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坩堝  作者: 文月


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第8話 偽りの履歴書

 玄関のロックが解除される。


 静香は、開いた扉の前で一度頭を下げてから、静かにリビングへ入ってきた。


 名前の通り、騒がしいところのない少女だった。


 女子高生には似つかわしくないグレーのスーツを着ている。けれど、着せられているようには見えない。落ち着いた雰囲気があり、10代の少女には見えなかった。


 髪は、肩甲骨に掛かるくらいまで伸びた黒髪。顔立ちは平凡で、全体的にすっきりとしている。


 菜月自身も、愛嬌のある平凡な顔立ちだ。


 どちらも、ずば抜けた美人とは言えない。けれど、不細工と呼ぶほど顔のバランスが崩れているわけでもない。


 人混みに紛れるには、ちょうどいい顔だった。


「失礼します」


 静香は、菜月の前で姿勢を正した。


「前回お会いしたのは、3か月前でしょうか。エントランスで、たまにお見掛けしていました」

「そうなの? なら、声を掛けてくれたらよかったのに」

「いえ。お二人の邪魔をしてはいけないと思いまして」

「2人?」

「晃さんと修二さんです」

「ああ……うん。そっか」


 菜月は諦めたように天井を仰いだ。


 晃と修二は、異様なほど嫉妬深い。束縛も激しい。


 相手が同性であっても容赦しない姿を、菜月は何度も見ていた。


 静香が声を掛けなかったのも、無理はない。


「静香は、明日から私の学校へ通って」

「明日から、ですか?」

「思い立ったが吉日って言うし。もう動くよ。メイクは真奈に――」

「前回代わらせていただいた際に、手順は覚えました。今回は真奈がいなくても大丈夫です」

「あの真奈の特殊メイクを覚えたって、なかなかやるねぇ。静香は賢い」


 菜月は、静香の向かいへ座った。


「期間は、多分1か月。明日の放課後は、愛と遊んで」

「……菜月さん、まさか」

「嫌だなぁ。仕事だよ。愛と遊ぶのが嫌なわけじゃないからね」


 静香の疑いは、もっともだった。


 菜月は、どうにも美作愛の相手を静香へ押しつけるところがある。


 けれど、今回は単なる身代わりではない。


 1か月。


 その間、静香には学校で皆瀬菜月を続けてもらうことになる。


 愛と話す。


 教師へ返事をする。


 授業を受ける。


 放課後になれば、時には一緒に帰る。


 顔だけ似せれば終わりではなかった。


 静香も、それを理解したらしい。


 表情が引き締まる。


 実際には、菜月が潜入を決めたきっかけ自体は、かなり気まぐれに近い。


 静香は、それを知らない。


「なーんか、勘違いしてるような……」

「はい? 何でしょう?」

「いや、何も」


 足元に座っていた晃が、突然吹き出した。


 静香が目を丸くする。


 晃は、いつも笑いの沸点が低い。肩を震わせながら、声を押し殺そうとしている。


「静香は、相変わらず生真面目だな」

「任務ですから」

「任務じゃねぇだろ。菜月の気まぐれだろ」

「晃、余計なこと言わないで」


 菜月が睨むと、晃はすぐに口を閉じた。


 しばらくして、玄関のチャイムが鳴る。


 今度は真奈だった。


 修二がロックを解除すると、扉の向こうから甲高い声が響く。


「菜月様! 超お久しぶりですー! 真奈、会いたかったぁ……!」


 セーラー服の短いスカートを翻し、真奈が慌ただしく姿を現した。


 かなり傷んだ金髪。濃いアイメイク。


 今時のギャルを、そのまま形にしたような見た目だった。


 ただし、その印象だけで真奈を判断すれば、すぐに痛い目を見る。


 真奈の持つ特殊メイクの技術は、一級品だった。


 売り込めば、今からでも仕事にできるほどの腕前がある。


 それでも、本人にその技術を外で仕事にする気はない。


 菜月の役に立つことを何より優先しているからだ。


 菜月に一生仕えたい。


 真奈の忠誠心は、そこまで重かった。


 菜月へ惚れ込む人間は、少なくない。


 菜月自身にそのつもりがなくても、近くに置いた人間が勝手に深く入り込んでくることがある。


 面倒だと思うこともある。


 必要なら利用することもある。


 そのあたりは、菜月も自覚していた。


「久しぶり。真奈のお茶もよろしく、修二。真奈は座って」

「はーい!」


 真奈は素直に頷き、菜月の近くへ座った。


 晃は、菜月の足元でつまらなそうに欠伸を繰り返している。


 真奈は、菜月の間近に控える晃を見て、面白くなさそうに頬を膨らませた。


 けれど、ここで突っ込めば話が進まない。


 真奈は、晃への不満をひとまず飲み込んだ。


「真奈には、私と一緒に静香の高校へ通ってもらう」


 菜月は、用意していたデータをディスプレイへ表示した。


「私は、九州にある橘道場の娘。名前は、橘(たちばな)ハルカ」

「橘ハルカ……」


 真奈が、表示された名前を口にする。


「熱血漢の父親に、高校を卒業するまで修行するように言われて、この街へ送り出された。街へ来てすぐ、男に襲われそうになる」


 菜月は、作り上げた経歴を淡々と説明した。


「その出来事で、女の子が狙われる怖さを身近に感じた。自分みたいな目に遭う子を出したくない。友人からナイツの存在を聞いて、街の治安を守るために自分から入りたいと志願する」


