その命の責任を
男手が1人増えるだけで、怪異の森の暮らしは非常に楽になった。
「・・・こっちの収穫は一通り終わったよー。この台車はどこに運べばいい?」
「それは家の横に据えてあるやつだ。丁度良い。さっきの種芋はそれに積むか。」
「・・・はあい。」
家から南に歩いて数分、森の中心部も近い位置にこの森の豊かな食事を支える農場がある。
広さは小学校の体育館程度。野生動物から作物を守るため地下に掘られた広大な地下農場は、魔道の二重キーを解除して長いスロープを下った先にある。
作物に必要な光量をもたらす人工ランプ。決まった時間に川から水を引いて散布するポンプとシャワー。作物の成長を促進するための肥料。気温を維持するための換気扇。
だが、この地下農場が作付けと収穫以外を殆ど自動で行うことができるのは、お母様の代から続く、連綿と受け継いできた品種改良の賜物だとセレナは言う。
「遺伝子を・・・生物を弄らせたらお母様の右に出る者なんか居ないわよ。私だってある程度は教わっているけれど、お母様にはやっぱり敵わないもの。」
虫に食われないように。すばやく育つように。気温の変化に負けないように。
そうやって途方もない時間をかけて改良された作物たちは、見た目と味こそ同じだが、原種の作物たちとは最早別物と呼んでいい代物に進化を遂げた。
「・・・まあ、そういうもの、か。」
タイタンは初めて畑を訪れた時、ひとつぶ摘まんだ名も知らぬ作物の種子の脈動を未だ忘れられずにいる。
そう、この機械仕掛けの農地で一番価値あるものは、煌々と金色に輝く魔道機械ではなく、なんの変哲も無いようにしか見えない、この小さな種子たちなのだ。
今日はセレナも久しぶりに作業場を出て、畑で土まみれになっている。
タイタンの要求した「設計図」は完璧に仕上げたようだ。一仕事を終えたセレナは綿のパンツと薄手の水色のシャツに身を包み、晴れ晴れとした表情で鉈を振るっている。
手間を削減している分、じっくりと手を掛けた作物には味が劣るのだとセレナは言う。だがそう言われてもタイタンにはその違いはよく分からないし、それさえ我慢すればこうして農業の楽しい部分だけを体験することが許されるのだ。対価としては十分すぎるほどであると思う。
畑の三分の一程を占める広大な金色の麦畑。
ざくざくとそれを刈り取り、黙々と台車に積む単純作業を繰り返して数時間が過ぎ、腕に乳酸が溜まった重だるい感覚もそろそろ耐え難くなってきた。
だが台車に刈り取られた麦が次々積まれていくのを見ていると、疲れた体も達成感に満ち溢れる。
月に一度は行う、もうすっかり慣れたこの作業だが、不思議と飽きることはない。
何もかも忘れて作物に向き合うこの時間が、タイタンは嫌いではなかった。
「セレナ。セーレーナー。ねえ聞いてる!?」
「さっき休んだばかりでしょう?終わらせたいなら手を動かしなさいな。」
だがその良さは、ディアンにはまだ分からないらしい。
ディアンがエンドウ豆をやっとの思いで一列刈り取る間に、セレナはトマトの収穫を3列終わらせている。
慣れていないから責めるわけにもいかないのだが、この少年は意外と打たれ弱い。小柄なセレナよりも体力がないし、ちょっと疲れるとすぐに弱音を吐きはじめる。
このような有様で、一体どうやって結界の外の世界を生き延びているのだろう。
文句を言いながらもきっちり手は動かすので、根性がないわけではないのだが・・・ディアンの怨念のように吐き出される弱音を少々腹立たしく思った場面も少なくなかった。
「煩いぞ!文句言ったってやらなきゃ終わらないんだからな!」
まったく、これだから若い奴は。
2歳しか違わない少年に、ついついそんな老人じみたことを考えてしまうのだ。
「だってこんなの今日中に終わるわけないだろ!?根性どうこうじゃなくて、現実的な可能不可能の話をしてるんだよ僕はーー!」
「・・・まあ、そう思うのは不思議ではないけれど。」
