鉛
セレナは、無人の荒野に立っていた。
朦朧とする頭で、その目線の先に、すらりとした体躯の魔道機械人形が立っているのを捉える。
「・・・・・ジャグーン。」
彼女のナイロール糸の髪が、荒野に吹き抜ける風に揺れている。
「そこは危ないわ。私と違って、貴方は崩落に呑まれてしまうんだもの。」
ジャグーンはセレナの言葉に表情ひとつ変えない。
「ねえジャグーン。ねえってば。」
「セレナ。」
鉄仮面の唇は動かない。ただ組み合わせた機械音声がスピーカーから流れるだけ。
「奴隷になるな、セレナ。セレナは奴隷じゃないのだから。」
瞬間。ジャグーンの足元が崩れ落ちる。
轟音すらなかった。悲鳴もない。ただ突然機械がバグを起こしたかのように、地面が突然切り取られた。
切り取られたように開いた、人間一人分の穴が、ジャグーンをセレナから没収するように。
ごみ箱に要らなくなった人形を捨ててしまうような手軽さで。
「奴隷じゃない。奴隷じゃない。セレナは奴隷になってはいけない。」
すとん、と、あっけなくジャグーンが落ちていく。
はく、はく、と、乾いた喉は張り付いてうまく声が出ない。
足は、セメントで固められたようにぴくりとも動かない。
セレナはただ、ジャグーンが落ちていくのを見ているだけ。
「ーーーーーーっひ・・・っ。」
弾き出されるように意識が覚醒した。
はあ、はあ、はあ。荒い自分の息だけが、静かな部屋の中に響いている。
そこで漸く酷い夢を見たのだと気づく。むわむわと蒸れる後頭部を枕に擦り付け、セレナは身を起こした。
寝汗が酷い。暑くてうまく眠れない日々が続き、疲労は体に溜まる一方だ。
夏の深夜は、太陽が身を隠しているというのにうんざりする暑さ。あと数日の辛抱ではあるのだが、そう必死に念じてみたところで気温が下がるわけでもない。
「ああ、もう嫌。眠りが浅いと嫌な夢ばかりみるわ。」
ジャグーンが崩落に落ちてからもうすぐ1週間は経つ。
あの後、呆然としたまま2人は、ひとまずお母様の別荘に戻り、その扉を開いた。
中にあったのはセレナすらよく分からない魔道装置と工具の数々。
そして壁を埋め尽くす本棚と、セレナの部屋にあるものと同じ、生体反応装置だった。
とにかく、一度家に戻る。ここの探索は一度仕切り直してからだ。
生体反応装置を作動させ、比較的安全になった帰路を2日かけて歩き、無事に帰宅した2人はそのまま倒れこむように眠ったのだった。
「・・・・・きっと寝苦しいのはタイタンも同じだわ。悪い夢をみていなければ、いいのだけれど。」
落ち込んでいるのはセレナだって同じだ。
だが、それ以上にタイタンの落ち込みようが凄いものだから、セレナはある程度冷静にならざるを得ないのだ。
「どうしたら、いいのかしら。」
セレナは少し考え込み、ベットをそっと降りて、立て付けの悪いドアを音を立てないように開いた。
そしてタイタンの使っている部屋の方を、ちらりと覗く。
「・・・・・タイタン、起きてるわ。」
ドアの隙間から、僅かに明かりが漏れている。
規則正しい生活がモットーの彼が、珍しく夜更かしをしているようだった。
こっそりピピに会いに行こうかと思ったが、これでは諦めるほかない。
いや、今話すべきは、ピピではなくてタイタン本人なのだろう。あの子は率直な意見をくれるので、悩み相談の相手としては最適なのだが、今必要なのは最適解ではなくてタイタンの心を埋めてやる交流の時間なのだ。
セレナは冷たいお茶をグラスに2つ注いでトレーに載せ、慣れない手つきでタイタンの部屋のドアを叩いた。
こん、こん。
「タイタン。起きているの?それともランプの消し忘れかしら?」
返事はなく、もぞもぞ、という音。
そして少し慌てたように服を着る衣擦れの音の後、遠慮がちにドアが開いた。
「・・・・・悪い。本を読んでいたらこんな時間で。」
「ふふ、夜更かしさんなタイタンは珍しいわね?」
片付けていないんだ、と言い訳して、タイタンはセレナを迎え入れた。
お互い寝間着でラフな格好だ。2人共、部屋で1人の時しか寝間着を着ないので、こうしてお揃いの白いコットンの緩い服で顔を合わせるのは珍しいことだった。
片付けていないとは言ったが、セレナの部屋より余程整理整頓がされている。
本棚の背表紙はきちんと整えるようになった。机にどさどさ積まれた本と、畳んでいない洗った服以外に、乱雑という印象を受ける部分はない。
いつのまにか、ここは既に亡くなったお母様の部屋ではなく、タイタンの匂いのする部屋になっていた。
「ソファとテーブルも片付けてしまったんだよな。茶を飲むなら居間に行こうか。」
「床でいいわ。ふふ、同じ家なのに、誰かのお家に遊びにきたみたいで楽しいもの。」
「・・・なんだそりゃ。」
お母様の残していた調度品は趣味に合わなかったようで、ふかふかだった赤い絨毯も、飾られていた木彫りの人形も、今は倉庫に仕舞われている。
素足に直接触れる冷たい木目が心地よい。はしたないぞ、という小言を無視してぺたりと足を伸ばした。太ももの裏がひやりと冷える感覚に目を細める。
こうやって落ち着いて2人で話したのが、そもそも久しぶりだ。
あの日以降塞ぎ込んでしまったタイタンは、ふらっと外に出ては夕方に帰ってくるのを繰り返していた。昼食は持って行っているようだが、その背中がいつになく丸まっているのを見ていると、崖から飛び降りでもしないかと心配になる。
「・・・冒険小説を、読んでいたんだ。」
タイタンはそう言って、お茶を一口で飲み干してしまった。
椅子に座ったタイタンの顔は、ランプの明かりのおかげで普段より彫りが深く見える。
「・・・その表紙・・・は、ええと。黒猫夫人の2巻ね?」
黒猫夫人旅行記は、架空の世界で黒猫夫人と呼ばれる未亡人の美人小説家が、様々な土地を旅行する冒険小説だ。
黒猫夫人は旅先で様々な男性と出会い、数日の恋に落ち、引き止められるのを断って次の街へと旅立つ。色鮮やかな旅先の風景と、黒猫夫人の気ままな恋模様が美しく、セレナも夢中になって全5巻の物語を読み漁った記憶がある。
