ辛い思いをしたか・・・思い出したくもない出来事である。

「・・・ふ、あ。疲れた。」

セレナは毛皮を持ち上げ、それを作業場に持ち込む。

しばらく帰ってこないだろうと思いきや、その予想は大きく外れることとなる。ものの数分で戻ってきたセレナはふらふらとタイタンの横を通り過ぎ、そのままソファへと倒れ込んだ。

「・・・せめて風呂に入ってから横になれ。」

「ちょっとだけ・・・もう眠くて耐えられないわ・・・。」

いくら拭いたとはいえ、鹿の血と肉に塗れた体をソファに擦り付けるのは辞めていただきたい。

セレナを無理矢理に持ち上げ風呂場に放り込んでやれば、恨めしげな声がドアの隙間から漏れ出てきた。

「湯は沸かしてやっただろ。どうせ後になればもっと面倒くさくなるんだからな。」

「むーーーーーーーーー。」

分厚い木のドア越しでは何を言っているのか分かりやしないし。

何より、大好きな一番風呂を譲ってやったのだ。文句など言わせない。





・・・1時間経っても風呂場から出てこないセレナに、まさかと青ざめてタイタンが風呂場に突撃すると、案の定風呂場で湯に沈みかけたセレナが発見された。

「馬鹿。馬鹿。風呂場で眠るとか、老人かあんたは。」

「・・・その、えと。ごめんなさい。」

死んだかと思った。

背筋が冷えきりもう怒る気力も湧いてこないタイタンに反して、ゆっくり温まったセレナは一度申し訳なさそうにはしたものの、元気いっぱいに夕飯の準備に取り掛かり始めた。

・・・好きな相手の裸だというのに。彼女の肌を見る時は、こう、ろくでもない場面ばかりなのは何故なのだろうか。

もし今後、彼女と一線を越えることがあったとしても、もうタイタンは彼女の裸に欲情できる気がしない。

色々な意味で、最悪だ。男として。

タイタンは頭を抱えるのだった。






「いただきまーす。」

「いただきます。」

ぱちんと手を合わせ、そして待ちわびたとばかりに2人は鹿肉にかぶりついた。

もにゅっとした、鹿肉特有の食感。味付けはシンプルに、ハーブと塩で。

肋骨をカットし、食べやすい様に切り分けられた骨つき肉。肉を噛み締めた瞬間にほんのりと香るローズマリーの香り。

「・・・・・・・・・・。」

本当に美味いものを食べると、人間は声が出なくなるのだ。

タイタンは骨をしゃぶるのも程々に、2本目のチョップ肉に手を伸ばした。

「タイタン。ちゃんとお野菜も・・・っ、もう!私のお肉も残しなさいな!」

テーブルには畑から収穫したばかりの根菜のスープ、心臓とキノコを炒めたもの、こんがりと焼かれたトーストがきちんと並んでいる。というのに。肉が食べるのが遅いセレナを尻目に、タイタンの強靭な顎は次々と骨つき肉を骨だけにしていってしまう。

この大食らいめ。やはり大皿に食事を盛るべきではなかった。今度からは面倒でも皿を小分けにしよう。必死に鹿肉を齧りながらセレナはタイタンを睨みつける。

ハツが好物だというからこうしてわざわざ用意してやったのに、匙を握ろうともしないではないか!!

