第6章:サラワケット越えの残響
1. 泥濘と鋼鉄の咆哮
眩い純白の光の奔流が収まった瞬間、日高沙織の五感は、逃げ場のない「戦場の狂気」によって限界まで蹂虙された。
そこは、標茶町の爽やかな八月の牛舎ではなかった。沙織は、見上げるほどに巨大な熱帯雨林の樹々がひしめき合う、灼熱のジャングルの中に立っていた。
まとわりつくような、肌を焦がすむせ返るほどの異常な湿度。皮膚をジリジリと灼く強烈な紫外線が容赦なく襲いかかるが、目の前に広がる凄惨な光景の前には、そんな環境の不快さなど一瞬で吹き飛んでしまった。
「……っ、うあ……っ」
沙織は喉の奥から、言葉にならない悲鳴を漏らした。
視界を埋め尽くしていたのは、痩せこけ、髭ボウボウのまま事切れた、無数の日本兵の死体の山だった。
熱帯の猛烈な熱気と共に、鼻腔をダイレクトに爆撃する強烈な腐敗臭。あまりの死臭の凄まじさに、沙織の胃袋が激しく反転し、その場に膝をついて凄絶な嘔吐を催しそうになる。
死に絶えた日本兵たちは、ボロボロに擦り切れた国防色の九八式軍衣姿のまま、なぜか皆、軍靴を履いていなかった。過酷な行軍の果てに昭五式軍靴の底が擦り切れ、裸足のまま泥を歩んだのだろう。しかし彼らは、飢餓の極限にありながら、食事の命綱である『九四式飯盒』や『九九式飯盒』だけは、死してなお後生大事に胸元にしっかりと抱き締めていた。
ガスが溜まって異様に丸く膨れ上がった腹。すでに肉が削げ落ち、青白い骨が剥き出しになって白骨化している死体もある。そのドロドロに腐りかけた肉の隙間には、数え切れないほどのウジが大量に湧き、凝視できる有り様ではなかった。
大気を引き裂く駆動音が轟く。
上空を見上げれば、双胴の悪魔と呼ばれる米軍のP-38『ライトニング』戦闘機がV型12気筒エンジンの過給機音をキーンと響かせ、B-25『ミッチェル』爆撃機の編隊がジャングルの天蓋を覆い尽くしていた。
「ドガガガガガガガガッ!!」
容赦のないブローニング12.7mm重機関銃の掃射の雨が緑の葉を切り裂き、次々と250ポンド爆弾が投下され、瞬発信管の炸裂光と共に大地を激しく震わせる。それだけではない。遥か沖合からは、水平線を埋め尽くす米軍艦隊による無慈悲な『艦砲射撃』の重低音が地鳴りのように響き渡り、巨大な砲弾がジャングルを文字通り消滅させる勢いで泥を噴き上げていた。
物量、兵器、補給、そのすべてにおいて勝ち目がないのは、小学生でもわかる残酷な事実だった。
「しっかりしろ! まだ息がある、包帯を巻くんだ!」
ふと横に目をやると、茶黒い染みのついた九八式軍衣を纏った曾祖父――日高作造曹長が、爆煙が立ち込める泥塗れの大地の上で、必死に負傷者の看護に当たっていた。
周囲には、砲弾の直撃を受けて肉片となった兵士たちの凄惨な死体が、内臓をぶちまけて辺りに散乱している。五感を麻痺させるほどの硝煙と血生臭さの中、作造曹長は一心不乱に、血に染まった包帯を巻き続けていた。
「退避――ッ! 防空壕へ向かえッ!!」
ジャングルの奥から前線指揮官の悲痛な号令が響き渡る。作造曹長は負傷兵の肩を担ぎ、弾雨を潜り抜けるようにして地面に掘られた粗末な防空壕に向かって泥を蹴った。沙織も必死にその背中を追う。
その時だった。防空壕の手前、巨大なシダの葉の陰に、見慣れないオリーブドラブのジャングルグリーン軍服を着た一人の若者が血を流して倒れているのが沙織の目に留まった。
――オーストラリア陸軍の将兵だ。
その手には、特徴的な上部バナナマガジンを持つ『ブレン軽機関銃Mk.II』がしっかりと握り締められていた。しかし、その若き豪州兵は、重度の負傷とマラリアの高熱によって、すでに虫の息だった。
作造曹長は、足を止めた。辺りを素早く見渡す。敵の追撃がすぐそこまで迫っている。
しかし、曾祖父さんは迷わなかった。倒れた敵兵の前に跪くと、腰から下げた『昭五式水筒』の栓を抜き、その乾ききった唇へと、優しく命の水を飲ませた。そして、自らの雑嚢の奥深くから、この激戦地ではすでに金の価値すら凌駕するほどの超貴重品だった、マラリアの特効薬『キニーネ』の白い錠剤を取り出し、彼の掌にそっと渡したのだ。
豪州兵は濁った瞳を微かに開き、掠れた声で ──
「I'm john. thanks...(俺はジョンだ。ありがとう……)」
