秋霖のあいまの散歩道
秋霖のあいまの散歩道
九月の雨が三日続き、四日目の午後になって、ようやく雲の切れ間から薄い光が差した。七十二歳の富子は、薄紫色のブラウスに灰色のカーディガンを重ね、玄関で紺色の運動靴のひもを結び直した。台所の流しには昼に食べた秋鮭の皿が一枚残り、鍋の中では大根と油揚げの味噌汁が、夕食までの休憩をしていた。
「雨、降らないかな」
四十九歳の息子、和俊は、焦げ茶色の長袖シャツの裾を引っ張りながら空を見た。折り畳み傘は持ったが、傘を差したまま歩くのが苦手なので、できれば降ってほしくないらしい。富子は自分の鞄に入れた黄色いタオルと、小袋の黒糖飴を指で確かめた。
「降ったら、コンビニで雨宿りしましょう。何か買わなくても、軒下をちょっと借りるくらいなら叱られないわよ」
「俺、肉まん買うかもしれない。もう売ってたよ。母さんはあんまん?」
「まだ九月よ。あんまんは冬まで取っておくわ。今日は帰ったら林檎でも煮ましょう」
二人はそんな話をしながら家を出た。濡れたアスファルトからは、夏の土とは違う、ひんやりした匂いが立っていた。駆け足で近づいてくる「寒」が、雨水の中へ先に手を浸しているようだった。
近所の公園までは、ゆっくり歩けば十五分ほどかかる。和俊は自転車を押していると十分くらい歩けるのに、何も持たずに歩くと五分で足取りが乱れる。今日は自転車を置いてきたので、白いガードレールへ手を伸ばしかけては引っ込め、歩道の端にたまった雨水を避けながら進んでいた。
「ふくらはぎが痛むのかと思っていたら、足の甲が突っ張るのね。靴がきついんじゃない? 少しひもを緩めてみたら」
富子が言うと、和俊は立ち止まり、右足を少し浮かせた。靴の甲に雨上がりの光が細く乗り、ほどけかけた靴ひもが揺れている。富子がしゃがもうとすると、腰より先に膝が抗議したので、二人で顔を見合わせた。
「母さんが結び直したら、今度は母さんが立てなくなる。俺が救急車を呼ぶことになるよ。二人で散歩しただけなのに」
「それは困るわね。救助隊が二人必要になるわ。新聞に載ったら恥ずかしいから、自分で結んでちょうだい」
和俊は道路脇の低い縁石へ腰を下ろし、ゆっくり靴ひもを緩めた。強く締めすぎていたらしく、甲には靴下の筋が赤く残っている。富子は鞄から黒糖飴を一つ取り出し、包み紙を開けながら、息子が自分で加減を確かめるのを黙って待った。
「これなら歩けそう。さっきより楽になった。靴じゃなくて、ひもだったんだな」
「無理なら帰りましょう。公園は逃げないもの。今日行けなくても、明日もそこにあるわ」
「でも、金木犀が咲いているか見たい。去年は母さんが、匂いだけ先に見つけた。花はどこにも見えなかったのに」
見つけたのは花ではなく匂いだと訂正しようとして、富子はやめた。言葉は、正しく使うためだけにあるのではない。見えないものを二人で指さすためにもあるのだと思うと、舌の上で溶けた黒糖飴が、焦がした蜜の味を広げた。
公園の入口には、雨に打たれた百日紅の花びらが散っていた。濃い桃色の花びらは濡れた地面に貼りつき、幼い子どもが落とした千代紙のように見えた。花壇では黄花コスモスが重くなった頭を傾け、その奥で紫色の藪蘭が、長い葉の間から粒のような花をのぞかせていた。
「菊の節句も過ぎたのね。重陽の節句っていうのよ。九月九日だから、もう過ぎちゃった」
「菊を食べる日? 黄色い花を味噌汁に入れるの? 苦くないのかな」
「食用菊なら酢の物にするわね。昔、一度だけ作ったら、お父さんが仏壇の花を食べさせられたような顔をしたわ」
「どんな顔?」
「眉毛が八時二十分。口はへの字。お醤油をかけてもいいかって、三回も聞いたのよ」