「セレナさんはやっぱり料理が上手いな。」

「取ってつけた様に褒めれば許されると思わないで頂戴!?」

大皿に山盛りにされていたはずだった鹿肉は既に半分以上がタイタンの胃に消えていた。

「・・・ハツも美味い、というかあのキノコがこんなに美味いなんて思わなかったな。」

無視か。呆れ返るセレナを尻目に心底感動したらしいタイタンが目を輝かせる。

「・・・はあ。それはタイタンが食べてしまって頂戴?」

「勿体ないと思うんだがな。獲れたての内臓を食う機会などそうないんだぞ。」

あっという間に炒め物の皿が空になっていく。

「あの解体現場を見て平然と内臓が食べられる貴方が理解できないわよ。」

「そんなことを言ったら肉も食えないだろうが。」

もにゅっ。小さな顎を必死に動かし、3本目の鹿肉にかぶりつく。

「初めて鹿の解体を見たときは肉が食べられなくなったわ。今は慣れただけよ。」

「そういうものか?」

「・・・・・・・・そういうものよ。」

命を頂いた以上は余すところなく活用し、美味しくいただくのが礼儀だと思うのだが。

セレナの感性が普通のものであるならば、初めての解体の後でも美味しく鹿肉を頂いてしまった自分は、わかってはいたことだが相当図太いのだろう。

「・・・貴方は、おかしいと思うのかしら。」

「何が。」

セレナは根菜のスープを一口啜る。

「平然と生き物の命を弄っていたくせに、って。」

人食い花ポーラを作ったのはセレナとお母様だ。洞窟の海の魚の体に人造の魔導器官を加え・・・そのために数匹の魚の命を犠牲にしたのはセレナだ。

知らないだけで、他にもきっと数え切れないほどの命をセレナは手に掛けている。

「そんなこと。」

「貴方はきっとおかしいと思うのでしょう?人を殺すのが嫌いなくせに生き物の命を弄ることは躊躇わない私を。お母様を命に誠実だとかつて呼んでいた私のことを。それがおかしいと気づいたのは、貴方と出会ってから・・・本当に最近のことだったなんて信じられないでしょう?あのとき、お肉を受け付けなくなってしまった自分が間違っていなかったことに、今日、今、貴方と話して気づいたなんて。」

雨が降り出した。

帳を下ろした窓の外で、ぽつ、ぽつ。またひとつ。

「お母様が森を維持するために命を奪うことも、命の尊厳を弄ぶことも、それはこの森を維持するために・・・そしてきっと計画のために必要なことだったもの。それは否定できないわ。だけれど・・・それに胸を痛めていた私は決して弱かったのではなくて・・・人ならばそれが当たり前のことだったと、気づいてしまったのは、貴方のせいだわタイタン。貴方が私を間違っていると叫んだから。貴方が私と違う価値観で生きて、それを決して曲げない人間だったから・・・。」

テーブルに言葉が落ちる。タイタンは隣のセレナに顔を向けようとして、やめた。

おかしいだなんて思うわけがない。彼女がずっと弱さだと責めて居たそれは彼女の美点で、タイタンにとって世界で一番尊いもの。

それを間違ったものだと思い続けていたなら、それは、それを間違っていると彼女に教えてしまったお母様が、悪い。

そして、彼女にそこまで思い悩ませた原因は。あの保護区で、必要なことだったとはいえ、彼女の本意にそぐわない嘘を沢山吐かせたのは・・・・。

「秋島に嘘を吐いたことを、気に病んでいるなら。それは俺のせいにしてしまって構わない。あんたを止めたのは俺なんだから。」

がたんと隣の椅子が揺れた。セレナの揺れる瞳はタイタンの横顔を見据えている。

「ーーーーっ。ちが、うわ。あの時正しかったのは貴方だわ。貴方は悪いことなんか、ひとつも。」

例えどれだけ自分がロータスに謝り直したいと悔やんでも、あの時怒り狂って我を忘れたことを恥じたとしても。それは、大局から見ればただの愚行。

タイタンの言った通りそれは”違う”のだ。

「結局俺も同じ穴の狢だ。あの洞窟であれだけあんたを責めておきながら、やっていることは同じだ。鹿たちの生命に干渉することを嫌だと言った俺を、あんたこそおかしいと思ったんじゃないのか?」

セレナの瞳が伏せられた。それは無言の肯定であった。

つきり、とタイタンの胸が痛む。つい数時間前の自分の行動を心底恥じながら、それを踏みつける。

「俺はな。それでも自分を間違っているとは思わない。俺は自分の守りたいと思ったものをどんな手を使っても守る。それ以外を踏み潰しても守る。」

きっと自分が落ちる先は地獄だ。セレナもきっとそうだ。だが、それで構わないと思う。

あの忌々しい大穴に落ちるくらいならば、地獄に落ちるほうがよっぽど良い。

「俺は俺が正しいと思ったことは絶対に曲げない。必要なことなら何でもやる。好きなものだけを好きで、嫌いなものは嫌い。保護区の人間よりこの森が好きだ。この森が生きる為なら何でも利用する。それはあんたも同じはずだ。」

