第3章:変態のカンガルーと、頭を抱える曹長
1. 暗闇の違和感
全身の血の気が引いていくのが分かった。
日高沙織はベッドの上で完全に硬直していた。身体は金縛りに遭ったようにピクリとも動かず、恐怖のあまり口から声も出ない。
むせるような汗と垢、火薬、そして長年放置されたウール生地が腐ったようなカーキ色の軍服からの異臭。その強烈な臭気が鼻腔を突き刺し、沙織の顔はワナワナと恐怖で震えていた。
恐怖を堪えながら、沙織は目の前に立つ巨大な影の足元へと視線を下ろした。
膝下まで隙間なく、幾重にもきっちりと巻き付けられた国防色のゲートル(脚絆)。その下には、五百本以上の鋲が打たれた堅牢な陸軍の昭五式軍靴。
(足は……ついている……!)
幽霊の定番である「足がない」状態ではない。しかし、その軍靴はジャングルの泥にまみれているというのに、沙織の部屋のカーペットは一切汚れていなかった。
影は、静かに、しかししっかりと沙織の目を見つめていた。
月光がその輪郭を捉える。
「え……? まさか、曾祖父さん……?」
それは、リビングの仏壇に飾られていた写真そのものの顔だった。
激戦地ニューギニアの飢餓を生き抜いたためか、頬は不気味なほどに痩せこけている。しかし不思議なことに、その鋭い眼差しからは、沙織に対する敵愾心や怨念のようなものは一切感じられなかった。
(夢? 私は夢を見ているの?)
沙織には霊感など皆無だ。これまでの人生で幽霊など一度も見たことがない。
夏の夜の暑さだけではない、異常な寝汗が全身を襲う。心臓が早鐘を打ち、胸が締め付けられるような強い違和感と圧迫感が沙織を襲っていた。
――いや、待って。この胸の圧迫感は、恐怖のせいだけじゃない。
さっきから、自分の背後に強烈な「違和感」があった。ベッドのシーツの上で、何かがモゾモゾと動いている。
さらに、自分の臀部(お尻)のあたりに、何か硬くて太い棒のようなものが、ぐいぐいと押し当てられている感覚があった。
(な、何……? 背後に誰かいるの……!?)
沙織は恐怖の限界を超え、ロボットのような動きで恐る恐る後ろを振り返った。
その瞬間、フシュー、フシューという、荒く熱い呼吸が沙織の頬を直撃する。
「……は?」
沙織は唖然とした。自分の目を疑った。
そこには、ぬいぐるみではなく、本物の、生きた巨大な雄のカンガルーがいた。
あろうことか、そのカンガルーはベッドの上で沙織の後ろからガッシリと抱きつき、その太い前足で沙織の豊かなおっぱいを「揉み揉み」と揉みしだいていたのだ。それだけではない。カンガルーは恍惚とした表情を浮かべ、沙織のお尻に向かってリズミカルに腰を前後に振っていた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁーーー!!!」
沙織が部屋中に響き渡るような悲鳴をあげようとした、その瞬間。
目の前にいた曾祖父――日高作造曹長が、目にも留まらぬ速さで動き、泥まみれの大きな手のひらで沙織の口をガバッと力任せに押さえた。
「――っ! むー! むー!」
沙織は必死に抵抗し、曾祖父の手を振り払うと、弾かれたようにベッドから飛び起きた。そのまま壁のスイッチへ駆け込み、部屋の蛍光灯の紐を激しく引っ張った。
カチッ、と眩しい白い光が部屋を満たす。
2. チョベリグな有袋類
部屋が明るくなると、そこには信じられない光景が広がっていた。
壁際に立つ曾祖父・作造曹長は、腰に大日本帝国陸軍の『四十年式医療嚢』と、キャンバス生地の『雑嚢』をタスキ掛けに下げ、直立不動の姿勢で沙織を見つめていた。その表情は、先ほどの厳格なものとは一変し、まるで迷子の子犬を見るかのような、深い「慈愛」に満ちていた。
そしてベッドの上では、先ほどの生きたカンガルーがのっそりと起き上がり、沙織の目の前に立ち塞がった。
筋肉質の逞しい胸板。長い尻尾。しかし、沙織の目はその尻尾よりも、カンガルーの下部からぶら下がっている、立派なボロニアソーセージにしか見えないブツに釘付けになった。
「な、ななな……何なのソレはーーーっ!!」
沙織は顔を真っ赤に染め上げ、自分の胸を隠すように腕を組んだ。
すると、曾祖父の作造が静かに頭を下げ、重苦しい声で語りかけてきた。
「……驚かせてすまない、沙織。これには、少々複雑な訳があってな……」
曾祖父が訳を説明しようとした、その時だった。
ベッドの上のカンガルーが、あろうことか、信じられないほど流暢な日本語で喋り出したのだ。
「いや〜〜〜、今時の日本の女の子は発育が進んでるねぇ! こんなロケットおっぱい、久しぶりにお目にかかったぜ?」
カンガルーは前足をグラインダーのように回しながら、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべた。
「お陰で俺の脳内はさぁ、アドレナリン!ドーパミン!セロトニンがブンブン丸だよ! コンビニのエナジードリンクとか、朝鮮人参なんていらねーな! 久しぶりに俺の気分はチョベリグだぜ、お嬢ちゃん!」
「……は?」
沙織の脳細胞が、怒りと困惑でブチブチと音を立てて千切れていくのが分かった。
ニューギニア戦線の悲劇? 80年目の奇跡の返還? 家族の感動の涙?
そんな美しい歴史ロマンが、この一瞬で全て粉々に粉砕された。
「この……ッ!!」
沙織の怒りの沸点が、完全にバグった。
「この変態ドスケベカンガルーがあああああーーーーーーっっっ!!!」
沙織は一歩踏み込むと、大学のバレーボールサークルで鍛え上げた右ストレート気味の、渾身のビンタをカンガルーの顔面に叩き込んだ。
べしぃぃぃぃぃぃぃぃんっっっ!!!
強烈な破裂音が静まり返った二階の部屋に響き渡る。
「ぎゃうんっ!?」
カンガルーがベッドの上にひっくり返った。
と、同時に、一階の階段の方から、ドタドタと激しい足音と共に母の怒声が響いてきた。
「ちょっと沙織!! 夜中に何バタバタ大騒ぎしてるの!? なんなの、さっきから! 近所迷惑だから静かにしなさい!!」
「あ、ご、ごめんなさいお母さん! 何でもない、夢を見ただけ!!」
沙織が必死に声を張り上げて言い訳を返す中、ふと横を見ると――。
大日本帝国陸軍の英霊であるはずの曾祖父・日高作造曹長が、自らのチョイスした遺品のせいで引き起こされたこの世の地獄のような大惨事を前に、両手で深く、深く頭を抱えて絶望していた。
(第3章・完)




