第9話 皆瀬菜月が消える日
翌朝。
空が白み始めたばかりの時間に、玄関のチャイムが鳴った。
菜月が目を覚ますより早く、修二が対応している。
昨日、潜入を決めたばかりだというのに、転校の手続きはすでに通っていた。今日から別の学校へ通えるところまで、修二が話を進めていたらしい。
玄関へ運び込まれたのは、制服だった。
静香が通う高校の指定制服。
転校が決まったのは昨日だ。それでも、もっと前から決まっていたように見せるなら、初日から学校指定の制服を着ていた方が自然だった。
急に用意したものだと思われれば、それだけで余計な疑問を持たれる。
菜月は制服の入った袋を受け取った。
「早いねぇ」
「早くなければ間に合いませんから」
修二は、当然のことのように答えた。
その顔に、寝不足らしい色はほとんどない。
菜月は、夜中まで動いていた部下たちのことを思い出した。
修二が指示を出す。
誰かが制服を手配する。
誰かが学校へ話を通す。
菜月が眠っている間にも、潜入の準備は進められていた。
自分の周囲には、こういう人間が多い。
菜月が必要だと言えば動く。命じられなくても、次に必要になるものを考えて準備する。
便利だ。
それを菜月は否定しない。
ありがたいとも思っている。
ただ、感謝をそのまま口にすることは少なかった。
菜月が所有するマンションには、多くの部下が暮らしている。
だからといって、全員が毎日仕事をしているわけではない。
普段は、それぞれが一般人と変わらない生活を送る。菜月から個別の依頼があったときだけ、必要な役割へ戻る。
特殊メイクができる真奈。
他人へ成り代わることのできる静香。
身体能力に優れた晃。
情報を処理し、裏側から状況を整える修二。
表向きは普通に暮らしている人間の中に、それぞれ違う才能が隠れている。
家族ごと菜月に雇われている者もいた。
借金に追われ、夜逃げを続けていた家族。
夫からの暴力で生活が立ち行かなくなった女性。
菜月と同じように孤児だった荒くれ者。
晃のように、街から追い出された人間。
殺人の冤罪で、長く自由を奪われていた老人。
菜月が見ているのは、顔でも年齢でもない。
使える才能があるか。
そして、その才能を本人がどう扱う人間なのか。
それだけだった。
住む場所を与え、金を渡した菜月を慕う者は多い。
けれど、引き入れる条件は多くない。
菜月を裏切らない。
素性を外へ漏らさない。
その2つは、最低限の決まりとして徹底されている。
マンションで暮らす部下の中には、菜月によって新しい経歴を用意された者も少なくなかった。
偽名で生活し、過去の名前を捨てた者もいる。
真奈と静香は、親しい身内がすでにいないため本名を使っている。
晃と修二についても、過去の人間関係が今の生活へ干渉しないよう、必要な手は打っていた。
明仁は、菜月へ言っていた。
――自分の手足になる人間を置くなら、簡単に裏切れる道を残すな。
晃も修二も、今では菜月へ深く傾いている。
裏切る姿など、想像しにくい。
それでも、明仁の教えを無視するつもりはなかった。
信用することと、備えを捨てることは別だ。
菜月は、真奈が待つ部屋へ向かった。
真奈はすでに準備を終えていた。
普段のギャルらしい姿からは想像できないほど真剣な顔で、テーブルへメイク道具を並べている。
髪色を変えるための薬剤。
肌の質感を変えるもの。
輪郭や目元を調整する細かな道具。
真奈の手先は、相変わらず器用だった。
「菜月様、おはようございます! 今日は絶対、完璧に仕上げますからね!」
「朝から元気だねぇ」
「菜月様と同じ学校へ行けるんですよ? 元気にもなりますよぉ」
真奈は嬉しそうに笑った。
その表情を見ているだけで、菜月の方が少し疲れる。
これから潜入するというのに、真奈だけは遠足へ行くような調子だった。
「ただし、勝手に動かないで。私の指示を聞くこと」
「もちろんです!」
「ナイツに入ることより、私の側にいることを優先して」
「はい!」
返事だけは、やけに素直だ。
菜月は、真奈がどこまで本当に守れるのか考えた。
真奈は菜月の命令には従う。
けれど、菜月を褒める人間がいれば機嫌が良くなり、軽く扱う人間がいれば勝手に敵意を抱く。
その性格は、潜入先で役に立つこともあれば邪魔になることもある。
だからこそ、近くに置いておく必要があった。
真奈は、1時間もかけずに菜月の顔を変えた。