和俊は自分の腕時計を見てから、眉を下げた。富子も同じ顔を作ろうとしたが、うまくできず、二人の笑い声に驚いた雀が水たまりから飛び立った。濡れた羽が空気を打つ音のあと、滑り台の下から小さな蛙が一匹跳び出した。
二人は公園を一周せず、入口からいちばん近いベンチへ向かった。木の座面はまだ湿っていたので、富子が黄色いタオルで半分ずつ拭いた。向かいの団地のベランダには、雨の間に乾かなかったらしい青いシャツや白い靴下が並び、弱い風に少しだけ揺れていた。
「春が一雨ごとの暖かさかな、だとすると、秋は一雨ごとの涼しさかな、なのかなあ」
和俊は語尾を節にして歌い、靴のつま先で小石を動かした。富子には「暖かさカナダ」「涼しさカナダ」と聞こえたので、息子の横顔を見た。和俊はもう一度、今度は両手で拍子を取りながら歌った。
「春が、一雨ごとの、暖かさかな。秋は、一雨ごとの、涼しさかな。これなら分かる?」
「やっぱり最後がカナダに聞こえるわ。春は暖かさカナダ、秋は涼しさカナダ。カナダは秋でも、もっと寒いでしょうけど」
「母さんの好きな『赤毛のアン』の国だよ。プリンス・エドワード島。母さん、テレビでやっていると必ず見るじゃないか」
「そうよ。緑の切妻屋根の家と、林檎の花の道ね。一度でいいから歩いてみたかったわ」
「ここにも、花の道はあるよ。百日紅の花びらだけど。屋根は緑じゃなくて、公衆トイレの青い屋根だけど」
富子は、公園の端に建つ小さなトイレを見た。濡れた青い屋根の下には清掃道具が立てかけられ、その横を白い猫が尻尾を上げて通り過ぎていく。プリンス・エドワード島とはずいぶん違うが、和俊が見つけた道なら悪くないと思った。
「アンなら、この公園にも素敵な名前を付けるでしょうね。あの水たまりは『秋空を閉じ込めた鏡』とか」
「じゃあ、あのベンチは『黄色いタオルで拭かないと座れない椅子』」
「そのままじゃない。想像力が足りません」
「母さんの鞄は『黒糖飴が出てくる魔法の袋』。俺の靴は『ひもを締めすぎて足が痛くなる靴』」
「それも、そのままよ」
話は秋の雨からカナダへ行き、赤毛のアンから林檎へ行った。富子は、冷蔵庫に卵が二個残っていたことを思い出し、帰ったら小さなホットケーキを三枚焼こうと決めた。バターはないが、蜂蜜と林檎ならあるので、薄切りにして電子レンジにかければ、それらしいおやつになる。
「人間ってすごいね。見たものに名前を付けて、それでも足りなくて、感じたことまで言葉にする。だから、ほんとにたくさんの言葉を覚えていくんだね」
和俊が急に言った。公園の隅では、清掃員が竹ぼうきで濡れた落ち葉を集めていた。乾いた日なら軽く舞う葉も、今日は地面へしがみつき、ざっ、ざっ、と重い音を立てている。
「秋霖とか、重陽とか、一雨ごとの涼しさとか。知らなくても雨は降るけど、言葉を知ると、昨日までの雨と少し違って見える」
「秋霖なんて、普段は使わないけどね。私も覚えたばかりよ。覚えたから、今日は三回くらい使うつもり」
「でも、長い雨って言うのと、秋霖って言うのは、ちょっと違う。秋霖って言うと、この匂いも入っている気がする」
和俊は鼻から大きく息を吸った。雨に濡れた土、百日紅の花びら、刈られた草、どこかの家で焼いている秋刀魚の煙が、冷たい風に混じっていた。富子も息を吸ったが、秋刀魚の匂いで腹が鳴り、立派な言葉より先に夕食のおかずが頭へ浮かんだ。
「人間は、感じたことを誰かに渡したくて、言葉を増やしたのかもしれないわね。自分一人で感じるだけなら、匂いとか、寒いとか、それだけで足りるもの」
「じゃあ、言葉が出ないときはどうする? 何を感じているのか、自分でも分からないとき」