それは激励の様な、はたまた死刑宣告の様な。

「俺たちはこれからそうやって傲慢に世界を救うんだ。あんたには言う必要のない話かもしれないが。そこだけは履き違えてくれるなよ。」

「それが、そんなものが、本当に世界を救うことなのかしら。私たちの理想通りに救われる世界なんて、それは本当に、幸せな世界、なのかしら。」

どうしてそんなに、自信満々なのだ。タイタンは最初からずっと、自分たちのためというスタンスを崩さない。

セレナ達が2度と人を殺さなくても良い世界を手にいれる。崩落のない世界で、2度と誰かに怯えなくても良い世界を。タイタンがセレナと共に居たいから、セレナを守る、と。

もしこうして、今必死に縋っている計画というものが、理想の世界とかけ離れたものを作る様なら、タイタンはそれを容赦なく壊すだろう。

そうやって、2人の都合だけで世界を救わんとすることが、果たして本当に正しいことなのだろうか?それは独裁、悪の支配者と、なにも変わらないのではないだろう、か?

「そうだ。あんたは蛇行するが、進む方向だけは間違わない。あんたが我儘に何かを救いたいと願えば、それは不思議と良い方向に向いていくんだ。だから。」

ぼうっとしているうちに、最後の肉がタイタンの手に取られてしまった。むしゃり、と一口で肉を齧り、飲み込み、一息ついてタイタンは、

「進むことだけは止めるな。それはあんたに踏み潰され、あんたの血肉になった者たちへの冒涜だ。」

真っ直ぐこちらを見据えた。

向かい合わせに座るのが当たり前だった食卓が、季節が過ぎるうち、いつのまにか隣同士になっていた。

見つめ合うことが難しくなった食卓で、わざわざ体をこちらに向けたタイタンの、無骨な手がセレナの震える手を握る。

・・・どうしてそこまで、自分を信じるのだろう。

セレナが救いたいと願ったものだけを救いつづけた先が、間違いなく幸せで正しい世界なのだと、この男は信じている。

確かにあの洞窟で、自分はそう言ったけれど、でも。

「それはな。・・・ああ、クソ。あんたが、俺の切り捨ててしまったものを大事に抱えているからだ。」

口に出しすらしなかった疑問を、読み取ったかの様にタイタンは答えてみせた。

「あんたの血肉になったものを悼むことを、あんたは当たり前だと言ったけれど。・・・それは俺にはできないこと、なんだよ。誰にでもできることじゃないんだ。切り捨てたものひとつひとつに心を痛めていたら、心が壊れてしまう。だから人は悼むことを辞める。」

セレナの右手を、祈る様にタイタンの手が包み込む。それは縋る様な、尊ぶ様な、はたまた彼は泣いている様にさえ見えた。

「だけれどあんたはそれをひとつひとつ拾い上げて悲しむ。悲しんで傷ついて、それでも進むため何かを踏み潰すことは絶対にやめない。それはあんたの弱さであり、強さで、俺があんたを大切に思う一番の理由なんだ。」

だから、どうか。

「俺があんたの弱さを守るから、俺の代わりにその弱さを持っていて欲しい。今日俺と話して気づいたその気持ちを忘れないでいてくれ。」

死んだかの様だ、と思ってしまったのだ。布団から起き上がろうとしない彼女を見たときに。

この森を守りたいという信念すら失った先の彼女を、重ねてしまったのだ。

・・・あんたがそれを持っていてくれなかったら、一体誰が自分を止めてくれる?

「その代わり、あんたが歩みを止めそうになったら、俺は引き摺ってでもあんたを前へと歩かせる。」

あんたが隣に立っていてくれなければ、俺は崩落を前に足を竦ませ、自らに恐怖し、歩むことをやめてしまうだろう。あんたは俺が止まれば一緒に歩みを止めてしまうだろう。そうして、歩むことを止めた俺たちは、目的をなくした俺たちは・・・ただの化け物だ。