「くく、読んだらあんたを思い出したよ。気まぐれなようで、興味があるものには猪突猛進なところがあんたそっくりで、笑える。」
「わ、私はもうちょっと一途よ!黒猫夫人は好きだけれど、私はミッケルを市場に置き去りにしたりしないもの!」
それは一巻の最終話の話だ。
黒猫夫人は初恋の男性のミッケルと、故郷の町で再会する。
ミッケルは美人に成長した黒猫夫人に驚き、2人は昔を懐かしんで恋に落ちるが、物語のラストで黒猫夫人は自分を探すミッケルを置き去りにして次の町へと旅立ってしまうのだ。
「男の俺と女のあんたじゃ、物語の受け取り方も違うものなんだろうかと思っていたんだが。そうでもないのか?」
「置き去りにされて寂しいのは男も女も同じだわ。でも、ちょっとだけ、憧れるのも嘘ではなくて。・・・ふふ、気ままに旅をして、なんて。私たちには夢のまた夢のお話だもの。」
セレナも想像する。
気まぐれに訪れた町で、美味しいものを食べて、街を眺めて・・・素敵な人に出会ったりして。
想像もつかないかつての世界では、そんな風に生きていた人もいたのだろうかと思いを馳せる。
本好きの性だ。自分では旅立てない果てしない想像の世界に誘われる瞬間がセレナは好きだ。
「そうだな。俺も、そんな世界に、生まれたかったな。」
そんな世界を、俺が取り戻してみせるから、と。
西部に行く前なら言えていた言葉が胃の中に落ちて溶けてゆく。
「あの。ね。」
セレナは少し迷うように瞳をくるくると回し、そして口を開いた。
「・・・・・ねえ、タイタン。私にね、計画のことを教えて欲しいの。」
「・・・セレナさん?」
セレナは一口、お茶を口に含んだ。それをゆっくりと、時間をかけて味わい、飲み下し、タイタンをじっと見据えた。
「私。お母様の計画を、やろうと思うの。お母様の用意した役割というものに、向き合ってみようと思ったの。」
セレナの唇が紡いだ言葉を理解するのには随分時間がかかった。
苦虫を噛み潰したような顔をするタイタンと反対に、セレナの表情は随分と真剣だった。
「・・・どういう心境の変化だ。嫌がっていたくせに。」
「もう、あんな気持ちになるのは嫌だわ。・・・それ以上の理由なんかないわよ。」
昼間の熱気がまだ残る部屋の中、セレナの瞳だけがしんと澄んで、冷えている。
「どうやったら崩落を止められるかなんて、知らないし、わからないわ。だけれど・・・私は初めて、崩落を怖いって思ったわ。あんなもの、この世界にあっちゃいけないって、貴方の言葉の意味があの時やっと分かったの。」
「俺は、あんたの言葉に納得して投げ出すことを決めたんだがな。」
思った通り、タイタンはセレナの決意を突き放した。
「・・・嫌だよ、俺は。あんたがお母様みたいになろうとするのを見るのは、嫌だ。あんたは、ありのままのあんたらしくいるのが一番素敵なのに、計画を重んじる連中はみんなあんたが変わることを求める。」
「変わらないわ、私は。第一あの日から何にも変わってないもの。人間なんて大嫌いだし、貴方は怒るかもしれないけれど、自分のことだって大嫌いなままよ。自分が世界を救うなんて綺麗な役目に相応しい人間だなんてこれっぽっちも思っていないわ。」
セレナはふわふわの真っ白な寝間着の胸元を、ぎゅっと握った。
「だけど、嫌なんだもの。もうあんな気持ちになりたくないわ。自分が大事だと思ったものが、大嫌いな世界に奪われるのが、気に食わないだけ。私は世界を救いたいんじゃなくて、2度と奪われたくないだけよ。」
お母様が求めた理想とはきっと違う。
あの人は、きっと万物を博愛する慈愛の精神を求めていたのだろうと思う。
そんな境地には今の自分ではきっと至れない。相変わらず森の外の世界は憎いままだ。お母様のそれと比べるとあまりに我儘で下卑た理想だ。
だけれど、今のセレナには随分と大切なものが増えてしまった。
お母様との思い出、この森。タイタン。そしてジャグーンも。
それを崩落から守りたいと願ったら、どうやら世界もついでに救わないといけないようだから、仕方なくそうしてやるだけだ。結局自分の為だ。綺麗な理由など何1つない。
それでも、自分の前から大切なものが消えてしまうのは、もう嫌なのだ。
「その為に、お母様みたいな優しい人になる、か?」
「ふふ。きっとお母様は不純な動機だと怒るけれどね?でも、使えるものはなんでも使うわ。その方が私らしいでしょう?」
もう気づいているじゃないか。タイタンは小さくため息をついた。
彼女はお母様のようになりたいから守るのではなく、自分の守りたいものを守る為に戦うことを選んだのだ。
「・・・あんたは、やっぱり強いな。」
お母様のように、ではなく。セレナはセレナのまま、自分らしく誰かを救う術を見出した。
ただただ1人になるのが嫌で、縋るものをなくしたくなくて、その為にセレナを守っていた自分なんかより、余程・・・。
「何かを大切だと思うあんたの気持ちは、あんたのものだろ。お母様のものじゃない。・・・あんたが何かを守るのに、お母様みたいになる必要なんか1つもないんだよ。あんたはあんたらしく、あんたの守りたいものだけを守ればいい。計画でもお母様でも、その為にいくらでも利用してやればいいさ。」
「他人事のように言わないで頂戴?私は貴方もこき使ってやるつもりなのよ?」
セレナはそう言って、不敵に笑って見せた。
これからもタイタンが隣で戦ってくれることを信じて疑わない、その真っ直ぐな瞳を、
「・・・・・・・ああ、そうだ、な。」
タイタンは見つめ返すことが出来なかった。
その日、もういい加減寝ろと部屋を追い出された時。
もう一度、西部へ行こうと、セレナはタイタンを誘った。
彼女はもう先に進もうとしている。彼女はもう未来を見据えている。
その前向きな在り方が輝かしいと、心から誇らしく思うと同時に胸に暗雲が立ち込める。