黒髪は、ショートに切ったように見える長さへ整えられている。ところどころに軽い癖がつき、眉の形も変わった。目元は、普段より少し勝ち気に見える。
皆瀬菜月が、目立たない場所へ身を隠す少女だとすれば。
今、鏡の中にいるのは、人混みの中でも自然に目を引く少女だった。
活発で。
負けず嫌いで。
少し野良猫みたいな顔をしている。
「どうですか?」
「……思ったより、ハルカっぽい」
「でしょう?」
真奈は得意そうに胸を張った。
目の下には、小さな絆創膏が貼られている。
菜月が指先で触れると、真奈が悪戯っぽく笑った。
「これ、必要?」
「必要じゃないですけど、似合ってますよ」
「完全に真奈の趣味じゃん」
「でも、ハルカちゃんっぽいです!」
確かに、橘ハルカの雰囲気には合っている。
その程度なら、わざわざ外す理由もない。
「真奈の腕前は、本当に大したものだねぇ」
「褒められたぁ……!」
今にも抱きつきそうな勢いで、真奈が身を乗り出す。
「近い」
「すみません!」
菜月は、鏡の中の顔をもう一度確認した。
橘ハルカ。
九州の田舎にある道場の娘。
熱血漢の父親に、高校を卒業するまで修行するよう言われ、この街へ送り出された少女。
街へ来たばかりの転校生。
正義感が強く、ナイツの活動へ興味を持つ人間。
今日から、菜月はその人物になる。
名前だけではない。
話し方も、表情も、歩き方も。
皆瀬菜月の癖を、できるだけ表へ出さない。
真奈も、同時に姿を変えていた。
ギャルらしい派手さを抑え、髪色をミルクティー色へ変える。華やかさは残っているが、軽そうな印象は薄い。
リーダー気質と聡明さを感じさせる、モデルのような少女。
真奈が成り代わるのは、三枝美樹という在学中の女子高生だった。
三枝美樹は、家出をして隣街にいたところを菜月の部下が見つけた。
現在は修二の指示で、安全な場所に置かれている。
表向きには、しばらく学校を休んでいた少女。
真奈が三枝美樹として動いている間、本物の三枝美樹は外部との接触を制限される。
生活に不自由はさせない。
部屋も食事も、必要なものも用意してある。
それでも、本人の生活を一時的に借りることに変わりはない。
菜月が寝ている間に、その準備まで部下たちは終わらせていた。
あとで、しっかり労ってやろう。
菜月がそんなことを考えている間にも、修二は次の確認へ進んでいた。
「静香から連絡です。学校へ向かう準備は問題ありません」
「そっちは任せる。修二はここで私の代理。晃は適当な時間にジムへ行って」
「ジムって、俺が行く必要あんのか?」
「あるよ。橘ハルカの従兄弟なんだから」
晃が、少しだけ嬉しそうな顔をした。
結局、晃は橘ハルカの従兄弟として、ボクシングジムへ所属することになった。
外から見れば、親戚の少女を気に掛ける大柄な男。
必要になれば、橘ハルカを迎えに来ても不自然ではない。
「この格好でマンションから出るところを見られたら危ないから、今日は地下から出るよ」
「了解だ」
地下から外へ出れば、静香の高校の通学路に近い場所へ抜けられる。
そこから学校へ向かえば、菜月と真奈がこのマンションから出てきたと結び付けられる可能性は低い。
ひとつずつ、違和感を潰していく。
潜入は、派手に始めるものではない。
最初からそこにいたように振る舞う。
誰にも疑われず、その場へ馴染む。
どれだけ偽の経歴を作り込んでも、最初の違和感を消せなければ意味がなかった。
橘ハルカとして、最初の1日を過ごす。
そのために必要な準備は、もう終わっている。
菜月は、地下へ続く扉の前で足を止めた。
背後にあるのは、いつもの家。
皆瀬菜月が暮らす場所。
その扉が閉じた瞬間、菜月は表情を変えた。
肩を少し開く。
視線を上げる。
口元へ、知らない街へ来たばかりの少女らしい笑みを作る。
皆瀬菜月の顔を、ここへ置いていく。
扉の向こうへ。
「菜月様と同じ学校……!」
後ろで、真奈がまだ感動していた。
菜月は振り返らないまま、どっと疲れたような気分になる。
「学校に着いたら、その呼び方は禁止だからね」
「分かってます! ハルカちゃん!」
「まだ声が大きい」
「すみません……」
潜入初日から、この調子で本当に大丈夫なのだろうか。
そんな不安が一瞬だけ過ぎる。
それでも、皆瀬菜月はもう、ここにはいない。
今日から学校へ通うのは――橘ハルカだった。




