第2話 逃げた日、師匠の遺したもの
皆瀬菜月が、普通の女子高生を演じるようになった理由は、それほど複雑ではない。
目立てば、誰かに見つかる。
見つかれば、興味を持たれる。
興味を持たれれば、過去を知られる。
それが、菜月にとっては面倒だった。
菜月は、生まれてから家族がいると思ったことがない。
血の繋がった両親は、菜月が赤ん坊の頃に彼女を孤児院へ預け、そのまま消えた。
中学1年生の春。
入学式を終えたその日、菜月は孤児院を抜け出した。
もう学校へは通わない。
孤児院にも戻らない。
子供ながらに、そう決めた。
皆瀬菜月が孤児院の子供だという噂は、入学前から広がっていたらしい。
誰が広めたのか、確かなことは分からない。
ただ、思い当たる節はあった。
同じ小学校に通っていた、我儘な少女。
いわゆる金持ちの家に生まれた彼女は、孤児である菜月を馬鹿にし、自分の方が上なのだと得意げに振る舞っていた。
菜月が育った孤児院そのものも、評判がいいとは言えなかった。
子供への教育はほとんどない。
問題を起こしても、大人はろくに叱らない。
食事を与え、片付けをして、決められた時間に子供を動かす。
言うことを聞かなければ放っておく。
それだけだった。
菜月は、そんな孤児院が反吐の出るほど嫌いだった。
入学式の日。
知らない大人から「孤児だから」「可哀想だ」と囁かれた。
同級生には面白がるように笑われた。
受付をしていた上級生からは、金をやるから身体を触らせろと迫られた。
菜月は逃げた。
学校から。
孤児院から。
自分を知っている人間がいる場所から。
逃げ出して4日目。
菜月は、とうとう倒れた。
空腹は、とっくに限界を越えていた。
足を動かすことだけを考えて歩き続け、どこへ向かっているのかも分からなくなっていた。
ふらふらと入り込んだ公園で力尽き、そのまま意識を失った。
次に目を覚ましたとき、菜月は知らないベッドの上にいた。
綺麗に片付けられた部屋。
身体を包む、大きく柔らかな布団。
頬を寄せた菜月は、しばらく本気で死んだのだと思っていた。
――ここはきっと、死ぬ前の夢の世界。
辛かった4日間は、もう終わった。
そう思うと安心して、菜月はもう一度布団へ顔を埋めた。
けれど、その幸せは長く続かなかった。
がちゃり、と遠慮なくドアが開く。
菜月は飛び起きた。
扉の向こうから、ぼさぼさの髪をした男がこちらを覗いている。
表情が強張った。
――拐われた?
あの上級生と同じようなことをされるのかもしれない。
そう考えた瞬間、それまで心地よかった布団が急に頼りなくなる。
菜月は肩を震わせ、小さく身体を縮めた。
男から目を逸らしたとき、腕に違和感を覚える。
透明な管が繋がっていた。
腕には、細い針が刺さっている。
――これ、知ってる。
点滴だ。
病院で一度だけ見たことがある。
自分の知っているものがあった。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。
菜月はもう一度、男を見る。
男は部屋へ入ってこない。
扉の影から、黙ってこちらを見ていた。
ぼさぼさの前髪が、目の半分以上を隠している。
顔には、少しだけ髭が残っていた。
孤児院のおじさんの「剃り残し」に似ている。
剃り残しは、ずぼらな人だと孤児院のおばさんが言っていた。
ずぼらが何なのか、菜月にはよく分からない。
ただ、剃り残しをしていたあのおじさんは、孤児院の中では比較的まともな人だった。
だから。
この男も、それほど悪い人ではないのかもしれない。
「あの……」
声を掛けたところで、何を言えばいいのか分からなくなった。
しばらく見つめ合ったあと、男がぶっきらぼうに口を開く。
「目が覚めたなら、飯を食え」
その後ろから、白衣を着た男性が顔を出した。
菜月がびくりと肩を跳ねさせる。
白衣の男性は、安心させるように眉を下げて笑った。
菜月の腕から手早く針を抜き、白く四角い絆創膏を貼る。
「僕の名前は如月。まずは、ちゃんとご飯を食べよう。結構寝てたから、お腹も空いたと思うんだ。明仁、こっちに持ってきて」
「……リビングで食え」
男は、明仁という名前らしい。
