第5章:ハイブリッドの告白と、牛舎の光
1. テケテケとアボリジニの呪術
「わかったわよ。その代わり私にしっかりとその光景を見せてくれたら考えるから。けどあんた何で日本語がそんなに上手く話せるの?」
日高沙織は、大学の就活で張り詰めていた神経を少しだけ緩め、手に持った加熱式タバコ・IQOSを燻らせながら、目の前の奇妙な有袋類をジロリと睨みつけてそう言った。
カンガルーは、実家特有の濃厚な牛糞と牧草の匂いの中で、腫れた左頬を前足でさすりながら、信じられないような真実を流暢に語り出した。
「ジョンは根は優しい奴だったからな。帰国後カンガルーのぬいぐるみにアボリジニの息を吹きかけるまじないをしてたからな。それに日本の税関を抜けた時に妙な奴に出会ったんだよ。そいつが俺に憑依したんだ。通称テケテケって言うんだけどな。まぁ今の俺はつまりハイブリッドって訳だな! わはは」
「……は?」
沙織は呆然とした。何を言ってるんだこいつは?
オーストラリアの先住民族アボリジニの神秘的な呪術。そこまでは歴史ロマンとしてまだ理解できる。だが、日本の税関で憑依したという『テケテケ』は、下半身がなくて肘で這い回り、出会った人間を鎌で真っ二つにするという、あの有名な怪談の幽霊でしょう?
アボリジニの精霊信仰と、日本の血生臭い都市伝説の幽霊が、なぜか過激な変態カンガルーの身体の中で合体してハイブリッド化しているというあまりの超展開に、沙織の理性のキャパシティは完全に限界を迎えていた。
困惑の極みに達した沙織は、助けを求めるように曾祖父さんを見た。
壁際に直立不動の姿勢で佇む曾祖父――九八式軍衣に身を包んだ日高作造陸軍曹長は、困り果てたような、しかしどこか懐かしむような眼差しで沙織を見つめ、静かに口を開いた。
「複雑な事情は確かにあるが、こうしてお前に会えた。私とジョンのことをこの際知って欲しいんだ。お前には迷惑かけるな。すまないな」
曾祖父さんのその誠実で、戦場の過酷な記憶を背負った重みのある言葉を聞いているうちに、沙織の胸の奥の頑なな部分が、ふっと解けていくのが分かった。
「大丈夫。私も曾祖父さんのこともっと知りたいし。ただ今日は疲れているから。明日ゆっくり話したいの。いい? 曾祖父さん」
「ああ。大丈夫だよ。今夜はゆっくり休みなさい」
曾祖父さんは、まるで孫をあやすかのような優しい慈愛の表情で微笑んだ。
「ありがとう、曾祖父さん」
沙織がホッとして息を吐くと、横で聞いていたカンガルーが、つまらなそうに前足を振った。
「仕方ないな。もとぬいぐるみに戻るとするか」
その言葉を合図にするように、夜の闇の中で二人の影は静かに薄れていき、学習机の上の小さな緑色の端切れ布の塊へと戻っていった。沙織は冷酒の酔いと運転の疲れに身を任せ、頭からタオルケットをかぶると、そのまま泥のように深い眠りに落ちていったのだった。
2. 翌朝の契約
翌朝。沙織は朝の七時にパチリと目が覚めた。
窓の外からは、早くから稼働しているトラクターのエンジン音やホルスタインたちの低い鳴き声が聞こえてくる。酪農家の朝は早い。父も母も祖母も、もうすでに牧場の仕事を始めて、牛舎へと向かった後だった。
沙織は一階の静まり返ったキッチンへと降り、ガラスのマグカップに淹れたてのブラックコーヒーを二杯、立て続けに注いで胃の中に流し込んだ。カフェインが就活で疲れ切った脳のシナプスを強引に覚醒させていく。
二階の部屋に戻り、クローゼットから汚れてもいいTシャツとデニムに着替えを済ませると、ポケットからIQOSを取り出して火をつけた。香ばしい白い煙を部屋の隅へ吹き出しながら、沙織は机の上のカンガルーのぬいぐるみを鷲掴みにして、実家の敷地で一番古く、母屋から最も遠く離れた場所にある古い木造牛舎へと向かった。
牛舎の中に入ると、すでに両親が朝の糞尿の清掃と敷き藁の交換を手際よく済ませた後で、あたりには酪農家独特の、発酵した牧草と牛舎の生々しい匂いが立ち込めていた。
沙織は牛舎の隅に置かれた年季の入った作業用の丸椅子に腰掛け、持ってきたカンガルーのぬいぐるみを、乾いた緑色の牧草の上にぽつんと置いた。
プハァ、と口から吸い込んだIQOSの白い煙を吹き付ける。
すると、その煙のカーテンを割るようにして、茶黒い染みのついた九八式軍衣を纏った曾祖父さんと、あの生きたカンガルーが再び現実の肉体を持って沙織の目の前に現れた。
ふと下半身に目を向けると、昨日あれほど沙織を戦慄させた、ボロニアソーセージやボンレスハムのようだったカンガルーのあのブツは、今朝の寒さのせいか、お弁当に入っているような小さなウインナーサイズにまで情けなく縮んで大人しく収まっていた。
カンガルーは前足で鼻をピくピくさせながら、さっそく不満げに吠えた。
「しかしくせ〜所だな。よく平気でいられるな」
沙織は動じることなく、指に挟んだIQOSをもう一吹きして、冷徹な声で言い放った。
「約束よ。私に詳しく映像を見せて」
カンガルーは沙織のその強い覚悟の瞳を見つめ、「わかったよ。約束忘れるなよ」とボタンの目を妖しく光らせた。
次の瞬間、ケダモノのザラついた右手が、沙織の頭頂部へと厳かに載せられる。
――と、同時に。あろうことかそのカンガルーは、空いた左手を沙織のTシャツの胸元へと伸ばし、豊かなおっぱいを「揉みっ」と不躾に、しかし確実な感触で揉みしだいた。
「ちょっと、あんた何して――ッ!?」
沙織が怒りの沸点を爆発させて叫ぼうとした、まさにその刹那。
ふたりの身体を中心に、古い木造牛舎の空間全体を完全に覆い尽くすほどの、現実離れした純白の光の奔流が爆発的に膨れ上がった。排泄物の匂いも、朝の静けさも、すべての現実がその眩い閃光の中に溶けていき、沙織の身体を包み込んでいった……。
(第5章・続く)