いつもならセレナと2人、午前中だけと作業を区切って、3日ほどかけて行う収穫作業。これから長い旅行に出るのに、せっかく育てた作物の収穫期を逃してしまうのはあまりに勿体無いと、慌てて収穫作業を始めたのが今朝。
召集がかかったら今夜にでもこの家を出る必要がある。なるべく翌日にやることを残したくはない。だが確かにいくら人手が増えたとしても、このままダラダラと作業を進めていては日付が変わっても終わらないだろう。
「さっさと終わらせる方法は、無くはないのよ。」
「本当!?」
「ええ。ただタイタンが嫌がるわ。」
あれか。ディアンの期待に満ちた眼差しを背中に感じ、タイタンはそれを無視して再び麦の根元にしゃがんだ。
「・・・絶対やらないぞ。」
「我儘言ってる場合か!?終わらせないと保護区に行けないんだぞ!」
「ええ。それに、これから秋の作物を植えるんだもの。ただの収穫ならともかく、根元から刈り取るなら貴方に頼った方が早いでしょう?」
「真面目にやれば夜までには終わるだろ。反則技に頼るんじゃない。」
こうなるとタイタンが頑固だ。諦めたセレナは辺りを見回す。のびのびと生い茂るトマトの苗、小麦、豆の葉、かぼちゃの蔓。
畑の3分の1ほどがようやく土色になってきた辺りだというのに、外はもう太陽が天辺に登っている。慣れているセレナとタイタンはともかく、ディアンはきっと辛いだろう。
そう思い、2列隣の畝でしゃがんでいるディアンの方を伺った。筋肉の少ない腕には鋭い葉によってつけられただあろう、ミミズ腫れになってしまっている切り傷と、植物の液に触れたことが原因であろう蕁麻疹がぼつぼつと浮き出ている。
「・・・・・。」
セレナはそっと立ち上がり、ディアンの横に立った。
「・・・タイタンがやらないなら、私がやってみようかしらね。」
ぶっ。8列遠くの茂みの中から吹き出す音が聞こえた。
「ええ。見様見真似だけれど、鎖を使えばきっとできるもの。タイタンほどの精度はないし、初めてやることだから、もしかしたら失敗してしまうかもしれないけれど・・・。」
「待て待て待て待て待て!!!馬鹿、あの時の大惨事を忘れたのか!?」
ずんずんずんずん。本気で慌てたらしいタイタンがこちらに詰め寄ってきた。
ぽかんとしているディアンは置き去り。冷や汗をだらだら流しているタイタンとは正反対に、セレナは涼しい顔。
「仕方ないじゃない。畑作業中に召集がかかったらおしまいなのよ?まさかハンター協会の護送車を待たせるわけにいかないでしょう。背に腹は変えられないわ。」
そう言っている間にもセレナのシャツの下から鎖がにょろにょろと伸び始め、ひゅん、ひゅん、と耳元で空気を切る音が鳴りはじめる。ついに耐えられなくなったタイタンは叫んだ。
「分かった、やる、やるから!!その物騒なものを仕舞え馬鹿!!」
「最初からそれでいいのよ。さっさと剣を担ぎなさい。」
金属の折れる小気味良い音と共に鎖が霧散する。セレナはさながら猛獣使いだ。
「・・・ディアンとセレナさんは畑の外に出ていろ。危ないから。」
項垂れたタイタンは普段の数倍重そうに、剣を背中に担ぎ上げた。
「失敗しないで頂戴ね。」
「・・・覚えてろよ。」
未だかつて。これほど嫌そうに剣を持ったタイタンを見たことがあるだろうか。
恨めしそうな視線を背中に浴び、身を竦ませたディアンの背中をセレナが押す。
まるで電車ごっこをする子供のように畑を出ていく楽しげな2人を見届け、タイタンは深い深いため息を吐いた。
「結局何なの、反則技って。」
ここまで来れば平気だと、地上に続く通路の途中で立ち止まったセレナに、ディアンは当然の疑問を問いかける。
「タイタンも畑作業を嫌がっていた時期があったのよ。こんなのいちいち切らなくても、剣を振れば一発だろう、って。」
まあ、タイタンの性格上予想はつく事態だ。
「しばらくはタイタンに剣で全部刈り取ってもらっていたのね。でも、たまたまタイタンが寝不足だったときに剣がすっぽ抜けて・・・しかもそれが肥料タンクに激突して、中から作りかけの堆肥が吹き出して止まらなくなって・・・ね?」
「堆肥って・・・畑の肥料だよね?」
ずどん!