ただ奪ってきた命を悪戯に浪費する行為は、狩った鹿を地面に打ち捨て腐らせる行為と変わらないのだ。それは、死だ。終わりのない停滞なのだ。

どうか、そんな地獄よりも恐ろしい場所に俺を連れていくのだけは、やめてくれ。

「・・・・・。」

セレナの月光は、そんなタイタンの不安も、やはり見透かしてしまうらしかった。

タイタンの両の手を、ゆっくりと左手が解き、そして立ち上がったセレナは空になった皿を台所へと運び、困った様に笑った。

「ふふ。やっぱり貴方は私を買い被りすぎよ。まるで別の人のお話を聞いているみたいだわ?」

タイタンが返した言葉は、水道の水音、そして皿と皿がぶつかり上げる小さな悲鳴で掻き消えてしまった。










昼間はあれだけ眠かったというのに、夜になると途端に目が冴えてしまうのは不思議だ。

「早く寝ろ、また起きられなくなるだろ。」と1時間おき3度扉を叩いたタイタンも、諦めて眠ってしまったようだ。

諦めた、というよりは、いつも通りせかせかと裁縫仕事に励むセレナに安堵した、という態度だろうか。

「私にだって悩み事のひとつやふたつあるわ。心配しすぎなのよタイタンは。ちょっと寝込んだくらいであんなに血相を変えなくてもいいじゃない。おちおちのんびりもできやしないわ。」

ふう、とため息。肉の大半はタイタンに食われてしまったが、最近はあまり脂っこい食事を胃が受け付けないので、腹八分目でちょうどよかったかもしれない。

セレナは縫い合わせていた自分の冬用ワンピースをそっと畳み、大きなリュックを手に取った。

中にはもちろん、大きなパンと飴玉が沢山詰められている。

保護区から帰ってからというもの、彼女が毎夜部屋の窓から抜け出しているのは・・・久しぶりに再開した友人に話したいことが多すぎて、とても一夜では・・・いや、いくつ夜があっても語りきれなかったせいなのだ。



「ぴぴ。せれな、きょうもぐあいわるそうだわ。ぴぴ。」

「・・・そう?今日もいっぱい休んでご飯をいっぱい食べて、たっくさん働いたけれど・・・ううん。確かに眠いことが多いけれど、具合が悪いというわけでもないのよね。」

医学についてはそれなりに学んでいる故、不規則な生活こそしているが、本当に体を壊してしまう様な度を越した不摂生はしないよう心がけている。

魔導を振るえば確かに、ぐるぐると頭が回る様な感覚はするが、それは今自分に起きていること故仕方ないことだと諦めているし。そもそも毎晩ピピと話しているせいで寝不足だ。

まあ、もともとこの程度の寝不足でへこたれる体ではないし、この妙な頭痛だって気持ちが落ち着きさえすれば治るものだろうと思うので、彼女はこの不調を時間が解決するものと割り切っていた。

「いつもより、しゃべりかたがゆっくり。ぴぴ。ねむそう。ぴぴ。」

「森を歩いていたら眠くなってしまって。まあ夜だから仕方ないわ。」

呑気なセレナはいつもの様に崩落の淵に腰掛け、ピピに語りかけた。

「ふふ。今日は沢山働いて頑張ったのよ。タイタンと鹿狩りをしたの。」

いつも通り、セレナは飴玉を頬張りながら不思議な友達に語りかけた。

鹿狩りは前より上手くできなくなっていたし、タイタンともなんだか蟠りができてしまったような気がしたけれど。それでも彼と森を駆け回って鹿狩りをするのは楽しかったし、夕飯が美味しかったのも嘘ではなかった。

そして、このピピと語り合う時間も、また、楽しい今日の締めくくりとして、思い出のページに刻まれてゆく。

「ぴぴ。ぴぴもたべたい。せれな。おにく。ぴぴ。」

「・・・全部食べちゃったもの。持っていないわ。」

「ひどい。ぴぴ。つったさかなにえさをやらない。ぴぴ。」

・・・その使い方はちょっと違う気がするが。

「ピピは近くの集落に居たのよね。集落で育てている牛の肉の方が、きっと鹿より上等で美味しいわ?あれを食べて育ったのなら、鹿の肉は期待しているほど美味しく感じられないんじゃないかしら?」

