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坩堝  作者: 文月


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第10話 転校生の朝

 地下駐車場から外へ出ると、朝の空気は少し冷たかった。


 菜月は、橘ハルカの歩き方を意識しながら歩いた。


 皆瀬菜月なら、周囲を警戒しながら人の流れを避ける。


 けれど、橘ハルカは違う。


 知らない街へ来たばかりで、少しだけ緊張しながらも、前を向いて歩く少女だ。


 肩の力を抜く。


 視線を落としすぎない。


 誰かと目が合えば、軽く笑う。


 後ろには真奈がいる。


 ただし、学校へ着くまでは他人だ。


 真奈は三枝美樹として、もともとこの学校へ通っている生徒に成り代わる。


 今日転校してくる橘ハルカと、最初から親しくしていれば不自然になる。


 だから、地下を出てしばらくしたところで距離を開けた。


 真奈は数十メートルほど後ろを歩いている。


 普段の派手な雰囲気は消えていた。髪はミルクティー色に変わり、化粧も落ち着いている。モデルのような顔立ちに、軽さよりも聡明さを感じさせる表情を作っていた。


 それでも、菜月を見る目だけは隠せていない。


 時々こちらへ向く視線に、尊敬というより崇拝に近い熱が混じっている。


 菜月は一度だけ振り返り、目で制した。


 真奈は慌てて視線を逸らす。


 ――学校では、初対面。


 昨日、何度も確認したことだ。


 橘ハルカと三枝美樹は、これから学校の中で知り合い、自然に親しくなる。


 最初から繋がっていると思われる必要はない。


 むしろ、その方が動きやすかった。


 学校に着くと、菜月は正門の前で一度だけ立ち止まった。


 見慣れた校舎ではない。


 同じ制服を着た生徒たちが行き交い、友人同士で話しながら校門を抜けていく。


 誰も、菜月が今日から別人としてここへ通うことなど知らない。


 菜月にとっては、それが都合よかった。


 門をくぐる直前、真奈は別の生徒たちの流れへ紛れた。


 もう振り返らない。


 ここから先、菜月は橘ハルカだ。


 職員室へ向かう。


 転校生としての手続きは、すでに終わっていた。


 書類も、身元も、学校側が疑う理由がないよう整えられている。


 職員室の前で、菜月は一度だけ深呼吸をした。


 皆瀬菜月を捨てる。


 橘ハルカになる。


「失礼します」


 扉を開けると、担任の教師が顔を上げた。


「橘さんだね。待っていたよ」

「はい。今日からよろしくお願いします」


 声を少しだけ明るくする。


 菜月の普段の話し方より、語尾を柔らかくした。姿勢も少し崩す。真面目すぎず、かといって礼儀を知らない印象にもならない程度に。


 教師は簡単な説明をしてから、菜月を教室へ案内した。


 廊下を歩く間にも、何人かの生徒がこちらを見る。


 転校生は、それだけで目立つ。


 菜月は、その視線を気にしているように見せながら、実際には周囲を観察していた。


 掲示板の位置。


 生徒が集まりやすい場所。


 教師と生徒の距離。


 校舎の出入口。


 階段と非常口。


 そして、ナイツのスカウトマンが紛れていそうな場所。


 すべてを詳しく調べる必要はない。


 今、自分が使う可能性のあるものだけ覚えればいい。


 教室の前で、教師が足を止めた。


「ここが今日から君のクラスだ」

「はい」

「緊張しているかい?」

「ちょっとだけ。でも、頑張ります」


 橘ハルカなら、そう答える。


 教師が扉を開けた。


 教室中の視線が、一斉に菜月へ集まる。


 転校生を見る目には、期待と好奇心が混ざっていた。


 どこから来たのか。


 なぜ転校してきたのか。


 どんな人間なのか。


 聞かれることは、ある程度想定してある。


 菜月は教壇の横へ立った。


「今日からこのクラスに入る、橘ハルカさんだ。みんな、仲良くするように」

「橘ハルカです。今日からよろしくお願いします」


 頭を下げる。


 顔を上げると、早くも何人かと目が合った。


 積極的に話し掛けてきそうな生徒。


 興味がなさそうに机へ視線を落としている生徒。


 こちらを値踏みするように見る生徒。


 菜月は、一人ずつの反応を覚えていく。


 席へ案内されるまでの短い時間で、教室の空気はおおよそ分かった。


 明るい生徒が中心にいて、その周囲へ人が集まっている。


 静かな生徒は、互いに干渉しすぎない距離を保っていた。


 ナイツに関係していそうな生徒がいるかどうかは、まだ判断できない。


 だからこそ、急いではいけない。


 最初から探るような態度を見せれば、スカウトマンだけでなく、普通の生徒にまで警戒される。


 橘ハルカは、まず転校生でなければならない。


 その上で、少しだけ目立つ。


 目立たなければ、ナイツの目には留まらない。


 目立ちすぎれば、正体へ繋がる。


 その中間を取る。


 菜月には、そういう調整の方が慣れていた。


 席に着くと、さっそく隣の生徒が身を寄せてきた。


「ねぇねぇ、ハルカちゃんって九州から来たんだよね?」

「うん。田舎やけ、恥ずかしいっちゃね。博多やないけ、博多弁は喋れんのやけど……」


