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坩堝  作者: 文月


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2/12

第2話 逃げた日、師匠の遺したもの

 皆瀬菜月が、普通の女子高生を演じるようになった理由は、それほど複雑ではない。


 目立てば、誰かに見つかる。


 見つかれば、興味を持たれる。


 興味を持たれれば、過去を知られる。


 それが、菜月にとっては面倒だった。


 菜月は、生まれてから家族がいると思ったことがない。


 血の繋がった両親は、菜月が赤ん坊の頃に彼女を孤児院へ預け、そのまま消えた。


 中学1年生の春。


 入学式を終えたその日、菜月は孤児院を抜け出した。


 もう学校へは通わない。


 孤児院にも戻らない。


 子供ながらに、そう決めた。


 皆瀬菜月が孤児院の子供だという噂は、入学前から広がっていたらしい。


 誰が広めたのか、確かなことは分からない。


 ただ、思い当たる節はあった。


 同じ小学校に通っていた、我儘な少女。


 いわゆる金持ちの家に生まれた彼女は、孤児である菜月を馬鹿にし、自分の方が上なのだと得意げに振る舞っていた。


 菜月が育った孤児院そのものも、評判がいいとは言えなかった。


 子供への教育はほとんどない。


 問題を起こしても、大人はろくに叱らない。


 食事を与え、片付けをして、決められた時間に子供を動かす。


 言うことを聞かなければ放っておく。


 それだけだった。


 菜月は、そんな孤児院が反吐の出るほど嫌いだった。


 入学式の日。


 知らない大人から「孤児だから」「可哀想だ」と囁かれた。


 同級生には面白がるように笑われた。


 受付をしていた上級生からは、金をやるから身体を触らせろと迫られた。


 菜月は逃げた。


 学校から。


 孤児院から。


 自分を知っている人間がいる場所から。


 逃げ出して4日目。


 菜月は、とうとう倒れた。


 空腹は、とっくに限界を越えていた。


 足を動かすことだけを考えて歩き続け、どこへ向かっているのかも分からなくなっていた。


 ふらふらと入り込んだ公園で力尽き、そのまま意識を失った。


 次に目を覚ましたとき、菜月は知らないベッドの上にいた。


 綺麗に片付けられた部屋。


 身体を包む、大きく柔らかな布団。


 頬を寄せた菜月は、しばらく本気で死んだのだと思っていた。


 ――ここはきっと、死ぬ前の夢の世界。


 辛かった4日間は、もう終わった。


 そう思うと安心して、菜月はもう一度布団へ顔を埋めた。


 けれど、その幸せは長く続かなかった。


 がちゃり、と遠慮なくドアが開く。


 菜月は飛び起きた。


 扉の向こうから、ぼさぼさの髪をした男がこちらを覗いている。


 表情が強張った。


 ――拐われた?