「ぴぴ。うし。」

「ええ。私は食べさせてもらったことはないけれど。牛肉って最も上等なお肉なんでしょう?」

猪は豚に近いだろうし、鶏は自分で育てているが、牛の肉に類するものは森にはない。セレナは一度も牛肉というものを食べたことがなかった。

お母様が牛肉を「一番美味しいお肉」と言っていたのを聞いたり、後は本に出てくる柔らかなビーフステーキの描写を何度も繰り返し読んだだけ。牛肉のステーキというものはセレナにとって、いつかは食べてみたい、それはそれは憧れの夢のご飯なのである。

「ふふ。昔読んだ旅行の本にも、牛肉のシチューのことが書いてあったわ?何時間もかけてじっくり煮込んで、お野菜もお肉もとろとろに溶かしたシチューをパンと一緒に食べるの。牛肉は霜が降りた様に肉に脂が差しているのが見えるんですって。」

「・・・・・ずるい。せれな。」

夢中になって話していると、穴の底からふて腐れた声。

「せれなはおにくをたべたからいいでしょうけど。ぴぴ。ぴぴはずっとぱんせいかつ。ぱんとあめだま。ぴぴ。ひどい。ざんこく。よだれじゅるじゅる。ぴぴ。」

「・・・え、えと。ごめんなさい。夢中になって話してしまって。」

「もうしらない。」

本気で拗ねさせてしまったようである。慌てるセレナを尻目に、ふーーーん。ぴぴぴぴ。と不機嫌そうな幼い声がこちらに向かって飛んでくる。

どうしようか。これ以上ご機嫌が取れそうなものなど持っていない。こんなことならタイタンが最後の鹿ステーキを口に放り込むのを縋り付いてでも止めるべきだった。

「ねえ、ピピってば・・・・ーーーーー。」

かくん。まただ。また、突然にセレナの意識が数秒途切れた。

「・・・・・・せれな。せれなせれなせれな!!おっこちるぴぴぴぴぴ!!!!」

慌てた声に叩き起こされ。はっと気づいた時、自分が崩落に前のめりになって倒れかけていたことに気づき、背筋を恐怖が這い上がる。

今この瞬間、自分の命が危うく終わりかけたのだ。いけない。あまりにも・・・油断しすぎだろう。青ざめたセレナに心配そうな声がかかる。

「・・・・・セレナ。かえったほうがいいわ。やっぱり。ぴぴ。せれなのからだ。おかしくなってる。ぴぴ。」

「おかしく、なっている・・・?」

「きもちがやすまってないんでしょう。ぴぴ。せれなのめではみえない。ぴぴ。かもだけど。せれなのまどう。ぐちゃぐちゃ。ぐあいわるいにきまってるわ。ぴぴ。」

セレナの目は確かに、この世のありとあらゆる構造を見通す。それは魔導を極めた故の、ある種の千里眼に近しいものだ。

ものを壊すために、ものの構造を見極め、そのものを壊すために最適な方法を暴き出す。万能に近い目を持ちながらそれほど便利な扱い方ができぬのは、破壊に偏ってしまった魔導の性質のせいである。

それ故・・・誰にも話したことはないが、決して壊す必要のない”自分自身”に魔導を適用することが酷く苦手、いやほとんど不可能に近いのだ。魔導で周囲を把握するのが当たり前のセレナの世界で、ただ1つ不透明なのが自分の体のこと。

「ピピ。私の体の中で何が起きているのか、見えるのね?」

ピピもまた、魔導の使い手・・・そして穴の中からこちらの様子を逐一把握していることから察すれば、彼女もセレナの様に、何か本来見えないものを見ることを得意とする魔導の使い手なのではないだろうか。

「ピピ。私の魔導がぐちゃぐちゃなのは、2つの魔導が私の体をぐるぐる回っているせいだと、思うの。・・・ねえ。その正体は貴方から見える?私の壊す魔導と違う・・・もうひとつの魔導の正体が、わからなくて、私・・・とっても困ってるの、不安なの・・・・!」