通路の向こう、明るい畑の方から衝撃が走り、地面が揺れた。
「・・その、確かに食べ物を育てるために使うものだけれど、発酵した野菜とか魚とか・・・ええと、堆肥には直接触りたくはないようなものが材料に含まれているから。綺麗好きのタイタンには耐えられなかったというか・・・ね、とにかくトラウマなのよ。しばらく畑に剣を持ち込むのをやめていたくらいにはね?」
ずどん。ずどん。
発酵と言えば聞こえはいいが、要は腐った食べ物だ。それは確かに、ディアンだって嫌だ。
そう思うと激しい剣擊の音にどこか哀愁すら感じられてきた。
「それ大丈夫?もしタイタンの手が滑ったら余計手間がかかるってことだろ?」
「それまでは何度だって成功していたことだもの。1回失敗したせいでタイタンが嫌がっているだけよ。タイタンならあのくらい朝飯前なのに、ね?」
ずどん。最後の一発を最後に剣撃が止んだ。どうやら終わったらしい。
先ほど来た道を戻り、畑を覗き込んで、ディアンは驚いた。
「うわ・・・すっげえ。」
先ほどまで元気良く背伸びをしていた作物たちが、全て的確に根元から刈り取られ、畑に倒れ伏していた。まるで台風が来た後のような光景にディアンは目を丸くする。
だが柔らかいトマトなどの実は潰れることなくそのまま。
力任せに剣を振ったのではこうはいかないだろう。自分が呑気にセレナと話している間、ここで振るわれたであろう神の一撃は、一体どれほど力強く繊細であったのか想像もできない。
平和な生活をしていると忘れそうになるが、彼はまごうことなき剣の天才であるのだ。
固まってしまったディアンを尻目にセレナはさっさと台車を畑に運び込んでくる。
「あとは家に戻って、刈り取った苗から作物を回収してやればいいわ。お疲れ様タイタン。さっすが剣神様、ね?ふふ。」
「あんた本当、本当に、ふざけるなよ・・・!」
台風の目。畑の中心。土の上に転がった大剣と。
ぜえ、ぜえと息を切らし、千切れた葉っぱまみれになったタイタンが、座り込んで、人を殺した後のような血走った目で空を睨んでいた。
食卓の上、黙々とハサミを動かす音だけが響いている。
緑色の苗の中から葉と豆を見分け、豆の根元を切り取り、それを既に豆が山積みのカゴにそっと乗せる。
根についた土の香り、青臭い葉の香り。
普段は木の香りに包まれる家に満ちる、夏の生命の香りだ。
農作業を楽しそうにしていたタイタンとセレナの気持ちが、ここにきてようやく理解できたような気がした。
朝から働きづめで体は重い。膝は痛いし肌は痒い。シャワーを浴びてもまだ髪がざりざりとしていて気持ちが悪い。だが、それなのに土の香りを嗅いでいると気分は不思議と悪くなくなる。
あれほど恨めしかったエンドウ豆の鞘がまるで翡翠のように輝いている気さえした。
「ディアン、その籠を頂戴。エンドウは塩茹でして冷凍してしまうから。」
だから、セレナのそのひと声に、ディアンは少しだけガックリした。
途中からタイタンに頼ったとはいえ、その籠に入っているのはディアンが初めて、しかも朝から頑張って収穫したエンドウ豆だ。セレナならその翡翠の入った宝箱を、なにか見たこともないような素晴らしいご馳走に仕立て上げてくれると期待していたのだ。
これから遠くに旅立つゆえ冷凍保存しなくてはならない。自分の努力の成果は、ただの塩茹でになっておしまいらしい。
そんなディアンの気持ちは露知らず。セレナは無慈悲に、沸騰する湯の中にエンドウ豆をどさどさと放り込んだ。
「・・・ディアン、どうかした?」
「別に。平和だな、と思っただけ。」
いや、忘れそうになるが、これは平和ではないのだ。世界は何も変わっていないのだ。
セレナとタイタンの側にいると、これが自分の辿り着くべき幸せな場所だったのだと誤解しそうになる。
ここで立ち止まってはいけない。それが十分に分かっていても、つい立ち止まりそうになってしまう。暑くて臭くて気持ちの悪い世界の中で、この場所はあまりに暖かくて、優しすぎる。
「ふふ。私も、今夜にも危険な場所へ旅立たないといけないかもしれないというのに・・・あまりに平和で、怖くなるわ。もう2度とここに帰れなかったらどうしようって。これが最後かもしれない、だなんて。考えたくもないのに、思ってしまうわ。」
ぼこぼこぼこと、鍋が湯立つ音。
差し込む午後のうららかな日差し。
数日前の暑さが嘘のように、秋を迎えようとする北部の森の空気はゆっくりと冷え始めていた。
セレナの声を聞いて、痛感した。そうだ。
暖かな木漏れ日、草木の香り、土の匂い。家に立ち込める木の香り。
