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坩堝  作者: 文月


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第7話 橘ハルカの作り方

 翌日。


 菜月は、昨夜から何度も見返していた資料を、ダイニングテーブルの上へ広げた。


 ナイツの現在の状況。過去の遍歴。発足から5年間の活動記録。これまで在籍していた幹部の一覧。そして、現在の幹部に関する個人情報とプロフィール。


 修二がまとめた資料は、必要な情報が見やすく並んでいる。


 菜月はページをめくりながら、顔写真と名前を頭に刻み込んでいった。


 記憶力は悪くない。


 必要な情報は覚える。必要がなくなれば忘れても構わない。


 菜月にとって情報は、抱え続けるものではなく、使うものだった。


「大橋勇樹(おおはしゆうき)って、ナイツのブレーンだって言ってなかった?」

「表向きは、そうなっています」


 修二は、菜月の後ろに立ったまま答える。


「じゃあ、裏で人を動かしてる可能性があるのは……あ、これか。真崎暖人ねぇ」


 菜月は、1枚の写真を指で押さえた。


「うっわー。なに、この胡散臭い顔。もうちょっとマシな写真はなかったの?」

「先週の召集時に撮影されたものです。気持ち悪い顔であることは否定できません」

「キモいより、気持ち悪いの方が酷いような気がするのはなんでだろ……」


 修二の感想は、いつも容赦がない。


 もっとも、菜月も真崎の写真へ好感は持てなかった。


 ナイツに集まっている人間は、全体的に顔立ちの整った者が多い。学校で目立つ生徒も少なくない。


 だからといって、外見で人間の価値が決まるわけではない。


 晃は強面で、身体も大きい。


 けれど、一つ一つの顔の造りは整っていて、全体的には頼もしい顔立ちをしている。


 修二は中性的で、繊細そうな目元と眼鏡が妙に神経質そうな雰囲気を作っていた。


 10人中8人くらいは、2人に口説かれれば惚れるだろう。


 口説く技術があるかどうかは、別として。


 菜月は次の資料へ目を移した。


 真崎暖人。


 ナイツの中で、表立って目立つ存在ではない。


 大橋勇樹が頭脳として知られている一方、真崎は裏側で人を動かしている形跡がある。


 Rの名前を騙った人間。


 芝原の生徒を使った人間。


 ナイツ内部へ混乱を持ち込んだ人間。


 それらがすべて真崎だとは、まだ言えない。


 ただ、複数の情報が真崎の周囲へ集まっている。


 疑う理由としては十分だった。


 菜月はファイルを閉じる。


 昨夜の食卓で、潜入すること自体は決めた。


 今さら晃や修二の反対を聞き直す必要はない。


 2人が心配することも、最後には従うことも分かっている。


 問題は、どうやって入るかだ。


 菜月は、もう一度ファイルを開いた。


 ナイツの幹部に関するページを抜き出し、役割と人間関係を確認していく。


 誰と誰が近いのか。


 誰の発言が通りやすいのか。


 幹部の降格条件は、実際にどこまで利用できるのか。


 表に出ている情報だけでは足りない。


 中へ入ったあと、何を見ればいいのかまで決めておく必要がある。


 潜入している間は、別人として振る舞う。


 顔だけ変えれば済む話ではない。


 声。


 話し方。


 歩き方。


 身体の動かし方。


 普段の菜月を知る人間に会ったとしても、同一人物だと疑われない程度には、別の人間にならなければならない。


 当然、偽の個人情報も必要になる。


 生まれた場所。


 家族。


 これまで通っていた学校。


 転校してきた理由。


 どこから調べられても、すぐに矛盾が出ないよう作っておく。


 嘘は、1つだけなら簡単だ。


 けれど、1つ嘘をつけば、次の嘘が必要になる。


 その嘘を支えるために、さらに別の嘘を用意する。


 どこかで綻べば、積み上げたものは一気に崩れる。


 菜月は、そういう準備を面倒だとは思わなかった。


 明仁から教わった仕事の中でも、重要なものの1つだった。


 嘘をつくなら、嘘の中で生活できるところまで作れ。


 名前だけでは足りない。


 朝、どこで起きるのか。


 誰と暮らしているのか。


 何を食べるのか。


 何が好きで、何が嫌いなのか。


 学校まで、どの道を通るのか。


 何気なく聞かれたとき、考える間を置かずに答えられなければ意味がない。


 作った人物が、紙の上だけに存在していてはいけない。