「少しだけ、待ってくれ。」
タイタンがそう言った表情は、セレナにはよく見えなかった。
今日もタイタンは1人、森の外へ出かけていく。
セレナはなにやら金属を大量に作業場へ担ぎ込んでいたが、魔道を使った作業であれば、タイタンが手伝えることはなにもなく。
最低限の家事を済ませ、タイタンは1人、蓬山へと歩いていた。
別にどこへ向かおうと歩いているわけではない。
昨日は川で釣り糸を垂らしていたら1日が終わっていたし、一昨日は木に登って魔道の教科書を読み漁っていた。
結局、家でセレナと顔を合わせるのが気まずくて、あちこち出歩いているだけだ。
・・・いや、気まずい、というよりは、タイタン自身の気持ちの問題だ。
セレナが計画をやるというなら、それに従おうとは決めていた。
タイタンが行こうと言えば明日にでも、西方の探索が再開される。それに、西方の守護者であったジャグーンがこの世を去った以上、タイタンの意思に関係なくセレナは定期的に西方を訪れる義務がある。
本当に、残りあと数日の猶予だった。
あと数日でタイタンは、自分のしでかした大きな失敗と向き合わなくてはならないのだ。
「見ないふりは得意、か。ああ、嫌になる。」
ただただセレナと共に居たくて、セレナの嫌がることをしたくなくてやってきたことが、今タイタンに天罰を下した。
一体どうしてあんなことにと、冷静に考えれば山のように反省点は出てくる。
準備不足、無理はしないと決めておきながらまたやってしまった強行軍、意思疎通を怠った結果のセレナの無茶と止められなかった自分。
セレナとの関係の根底にあった「見ないふり」がここにきて2人に牙を剥いたのだ、と思う。
本当のことを全て打ち明けるだけが信頼ではないと、それは今でも思っている。
親しいからこそ言えないこと、というものはある。
だけれど、親しい相手のことをもっと知りたいという欲求もまた同時に存在していた。親しいから踏み込まないという約定は同時に、相手が自分のことをもっと知りたい、もっと分かりたいという願いを裏切り続けることと同じなのだ。
ふと、出会った頃にセレナに向けた自分の言葉を思い出した。
「あんたが嫌がることはしたくないのに、何が嫌なのか言ってくれないから、何をしてはいけないのかがわからない・・・」
結局、見栄を張ってしまっただけだ。
タイタンが、毎晩のように崩落の夢を見て飛び起きていること。
自分の足元が沈む想像だけで何度吐いたかわからないこと。
あの旧世界の歴史書の崩落の記録部分を、感情のまま破り捨ててしまったこと。
崩落を怖くないというセレナにそれを打ち明けて、弱い人間だと思われるのが嫌だった。
だから自分自身すらそれが異常なことだと気づけないまま、ここまで進んできてしまった。
セレナのためならなんだってできると、傲慢にも思い込んでいた。
セレナがそれを笑う人間ではないということは最初からわかっていたのに、ただセレナに「自分を守るに値しない小心者」という烙印を押されるのが嫌で。
思い出すたび吐いているなんておかしい、貴方の心は傷ついているのだと、SOSを受けたセレナの客観的な一言があったなら、タイタンはきっとそれをもっと早く自覚できたのだ。
助けを求めることが出来なかった。ただの一度でもそれが出来ていたなら・・・。
「過ぎた話だ。俺は、セレナさんを守ることを、投げ出してしまったんだ。」
タイタンは、蓬山に向けていた足を早めた。行きたい場所ができた。
蓬山のさらに向こう、森を一望できるあの崖の方へとタイタンは歩いていく。
あまり良い思い出のない場所ではあった。
セレナと言い合いになって気まずくなったのもそうだし、タイタンが崩落を怖がることを恥じるきっかけになった場所でもあったからだ。
1人でそこに行くのがどれほど無謀なのかは自分でもよくわかっていたが、それでも改めてあの崖の固い土を踏もうと思ったのは、セレナの「向き合う」という言葉があったからこそだ。
改めてあの場所に、崩落に向き合いたいと、そう思った。
高地の風は涼しい。険しい道を登り火照った肌が冷やされて心地よい。
しかしどこか穏やかな気持ちが持続したのはそこまで。
視界が開け、眼下に青々と茂る緑と、それが途切れた先に広がる黒い蛆虫の巣が見えた途端・・・タイタンの頭の血が急激に下がっていく。
「ーーーーーーーーッ。」
視界が点滅し、猛烈な吐き気が吹き上がってくる。
ばちばち、ばちばちと視界の端に火花が散る。頭がガンガンと警鐘を鳴らす。
駄目だ。タイタンは慌てて後ろを向いて今まで登ってきた道を眺めることに集中する。
「はあ、はあっ、っえ・・・・・う。」
携帯用の小さいカバンに入れていた水を流し込むように煽り、タイタンは俯いた。
駄目だ。やっぱり、駄目だ。
ここまで拒絶反応があるということは・・・容易に想像がつく。
これはタイタンのトラウマというよりは、きっとルーヴのトラウマだ。
「・・・クソ。余計なものを、残しやがった。」
どれだけの時間、こうしてここに座り込んでいただろう。
昼食もまだだったはずなのに、いつのまにか太陽が地平線へと飲み込まれようとしていた。
帰らなくては。きっとセレナが暖かい食事を用意して待っている。
そしてセレナに西部に行くことを伝えて、明日は起きるのを渋るセレナを急かしながら準備をして。そして明後日には西部に発つのだ。それが一番正しい選択肢で、きっと平時のタイタンならそうしていた。
だが。隠れてしまいたかった。
タイタンはふと横を見て、切り立った岩場に架けられた梯子に足をかけた。
セレナなら、きっと探しに来ないだろう、と思う。
普段から奔放故に他人の奔放さにも寛容なのがセレナという人だ。
川で紫色の鮭の大群に1人で追いかけられた時。
日付が変わる頃にヘトヘトで帰ってきたタイタンに、セレナは居間で編み物をしながら「遅かったわね」となんということはない顔で声をかけたのだ。