これが、セレナとタイタンの世界なのだ。
2人はこの世界を危険に晒してまでも、崩落を止めようと戦っている。
・・・それは、どれほどの勇気が必要な行為なのだろう。
自らの平和を運命のまま失ったディアンには、きっと理解の及ばない恐怖がそこにあった。
吹き込む風が柔らかくカーテンを揺らして、木の板に当たる光をちらちら瞬かせる。
これが、この2人の、なにものにも代えがたい大切なもの。
ぱちぱちと、タイタンがトマトの実を切り落とす音。黙り込んだセレナの銀色が肩で揺れて。
ディアンは、優しい2人の美しい世界が永劫であればいいと願った。
だが無情にも太陽は傾く。
ディアンのポケットの通信端末が、今、音を鳴らす。
「・・・・・召集命令だ。現在地を知らせるように、だって。24拠点での待機命令を破ったのはとっくにバレてたみたいだ。」
「大丈夫なんでしょうね、それ。」
「まあ、僕がふらふら出歩いてるのはいつものことだし。森の近くにある87拠点を集合地点に設定するよ。そこで待っていればその日のうちには協会の迎えが来るはずだ。」
妙な緊張感が居間を包んだ。トマトを切り続けるタイタンの手先以外の全てが停止した空間で、傾いてゆく太陽だけが黙り込んだ3人を見つめている。
こんな武勇、やはりやめた方が良いんじゃないか、とか。
私たちはハンター協会の敵なのに、もしうっかり保護区で羽根や尾を出したら、とか。
数多の不安が、文句が、喉元までこみ上げては呑み下されてゆく。
「・・・俺たちは、崩落の情報を得る必要がある。崩落はエネルギーを飲み込むが、そのエネルギーとは一体なんなのかを。それは高い確率で計画に必要になる情報なのに、この森でその情報を得るすべは・・・もう無いと思われるからだ。」
タイタンの低い声が、それを読んだかのように一喝した。
「同時に、計画を迅速に進めるために、ハンター協会と和解し、この森への侵攻を辞めさせる必要がある。俺たちは西方を守護していたジャグーンを失った。南方の管理だけでも手一杯なのに、西方から侵攻が始まったら自分たちを守るのに精一杯で、もう世界を救うどころじゃなくなる。」
「・・・分かっているわよ。今更再確認なんか、しなくても。」
もう止まることなど許されていない。
不安の渦に流されそうになる2人を、タイタンの言葉の重みが、しっかりと地に足を着けさせる。
崩落の起きない世界で大好きな友人たちと平穏に暮らすことを望むのなら、どれほど危険が孕むとしても自分たちは協会と戦わねばならない。
「保護区に行くのは避けられない。だから俺が、絶対にあんたたちを生きて帰す。俺たちが再びここに帰る為に、俺に応えてくれ。頼む。」
タイタンの楔色が、太陽を浴びて強く煌めく。
楔色がディアンを、そして振り返ったセレナを、順番に見つめ、そして伏せられた。
「それも今更よ。」
セレナは強気に笑ってみせ、タイタンの刈り取ったトマトの籠を持ち上げた。
ぽい、ぽい、と、大鍋の穴の中に放り込まれて行くトマトたち。籠5つ分もある痛みやすい野菜をどうするのかと思っていたが、どうやら煮詰めてソースにしたものを凍らせておくらしい。
「保存がきく野菜は倉庫に仕舞っておいた。後は麦を束ねて仕舞えば終わりだ。ディアン、明日の昼に拠点に到着すると連絡を。俺たちのことももう伝えてくれ。セレナさんはそれが終わったら魔道機械の積み込みと簡易結界の点検。あとの生活用品の用意は俺がやっておくから、男手が必要なら悪いがディアンを頼ってくれ。」
そう言ってタイタンは1つだけ取っておいたトマトを丸かじりして、居間を出て行った。
ガタリとタイタンの自室のドアが閉じる音。
彼は軽く言ったが、数週に及ぶ旅の用意を3人分だ。そういった知識に長けているタイタンにやってもらえば問題はないだろうが、彼に任せきりにしてしまうのは少々申し訳なく思う。
ディアンは端末をぽちぽちと弄り、そして机に伏せた。間も無く返事が来るだろう。
この端末の着信音が、ディアンは嫌いだ。
ああ聞きたくないな、と、そう思う。ディアンは椅子の上に体育座りをして膝を抱えた。
「ふふ、ディアン。エンドウが茹で上がったわ。冷凍する前に茹でたてをつまんでしまいなさいな。」
一方、緊張に身を縮こめたディアンとは正反対の真白の少女。
セレナはタイタンが居なくなった瞬間仕事を放り出して、こそこそと棚から塩を取り出していたらしい。
彼女はいたずらっこのような表情で、籠をディアンに差し出した。
「ええ。だから、青臭い野菜は好きじゃないってば。」