菜月は、心の中でその音を繰り返した。
あきひと。
あきひと。
きちんと名乗った如月より、菜月は明仁の名前を先に覚えた。
ぼさぼさの髪。
もさもさの前髪。
剃り残しのある顔。
怖いはずなのに、見ているうちに少しだけ可愛く思えてきた。
如月に身体を支えてもらい、菜月はゆっくりとリビングへ向かった。
テーブルには、丸いピザが置かれている。
焼けたチーズの匂いに、お腹が鳴った。
如月が小さく笑い、菜月を椅子へ座らせる。
「ちび。お前、名前は?」
「なつき。菜の花の菜に、月だよ」
「なんで倒れてた」
「つかれて、お腹が空いて……」
「家は」
「……ない」
「親は」
「……いない!」
明仁は、淡々と菜月へ質問した。
菜月も、聞かれたことには答えた。
やがて明仁が、まっすぐ菜月を見る。
「――孤児院に、帰りたいか?」
その瞬間。
頭の中に、嫌いなものが次々と浮かんだ。
蔑むような目。
同情。
何もしない大人。
汚い上級生。
意地の悪い同級生。
自分を捨てた両親。
全部、いらない。
全部、大嫌いだった。
「か、帰りたくないっ! 学校にも行きたくない! わたし、可哀想なんて言われたくない……!」
涙が、ぼろぼろと落ちる。
どうしてなのかは分からない。
それでも、このおじさんなら話を聞いてくれるような気がした。
明仁は泣き続ける菜月を見ていた。
慰めることも、抱き締めることもしない。
ただ、短く頷いた。
「――なら、ここに居ろ」
それが、皆瀬菜月と明仁の始まりだった。
◇
明仁に拾われた菜月は、そのまま彼の家で暮らし始めた。
あとで聞いた話では、明仁はほとんど外へ出ない人間だったらしい。
1年に一度、外へ出るかどうか。
そんな男が、たまたま出掛けた日に、公園で倒れていた菜月を見つけた。
菜月にとっては、それで十分だった。
奇跡だったのか、偶然だったのか。
今となっては、どちらでもいい。
明仁が、菜月を拾った。
それだけが重要だった。
しばらくしてから、菜月は実の両親についても調べた。
2人とも、すでに事故で亡くなっていた。
何も感じなかった。
自分を捨てた人間だということは、もう理解していた。
死を悼む理由もなかった。
菜月に家族というものを教えたのは、血の繋がった両親ではない。
明仁だった。
そして明仁は、菜月に生きる術を教えた。
菜月が嫌う大人たちに負けないように。
誰かに馬鹿にされないように。
蔑まれて、何もできずに逃げるだけの子供へ戻らないように。
情報の集め方。
人の嘘を見抜く方法。
相手に気付かれず、必要なものだけを持ち帰る方法。
集めた情報の価値を見極め、誰へ、どの形で渡すのか。
情報屋として必要なことを、明仁は惜しみなく菜月へ叩き込んだ。
優しい教師ではなかった。
間違えても、すぐに答えは教えない。
黙って菜月を見て、自分で間違いを探させる。
何時間考えても分からなければ、ようやく必要なだけのヒントを出す。
それでも、本当に困ったときには手を差し出した。
必要なときにだけ、必要なものを与える。
それが、明仁だった。
菜月は必死で覚えた。
拾ってもらったからではない。
褒めてもらいたかったからでもない。
二度と、何も知らないまま誰かに踏みにじられたくなかった。
覚えれば覚えるほど、できることが増えていく。
情報があれば、相手が何を隠しているのか分かる。
知識があれば、相手より先に動ける。
あの日、逃げることしかできなかった自分から、少しずつ遠ざかっていく。
菜月の能力は、明仁が想像していた以上の速さで伸びていった。
けれど、菜月が15歳のとき。
明仁は死んだ。
菜月にとっては、あまりにも突然だった。
末期がん。
病気のことも。
治療を受けていなかったことも。
菜月は、何も知らされていなかった。
「明仁さんは、菜月に心配を掛けたくなかったんだと思う」
如月は、悲しそうにそう言った。
知っていたとして、菜月に何ができたのかは分からない。
それでも、知らなかったことが悔しかった。
明仁が遺したものは、多かった。
財産。
情報。
機器。
築き上げてきた信用。
そして、情報屋として抱えていた顧客。
菜月は、それを受け取った。
捨てるという選択肢もあった。