少しくらい心配してくれても、と思わなくはないが、彼女のそういう気楽さが好ましいと今は納得している。
タイタンは北部の頂上を目指して弾丸登山を続けていた。
採掘場への分岐路はもう随分前に通り過ぎた。
ここは森の番人すら到達したことのない未踏の土地への入り口だ。
「・・・あと少しだけ。もう少し近くで空が見たい。」
タイタンの頭の後方に、まだ上へと続く梯子がある。
タイタンはゆっくりと起き上がり、口に蜂蜜のドロップを含んでから梯子に手をかけた。
「・・・・・?」
何か変だ。
ここまで登ってきた梯子は、なんらかの魔道措置が施されているのだろうと思う。雨風に晒されているというのに、経年劣化を全く感じない。
だが、いま手をかけた梯子は、今までのそれに比べ、妙に頼りなかった。
不審に思ったタイタンは一度崖を見上げ、身長の高い自分なら容易に上り下りできる高さであることを確認する。
臍の高さにある岩に足を掛け、崖の上に手を伸ばし、跳び箱を飛ぶように腕で体を押し上げる。ざりざりと地面を腹で擦り・・・少々強引だが崖を登ることに成功した。
「やっぱり梯子を使わなくて正解じゃないか。なんだこれ。」
ロープを編んで作られた梯子は風で飛ばないように上下を杭で打ち付けてあるのだが、登った先の右の杭が外れていた。恐らく経年劣化を防ぐ魔道が仕掛けてあるのは上下4つの杭なのだろう。梯子の上部は他のものに比べて明らかに劣化している。
このまま登ったら崖下へ真っ逆さまであっただろう。ゾッとしながら崖下を見下ろし・・・タイタンは気づく。
下方に広がる森の切れ目、天然の広場。それが見えるのは何かが落ちたように広場の上の枝が折れているからだ。
切れ目の向こうの景色に見覚えがあった。あの時は雪が積もっていたが、雪が溶けてからも幾度となくヒントを求めてあそこを1人で訪れている。
「ひょっとして、俺が落とされたのは、この場所じゃないだろうか・・・?」
暗くなってきてはいたが、辺りを見渡すとそれでも激しい戦闘の痕が見て取れた。
岩場は見覚えのある斬撃の痕が深く残っているし、焼け焦げた青い苔は恐らく魔道の痕だ。
何より、岩場に引っかかった黒く朽ちた鉄臭い布の切れ端は、間違いなくタイタンが纏っていた上着の白い合成革だ。
「嘘だろ。いや。いや・・・何か他に残っていないだろうか・・・ああくそ。こうなるならもっと明るいうちにここに来るんだった。」
どんな戦いをしたのか思い出せはしないが、相当な大怪我をしていた。戦いの余波で何かを落としていても不思議ではない。タイタンは必死に目を凝らして辺りを探索する。
だが、ダメだ。そもそもあれから一体何ヶ月経ったと思っているのだ。
ここに落ちているものから情報を得ることは不可能だ。タイタンは頭を切り替えることにした。
「そうだな。例えば、そもそもどうして俺はここに来たのか、だとか。」
そうだ。ハンターの侵入口は今まで例外1つなく南部だった。
『保護区に一番近いのが南部だものね。西部や東部から入ってきた人もいなくはないんでしょうけれど・・・きっと例外なく死んでいるわ。』
セレナはそう言っていた。
南部以外は土地の険しさに加えてジャグーンやルゥが目を光らせている。保護区から来たはずならタイタンはセレナを欺して南部からここまで来た、と考えるのが一番自然だ。
「そうだ、そうだよ。仮に南部から森に侵入したなら・・・結界を張った魔道使いを探して来たのに、俺はどうしてこんな場所に来た?わざわざセレナさんの居る家を、素通りしたのか?」
セレナに限らず、人間の気配を見逃すわけがないとタイタンは胸を張って言える。
そもそも、この崖の唯一の入り口はセレナの生活圏だ。倉庫に畑、生活のための魔道装置。
そういったものが無防備にも一切隠すことなく建てられている。人間を探しているならば、人間の痕跡を見逃すわけなどないのだ。
「東部か、西部か、あるいはこの向こうから来たのか・・・もしくは、主目的はセレナさんを探すことでは、なかった・・・とか。」
前者はもう考えても仕方がないので、後者の可能性を考える。
「結界のことを探りたいなら、術者の可能性が高いセレナさんを素通りするのはあり得ない。ルーヴは俺なんだ。俺なら、俺が作戦を立てるなら・・・絶対にセレナさんを真っ先に捕まえる。巧妙に秘匿された結界装置を探すより効率がいいし、勘付かれて余計なことをされる前にケリをつけておかないと後が怖い。結界のことを知っている人間を確実に捕まえて、情報を吐かせる。俺が作戦を立てるなら・・・人間の痕跡を見つけたら素通りする理由なんかひとつもない。」
だとしたら。もし仮にタイタンが南部から侵入して、セレナの生活圏を無視してまでこの崖を登ったのならば。
「最北部に絶対に到達しなくてはいけない理由があった、ってことに、ならないか?」
辺りは随分暗くなってきていた。ここから降りるのもこれでは一苦労だ。
手を伸ばせば指先が見えなくなるほどの暗闇の中、タイタンは必死に目を凝らす。
硬い地面。岩場に引っかかった布は劣化が酷かったらしく、タイタンが触れた途端ぼろぼろと崩れ落ちた。斬撃を食らった崖の壁は硬い。タイタンは試しに壁を殴りつけて悲鳴を上げた。
セレナが整備してくれた剣は酷く刃こぼれしていたと聞いていたが、その原因はこの壁だったかもしれない。
「駄目だな。何かあるにしてもきっとこの上だ。無理せず、帰れるうちに帰る、だな。」
ここまで暗くなった時点でかなり手遅れな気はするが、帰ることを考えるだけでも成長した。
タイタンは朽ちた梯子の横を飛び降りる。地面は硬いがずん、とタイタンを優しく受け止めた。
思っていた衝撃がなかったことに僅かに首を傾げ、しかし考えるのはあとだとタイタンは次の梯子に足をかける。
「ぎいぎいいいいいゴメンナサイ!!!!」
「っ!?」
突然耳を劈いた金切り声にタイタンは肩を震わせる。跳ね返るように振り返ると後方でばさばさと羽を振っていたのは。