「いいから。採れたての茹でたてが一番美味しいのよ。」
セレナの好意を無下にするのも、とディアンは渋々皿を受け取る。
せめて何かソースがあればなあ、とディアンは柔らかくなった豆の鞘を口に放り込み・・・驚いた。
「・・・・・うま。」
口の中に濃厚な豆の旨味が広がった。シャキシャキとした翡翠の鞘が瑞々しい。エンドウ豆などただ青臭いだけの野菜だと思っていたのに。
「採れたてというだけでこれほど美味しいものなのよ?ふふ、家庭菜園も悪くないでしょう。」
無言でもぐもぐと口を動かしているディアンにセレナは笑いかけた。
普段はどこか気だるい黒曜の瞳がきらきらと見開かれている。
セレナもひとつだけ豆をつまんで、頬張る。
「・・・ん、美味しい。茹でたてをこうして台所でつまむのが一番美味しいわ。タイタンには内緒だけれど。」
タイタンの食の好みはなんというか、いちいちおっさん臭い。茹でたてのエンドウ豆など、いかにもあの男が好みそうだ。
「くく、確かに。あの大食いに知られたら、皿に乗せる前に無くなるな。」
「でしょう?」
セレナと顔を見合わせてディアンも笑う。こうして並ぶと同い年にしか見えない彼女は、でも確かにディアンよりもお姉さんで、狭い保護区では知り得なかった沢山のことを知っている人生の先輩なのだ。
「ディアンが一生懸命収穫したから食べられた味だわ。ふふ、膝を痛めてまで頑張ってよかったでしょう?」
木のザルに上げられたエンドウから、豆の甘い香りの湯気がぶわりと沸き立つ。
タイタンが過去を捨てるほど、セレナに惚れ込んだ理由が、少しだけ分かった気がした。
何もかも停滞した世界の中、色を目まぐるしく変えて行くこの森は唯一だ。
彼女はその1つ1つに目を輝かせ、向き合って生きている。
その在り方が美しいのだ。きっと彼女もまた、世界の唯一だ。
「でもここまで育てたのはセレナだろ。生き物を育てるって大変なことだ。自分以外の命に責任を持つことなんて、誰にだってできることじゃないから。やっぱりセレナが凄いんだよ。」
「・・・なら、ディアンも何か育ててみればいいじゃない?」
そう言われても、ディアンは定住する場所を持たない。保護区の家など何年も帰っていないし、きっとこれからもそうだ。任務に呼ばれるまま、協会の結界外拠点を転々として生活するディアンに、腰を据えて植物に向き合う場所も、時間も、心の余裕もない。
「ふふ、そうだわ。いいことを思いついた!タイタン!ちょっとお外に出てくるわ!」
セレナは沈むディアンの手を引いた。
突然のことに驚くディアンの耳に、呑気そうなタイタンの肯定だけが聞こえてくる。
「ちょっと!協会から返事がくるのを待たないと・・・」
「いいから!急がないと日が暮れてしまうわ!」
はっと気がつけば家の外、ずんずんと引き摺られてゆく。
目の前の白いうなじに張り付いた銀糸。白魚のような指先は興奮のせいか酷く熱を持っていて。
「わ、わかったから!手を離せったら!タイタンに殺されたらどうするんだ!」
わあわあ騒ぎながら家を転がり出て行く黒と銀の頭がふたつ。
窓からひょっこり覗いたタイタンは、1人呆れて溜息をついた。
「俺をなんだと思っていやがる、あいつめ・・・。」
セレナに引き摺られ、戻ってきたのは先ほど作業をしていた農園。
作物を根元から刈り取っただけなので、土の上には切り取られた植物の根元が沢山残っている。
そこを跨いで通り過ぎ、セレナが立ち止まったのは先ほど収穫をした畑の、更に奥。
「こっちの区画は使わないで残しておいたの。そうやって交代で畑を休ませることで次の作物がよく実るのよ。」
「・・・本当なんなの、急に。何をさせるつもり?」
「ふふ、ここにディアン専用の畑を作ればいいと思って!設備の整ったこの森なら、たまに来るだけのディアンでも作物を育てられるでしょう?」
彼女は自分の素晴らしい思いつきに瞳を輝かせ、ずりずりと土の上に足で線を引いた。どうやらそこまでがディアンに与えられた区画、ということらしい。根無し草のくせに突然土地を所有することになってしまった。
そんなことをしている暇は、と言いかけた唇はうまく動かない。
だって、正直、ちょっとやってみたい。
収穫の喜びを知ったあの時も、でもこれはセレナ達が育てた作物だから、という気持ちが拭えなかったのは事実。農作業に関わることができるセレナとタイタンが羨ましかった。
だからセレナの申し出は、ディアンにとっては願っても無いことで。
「・・・・・。」