セレナは藁にも縋る気持ちだった。だが必死なセレナの声を聞き、申し訳なさそうにピピは、

「ごめんね。ぴぴ。むずかしいのはわかんない。わ。ぴぴ。」

そう言って口を閉じた。

・・・それは、そうだと思う。一目で魔導を性質を見抜くなど、セレナは当たり前の様に行なっているが、本来魔導を極めた人間にしか辿り着けぬ境地であるのだ。

「でもね。ぴぴ。せれながないてるの。わかるよ。かなしくてないてるまどうと。こわくてないてるまどう。ふたつのまどうがけんかして。せれなはぐちゃぐちゃ。このままけんかしてたら。ぴぴ。せれながわれちゃうよ。なかなおりしたほうがいいよ。ぴぴ。」

「仲直り・・・?」

「あとね。きょうはもう。かえっておやすみしたほうがいいわ。さみしいけど。ぴぴ。せれながつかれてかえれなくなっちゃう。ぴぴ。」

ピピの言う通りで、先ほど一度意識が飛びかけたあたりが、セレナの眠気の限界だった。

このままでは家に帰ることもままならなくなる。セレナはピピに別れを告げ、ふらふらと自宅へと歩き出した。

「・・・なか、なおり。仲直り・・・?魔導が変質する以上、これは、生存競争だわ・・・。ふ、あ。仲直りというか、どちらが消えるしかないもの、ではないの・・・?」

眠気で朦朧とする意識を無理矢理に呼び戻しながら、セレナはなんとか南部の転移装置に手をかけた。すっと肌に触れる空気が冷える。鼻に香るのが土の香りではなく、慣れた北部の樹木の香りに変化したことに安堵する。

「でも、喧嘩というのは、確かに、的を射ているかもしれないわ?鎖が出ようとするとばちばちと邪魔するみたいだもの・・・。でも、でも・・・喧嘩をする理由が、よくわからないわ。仲直り・・・ふあ。だめ、眠くてもう、目が開けていられないわ・・・。」

家まであと数メートル。あと少し頑張れば暖かい自宅のベッドが待っているというのに、セレナはその場に座り込んで大きな木の幹に背中を預けてしまった。

ここは家も近い。慣れた北部の森。いくら寒いとはいえ厚着もしているし、死ぬことはないだろう。それだけを考え、セレナは土の上に倒れこむ様に意識を沈め、寝息を立ててしまった。

・・・そんなことをすれば、彼女の身を世界で一番案じているであろう男がどんなことになるのか、考えもせずに。








翌朝。

セレナはがさりと茂みが踏まれる音で目を覚ました。

秋の早朝の森で寝惚けてしまっていたにしては、妙に体が暖かい。

寝ぼけた目で周囲を見渡すと、腰の周りに2匹の鹿。しかもこの栗色の毛は、隠れていたはずの蓬山の鹿だ。

森の中で眠ってしまったセレナを見つけ、彼女が冷えない様に暖めてくれていたらしい。

彼女が身じろぐのを感じて鹿たちも起きたようで、鹿たちは久しぶりのセレナとの再会を喜ぶように頰をぺろぺろと舐めた。

「・・・ふふ。くすぐったいわ・・・うう、でも暖かい・・・もうちょっとだけ・・・。」

「眠っていい訳がないだろう馬鹿野郎。起きろ。」

にやけた頰をぎゅっと抓られ、意識が覚醒する。穏やかな早朝の森の風景にはあまりに似合わぬ、不機嫌極まりない、地の底から響く様な低い声。

「ーーーーひっ!?」

飛び起きる。まずい。

どうして昨夜の私はここで眠って良いなどと考えたのだ!

そこでようやく、自分が昨晩どれほどのことをやらかしたのかをセレナは理解したのだ。

「わ、わーーーーっ!!ごめ、ごめんなさいタイタン!!!」

思わず頭を庇ったセレナに呆れる様な声。

「鹿たちが俺を叩き起こしに来たんだよ。あんたの部屋の窓から入ってな。鹿たちがあんたを見つけなかったら今頃寒さで動けなくなってたぞ。」

だが、予想よりもはるかにタイタンの声は冷静だ。もしかして、それほど怒っていないのかもしれない・・・と見上げたタイタンの腰にふさふさと尾が揺れているのを見つけてしまったセレナは慌てて目を逸らした。