「鳥?・・・ええと、鳥、か・・・?」
その鳥は大きな橙の嘴の名をとって巨嘴鳥・・・オオハシと呼ばれる鳥。
本来喋る鳥ではないはずだが、そのオオハシはどこか聞き覚えのある女性の声を真似てげらげらと笑っていた。
「ぎいぎいい、ゴメンナゴメンナサイ!!」
「っ・・・喋るのはいいが、不気味、だな。いや・・・あんたに悪気がないのはわかっているん、だが。」
この鳥がひたすら繰り返すどこか悲痛な”ゴメンナサイ”が不気味なのは確かだが、この鳥は何者かに覚えさせられた言葉を、繰り返しているだけだ。
悪気などない。事実オオハシはタイタンにまるでじゃれつくようにばさばさと腰の周りを飛び回っている。しかしこの森の生き物相手に安易に警戒を解くのはよくないと、嫌になるほどわかっていた。タイタンはオオハシにそっと手を振り、別れようとした。
「ぎぎぎい。セレ、セレナ、ゴメンナサ!!」
セレナ。びたりとタイタンの動きが止まる。
この鳥は確かにそう呼んだ。
「待ってくれ。セレナ、ごめんなさい、だって?」
この森でセレナを知る、女性の声を持つ人間。
この声を、タイタンは何度か、渡しものの中で聞いている。
「セレナさんのお母様の声に似ている。」
この鳥が繰り返しているのは、悲痛で後悔に塗れたお母様の、ごめんなさい、だ。
一体どうしてこの鳥がお母様の懺悔を聞き取ったのか、お母様が何故懺悔しているのか、それはわからない。彼女が死した以上想像するしかない。
タイタンは頭をがしがしと掻き毟り、無造作に振るった手が、腰元で遊んでいたオオハシのくちばしにべしりと当たってしまった。
「ぎい」
「あ・・・悪い。大丈夫か。」
申し訳ないことをしたと、しゃがみこんでオオハシに目を合わせると、怖がってしまったらしいオオハシはタイタンの方から慌てて飛び去って背後の黒い樹木の方へと飛んで行った。
「・・・はあ。また怖がらせたか。いつまでも子鹿1匹しか友達ができないな・・・」
「ゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ、ぎぎ、ぎぎ!!」
「ゴメンんさ、ゴメンナサイ!!」
「ゴメごめごめぎぎぎゴメンナサイ!!!」
三重奏になった悲鳴に驚き振り返る。
今まで、背後に生えているのは黒い葉の生えた樹木だと思っていた。
旧世界の都心部では、人間に住居を追い出されたムクドリが街の空を覆い尽くすほど飛んでいた頃があったのだという。
タイタンは、ふとそのことを思い出した。
樹木は枯れ木だった。黒い葉だと思っていたのは樹木を埋め尽くす数多のオオハシ。
何十というオオハシが、じっとタイタンを見つめている。
かぱり。何十という大きな嘴が一斉に開き。
そこから発せられるであろう衝撃に危機感を感じ、タイタンはすぐさま目の前の梯子を飛び降りた。
「「「「「ごめんなさささいいいいいいいいいいっっっっっ!!!!!!」」」」」
最早音と呼んでよいものではない。
とっさに飛び降りていなければ鼓膜が弾け飛んでいたと、信じてしまいたくなる。
「嘘だろ。いや、いやいやいやいや!!!!」
そしてばさばさばさばさばさ!!!と、何十羽のオオハシが樹木を飛び立つ音。
群の1匹に危害を加えたタイタンを追いかけて、鳥の群れが一斉に飛び立った。
「な、殴る気はなかったんだ!!悪かった、悪かったから!!!」
謝ろうにもここは断崖絶壁。
立ち止まりでもしたらあの群れに押されて崖下へ突き落とされておしまいだ。
・・・一度だけ上空を振り返り、タイタンはすぐに後悔した。
そこそこの距離があったはずのオオハシの群れは既に頭1つ分の距離に迫っている。
自分の頭上を埋め尽くす黒い羽の塊。そこからひときわ足の速い一匹がタイタンの頭を思い切り突いた。
「いっ・・・て!」
大きな嘴は、見た目通りやはり痛い。速度を上げたタイタンが身長の3倍ほどの高さを飛び降り、着地したとたん、たらりと頭から垂れた血が右目の視界を奪った。
これは洒落にならない。普通に命の危機だ。
追いつかれたが最後、あの大きな嘴がタイタンを殴り殺すだろう。
森の生き物を傷つけるのは避けたかったが、命には変えられない。タイタンはそう思い、震える手で背中に手をやり、気づく。
剣がない。今のタイタンは丸腰だ。
「まーーーーずーーーーいーーーーーーッ!!!!」
馬鹿だ。タイタンは数時間前の自分の行動を心から後悔していた。
セレナに合わせる顔がないからと、丸腰であちこち歩き回り、夜になろうが御構い無しに未踏地域に踏み込み、挙げ句の果てに生き物をうっかり殴ってこのザマだ。
何が合わせる顔がないだ。今のこの状況のほうがよっぽど恥ずかしい。
というかセレナに絶対に怒られる。怒られるか大笑いされるかどちらかだ。
感傷に浸っていた気分が目前の危機に一瞬で吹き飛ぶ。そしてタイタンの楔色が、真白の羽が光るのを捉えた。
「・・・やっと感応装置を踏んだわね!見つけたわ・・・って、なに、何してるのよ!?」
「なんっでもいい!!!魔道で俺を受け止めろ!!」
セレナがいたのは、あの冬にタイタンが落ちた崖下の広場。
黒い大群に追いかけられるタイタンを見てあんぐりと羽根を広げているセレナの元に、タイタンは迷いなく飛び込んだ。
今までとは段違いの浮遊。一度は絶命しかけたその場所を、空中を、タイタンはセレナめがけて飛び込んでいく。
「あ」
違う。ここは崩落でもなんでもない。タイタンの下に待ち受けるのは見慣れた森の地面だ。
だが。
飛び降りる瞬間、一度見てしまった。
遠い遠い森の切れた先に広がる蛆虫の巣。数多の人間を飲み込んだ絶望の暗黒。
「うっ・・・・!」
がくり、と膝から力が抜けるのがわかった。沈みかけた意識をすんでのところで繫ぎ止める。
自分がこれから飛び込む先に、暗黒が広がっている。
あの時、あの森で、震えながら頭を抱えて聞いた地面が崩れる音が脳裏を反響する。