ディアンは無言で鍬を構えた。半年放って置かれた土は、先程の畑に比べると少し硬く、ディアンのブーツを沈ませることなく跳ね返す。
耕す作業も、先程の収穫とはまた違ったきつさがある。
先程まで酷使していた筋肉と、今度は別の筋肉を酷使している。
セレナが隣で鍬を振るのを必死で真似するが、やはり何かコツがあるらしく、彼女のようにはうまくいかない。それでもディアンは懸命に鍬を振った。ぽたぽたと流れ落ちる汗が、段々と柔らかくなった土に吸い込まれる。
「このくらいでいいわ。肥料タンクから肥料を持って来ましょうか。」
「・・・それって、その、タイタンが触りたくないようなものなんだろ?」
中身の想像がついてしまっていたディアンは嫌そうな顔をしている。セレナは慌てて弁明した。
「言っておくけれど、タイタンが壊したのは肥料を作るための部位よ!肥料そのものは、そんなに恐ろしいものではないの!本当よ!?」
彼女の言った通り、タンクの下についている引き出しを開くと、中に入っていた肥料は、畑の土と見た目では判別がつかない代物だ。なんだ、大したことはないじゃないか。安心したディアンは肥料袋を担いで歩き出した。その表情の変化の一部始終を見ていたセレナは心の中だけでディアンに謝った。
・・・慣れているセレナならともかく、生命の循環というものからかけ離れて生活していたディアンには、きっとショックが大きいだろうから。
「ええと、これを撒けばいいの?どのくらい?」
「撒きすぎると作物が死ぬわ。このカップ一杯で十分よ。」
ディアンは自分に与えられた正方形の区画に満遍なく堆肥を混ぜ込んだ。そしてそこに丁寧に水を撒いて地面を濡らして行く。濡れた地面から雨上がりの匂いが沸き立つ。ディアンはすこし冷えたその香りを思い切り深呼吸をして吸い込んだ。
「・・・っふふ。すごく分かるわ、その気持ち。さて、後は種を植えてしまえばおしまいなのだけれど・・・どうしましょうか?いろいろ用意はしてあるけれど。」
セレナにそう言われ、案内されたのは魔道鍵のかけられた暗い小部屋。沢山ある棚にはラベルの貼られた小瓶がいくつも並んでいる。ここが種子の保管庫らしかった。
「秋の作物はこの辺りかしらね。」
セレナが指差したのは右奥の棚。
「と言われても。作物のことは詳しくないし・・・折角なら美味しいのがいいけどさ。」
ディアンはそう言われ、棚を物色する。几帳面そうな字で、様々な作物の名前が並んでいる。マンドラゴラ、というラベルは見なかったことにした。
「そうね。人参はどう?秋に植えて、冬にポトフにするの。猪と一緒に煮込んだらとっても美味しいわ。」
「いいじゃん。昔は一番苦手な野菜だったけど、ミーシャに揶揄われてさ・・・。」
ぼろりと口をついて出た言葉を慌てて飲み込んだ。
折角気遣ってくれたセレナに、暗い話など聞かせたいわけがない。
「いいじゃない。聞かせて、貴方の可愛い妹のこと。妹の話をする貴方、とっても楽しそうだったわ?」
頰に手を当て、セレナは俯いたディアンの顔を覗き込んだ。その瞳は決して、いつも向けられる哀れみだとか、同情だとか、怯えだとか、そういう色は孕んでいない。
「・・・僕は配給のスープの人参が食べられなくて、ミーシャは玉ねぎが食べられなかった。でもミーシャが自分の好き嫌いを棚上げして僕を揶揄うから、意地になって人参を克服してやったんだよ。」
こんな話、人前でするのは初めてだった。
普段は腹の奥底に押し込められているそれが、不思議と彼女の前ではするすると溢れてくる。
「ミーシャは僕の真似をして克服しようとしたけど出来なくて、だからいつもスープの玉ねぎは僕が食べてやってたんだ。悔しそうなミーシャを思い切り揶揄ってやりながら、さ。今思い出すと自分のことながらあまりにも子供っぽいけど・・・でもあの時は、自分がお兄ちゃんらしく振舞っていることがとにかく嬉しかった。」
瞼の奥が熱くなった。全て葬り去って拭い去って消してしまおうと願っていた過去。
その欠片が、未だ自分の中で温かいものとして根付いていることに、今更気づくだなんて。
ディアンは人参の小瓶を手に取った。
「ああうん。そうだな、これを植えようか。今は人参も美味しく食べられるからさ。」
「ふふ、それがいいわね。冬になったら一緒に美味しいスープを食べましょう!」
そう言って屈託無く笑うセレナの伸びた前髪が、妹のぼさぼさのくせ毛を思い起こさせる。
すぐに帰ると言ったはずだったが、これほど時間がかかってしまった。
1人働かされたタイタンは怒っているかもしれない。そのはずなのに心は晴れやかで。