 わざと、少しだけ訛らせる。


 九州の田舎にある道場の娘。


 ただし、特定の土地の方言を完璧に使う設定にはしていない。


 地域を細かく決めすぎれば、その土地を知る人間と話した時に綻びになる。


 必要なのは、遠方から来た少女らしさだけだ。


「へぇ。九州って、やっぱり暑いの?」

「場所によるんやない? こっちも思ったより寒いけん、びっくりした」

「方言、かわいいね」

「そう? 変やないならよかった」


 笑って返す。


 質問の内容は、どれも他愛がない。


 けれど、こういう会話が重要だった。


 相手が何を知りたいのか。


 どこまで踏み込んでくるのか。


 どの話題なら自然に会話が続くのか。


 菜月は質問へ答えながら、相手の性格を見ていた。


 橘ハルカとして覚えられるためには、こちらから相手を知るだけでは足りない。


 相手にも、自分を知ったと思わせる必要がある。


 その時、教室の扉が開いた。


「あ。三枝さん来た」

「ここ2日くらい学校休んでたんだよー」


 入ってきたのは、真奈だった。


 ――今は、三枝美樹。


 しばらく学校を休んでいた生徒が戻ってきた。


 それだけの顔をして、真奈は教室へ入ってくる。


 三枝美樹の資料には、すでに目を通してある。


 家出の原因。


 恋人との関係。


 家族との距離。


 普段の学校での態度。


 少し高飛車で、リーダー気質。


 頭の回転は速いが、運動神経は十人並み。


 真奈が演じるには、問題のない人物だった。


 ただ。


 教室へ入った瞬間、真奈の視線が菜月へ向いた。


 ほんの一瞬。


 それでも、目が少しだけ輝いた。


 菜月は何も知らない転校生の顔で、真奈を見る。


 目が合った。


 すぐに逸らす。


 それだけだった。


 橘ハルカと三枝美樹としては、面識がない。


 今は、その程度でいい。


 真奈も理解したらしい。


 何人かのクラスメイトから声を掛けられると、事前に覚えた三枝美樹の口調で答えていく。


 大きな失敗はない。


 菜月を気にする回数は少し多いが、転校生に興味があると考えれば不自然ではない程度だった。


 菜月は、視線を教科書へ戻した。


 まずは、互いに知らない人間として始める。


 近付くのは、それからでいい。


          ◇


 初日の午前中は、転校生への質問と授業だけで過ぎていった。


 誰も、菜月を疑っていない。


 それでいい。


 疑われないことが、最初の成果だった。


 真奈――三枝美樹とも、まだ必要以上には近付かない。


 橘ハルカと三枝美樹としては、今日が初対面だ。


 これから少しずつ接点を作り、周囲から見ても自然な形で親しくなる。


 急ぐ必要はなかった。


 帰りのホームルームが終わる頃には、橘ハルカはクラスに馴染み始めていた。


 明るく、さばさばしていて、人懐こい。


 誰にでも好意的に接する転校生。


 菜月が用意した人物像は、想定以上に受け入れられていた。


「ハルカちゃん! 帰り、一緒に行かない? 美味しいケーキカフェがあるんだ」


 前の席に座っていた女子生徒が、帰り支度をしながら誘ってくる。


 菜月は、少し残念そうな顔を作った。


「ごめんね。ウチ、帰りに従兄弟んとこへ行かないけんのよ。また誘って?」

「そっかぁ。じゃあ、また今度ね」

「うん。絶対誘って」


 両手を合わせて謝る。


 相手は残念そうだったが、すぐに納得してくれた。


 従兄弟。


 つまり、晃のことだ。


 橘ハルカの従兄弟は、近くのボクシングジムにいる。


 そういう設定になっている。


 今日は、そのジムへ向かう道を使う予定だった。


 実際にジムへ入る必要はない。


 晃が先にそこで顔を売っていれば、誰かに確認されても話は繋がる。


 そして、ジムへ向かう途中には、別の準備もしてある。


 菜月は、それを表情へ出さず、鞄を持って立ち上がった。


 携帯電話を確認する。


 晃、静香、修二から定期連絡が届いている。


 静香は、問題なく皆瀬菜月の代わりを務めているらしい。


 修二からは、こちら側の準備に問題なしという短い報告。


 真奈からは、学校にいる菜月を見ているだけのどうでもいいメッセージがいくつも届いていた。


 そして晃からは、ボクシングジムのオーナーを羽交い締めにしている写真が送られてきている。


 菜月は、しばらく画面を見つめた。


 ――何してるの、この犬。


 返信しかけて、やめた。


 今は橘ハルカだ。


 皆瀬菜月のような言葉を残す必要はない。


 携帯電話を鞄へ戻す。


 教室の向こうでは、三枝美樹が友人たちと話している。


 菜月と目が合っても、追ってはこない。


 そこも予定通りだった。


 橘ハルカとしての初日は、まだ終わっていない。


 けれど、ナイツへ近付くための最初の条件は、すでに満たしていた。


 誰にも疑われず。


 それでも、誰かの記憶に残る。


 その両方を手に入れる。


 初日の学校生活としては、十分だった。


 菜月は、橘ハルカの顔で教室を出た。


 次は、放課後の仕事だ。


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