 静香と真奈は、黙って聞いていた。


 橘ハルカ。


 今回、菜月が造り上げた偽の人物だ。


 名前だけではない。


 出身地も。


 家族も。


 この街へ来た理由も。


 ナイツへ近付く理由まで、すべて繋がっていなければならない。


 身元を調べられても破綻しないよう、九州のツテを使って経歴を裏付ける。


 街へ来てから起きた出来事についても、後から調べられることを前提に、記録と証言が残る形にする。


 設定だけが存在していても意味はない。


 橘ハルカが、本当にこの街で生活している人間だと思わせる必要があった。


「真奈は、私の近くにいて。学校では自然に仲良くなればいい。ナイツにも入る」

「えっ、真奈もですか?」

「一緒に入るつもりじゃなかったの?」

「もちろん入ります! 菜月様が入るなら、真奈だって!」


 真奈は、勢いよく身を乗り出した。


 近くに協力者がいれば便利だ。


 しかも、真奈は菜月の指示に従う。


 ただし、最初から橘ハルカの友人として振る舞わせるわけにはいかない。


 真奈には真奈で、別の身分を用意してある。


 学校の中で接点を作り、少しずつ距離を縮める。


 その方が自然だった。


「ただし、顔は隠して。勝手に動かないで」

「了解です!」

「真奈の役目は、人間関係と噂を拾うこと。女子高生同士の話って、馬鹿にできないから」

「どこまで目立たせます?」


 修二が尋ねた。


「あんまりやりすぎるとバレるかもね。ちょっとだけ、すごい女子高生ってことにしよう」


 ナイツへ入るには、スカウトマンが認めるだけのものが必要になる。


 菜月――橘ハルカは、道場で鍛えられたという設定を使って、身体能力を見せる。


 真奈は、学校内の人間関係や情報を拾う力を見せる。


 それで十分だった。


 菜月は、偽の経歴を頭の中で確認する。


 橘道場。


 九州。


 熱血漢の父親。


 高校卒業までの修行。


 街へ来たばかりの転校生。


 危険な目に遭ったことをきっかけに、治安維持を望む正義感の強い少女。


 理由だけを並べれば、いくらでも作れる。


 問題は、調べられたときに矛盾なく繋がることだ。


 そして、設定を覚えているだけでも足りない。


 菜月自身が、橘ハルカとして振る舞わなければならない。


 普段なら選ばない言葉を選ぶ。


 普段なら表へ出さない感情を見せる。


 皆瀬菜月なら黙って流すことにも、橘ハルカなら反応する。


 嘘を演じるのではない。


 潜入している間だけ、その人間として生きる。


 それを楽しめるくらいでなければ、情報屋は務まらない。


 真奈は、期待に目を輝かせている。


 静香は、すでに自分の役割を頭の中で整理しているようだった。


 対照的な2人を眺めながら、菜月は立ち上がった。


「……菜月」


 晃が、少しだけ低い声で呼んだ。


「なに?」

「後で、橘ハルカの経歴を送れよ」


 有無を言わせない表情だった。


「いざという時に、俺とハルカを繋ぐ線が必要です」


 修二も、真奈へお茶を運びながら言う。


「従兄弟にでもしておく?」

「それが無難でしょう」

「俺は何でもいいぞ。菜月を迎えに行けるならな」


 菜月は、少し考えてから頷いた。


 緊急事態になったとき、橘ハルカと晃を繋ぐ線がなければ、助けに来た晃まで不審人物になる。


 最初から逃げ道を用意しておく。


 自分だけは失敗しないと思い込むほど、菜月は自分を信用していなかった。


 情報が足りなければ判断を誤る。


 想定外の人間が動けば、計画は崩れる。


 なら、そのときに戻れる道を作っておけばいい。


「真奈と静香は明日からよろしく。真奈は指紋登録しておいて。しばらく、うちに泊まり込みで通うから」

「はい、菜月様!」

「これで自由に入れる人間が1人増えますね」


 修二の言葉に、菜月は頷く。


 これまでは、菜月と晃と修二だけだった。


 潜入中に真奈を出入りさせるなら、そのたびに誰かがロックを解除する方が不自然だ。


「修二は転校の手続き。今からで間に合わなかったら、明後日からでもいいよ」

「いえ、大丈夫でしょう。静香の学校の理事には、無理をきかせます」

「とことん鬼畜だなお前……」


 晃が呆れたように言った。


 修二は、褒め言葉を受け取ったように微笑む。


 菜月は、静香へ視線を向けた。


「静香、今日はもう帰っていいよ。明日から、私として振る舞って」

「承知しました」


 静香は立ち上がり、深く頭を下げる。


「それでは、菜月さん。失礼します」

「うん。静香、ありがとね」


 静香が玄関へ向かう。


「あれぇ? 菜月様、静香のメイクはいらないの?」


 真奈が不思議そうに首を傾げた。


 静香が自分でできるようになったことを、菜月はまだ伝えていなかった。


「静香は、もう私のメイクを覚えてるから」

「えっ……」


 真奈が、目を見開く。


「ライバル……! 静香がメイク得意なんて知らなかった!」


 真奈が本気で衝撃を受けている。


 その葛藤や混乱は、この際放っておくことにした。


「明日から、よろしく」

「はい!」

「承知しました」


 潜入に必要な準備は、まだ残っている。


 それでも、菜月の中ではもう、橘ハルカが動き始めていた。


 翌日から、皆瀬菜月は学校から消える。


 代わりに、橘ハルカがこの街へやって来る。


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