「やっと終わったあ・・・。」
ただの畝にしか見えない地面の下には、ひとつひとつ丁寧に埋めた人参の種が眠っている。
「暫くしたら発芽するわ。貴方が次に来る頃にはきっと可愛い葉っぱが地面いっぱいに広がっているはずよ。・・・・・ええと。その。」
セレナはくるりと背を向け、落ち着かなそうに足を動かし。
「・・・無事に帰る理由に、なってくれる、かしら。」
呟いた。その声は自信なさげで、注意深く聞かなければ森の静寂に溶けて消えてしまっていただろう。
「・・・セレナ。」
結局無理矢理に、準備を中断してまでセレナがディアンを連れ出したのはそういうことだった。
無事に一緒に帰ろうと言ったタイタンの言葉に、1人だけ返事をしなかったディアンを心配して、嫌な予感が胸を衝いて、居ても立ってもいられなくなって、セレナはディアンを連れ出した。
「馬鹿だな。僕がああいう時素直に返事をする熱血タイプだと思ってるの?」
「あら、割とそう思ってるわ?」
軽口を言う声が、心臓の鼓動でどくどくと震える。
不安なのは皆同じだ。ディアンもセレナもタイタンも、不安なのは当たり前で。
だからそう気遣うことでもないと言うのに、年下だというだけで余りに心配しすぎだ。この森の人間はどいつもこいつも過保護が過ぎる。
「・・・ありがとうセレナ。美味しいポトフの為なら、世界の果てからだってここに戻ってくるよ。」
だが、疲れて座り込んだ自分を引き上げたセレナの手の温かさは、妙に心地よかった。
綺麗に片付けられた食卓に、ティーポットとカップがふたつ。
ディアンは今日も疲れ果ててさっさと眠ってしまった。ここ最近はずっとこの調子だ。
健康的で良いことである。
ランプで明るく照らされた居間で、静かに本を読むタイタンと、3人分の結界装置を弄っているセレナは、のんびり会話を交わしながらただ隣に座って各々の作業に耽っていた。
「ふ・・・あ。」
「眠いなら先にシャワーを浴びてきたらいい。」
「いえ・・・あとちょっとだもの。タイタンこそ、程々にして眠りなさいな。」
仕事が残っているセレナならともかく、タイタンの夜更かしはただの趣味だ。
明日から厳しい旅路が始まるというのに、その非効率な行為を咎めることができないのは・・・きっと自分が逆の立場でもそうしていただろうと理解できるから。
「・・・ディアンは、平気そうか?」
突然、タイタンがそう聞いてきた。
彼がセレナの思いつきを強く咎めなかったのもそういう訳で、結局彼もディアンが心配だったのだ。
「昼間は酷い顔をしていたけれど。きっともう大丈夫よ。」
「俺にはああやって声を掛けるのが精一杯だから、助かった。あんたがうまくやってくれたみたいで。」
タイタンには、彼女のように上手くディアンの心をほぐしてやることはできない。
適材適所と割り切ってはいるつもりなのだが、彼女のそういう気遣いの上手さが今ばかりは素直に羨ましい。
「あればかりは・・・時間が解決してくれるのを祈るしかないでしょう。今までずっと1人で生きてきたんだもの。こうやって落ち着いた場所で、美味しいものを食べて、笑って・・・そうしているうちに、少しずつ心が解けて・・・そうしたら、きっとディアンも、ね?」
「そう、だな。」
タイタンはぱたりと本を閉じた。空になっていた自分のカップと、セレナのカップにハーブティを注ぐ。
「ディアンは俺たちに助けを求めてくれた。その期待を裏切る真似をしたくない。」
・・・いつも小憎たらしく振る舞う彼の本心があれほど悲痛なものであるならば、その痛みを見過ごすような真似はできない。似た者同士故か、タイタンはディアンが普段は隠したがるあの泥臭い愚直さが嫌いではないのだ。
「ええ、そうね。誰かに助けを求めることの大変さは、私たち、ふたりともよく知っていることだわ。」
セレナの手の中で、結界装置が柔らかな青い光を放つ。
「・・・俺は、あんたにも同じことを思っているんだけどな。」
「私?」
セレナの、茶化すような笑いを、タイタンのまっすぐな声が貫く。
「ディアンと接して痛感したんだ。誰かを導こうとすると自分は強がるしかなくなる。きっと俺と接しているあんたも同じ気持ちだったんだろうな、と。」
セレナはいつだってタイタンのお姉さんであろうとしていた。
ディアンの兄貴分を気取ろうとした自分と同じように、セレナはこの世界に1人放り出されて怯えていたタイタンを導こうと、慣れないながら一生懸命に頑張っていた。
初めてタイタンを南方に連れ出した時から、ずっとだ。ハンターに襲われたあの時も、タイタンのために1人で解決しようと足掻いた。