「隣に座ればいいんじゃない。今日みたいにね。話せるようになるまで、黒糖飴でもなめていればいいのよ」
和俊は指を折り、一回目と数えた。富子も負けずに、秋霖のあいま、秋霖の匂い、と続けた。三回目が思いつかずに黙ると、和俊が「秋霖が終わったら、シルバーウィーク」と助け船を出した。
いつの間にか菊の節句も過ぎ、九月の連休が近づいていた。富子は、シルバーウィークという名前は自分たちのための休みのようだと言い、和俊は敬老の日だから間違っていないと答えた。遠出をしなくても、晴れたら商店街まで歩き、八百屋で梨を一つ買って半分ずつ食べればいい。
「連休、どこか行く? いつもの公園より、少し遠いところでもいいよ」
「この公園でもいいわ。足の甲と相談してね。途中で痛くなったら、競争じゃないんだから休みましょう」
「今度は自転車を押してくる。自転車があると、手を置けるから歩きやすい」
「私は途中で自転車の籠に乗せてもらおうかしら。小さく丸まれば入るかもしれないわよ」
「無理。母さん、梨より重いから。前輪が持ち上がっちゃうよ」
「梨と比べるんじゃありません」
また笑うと、和俊は少しだけ富子の肩へ寄った。四十九歳の大きな体は、昔のように抱き上げることも、手を引いて好きな方角へ連れていくこともできない。それでも今日は、自分で靴ひもを緩め、自分で休む場所を決め、富子と同じ匂いを秋霖と呼んだ。
帰り道、金木犀はまだ咲いていなかった。代わりに民家の庭で白い秋明菊が揺れ、軒下には赤い唐辛子が束ねて干してあった。富子は足の甲がまた突っ張り始めるのを感じ、角の電柱のそばで立ち止まった。
「もうすぐ家だよ。急がなくていいよ。ここで少し休んでから行こう」
「知ってるわ。十二年以上住んでいるんだから、目をつぶっても帰れるわよ。もっとも、目をつぶったら最初の電柱にぶつかるけどね」
「味噌汁、残ってた? 大根が入っているやつ。俺、もうお腹すいた」
「大根と油揚げのが残っているわ。ホットケーキも焼くわよ。散歩した人には、甘いものを食べる権利があります」
家へ戻ると、畳の部屋には朝に取り込んだ洗濯物が、まだ畳まれずに籠へ盛られていた。富子がカーディガンを脱いで椅子の背へ掛ける横で、和俊は靴下を脱ぎ、赤くなった足の甲を指で確かめた。台所では蜂蜜をかけた林檎が温まり、甘酸っぱい湯気が窓ガラスを薄く曇らせた。
「今日の散歩、よかったね。金木犀は咲いていなかったけど、カナダにも行った。赤毛のアンの道も歩いた」
「公園まで行って、ベンチに座って、帰ってきただけよ。でも、言葉の中なら、どこまででも行けるわね」
「それでも、俺は今日の公園がいい。母さんと半分ずつ座れるベンチがあったから」
富子は焼き上がった小さなホットケーキを、二枚と一枚に分けた。二枚の皿を和俊へ出すと、和俊は一枚を半分に切って返してきたので、結局どちらも一枚半になった。窓の外でまた雨が一粒、二粒と落ち始めたが、二人は急いで立ち上がらず、蜂蜜の染みた温かい林檎を口へ運んだ。
「秋霖、四回目。母さん、三回どころか、もう使いすぎだよ。明日になったら飽きているかもしれない」
和俊が言うと、富子は指についた蜂蜜をなめた。冷えた雨の匂いも、突っ張る足の甲も、畳まれていない洗濯物も、今だけは片づけなくてよかった。富子は息子の皿に残った最後の林檎を見ながら、今日ここにある味も匂いも声も、急がず一つずつ体へしまっておこうと思った。
「明日も晴れ間があったら、少し歩こうか。今度は自転車を押してね。私は黒糖飴を二つ持っていくわ」
「うん。金木犀が咲いているかもしれない。咲いていなかったら、また次の日に探せばいい」
「そうね。咲いていなくても、一緒に探した日は残るものね」