「うう。心配かけてごめんなさい・・・暖めてくれてありがとう・・・。」

鹿たちはセレナが元気そうに話しているのを見届けると、早々に逃げ去って行った。・・・面倒に巻き込まれるのは御免だ、と言わんばかりに。

そーーっと見上げると、顳顬に青筋を立てたタイタンが目の前に仁王立ちしている。すっかり身を竦めてしまったセレナを一度ぎろりと睨みつけ・・・大きなため息。そして彼はセレナを優しく抱き上げた。

「・・・別に怖がらせたいわけじゃない。何があったかちゃんと話してくれればいい。」

冷え切った指先を、そっとタイタンと自分の体の隙間に埋める。薄着で慌てて飛び出して来ただろうに、そうとは思えないほど彼の体は酷く熱かった。

「・・・別に、ただの夜のお散歩だわ。」

「そんなに大きな鞄を持ってか?」

嘘を吐いたら殺す。彼の気迫を感じ取ったセレナの体は大きく震える。

家の扉を蹴り開けたタイタンは、そのまま自室にセレナを運び込み、ベッドに彼女を投げる。

「わ、わわわわ。」

暖炉もつけていない家の中で、今一番暖かいのは自分の布団だろう。タイタンはセレナをそのまま布団でぐるぐる巻きにして、その横にどかりと腰掛けた。

「正直に答えるまで部屋から出られると思うなよ。わかっているとは思うが、俺は今結構怒っている。」

「おさん、ぽ。」

「夜中に、1人で、ふらふら出歩くなと。何度言ったと思っている。まあ、ただの散歩なら見逃してやってもいいが・・・でも今回は明らかに、色々おかしいだろ。」

タイタンだって、セレナが時折夜に散歩に出ていたことに気づいていなかったわけではない。ピピと出会ってからというもの、セレナが夜にこっそり出かける頻度は増していたし、ましてやここ最近はほぼ毎日ピピの元へと行っていた。耳の良いタイタンが気づかないわけがないのだ。

・・・それでも、保護区からの刺客の脅威はなくなったわけだし、それにセレナをあまり縛り付けるのもよくないと思い、そっと気づかないふりをしてやっていたのだ。

「ここ最近は殆ど毎晩外に出かけてたな。」

「うっ。」

「気持ちを落ち着けたくて外に出かける気持ちはわかる。そうだと思って今まで見逃してやっていた。だが・・・これは違うな?何か別の目的があって出かけたとしか思えないし・・・それに、家の目の前で倒れているなんて。一体何があった?また何か襲撃に遭っていたんじゃないだろうな。」

「ち、違うわ!怪我なんてひとつもしていないでしょう!?」

「じゃあ何だ。」

不機嫌そうに一度シーツを叩いた尾が、そのままセレナにそっと擦り寄った。

はっとしてタイタンの顔を見やると、逃げる様にタイタンが目を逸らす。

だが目が合ったその一瞬、タイタンの瞳に浮かんでいた感情の正体が、怒りというよりは不安に近いものであったことにセレナが気づかないわけはなく。

「・・・・・その、内緒のお友達が、いるの。」

セレナは観念した。

その顔は狡いだろう。そんな迷子の子供のような不安げな顔をされては。

「その子のところに、パンを、持って行ってあげているの。それだけ。怖い目になんかひとつも遭っていないわ。」

「何で家の前で倒れていた。」

「わから・・・ないの。」

そんな馬鹿な話があるか。食ってかかりそうになる気持ちを抑え込み、タイタンはセレナがゆっくりと言葉を選ぶのを待つ。

「・・・その子にも、言われたわ。セレナの体は魔導がぐちゃぐちゃでおかしくなっているって・・・。わからないの、この異常な眠気の正体も、私に渦巻くもう1つの魔導の正体も、全部、全部・・・わからないんだもの・・・。」

「異常な、眠気って。まさか、家に辿り着く直前で眠ってしまったのか?」

こくりとセレナが頷く。風呂やソファで眠ってしまうならともかく、歩きながら眠るなど・・・それは明らかに何か体がおかしくなっているとしか思えない。彼女はここ数日ずっとそんな調子だったというのだ。

