第11話 仕掛けられた襲撃
放課後。
菜月は、ボクシングジムへ向かう道を歩いていた。
クラスメイトには、従兄弟のいるジムへ行くと話してある。
橘ハルカとして学校を出て、決めていた道を通る。
このまま進めば、晃が顔を出しているボクシングジムへ着く。
けれど、今日はそこへ入る必要はなかった。
目的は、その手前にある。
ナイツのスカウトマンへ、橘ハルカという存在を知らせること。
正義感の強い転校生が、街で襲われた。
その話が広がれば、ナイツは無視しにくい。
少なくとも、橘ハルカという名前に興味を持つ理由にはなる。
菜月は、肩を軽く回した。
普段の皆瀬菜月なら、こんな道を無防備には歩かない。
背後の気配も、人通りも、逃げ道も確認する。
けれど、橘ハルカは違う。
道場で鍛えられているとはいえ、この街へ来たばかりの女子高生だ。
最初から何かが起きると知っているような警戒は、不自然になる。
だから菜月は、何も知らない少女の顔で歩いた。
しばらく進むと、短いトンネルが見えてくる。
その先が、ボクシングジムへ続く道だった。
人通りは少ない。
けれど、完全に人目がないわけでもない。
今回の仕掛けには、そのくらいがちょうどよかった。
菜月は歩調を変えない。
トンネルを抜ける直前だった。
背後から、足音が近付いた。
気付かないふりをする。
次の瞬間、身体を強く押さえ込まれた。
「っ……!」
肩が壁へぶつかる。
思っていたよりも強かった。
菜月の顔が、本当に痛みで歪む。
押さえつけてきた男は、顔の大半をマスクで隠していた。
体格は大きい。
動きにも迷いがない。
もちろん、菜月はその正体を知っている。
自分の部下だ。
それでも、今ここで橘ハルカが知っていていいことではない。
菜月は反射的に男の足を蹴り上げた。
男も同時に動く。
腹部へ強い衝撃が入った。
「――っ!」
一瞬、息が詰まる。
足から力が抜け、菜月はその場へ膝をついた。
予定では、もう少し加減するはずだった。
演技をしなければならない。
頭では分かっているのに、身体は素直だった。
痛い。
呼吸がしづらい。
それだけは、演技ではない。
男が菜月の髪へ手を伸ばす。
強く引かれ、頭皮が引き攣った。
真奈が固定したウィッグが軋む。
ずれれば、今まで作ってきた橘ハルカの姿が一瞬で崩れる。
「いっ……たい……!」
声が漏れた。
今度は、作る必要すらなかった。
男はさらに距離を詰めてくる。
その動きに、菜月の身体が強張った。
これは仕掛けだ。
相手は、自分の指示で動いている。
分かっている。
それでも、目の前に大きな男がいて、逃げ道を塞がれているという状況まで偽物になるわけではない。
昔の記憶まで、わざわざ呼び起こす必要はない。
菜月は奥歯を噛み、男の腹部を蹴った。
「ぐっ……!」
今度は男が呻く。
身体が離れた。
菜月は壁へ手をつきながら立ち上がる。
息はまだ整わない。
腹も痛む。
それでも、一歩前へ出た。
男は、それを見て背を向けた。
そのまま走り去っていく。
「待って……!」
菜月は追いかけようとした。
けれど、数歩進んだところで足が止まった。
力が抜け、その場へ座り込む。
地面の冷たさが、制服越しに伝わってきた。
手が震えている。
演技なのか。
本当に怖かったのか。
菜月自身にも、もう分からなかった。
目元が熱い。
涙が滲む。
悔しい。
痛い。
怖い。
いくつかの感情が混ざって、どれが本物なのかを分ける意味もなくなっていた。
ただ。
ここまでやった以上、誰かには見つけてもらわなければならない。
橘ハルカが襲われた。
その出来事が、この街で起きた事実として残る必要がある。
菜月は顔を手で覆った。
唇を噛む。
しばらくして、遠くから話し声が聞こえた。
誰かが近付いてくる。
菜月は顔を上げる前に、乱れた呼吸を少しだけ整えた。
怯えている。
けれど、完全に取り乱してはいない。
助けを求めたいのに、うまく言葉が出ない。
橘ハルカなら、今はそう見えるはずだった。
「……さすがに、そこは駄目やろ……」
誰にも聞こえない声で呟く。
襲撃役を任せたタクマの顔が浮かんだ。
痛みまで、ここまで本物にする予定ではなかった。
あとで文句を言おう。
そう決めたところで、人影がトンネルの向こうから駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?」
「何かあったんですか?」
会社員らしい男性と、買い物袋を持った女性だった。
2人とも、菜月の様子を見て足を止めている。
これでいい。
菜月は、ふらつきながら立ち上がった。
「あの……すみません。男の人に、急に……」
声を震わせる。
説明しすぎない。
怖かったことだけが先に出て、出来事を順序立てて話せない。
今の橘ハルカなら、その方が自然だった。
◇
その後、菜月は警察でも同じ説明を繰り返した。
「顔は、よく見えませんでした。マスクをしていて……背が高くて、男の人で……」
「何か言われたことは?」
「覚えてません。すごく怖くて……」
聞かれたことへ答える。
分からないことは、分からないと言う。
橘ハルカが知るはずのないことまで口にしない。
ただそれだけだった。
警察から解放された頃には、20時を過ぎていた。
外へ出ると、辺りはすっかり暗い。
菜月は警察署の前で、大きく息を吐いた。
長時間、橘ハルカの顔を作り続けたせいで頬が疲れている。
腹部には、まだ鈍い痛みが残っていた。
「あー……タクマの一発、まだ痛い」
少し離れた場所に停まっていた車から、晃が降りてくる。
今は、橘ハルカの従兄弟だ。
警察署の前で余計なことを言うわけにもいかないらしく、いつもより大人しく後部座席のドアを開けた。
菜月が乗り込む。
助手席には、黒髪を少し長めに伸ばした細身の青年、タクマが座っていた。黒系のスポーティーな服装で、居心地悪そうに肩を縮めている。
「お疲れ様です」
タクマが、缶コーヒーを差し出した。
菜月は受け取りながら、じっと相手を見る。
「……タクマ」
「はい」
「痛かった」
「本当にすみません」
返事が早い。
「もっと下に入れるつもりだったんですけど、菜月さんの方言聞いたら一瞬笑いそうになって……」
「それ、理由になってないからねぇ」
「はい……」
菜月はプルタブを開けた。
タクマは、まだ申し訳なさそうにしている。
「次やったら、私が蹴るから」
「分かりました」
「いや、分かりましたじゃなくて」
「すみません……」
晃が運転席で笑いを堪えている。
菜月はその後頭部まで睨んだ。
「晃も笑わない」
「笑ってねぇよ」
「肩揺れてる」
「気のせいだ」
菜月は小さく息を吐いた。
行き過ぎた一撃については、今回はそれ以上責めなかった。
タクマは普段なら、任された役割をきちんとこなす。
今日も、全体として見れば必要なところまでは終わっている。
目撃者はできた。
警察にも記録が残った。
あとは、橘ハルカとして学校へ通う。
すぐに自分から事件を広めるつもりはない。
そんなことをすれば、かえって不自然だ。
聞かれれば答える。
調べれば分かる。
それくらいでいい。
噂は、人が勝手に運ぶ。
菜月は、ぬるくなった缶コーヒーを一口飲んだ。
苦味が喉を通る。
明日から、橘ハルカがどう見られるのか。
それを決めるのは、もう菜月だけではなかった。