普通の少女へ戻ることも、きっとできた。
それでも菜月は、明仁が遺したものを手放さなかった。
後継者として認めてもらうため、無茶な依頼も引き受けた。
明仁の顧客は、相手が15歳の少女だからというだけで信用してくれるほど甘くない。
ならば、結果で黙らせればいい。
明仁より優れていると証明したかったわけではない。
明仁が選んだ人間なら仕事を任せられる。
そう認めさせたかった。
そのためなら、多少の無茶は問題にならなかった。
◇
そして現在。
菜月は、目の前に置かれた分厚いファイルを眺めていた。
表紙に書かれているのは、ナイツに関する情報だった。
「へぇ。なんか、随分と中は荒れてるんだねぇ」
ページを捲りながら、菜月は猫のように目を細める。
晃は興味がなさそうに欠伸をしていた。
修二は何も言わず、菜月の判断を待っている。
「ナイツに無理矢理引き込まれた奴らが、裏で手引きしてるって噂」
スグルが、いつもの軽い調子で説明した。
「私、ナイツにあんまり関わりたくないんだよねぇ。大して興味もないし」
「そんなこと言わずにさぁ、ちょちょいっと探ってもらえないかなー……なんて」
菜月はファイルから視線を上げる。
「――これ、誰からの依頼なの?」
「う……」
スグルが黙った。
その反応だけで、おおよその察しはつく。
スグルが依頼を運んでくる相手は、菜月が知っている人間か、既存の顧客と繋がりのある人間がほとんどだ。
すぐに名前を言えない。
つまり、菜月とは直接どころか、間接的にすら取引のない相手なのだろう。
依頼なら何でも受ければいいわけではない。
誰と取引をするのか。
それ自体が、情報屋の信用に関わる。
明仁から引き継いだ顧客を、理由もなく不愉快にさせるつもりはなかった。
「言わないなら調べるまで。スグルが黙ってても、どうせすぐ分かることだよ」
「――言う! 言うから、そんな怖い顔しないでよ、菜月ちゃん」
晃が手持ち無沙汰になったのか、菜月の自室へ消えていった。
修二は新しいミルクティーを用意するため、キッチンへ向かう。
残されたスグルは、視線を左右に泳がせていた。
しばらくして、晃が薄いピンク色のマニキュアを手に戻ってくる。
「で、誰からなの?」
「……ナイツの大橋勇樹って子から」
「は?」
菜月の眉が上がった。
「ナイツの幹部でね。頭脳――ブレーンみたいな役割の子なんだけどさ。今回ばかりは尻尾が掴めなくて困ってるんだって」
「ハッ。ブレーンがそんな状態じゃ、ナイツのガキ共もたかが知れてんなぁ?」
晃はマニキュアの蓋を開けると、何の疑問もなく菜月の足を取った。
薄いピンクを、足の爪へ丁寧に塗っていく。
「相変わらずの犬っぷり……菜月ちゃん至上主義が目に痛い」
「うるせぇな、クソスグル。お前みてぇにヘラヘラしてる奴を見ると、タコ殴りにしたくなんだよ」
「ちょ、文句は聞くから、その塗るの止めない? 見てて恥ずかしくなってくるから。マッチョが女の子にペディキュア塗ってあげてる姿なんて……!」
「――晃、ちょっとはみ出てる」
「おお、悪ぃな。スグルの馬鹿が邪魔すっから」
「俺の話、全然聞いてないし!」
菜月は、塗られていく足の爪を眺めながら考える。
依頼そのものには興味があった。
少し、楽しそうですらある。
問題は、依頼主だった。
ナイツ。
この街へ来たとき、最低限の情報は調べた。
それ以上を知る必要はないと判断し、そのまま放っていた組織だ。
自分の仕事とは関係がない。
そう思っていた。
学校でスカウトされるのも面倒だから避けてきた。
それが今になって、向こうから情報屋へ依頼を持ち込んできた。
「スグル」
菜月は足元から視線を上げた。
「受けるかどうかは別にして、とりあえず調べてあげる。ナイツの詳しい内情とか、まぁ色々」
「マジで? いいの? 菜月ちゃん!」
「受けるかどうかは分かんないよ。だって依頼がアバウトすぎるし。何なの、『内通者の特定』って。全く頑張ってないし、こっちに丸投げ。やる気ないよねぇ、ナイツ」
菜月は薄く笑った。
スグルの額に、冷や汗が浮かぶ。
ナイツの内通者を探す。
それは、これまで避けてきた組織の内側へ、自分から足を踏み入れるということだった。