曾祖父さんは、ジョンの泥まみれの手を握り、鋭い、しかし確かな慈愛を込めた声で言った。
「Be careful. Get away.(気をつけろ。脱出するんだ)」
敵兵の救護を終えた曾祖父さんは、迫り来る砲撃の爆音の中、沙織を促すように防空壕の中へと急いだ。
どれほどの時間が経っただろうか。空襲や艦砲射撃の轟音が、ようやく遠ざかり、静まり返った。しかし、安息の時間は与えられない。防空壕の入り口で外を警戒していた見張りの兵が、裏返った絶望の声をあげて叫んだ。
「敵の戦車だぁッッ!!! 敵戦車、接近中!!」
「何だと……!?」
作造曹長が防空壕の隙間から外を覗き込む。
ジャングルの木々をなぎ倒し、AEC直列6気筒ディーゼルエンジンの重低音とキャタピラの爆音を轟かせながら現れたのは、重装甲で知られる豪州軍の『火炎放射器付きマチルダⅡ歩兵戦車』の異様な姿だった。
砲塔前面のボックステンションから突き出たノズルから、ゴォォォォッ!!というおぞましい轟音と共に、数千度の猛烈なジェル状火炎の奔流が放射される。ジャングルの緑が一瞬で赤黒い地獄の炎に包まれ、兵士たちの悲鳴が響き渡る。
幸いにも、そのマチルダ戦車の鉄の塊は、随伴する歩兵部隊と共に、沙織たちの防空壕とは別の方向へと進路を変えて向かっていった。
一難過ぎてまた一難。これが、この南国の地で毎日のように続く、出口のない地獄の戦場だった。
水も、糧秣も、医薬品も、すでに完全に底を突きかけている。小銃の弾一発、砲弾の弾さえも足りない、絶望的な状況。もはや、大本営が叫ぶような精神論だけでは戦えない限界の現実が、そこには生々しく転がっていた。
2. 嗚咽と、ブレないケダモノ
「う、あ……、ぁ、ぁあ……っ」
激しい光の残像が網膜から消え去ったとき、沙織はいつの間にか、元の古い木造牛舎の中に佇んでいた。
抽出されたブラックコーヒーの残り香と、実家の懐かしい牧草の匂い。
しかし、沙織の身体の震えは止まらなかった。あまりにも生々しい戦記物の地獄そのものの光景。曾祖父さんが命を懸けて戦い、そして敵兵を救ったという圧倒的な歴史の真実。就活の焦りなど泥のように吹き飛ばすその衝撃に、沙織は丸椅子の上で両手で顔を覆った。
「うっ、ぐすっ……、あ、曾祖父、さん……っ」
目から涙がボロボロと溢れ、止まらない。胸が激しく締め付けられ、しゃくりあげるような嗚咽が、静かな牛舎の中に幾度も、繰り返し繰り返し響き続けた。
すると、沙織のすぐ隣に、カーキ色の軍服姿の曾祖父さんの亡霊が、静かに寄り添うようにして現れた。作造曹長は、悲しげに目を細めると、その泥に塗れた大きな半透明の手で、沙織の頭を「よし、よし」と優しく撫でてくれた。
そこへ、カンガルーがのっそりと顔を覗かせ、いつになく静かなトーンで語りかけてきた。
「ジョンはあれから味方に保護され、無事に後方へ護送されたんだ。あんたの曾祖父さんのおかげでな」
「――っ、うん、うんだ……っ!」
沙織は涙を拭いながら、強く、何度も首を縦に振った。曾祖父さんの優しさがジョンの命を救い、だからこそあの遺品が今、我が家に届いたのだ。激しい感動と感謝の念が、沙織の胸を温かく満たしていく。
カンガルーは、そんな感動に浸る沙織の背中を、慰めるように「よしよし」とさりげなく、優しく撫でまわしていた。
……が。
「――パチリ」
静まり返った牛舎に、妙に硬質で、聞き覚えのある小さな金属音が響いた。
Tシャツの裏側で、ブラジャーのホックの締め付けが完全に解放され、胸元が「フワリ」と軽くなる生々しい肉体感覚が走る。
カンガルーは沙織の背中に回した前足を、信じられないほど細かく、器用な手つきで動かし、今まさに沙織のブラのホックを完璧に外したところだった。そのケダモノのボタンの目は、涙を流す沙織の胸元を、ジィィィッと下品な輝きで見つめている。
感動の歴史秘話。敵味方を超えた友情。曾孫の涙の嗚咽。そのすべてを最悪のタイミングで台無しにする、ブレないケダモノのドスケベな暴挙。
横では、せっかくいい雰囲気で曾孫の頭を撫でていた英霊――日高作造陸軍曹長が、自らの命を救ったジョンのマスコット人形がやらかした、あまりにも救いようのないこの世の地獄のような乱行を前にして、再び声を失い、口をあんぐりと開けたまま、完全に「唖然」としてその場にのけぞり、絶望していた。
(第6章・完)