暑くて参ってしまったタイタンの面倒を見ようと奔走し、西方でも懸命に魔道を振るって、西方の事件で落ち込んだタイタンを慰めて、そして今、ディアンと上手く向き合えなかった自分の尻拭いをしてくれて。
それは偏に、タイタンが未熟である故だとよくわかっている。
「保護区で自分の過去に向き合えたら・・・俺が、改めてあんたの隣にいることを選べたら。きっと今ほど迷惑をかけることもなくなるから。・・・だから、俺が1人で立てるようになったその時は。」
「ふふ。それはちょっと寂しいし・・・それに、そう簡単に、人は変わらないわ。これからも、貴方に助けられて、貴方を助けて、そういう風に貴方と歩んでゆきたいと思っているもの。」
セレナはそう言って笑った。
「貴方はそれが歯がゆいのかもしれないけれど。でも、誰かの助けになるって、きっとそういうものでしょう?貴方だってディアンに同じことを言われたらそう思うでしょう?」
だから変な気は使わなくていい。私は貴方の力になれて幸せだと。
彼女はそれだけを言うと、結界装置を荷物に仕舞って、棚から取り出したタオルを抱えた。
「貴方のおかげで気付けたことが沢山あるもの。私が私に嘘を吐いたとき、それに気づいてくれるのはいつだって貴方だった。本当に、感謝しているのよ。だから・・・ふふ、落ち着かないのはわかるけれど、読書はほどほどにしてベッドに入りなさいな?」
抱きしめたバスタオルに、照れて小さくなった声が吸い込まれ。
彼女の背中がドアの向こうに消える。その言葉遣いも、ドアノブを捻る仕草すら、いつも通り上品で。
だけれど。だけれど。
「あんただって、”お姉さん”ができるほど器用な人間じゃないくせに。」
世界なんか大嫌いだと、お母様のようになれないのが苦しいと。
魂からそう叫んだセレナは、忙しない日々の中で再び姿を隠してしまっていた。
翌日。
崩落の横を震える足で歩きながら辿り着いたのは、白いセメントでできた物見櫓のような拠点。
そこにたどり着くまでタイタンが何度か気絶しかけたのは言うまでもないこと。タイタンを介抱しながらゆっくり辿り着いたその建物は、滅びかけの世界とさほど変わらない地獄であった。
3人は背負った大荷物を・・・タイタンはそれに加えて両手に大きな鞄を1つずつ。
それをどさっとテーブルの上に置いて、水を飲みながら迎えを待っていた。
拠点には簡易食の缶詰のある魔道鍵のかかった倉庫と、あとは簡単なテーブルと椅子、ベッドが2つあるだけ。まるで罪人の独房のような有様だ。
朝日が昇ると同時に出発し、歩き続けて半日。
行く前から十分聞かされていたが、太陽を遮るもののない荒野は恐ろしい暑さだ。
ハンター協会第87拠点。機械的につけられた名前の通り、ただ滞在するためだけの場所には最低限の冷房装置すらなく、このまま放っておかれたら、この白い壁の中で発狂しそうだとタイタンが呻き声を上げたその時。
遠くからこちらに向かって駆け抜けてくるモーター音が耳に入った。
だんだんと近づいてくるその音が、セレナとディアンにも聞き取れる音量になり、そしてそれが耳を塞ぎたくなるような大音量になり、そして、ぶるるるる、と一際大きな鳴き声を上げて、停止した。
コンコン。無遠慮なノックの後、返事を待つことなく扉が開かれる。
「結界外調査隊第24小隊所属、ディアンと・・・そちらがお話にあった2人ですね。こちら結界外調査隊第13小隊です。お迎えに上がりました。」
この叫びだしたくなるような暑さの中、長袖のワイシャツの第一ボタンまできっちり閉めたオールバックの男が、礼儀正しくこちらに礼をした。
「協会と交渉をしたいという旨は伺っております。結界外調査隊第5小隊隊長も同乗しておりますので・・・どうぞ。荷物は後部に積んでください。」
白い建物の前には、旧時代でいうボックスカーに近い白い乗り物が停車していた。
投げ込むように荷物を後部に積み込み、慣れたように車両に乗り込むディアン、それに続いてタイタンがずかずかと乗り込み、最後にセレナが残される。
「・・・・・。」
セレナは一度だけ、遥か遠くになってしまった、大好きな森の方に視線を送った。
そして目を伏せ、諦めたように車に乗り込む。
白いボックスカーが、崩落で穴だらけの大地に深くタイヤの跡を刻んで行く。
ここからは一度たりとも気を抜くことなど許されない、険しい旅路。
遠く離れてゆく、ムラサキナノハの咲く丘。
その方向に心だけを傾けて、セレナは小さく祈りを捧げたのだった。