ごめんなさい。
「タイタンのお馬鹿ーーーーー!!!!いつもいつもいつも無茶振りばっかりのお馬鹿さんのタイタンなんか!!!だいっきらいなんだからーーーー!!!!」
瞬間。タイタンに光が差し込む。
タイタンの足元にあるのはあの冒涜的な大穴ではなくて、顔を真っ赤にして怒っている愛しい真白の少女。
彼女は空へと両手を掲げる。瞳が月光を浴びて煌めく。
そうだ。今は彼女が、自分の降りる先に待っていてくれている。
なにも恐れることなどない。
タイタンは真下を見据えた。
怒りに燃え上がった銀の瞳は、しかし不敵に輝く。タイタンに見えたのはそこまで。
「わ。」
タイタンの体は何かバネ状の柔らかいものに受け止められた。
ばいんばいんと何度か体がトランポリンのように跳ね、タイタンはセレナの顔面スレスレで停止した。
「し、死ぬかと、思った・・・」
「お馬鹿。一体こんな遅くまでなにをしていたの?」
彼女が咄嗟に張ったのは大きな弾力のある網だった。白くて滑らかな素材の網はタイタンを優しく包む布団のようだ。
こんな器用なこともできるのか、と驚き感謝を伝えるより先に、怒ったセレナが網をふわりと霧散させる。
当然、地面にどてっと落とされ、タイタンの鼻が地面と激突した。悲鳴を上げるタイタンを無視して、セレナは上空でこちらを見ているオオハシたちに向き直った。
「ごめんなさいね。どうして怒らせたのかわからないけれど・・・ええと、タイタンはいい人よ。明日、貴方達のところに美味しい小麦を持って行かせるから、それで許してもらえないかしら?」
セレナがそう言うと、オオハシたちはしばらくこちらを眺めたあと、ゆっくりと崖の上へと飛び去っていった。
「・・・もう。話は家で聞くわ。頭以外に怪我はない?」
「五体満足だ・・・ああ、疲れた・・・」
失態にも程がある。恥ずかしすぎてセレナの顔が見られない。
ぷんぷん怒ったセレナは座り込んで頭を抱えたままのタイタンの腕を引っ張って立たせ、そのまま手を握って家へと引っ張る。
「もう、もう、もう!!私が折角貴方のために頑張っていたのに!折角作ったたまご炒めも冷めてとろとろじゃなくなってしまったし!お風呂に入ったのに汗をかいてしまったし!剣も持たないでどこかに行ってしまうし!タイタンはお馬鹿さんよ!お馬鹿!」
早足で家までの道を歩くセレナ。タイタンの背中は丸い。
「悪かったよ、面倒をかけたな。」
「・・・・・。」
セレナは不服そうに無言を返してますます歩く速度を上げた。これはしばらく機嫌が悪いな、と覚悟を決めたタイタンは、態度と裏腹に小さく縮まった白い羽根が目に入る。
「・・・心配させてすまなかった。」
「・・・・・・わかれば、いいのよ。」
セレナの首筋、結い上げた髪の後れ毛が汗で張り付いている。
懸命に走ったらしい、手は汗ばんで酷く熱を持っている。
そこでようやく、タイタンはまだまだセレナへの理解が浅かったことを理解した。
本当に、心配をかけていたらしい。
テーブルに並んだ普段より品数がかなり多い食事は冷めきってはいるものの、とても美味しそうで豪華だ。
相当時間をかけて作ってくれたことが容易に想像できる。
「・・・すまない。」
「もう、いいからさっさと食べて頂戴。そして食べながら何をしていたか洗いざらい話しなさい。」
セレナにじとりと睨まれながら、慌てて野菜と卵の炒め物を口に掻き込む。
今日の食事は全体的に中華風で統一されている。猪肉のステーキや油の染み込んだ焼き茄子の辛めの味付けは、夏でも食欲が湧くようにという気遣い。そんな中にとろとろでまろやかな卵の炒め物が口休めになり、バランスもよく考えられている。
冷蔵庫には凍らせたベリーも用意してあるらしい。
タイタンは冷たいお浸しを口に含み、口の中に野菜の水分が染み渡る心地よさに目を細める。
「・・・うまい。」
「だから!感想はいいのよ!何があったのか話しなさいと言っているじゃない!」
しぶしぶ食事の手を止め経緯を話すと、セレナはだんだんとあきれ顔になっていった。
「・・・本当に全部貴方のせいじゃないの。」
「恥ずかしながらその通りだ。いや・・・本当にすまないと思っている。」
「人には散々夜は出歩くなって言うくせに、自分は例外なのね?」
じーっと、恨めしそうに、スープのカップ越しにセレナがこちらを睨んでいる。
今日はこれ以上言い合いをしても駄目だ。絶対に勝てない。
「もう、いいわよ。はあ、折角頑張ったけれど、貴方がここまでお馬鹿だと渡すのを躊躇ってしまうわ。」
「・・・渡す?」
「保留よ。いいから黙って食べて頂戴。」
黙って言うことを聞く。黙って言うことを聞いておくのだ。しばらくは彼女に逆らわない。
全く、いいところなしだ。最近はずっとこんなことばかりで、セレナへ積もる感情は負い目と羞恥ばかり。
「・・・・・はあ、あ。」
彼女にまた助けられてしまった。随分と情けないところも見られてしまった。
情けなくて仕方ない。彼女を守るなどと、誓っておいてこのザマだ。
「あんたの前では格好良い俺で居たいんだけどな。うまくいかないもんだ。最近は情けないところばかり見られている気がするよ。」
「・・・今更ね。貴方が格好つけの意地っ張りなのはとっくの前から知ってるわ。」
返す言葉もない。
だがセレナは冷たい言葉と裏腹に、どこか面白そうな、愛おしげな表情を浮かべていた。そこに呆れや失望の色は微塵もない。
そのことに僅かに驚き、そして納得した。そうだ、彼女と築き上げてきた関係というのはそういうものだった。
奔放すぎる彼女に苛立ち、落ち込み、時には怒鳴りあってしまう。
隠し事だらけだというのに、お互いにぶつかり合わないと納得できなくて、そんな、変な関係。
だけれどそんな時に、ふとセレナに助けられたことを思い出せるから、セレナとここまで一緒にいることができたのだ。これはそんな心地よい関係の終わりを告げる出来事ではなく、その延長線の先にあるものの1つにすぎない。