ならば最近のセレナがやたらと怠惰に見えた理由は。眠い眠いと繰り返し言っていたのは毎晩遊び歩いて寝不足なのだと思っていたけれど、そうではなく。

「・・・あんった。なあ。そういうことを早く伝えてくれって、俺はいつも言っているんだ。」

「私だっておかしいと思っていなかったんだもの・・・。ただの寝不足だって思って・・・。」

「ああ・・・もう、わかった、いい。それはもう仕方ない。他に何か・・・ええと、今回みたいに突然眠ってしまうことはあったか?」

セレナは考え込む。考えているのだが・・・その瞼が既に半分閉じかけている。暖かいタイタンの布団に包まれて寝そうになっているのが丸わかりだ。

「んと・・・本棚を見ていたら立ったまま寝てしまったり、お料理をしながら眠ってしまってパンを焦がしてしまったり・・・とか。いつも体が重だるいの。あと、頭痛がするのと・・・眠くて眠くて、一瞬意識が途切れてしまうことは何度もあったわ?」

「殆ど気絶している様なものじゃないか。・・・ああくそ、何かの病気だとしても魔導だとしても門外漢だな。セレナさんに分からないんじゃ俺にも分かるわけがない。」

はあ。タイタンはセレナの上着を剥ぐと、そのまま彼女を布団に横たえた。そしてそっと髪を梳いてやる。

「そうだな。とりあえず、今日はそこで休んでいろ。不調なのが分かっていて狩りだなんだと連れ回して悪かった。」

「・・・・・ええ、そう、ね。」

私の体は、一体どうしてしまったのだろう。

なんだか泣きそうになってきて、セレナはそっと布団に体を丸め顔を隠した。

このまま死ぬのではないだろうか、という気さえした。このまま暖かさに身を委ねて眠ってしまったら、2度と目を覚ますことができないのではないか。

自分がいなくなったらこの森はどうなる?私のこの歪な・・・内臓の配置すらぐちゃぐちゃの体を直せる医者などこの世界にいるのだろうか?

やめろ、やめろ。目を閉じようとするな、私の体。2度と目覚められなかったら、どうするのだ。

「・・・セレナさん、ちょっと場所を開けてくれ。」

「タイタン?」

暖かい布団の中に冷えた足が入り込んでくる。ひゃっと身を震わせるセレナにお構いなしで。

もぞもぞと。セレナには大きすぎるベッドにタイタンの体が潜り込んできたのだ。

「俺だって朝早くから叩き起こされて眠いんだよ。」

そのままタイタンはセレナの背中を抱き竦める様に、薄い腹に大きな手を回した。

「・・・狭い。ベッドから落ちる。もうちょっと壁に寄ってくれ。」

「・・・なら自分のベッドで眠るからいいわよ。」

そう言って起き上がろうとしても、鍛えられた腕はセレナの腹を離そうとしない。

文句を言うなら離せばいいのに、と突然のタイタンの行動に戸惑っていると、

「・・・1人になったら泣くだろ。大人しく寝るまで見張る。」

ぼそっと、気恥ずかしげに呟かれた声が耳に届く。そして安心させる様にぽん、ぽんと頭を撫でられた。

「大丈夫だ。アテはある。昨日の夜に通信端末に連絡があった。明後日、老いぼれとクソガキが2人で森まで押しかけてくるそうだ。魔導に詳しいあいつらなら何か分かることもあるだろ。」

ぽん、ぽん。冷めかけた布団がタイタンの体温で再び熱されていく。

「大丈夫だ。大丈夫。どうにかしてやる。大丈夫。だからな。」

均等なリズムにあやされる。猛烈な眠気を前にして自分は赤子同然だ。

既に溢れる寸前だった涙がすっと落ち着き、自分を包み込むかの様な大きな体に守られている安堵だけがじんわりと胸を満たしていく。

そっと絡む足と足。セレナが足を絡めた瞬間、一度大きく震えた後ろの体が・・・彼は決して二度寝をするために布団に入り込んだのではないと証明する。

「ふ、あ。・・・・・ふふ、ありがとうタイタン・・・おやすみ・・・。」

そのまま、彼の返事を聞くこともなくセレナは眠りの世界へと沈んでゆく。

緊張で体をガチガチに固めているタイタンは、決して知る由などなかったが。

こうして、誰かと暖かい布団で眠ったのは・・・彼女にとって初めてのことだったのだ。




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