 あの上級生と同じようなことをされるのかもしれない。


 そう考えた瞬間、それまで心地よかった布団が急に頼りなくなる。


 菜月は肩を震わせ、小さく身体を縮めた。


 男から目を逸らしたとき、腕に違和感を覚える。


 透明な管が繋がっていた。


 腕には、細い針が刺さっている。


 ――これ、知ってる。


 点滴だ。


 病院で一度だけ見たことがある。


 自分の知っているものがあった。


 それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。


 菜月はもう一度、男を見る。


 男は部屋へ入ってこない。


 扉の影から、黙ってこちらを見ていた。


 ぼさぼさの前髪が、目の半分以上を隠している。


 顔には、少しだけ髭が残っていた。


 孤児院のおじさんの「剃り残し」に似ている。


 剃り残しは、ずぼらな人だと孤児院のおばさんが言っていた。


 ずぼらが何なのか、菜月にはよく分からない。


 ただ、剃り残しをしていたあのおじさんは、孤児院の中では比較的まともな人だった。


 だから。


 この男も、それほど悪い人ではないのかもしれない。


「あの……」


 声を掛けたところで、何を言えばいいのか分からなくなった。


 しばらく見つめ合ったあと、男がぶっきらぼうに口を開く。


「目が覚めたなら、飯を食え」


 その後ろから、白衣を着た男性が顔を出した。


 菜月がびくりと肩を跳ねさせる。


 白衣の男性は、安心させるように眉を下げて笑った。


 菜月の腕から手早く針を抜き、白く四角い絆創膏を貼る。


「僕の名前は如月(きさらぎ)。まずは、ちゃんとご飯を食べよう。結構寝てたから、お腹も空いたと思うんだ。明仁(あきひと)、こっちに持ってきて」

「……リビングで食え」


 男は、明仁という名前らしい。


 菜月は、心の中でその音を繰り返した。


 あきひと。


 あきひと。


 きちんと名乗った如月より、菜月は明仁の名前を先に覚えた。


 ぼさぼさの髪。


 もさもさの前髪。


 剃り残しのある顔。


 怖いはずなのに、見ているうちに少しだけ可愛く思えてきた。


 如月に身体を支えてもらい、菜月はゆっくりとリビングへ向かった。


 テーブルには、丸いピザが置かれている。


 焼けたチーズの匂いに、お腹が鳴った。


 如月が小さく笑い、菜月を椅子へ座らせる。


「ちび。お前、名前は?」

「なつき。菜の花の菜に、月だよ」

「なんで倒れてた」

「つかれて、お腹が空いて……」

「家は」

「……ない」

「親は」

「……いない!」


 明仁は、淡々と菜月へ質問した。


 菜月も、聞かれたことには答えた。


 やがて明仁が、まっすぐ菜月を見る。


「――孤児院に、帰りたいか?」


 その瞬間。


 頭の中に、嫌いなものが次々と浮かんだ。


 蔑むような目。


 同情。


 何もしない大人。


 汚い上級生。


 意地の悪い同級生。


 自分を捨てた両親。


 全部、いらない。


 全部、大嫌いだった。


「か、帰りたくないっ! 学校にも行きたくない! わたし、可哀想なんて言われたくない……!」


 涙が、ぼろぼろと落ちる。


 どうしてなのかは分からない。


 それでも、このおじさんなら話を聞いてくれるような気がした。


 明仁は泣き続ける菜月を見ていた。


 慰めることも、抱き締めることもしない。


 ただ、短く頷いた。


「――なら、ここに居ろ」


 それが、皆瀬菜月と明仁の始まりだった。


          ◇


 明仁に拾われた菜月は、そのまま彼の家で暮らし始めた。


 あとで聞いた話では、明仁はほとんど外へ出ない人間だったらしい。


 1年に一度、外へ出るかどうか。


 そんな男が、たまたま出掛けた日に、公園で倒れていた菜月を見つけた。


 菜月にとっては、それで十分だった。


 奇跡だったのか、偶然だったのか。


 今となっては、どちらでもいい。


 明仁が、菜月を拾った。


 それだけが重要だった。


 しばらくしてから、菜月は実の両親についても調べた。


 2人とも、すでに事故で亡くなっていた。


 何も感じなかった。


 自分を捨てた人間だということは、もう理解していた。


 死を悼む理由もなかった。


 菜月に家族というものを教えたのは、血の繋がった両親ではない。


 明仁だった。


 そして明仁は、菜月に生きる術を教えた。


 菜月が嫌う大人たちに負けないように。


 誰かに馬鹿にされないように。


 蔑まれて、何もできずに逃げるだけの子供へ戻らないように。


 情報の集め方。


 人の嘘を見抜く方法。


 相手に気付かれず、必要なものだけを持ち帰る方法。


 集めた情報の価値を見極め、誰へ、どの形で渡すのか。


 情報屋として必要なことを、明仁は惜しみなく菜月へ叩き込んだ。


 優しい教師ではなかった。


 間違えても、すぐに答えは教えない。


 黙って菜月を見て、自分で間違いを探させる。


 何時間考えても分からなければ、ようやく必要なだけのヒントを出す。


 それでも、本当に困ったときには手を差し出した。


 必要なときにだけ、必要なものを与える。


 それが、明仁だった。


 菜月は必死で覚えた。


 拾ってもらったからではない。


 褒めてもらいたかったからでもない。


 二度と、何も知らないまま誰かに踏みにじられたくなかった。


 覚えれば覚えるほど、できることが増えていく。