「そうだな。なあ、聞いてくれるか。」
もう、これ以上見ないふりばかりの関係は嫌だと思った。彼女になら打ち明けられると信じられた。
自分のことをもっと知ってほしい。セレナのことをもっと知りたい。
彼女の秘密はきっと自分より重たいもので、それを簡単に打ち明けろと言う気は勿論ない。
計画を進める以上、言えないことだってタイタンにはある。
だけれど、隠し事をすることに罪悪を感じないようでは駄目だ。自分はセレナに不誠実なことをしていると、その咎から目を逸らすことはしたくない。
「・・・なあに。」
いつかそれをセレナに打ち明ける時、精一杯謝って、その上でその先もセレナと共に居られますように。
そう祈っている。だからこれはそんな未来の為の一歩だ。
「俺は、崩落が怖いんだ。」
「ええ。」
セレナは食事の手を止めて、黙って聞いてくれていた。
「恥ずかしくて言えなかったけれど、俺は毎晩のように崩落の夢ばかり見ているし。」
「・・・・・」
「崩落のことを思い出すだけで具合が悪くなる。吐いてしまうくらい。・・・それが異常だと気づけたのが、西部で、ジャグーンが死んだ時だった。」
セレナは小さく息を止め、俯いた。
「ごめんなさい。」
「・・・何故あんたが謝る。」
「全然、気づいていなかったの。思い当たることなんて山ほどあったのに・・・気づいてあげられなかったもの。貴方が意地っ張りなことぐらい、知っていたのにね。」
違う。仮定の話などしても仕方がないのだ。自分は未来の話をする為ここにいる。
「俺はこれからもあんたの隣で戦いたい。あんたを守りたい。その気持ちは1つも変わらない。計画があんたに牙を剥くなら、俺は計画だって壊す。敵でも、ハンターでも、計画でも、お母様でも、あんたを傷つけることは許さない。ずっとそう覚悟していた。・・・だけれど、俺は、崩落が怖いから。」
タイタンはもう俯かなかった。セレナは一度も目を逸らさなかった。
「きっと崩落を前にしたら足が竦むだろう。そう簡単に克服できるものだとは思っていない。きっとその時俺はあんたを守れないから・・・だから、頼む。」
一度、大きく息を吸った。それを言うのは本当に勇気が要ることだった。
だけれど、もう目を逸らすことをしたくなかったから。
セレナに、ありのままの自分を知っていてほしいと思ったから。
タイタンは、勇気を振り絞った。
「・・・頼む。俺を、崩落から守ってほしい。俺の為に、崩落を止めてくれ。」
あまりに情けない声だった。
だがセレナはそれを、まるで予期していたかのように聞いていた。
我儘な願いだと自分でも思う。
お母様のような存在ではなく、ただ自分の大切に思うものだけを守りたいと、彼女は言ってくれた。
これは彼女がやっと手に入れたそれすらも独占しようとする、我儘な男の願い。
「・・・ふふ。保留にしようと思っていたのだけれど。」
セレナは立ち上がり、
「重くて私には持てないの。タイタン、手伝って頂戴?」
タイタンを作業場に促した。
一体何だ。突然話を遮られ、戸惑うタイタンは言われるまま作業場を覗く。
いつも通り散らかった作業場が広がっているとばかり思っていたタイタンは、驚きで息を呑んだ。
「・・・これ。」
「ふふ。いつまでも丸腰では困るのよ?貴方には沢山働いてもらうのだから。」
セレナの作業場には大きな木のテーブルが運び込まれていた。そしてその上に置かれた、鈍く光る刀身が光を放ち、タイタンが手に取ることを今か今かと待ちわびていた。
テーブルの周りには大きな砥石がいくつも転がり、ついさっきそれが完成したばかりなのだということは容易に伝わる。そして持ち上げられない巨大な剣を鍛え上げたセレナの頑張りも。
「前のものとデザインは似せたけれど、中身は別物よ。グリムメタルを練りこんでいるから、使い方を覚えれば魔道的な戦い方もできるようになるわ。・・・どう?お気に召したかしら?」
タイタンは驚き呆然としたまま、その大剣を手に取った。
それは初めて手に取ったのが嘘であるかのように手に馴染んだ。
重さは以前より増している。だがこれはタイタンが人狼の姿で戦うことを計算して作られている重さだ。筋力が増して剣が空振ると愚痴を零したのを、覚えていてくれたらしい。
デザインは言った通り以前の剣と似ている。だが素材がまるきり別物だ。
刀身は以前の鋼と同じ色だが、その中に僅かに金の煌めきがある。ラメのように月光を反射して、刀身が虹色の光を放つのが美しい。
使い古された以前の剣より遥かに鋭さを増したその刀身に見惚れる。武器作りなど専門外だろうに、ここまで見事な剣を作り上げた職人魂には感服せざるを得ない。
「・・・あんた。この為に朝から?」
「私はちゃんと言ったわ。貴方をこき使うって。」
セレナはいたずらが成功した、とばかりに満足げに笑い、頰を抑えた。
タイタンは彼女の指にいくつもの切り傷があったことにようやく気づく。
「ええ、いいでしょう。私は崩落を止めてみせるわ。そして崩落を止める為の道のりに立つ敵を斬るのは貴方の仕事よ。私たちが2度と人を殺さなくても良い世界を、手に入れるのでしょう?」
「・・・いいのか。俺で。崩落と戦う相棒に、崩落を前に足が竦む男を選ぶのか、あんたは。」
「ええ、誰よりも崩落の怖さを知っている、貴方がいいわ。敵を敵と認識できる、私が知っている唯一の貴方。貴方を崩落から守ってみせるわ。だから、貴方は私を守るために戦いなさい。」
セレナは堂々と言い放った。彼女はタイタンが所在なさげに抱えているその刀身を撫でる。
「それに、私の隣に立ってくれるのは、貴方だけ。・・・貴方もそうでしょう?」
全く、大した女だ。感服するほかない。
本当にこの女は、タイタンを乗せるのが上手い。そんな風に言われてしまっては、もうタイタンに為す術など、ない。
胸に渦巻いていた自己嫌悪が溶けていく。一度は諦めた自分を、セレナはこうして拾い上げてくれた。ならば、自分もそれに応えてみせよう。
