第4章:ニューギニアの騎士道と、台無しの取引
1. 衛生兵の軍用毛布
「痛ててて……。なんだよ、いきなり殴ることねーじゃねーか」
カンガルーは腫れ上がった左頬を前足でさすりながら、よろよろとベッドの上に立ち上がった。その目はまだ、どこか不満げに沙織を睨んでいる。
沙織は腕を組んだまま、冷徹な視線をその有袋類へと突き刺した。
「信じられない。言い訳する前に、自分の下半身を見てから喋りなさいよ、この変態」
「変態とは心外だな! これには男と男の、熱い歴史のドラマがあるんだよ。今から詳しく説明してやるから大人しく聞きやがれ」
カンガルーは咳払いをひとつすると、ベッドの上にドカッとあぐらをかき、意外にも真面目なトーンで語り始めた。
「いいか、お嬢さん。俺の元になったあのぬいぐるみはな、ここにいる衛生兵の曹長――つまり、あんたの曾祖父さんの『軍用毛布』を使って、オーストラリア兵のジョンが作ったものなんだよ」
「軍用毛布……? ジョン……?」
沙織がオウム返しに呟くと、壁際に佇む曾祖父・作造曹長が静かに目を閉じ、深く頷いた。
「そうだ。一九四二年、オーストラリア北部のダーウィン空襲。日本軍の凄まじい爆撃によって、ジョンの心の中の敵愾心……あいつのケツに火がついたんだ。ジョンは打倒日本を誓ってニューギニアの最前線へ送り込まれた。だがな、ジャングルの戦場は地獄だった。ジョンは激しい戦闘の最中に部隊から逸れちまって、マラリアで朦朧としながらジャングルを彷徨っていたんだ。――そこを、敵兵であるはずの、ここにいる衛生兵の作造曹長に救われたのさ」
カンガルーの言葉に、沙織はハッと息を呑んだ。
戦時中のニューギニア。捕虜の虐殺や過酷な環境が有名なその戦場で、曾祖父は敵のオーストラリア兵を隠れて治療し、命を救ったというのだ。
「その後、ジャップが戦争に負けて武装解除された際に、二人は奇跡的にまた巡り合った。その時、作造曹長はもう、重度のマラリアと飢餓でフラフラの、いつ死んでもおかしくない状態だった。ジョンは恩人を助けたかったが、オーストラリア軍の捕虜収容所の監視の目は厳しかった。そこでジョンは、曹長が持っていた茶色の陸軍の軍用毛布を譲り受け、不器用な手付きでカンガルーのマスコット人形を作ったんだ。下手くそだけどな。あいつからしたら、命の恩人の形見代わりか、お守りのつもりだったんだろう。曹長はその後、祖国の土を踏むことなくニューギニアの地で戦病死したよ……」
カンガルーは、少し寂しげに目を細めた。
「ジョンは曹長が息を引き取った後、彼が身につけていた腕時計や日章旗、そして妻の写真を、いつか必ず日本の遺族に送り届けるつもりで引き取ったんだ。他の豪州兵に見つかると、戦利品として没収されるか、最悪の場合、敵通じの罪で揉めるからな。自分の荷物の奥深くに、あのカンガルーのぬいぐるみと一緒に隠し通したのさ。戦後、ジョンは進駐軍の一員として東京へ行ったんだけど、結局その時は日高家の足取りがつかめず、無念のままオーストラリアの我が家に持ち帰ったんだよ。その後ジョンが死んで、ジョンの遺族はそれらをただの『ジョンの戦利品』だと思ったみたいだ。……まあ、当たり前だよな。箱の中にカンガルーのぬいぐるみと一緒に眠ってたんだから」
2. 略帽の涙と、最低の提案
カンガルーが語った八十年前の真実。
それは、敵味方を超えた人間愛と、約束を命がけで守り抜いたオーストラリア兵ジョンの、太平洋戦争中の見事なまでの「騎士道精神」の物語だった。
「そんな……ことがあったんだ……」
沙織は胸が熱くなり、激しい感動に震えていた。就活の焦りや都会のストレスなど、その壮大な歴史のドラマの前には一瞬で吹き飛んでしまった。
ふと横を見ると、曾祖父・作造曹長が、直立不動の姿勢のまま、その双眸から大粒の涙を溢れさせていた。
じわりと軍服の袖に涙が染み込んでいく。曹長はそれを、無骨な握りこぶしでゴシゴシと力任せに拭っていた。頭に被った、帽垂布の付いた陸軍の略帽が、感情の昂ぶりのせいで小刻みに、哀しげに揺れている。
曾祖父にとっても、あのジャングルでのジョンとの日々は、地獄のような戦争の中で唯一の「人間らしい記憶」だったのだろう。
部屋の中に、厳かな沈黙が流れる。
八十年の時を超えて結ばれた、奇跡の絆。沙織は完全に、この物語の世界に没入していた。
すると、カンガルーがふんぞり返りながら、沙織の顔を覗き込んできた。
「どうだいお嬢さん。ジョンと曹長がいた、あの時のリアルな戦場の情景――当時の熱気や、二人の絆の記憶を、あんたの脳内に直接見せてやろうか?」
「えっ……そんなことができるの!?」
沙織は身を乗り出し、強く、何度も頷いた。
「見たい! 曾祖父さんがどんな風に戦って、ジョンとどんな風に過ごしたのか、私、知りたいわ!」
感動に目を輝かせる沙織を見て、カンガルーはニヤリと、その獣の口元を大きく歪めた。
そして、下半身のボロニアソーセージを誇らしげに揺らしながら、こう言い放ったのだ。
「いいぜ。――その代わりによぉ、ご褒美にあんたのその美味そうなロケットおっぱい、思いっきり吸わせてくれないか?」
「………………………………はい?」
さっきまでの感動の涙が、一瞬で網膜の裏側で凍りついた。
太平洋戦争の騎士道精神。
敵味方を超えた友情。
曾祖父の男泣き。
そのすべてを奈落の底へと叩き落とす、あまりにも直球で、あまりにも最低最悪な、どすけべな取引の提案。
沙織は、開いた口が塞がらないまま、ベッドの上の変態有袋類を唖然と見つめることしかできなかった。
(第4章・完)