 情報があれば、相手が何を隠しているのか分かる。


 知識があれば、相手より先に動ける。


 あの日、逃げることしかできなかった自分から、少しずつ遠ざかっていく。


 菜月の能力は、明仁が想像していた以上の速さで伸びていった。


 けれど、菜月が15歳のとき。


 明仁は死んだ。


 菜月にとっては、あまりにも突然だった。


 末期がん。


 病気のことも。


 治療を受けていなかったことも。


 菜月は、何も知らされていなかった。


「明仁さんは、菜月に心配を掛けたくなかったんだと思う」


 如月は、悲しそうにそう言った。


 知っていたとして、菜月に何ができたのかは分からない。


 それでも、知らなかったことが悔しかった。


 明仁が遺したものは、多かった。


 財産。


 情報。


 機器。


 築き上げてきた信用。


 そして、情報屋として抱えていた顧客。


 菜月は、それを受け取った。


 捨てるという選択肢もあった。


 普通の少女へ戻ることも、きっとできた。


 それでも菜月は、明仁が遺したものを手放さなかった。


 後継者として認めてもらうため、無茶な依頼も引き受けた。


 明仁の顧客は、相手が15歳の少女だからというだけで信用してくれるほど甘くない。


 ならば、結果で黙らせればいい。


 明仁より優れていると証明したかったわけではない。


 明仁が選んだ人間なら仕事を任せられる。


 そう認めさせたかった。


 そのためなら、多少の無茶は問題にならなかった。


          ◇


 そして現在。


 菜月は、目の前に置かれた分厚いファイルを眺めていた。


 表紙に書かれているのは、ナイツに関する情報だった。


「へぇ。なんか、随分と中は荒れてるんだねぇ」


 ページを捲りながら、菜月は猫のように目を細める。


 晃は興味がなさそうに欠伸をしていた。


 修二は何も言わず、菜月の判断を待っている。


「ナイツに無理矢理引き込まれた奴らが、裏で手引きしてるって噂」


 スグルが、いつもの軽い調子で説明した。


「私、ナイツにあんまり関わりたくないんだよねぇ。大して興味もないし」

「そんなこと言わずにさぁ、ちょちょいっと探ってもらえないかなー……なんて」


 菜月はファイルから視線を上げる。


「――これ、誰からの依頼なの?」

「う……」


 スグルが黙った。


 その反応だけで、おおよその察しはつく。


 スグルが依頼を運んでくる相手は、菜月が知っている人間か、既存の顧客と繋がりのある人間がほとんどだ。


 すぐに名前を言えない。


 つまり、菜月とは直接どころか、間接的にすら取引のない相手なのだろう。


 依頼なら何でも受ければいいわけではない。


 誰と取引をするのか。


 それ自体が、情報屋の信用に関わる。


 明仁から引き継いだ顧客を、理由もなく不愉快にさせるつもりはなかった。


「言わないなら調べるまで。スグルが黙ってても、どうせすぐ分かることだよ」

「――言う! 言うから、そんな怖い顔しないでよ、菜月ちゃん」


 晃が手持ち無沙汰になったのか、菜月の自室へ消えていった。


 修二は新しいミルクティーを用意するため、キッチンへ向かう。


 残されたスグルは、視線を左右に泳がせていた。


 しばらくして、晃が薄いピンク色のマニキュアを手に戻ってくる。


「で、誰からなの?」

「……ナイツの大橋勇樹って子から」

「は?」


 菜月の眉が上がった。


「ナイツの幹部でね。頭脳――ブレーンみたいな役割の子なんだけどさ。今回ばかりは尻尾が掴めなくて困ってるんだって」

「ハッ。ブレーンがそんな状態じゃ、ナイツのガキ共もたかが知れてんなぁ?」


 晃はマニキュアの蓋を開けると、何の疑問もなく菜月の足を取った。


 薄いピンクを、足の爪へ丁寧に塗っていく。


「相変わらずの犬っぷり……菜月ちゃん至上主義が目に痛い」

「うるせぇな、クソスグル。お前みてぇにヘラヘラしてる奴を見ると、タコ殴りにしたくなんだよ」

「ちょ、文句は聞くから、その塗るの止めない? 見てて恥ずかしくなってくるから。マッチョが女の子にペディキュア塗ってあげてる姿なんて……!」

「――晃、ちょっとはみ出てる」

「おお、悪ぃな。スグルの馬鹿が邪魔すっから」

「俺の話、全然聞いてないし!」


 菜月は、塗られていく足の爪を眺めながら考える。


 依頼そのものには興味があった。


 少し、楽しそうですらある。


 問題は、依頼主だった。


 ナイツ。


 この街へ来たとき、最低限の情報は調べた。


 それ以上を知る必要はないと判断し、そのまま放っていた組織だ。


 自分の仕事とは関係がない。


 そう思っていた。


 学校でスカウトされるのも面倒だから避けてきた。


 それが今になって、向こうから情報屋へ依頼を持ち込んできた。


「スグル」


 菜月は足元から視線を上げた。


「受けるかどうかは別にして、とりあえず調べてあげる。ナイツの詳しい内情とか、まぁ色々」

「マジで? いいの? 菜月ちゃん!」

「受けるかどうかは分かんないよ。だって依頼がアバウトすぎるし。何なの、『内通者の特定』って。全く頑張ってないし、こっちに丸投げ。やる気ないよねぇ、ナイツ」


 菜月は薄く笑った。


 スグルの額に、冷や汗が浮かぶ。


 ナイツの内通者を探す。


 それは、これまで避けてきた組織の内側へ、自分から足を踏み入れるということだった。


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