「・・・わかった。」
タイタンは剣を携え、足元に跪いた。
「あんたを守るために、この剣を戴こう。・・・あんたの為にこの剣を振るうことを誓う。」
窓から差し込む月光が、セレナの天使の羽根を祝福するように輝かせる。
セレナはタイタンに手を伸ばすことはなく、ただ一度、タイタンの頬を柔らかな羽根がなぞる。
「・・・ふふ、やっぱりタイタンは素敵だわ。」
セレナはただ一言、そう言い、傅いたタイタンを嬉しそうに見つめていた。
セレナは1人、窓辺から欠けた月を見つめている。
台所からは1人で大量の皿洗いを任されたタイタンが、がちゃがちゃと皿を洗う音。
一生懸命準備したのよ、と見つめてやれば、言い返すことのできないタイタンは不服そうに唇を尖らせながらも、黙って汚れた皿を洗い場に運び始めた。
このくらいは当然であろう。元気を取り戻したのがいくら喜ばしいからといって、今日のタイタンの仕打ちを許したわけではないのだ。
「ふふ、ふふ、でも、でも!元気になってよかったわ。一生懸命プレゼントを用意した甲斐があったというものよ。」
はしゃぐ姿は見た目通りの少女のよう。先ほどの威厳ある振る舞いなどもう微塵も感じさせない屈託のない笑顔で、セレナは窓の淵に腰掛け足をばたばたさせている。
「ふふ、私の大事な大事なタイタン・・・かわいいかわいいタイタン・・・ふふ、だからこそ、ええ。」
セレナが計画を実行すると決めた理由はもう一つ。
タイタンには内緒の、もう1つの、理由。
「見ないふりは、もう嫌だわ。だけれど、きっとタイタンは話してくれないもの。だったら、私が頑張らなくてはいけないわ。」
セレナだって、タイタンと同じだ。見ないふりはもう嫌だった。
タイタンと腹の探り合いのような会話をするのも、喧嘩をするのも、その結果失敗するのも、もう嫌だ。
隠し事をする罪悪感を知っているからこそ、それを優しいタイタンに感じさせるのは嫌だと、思う。
「自分を知られたくないのは、その通りよ。私にそれを言える勇気はまだ無いの・・・。だけれど、だけれど。不誠実だけれど、嫌なの。タイタンに何か、いけないことが起きているなら、それから守ってあげたいの。」
私は、タイタンのお姉さんだから。
我儘かもしれない。タイタンは怒るかもしれない。一方的に秘密を暴いて、自分のことは何も明かさないというのは、きっと不誠実で、よくないことだ。
それでも、たとえ汚い手段だと言われても、セレナは自分の守りたいと願うものを守りたい。
「タイタンに何かを混ぜたのは誰?ディアン?狼さん?ジャグーン?それとも、お母様?」
セレナの手に握られた一枚の紙。そこには殴り書きで書き写された計算式。
「・・・ディアンは間違いなく一枚噛んでいて、きっと私よりタイタンの味方だわ。そうでもないと、タイタンにハンター協会の暗号計算式なんて渡さないもの。これは、絶対に私に見られたくなかったもの、なんだわ。」
紙に記された364562372899"。12桁と末尾2ドットが示す、タイタンだけに伝わるはずだった秘密の暗号は無念、セレナの手にこうして渡ってしまった。
ディアンの誤算は、2つ。
ディアンはおそらく、タイタンが思い出記憶だけでなく、一部の知識記憶を失っていることを知らない。タイタンはこのわけのわからない数列を渡されて首を傾げただろう。タイタンはこの暗号計算を解けなかった。解けていたなら、まさか自室の引き出しなんて、誰でも開けられる場所に封筒を仕舞うことなどしなかっただろうから。
そしてもう1つの誤算。セレナがハンター協会の暗号計算式を解けるなどとは夢にも思っていなかったことだ。
そもそも、暗号計算式はハンター協会でも暗号解読チームしか読めないものだと聞いている。多くのハンターは暗号計算式であることを示す「12桁の数字に末尾2ドット」という形式だけを知っていて、暗号計算式を暗号解読チームに秘密裏に依頼して解いてもらうのだという。・・・結界の外で単独活動している故、自分で暗号を解かねばならないタイタンのようなハンターでない限りは。
「・・・お母様は物知りなのよ。でも・・・難しいわ。魔道以外のお勉強なんて久しぶりだもの。」
ディアンとタイタンは、セレナを出し抜こうとして確実に何かを仕掛けている。
きっとセレナに封筒を渡したことさえ作戦のうちだ。セレナが自分も秘密の封筒を抱えているという負い目があれば、タイタンの封筒を強引に暴く真似はしないだろうと踏んで、わざわざ大した内容でもない封筒をセレナに渡した。
タイタンが絡んでいる以上、それがセレナへの悪意でないことだけは証明されている。だけれど、タイタンがもし自分を犠牲にした何かをセレナに隠しているとしたら。
「・・・『計画を実行しなかったら、お前がどうなるかわかっているのか』・・・ね。ジャグーンはいい子だけれど、焦ると口を滑らせるのは悪い癖よ。」
セレナだってこんな探り合いの毎日を続けていたら嫌でも狡猾さを身につける。いや、タイタンを見て学んでしまったというほうが正しいかもしれない。
「・・・急いで、解読しないといけないわ。」
タイムリミットはディアンが次にここを訪れるまでだ。
次にディアンがここを訪れたら、タイタンは絶対にあのわけのわからない数列について尋ねるだろう。そうしたら、この暗号の指し示すものがタイタンに伝わる。再び出し抜かれる。
その前に、真実に辿り着かねばならない。そしてディアンより先に行動を起こす。
タイタンに破滅の道を進ませるわけにはいかないのだ。そしてそれを了承しているディアンに出し抜かれてはいけないのだ。
「・・・いつまでも私が優しいと思ったら大間違いよ。目的がある以上、容赦はしないわ。」
もうあんな真似は繰り返してなるものか。
セレナは窓を閉じ、自室の机に向かった。月光だけを頼りに、セレナは難解すぎる計算式に立ち向かい始めた。