 知らないはずの地名を知っていれば、そこから過去を探られる。


 反対に、知っているはずのことを知らなくても不自然になる。


 情報を増やせば、信憑性が上がるわけでもない。


 余計な設定は、余計な綻びになる。


 調べられる可能性の高い部分だけを固め、残りは聞かれないように振る舞う。


 相手へ渡す情報の量まで、自分で選ぶ。


 ナイツは、人を調べることに慣れている。


 だからこそ、こちらも雑な嘘では入れない。


「1週間くらいは、大人しく通うかなぁ」


 菜月は小さく呟いた。


 まずは学校へ馴染む。


 人間関係を作る。


 ナイツへ近付く足掛かりを掴み、スカウトマンへ実力を見せる。


 それから幹部へ近付く。


 必要なら、昨夜話した降格の仕組みを利用する。


 幹部になること自体が目的ではない。


 近い場所で状況を見るための足場だ。


 ナイツの中心へ入り、真崎へ近付く。


 誰が嘘をついているのか。


 誰が誰を動かしているのか。


 Rの名前を使った理由は何なのか。


 それを、自分の目で確かめる。


 菜月は、口元を緩めた。


 少しだけ楽しみだった。


 ただし、潜入には別の問題もある。


 皆瀬菜月が突然学校へ行かなくなれば、周囲が不審に思う。


 特に、美作愛。


 あれは面倒だ。


 突然姿を消せば、学校だけでなく、自分で探し回る可能性がある。


 身代わりが必要だった。


 候補は、すぐに決まった。


 瀬野静香(せのしずか)


 記憶力がよく、適応力もある。


 以前にも菜月の身代わりを務めた経験があり、学校生活の癖もある程度把握している。


 顔を似せるだけなら難しくない。


 問題になるのは、その先だ。


 鞄を置く位置。


 歩く速さ。


 授業中、退屈したときの姿勢。


 教師への返事。


 愛に話し掛けられたときの反応。


 長く一緒にいる人間ほど、顔よりもそういう細かな違いに気付く。


 愛は普段なら鈍いくせに、菜月に関することだけは妙に勘が鋭い。


 静香には、そこまで含めて皆瀬菜月になってもらう必要があった。


 そして、潜入先には真奈を置く。


 武道に長け、変装も得意。


 女子高生同士の情報網も使える。


 菜月の近くに置けば、情報収集と身辺の安全、その両方で役に立つ。


 問題があるとすれば、忠誠心が強すぎることだった。


 菜月が軽く扱われただけで勝手に腹を立てる。


 余計なことをしないよう、先に釘を刺しておく必要がある。


 菜月は、テーブルの端へ置いていた携帯電話を手に取った。


 潜入の準備は、偽名を決めるだけでは終わらない。


 潜入する菜月。


 その近くで補助する真奈。


 皆瀬菜月として元の学校へ通う静香。


 外から状況を整える修二。


 必要になれば、力ずくで菜月を回収できる晃。


 誰か1人が欠けた程度で、すべてが崩れる計画にはしたくない。


 逃げ道もいる。


 身元を疑われた場合の説明もいる。


 潜入を途中で打ち切る条件も、決めておくべきだった。


 菜月は必要な項目をノートパソコンへ打ち込んでいく。


 画面に、空欄が並んだ。


 偽名。


 出身地。


 家族構成。


 転校理由。


 協力者。


 緊急時の連絡経路。


 ひとつ埋めるたび、別の確認事項が増える。


 それでも、不思議と面倒ではなかった。


 皆瀬菜月として積み上げてきた平凡さを、一度だけ脇へ置く。


 ほんの一時。


 別の人間になる。


 菜月は最後の項目を保存し、携帯電話から2人へ連絡を入れた。


 真奈。


 静香。


 返事は、どちらも早かった。


 その直後。


 玄関のチャイムが鳴った。


 菜月は、玄関脇のモニターへ視線を向ける。


 最上階へ自由に出入りできる人間は限られている。


 部下のほとんどは、呼ばれない限りここまで上がってこない。


 当然、指紋も登録されていない。


 修二が、いつの間にか連絡を回していたらしい。


 菜月は今さらながら感心した。


「こんばんは、静香です。菜月さん、お呼びですか?」


 廊下のマイクから、控えめな声が響く。


「入って。修二、お茶を淹れて」

「はい」


 菜月は、低いローテーブルの前へ移動した。


 明日から。


 皆瀬菜月は、学校へ行かない。


 代わりに、まだ名前も決まっていない別の少女が動き始める。


 潜入計画は、もう準備の段階へ入っていた。


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