第2章:ニューギニアからの返還、そして…
1. 80年目の帰還
ハサミの刃先が、頑丈な透明テープを鋭く引き裂いた。
日高沙織は、慎重に段ボール箱のフラップを左右に開いた。厚手の緩衝材を取り除くと、そこには八十年近い歳月を耐え抜いてきた、歴史の重みがそのまま形になったような遺品の数々が収まっていた。
「……あ」
母が小さく息を呑む。
一番上に置かれていたのは、ひどく色褪せ、ところどころに茶黒い染みが浮き出たシルクの布だった。沙織が両手でそっと持ち上げて広げると、それは紛れもない『寄せ書きの日章旗』だった。中央の赤い日の丸の周囲には、墨が掠れた毛筆の文字で「祈 武運長久」「日高作造君」「撃滅米英」といった当時の凄惨なスローガンや、親族・地元の人間と思しき何十人もの名前がびっしりと書き込まれている。
さらにその下からは、何百、何千という女性たちが一針ずつ祈りを込めて縫い上げたであろう、赤い糸の結び目が無数に並ぶ布――『千人針』が、独特の古い生糸の匂いを放ちながら現れた。
ミリタリーの知識が浅い沙織でも、それがどれほど過酷な戦場をくぐり抜けてきたかは一目で理解できた。
さらに箱の底からは、重厚な金属製の遺品がいくつか現れる。
一つは、大日本帝国陸軍の将兵が身につけていたと思われる『九〇式鉄帽』。塗装はほとんど剥げ落ち、激しい戦闘を物語るように側面に鋭い破片傷が刻まれている。そして、茶色く変色した革ベルトがついた、スイス製の頑丈な機械式腕時計。針は十時十分を指したまま、何十年も前にその鼓動を止めていた。ケースの裏蓋には、尖った刃物で刻んだような「HIDAKA」の文字が辛うじて視認できた。
そして、その厳粛な軍事遺品の一番奥に、それは場違いな姿で鎮座していた。
「……何、これ? カンガルー?」
沙織が眉をひそめて取り出したのは、埃を被り、ところどころ毛並みが剥げ落ちた、粗末な手縫いの『カンガルーのぬいぐるみ』だった。軍服と同じOD色の端切れ布を継ぎ合わせて作られており、目には不揃いなベークライト製のボタンが二つ縫い付けられている。そのボタンの目が、暗がりの中で妙に生々しく沙織を見つめているような気がして、背筋に冷たいものが走った。
箱の底には、厚手のオフィシャルな封筒が入っていた。
中には、アメリカの国際遺品返還NPOのロゴが入った英語のレターと、防衛省の地方協力本部が作成した日本語の詳細な解説文が同封されていた。大学で英語の文献に慣れている沙織は、両親に聞こえるように、その内容を要約して読み上げた。
「……太平洋戦争中、一九四四年。ニューギニア戦線の激戦地、東部ニューギニアのサラワケット越えと呼ばれる過酷な撤退戦の山中で、元オーストラリア陸軍・第六師団所属の兵士が、戦死した日本軍兵士の遺体から『戦利品』として持ち帰ったもの、だって。そのオーストラリア兵の遺族が、近年になって『遺品は元ある家族の元へ還すべきだ』と考え、アメリカのNPOに相談。日本の防衛省と厚生労働省が、日章旗に書かれた名前と実家の戸籍を何年もかけて照合し、ようやくこの標茶町の日高家に辿り着いた……みたい」
「ニューギニア……。あんな遠い南の島から、よくぞまあ……」
父が信じられないといった様子で、腕時計を手のひらに載せて震わせている。
その時、ずっと黙って遺品を見つめていた祖母が、突然ボロボロと大粒の涙を流し始めた。
祖母は震える指で、遺品の中に混ざっていた、一枚の写真を持っていた。セピア色に変色した、和服姿の若い女性のポートレート写真。
「ああ……間違いないわ。この写真の女の人……私の義理の母(作造の妻)よ。私がこの家に嫁いできたときには、まだ元気で気丈な方だった。仏壇の奥に同じ写真があったもの……。作造おじいちゃん、これを肌身離さず持って、南の島で戦っていたのね……!」
祖母は日章旗を抱きしめるようにして、声を上げて泣いた。
父はしばらくの間、厳かに遺品を見つめていたが、やがて静かに首を振った。
「こんなに立派な歴史の遺品、俺たちだけで持っているには恐れ多いな。お盆が終わったら、うちがいつもお世話になっている檀家のお寺に相談して、本堂に正式に奉納してもらおう。作造さんの魂も、お寺なら安心するだろう」
その言葉に、母も祖母も深く頷いた。誰も異論はなかった。
沙織は、以前テレビのドキュメンタリーで、アメリカから出征兵士の実家に日章旗が返還されるニュースを見たことがあった。まさか、自分の家で全く同じ奇跡のような出来事が起きるなんて、驚きを隠せなかった。
沙織は歩み寄り、リビングの古い仏壇の棚に目をやった。
そこには、昔から置かれていた小さなモノクロの写真立てがある。日本陸軍の折襟の九八式軍衣を着用し、胸に階級章をつけた若い男性の肖像写真。――曾祖父、日高作造陸軍曹長だ。
幼い頃からそこにあったが、ただの「古いご先祖様」としか認識していなかった。しかし今、ニューギニアからの遺品を前にして、沙織は初めてその写真をじっと観察した。
写真の中の曾祖父は、二十代半ばの若さでありながら、信じられないほど毅然とした、鋭い眼差しでまっすぐに沙織を見つめていた。その瞳には、これから過酷な戦地へ向かう者の覚悟と、どこか深い哀愁が宿っているように見えた。
沙織は振り返り、テーブルの上に残された緑色のぬいぐるみを手に取った。
「ねえ……このカンガルーのぬいぐるみだけ、私が記念にもらってもいい? お寺に奉納するにしても、これはオーストラリアの兵隊さんのものみたいだし」
「ん? ああ……それくらいなら構わんよ。沙織が持っておいてくれ」
父は特に気に留める様子もなく、日章旗を丁寧に畳み直しながら言った。他の家族も何も言わなかった。
2. 違和感の胎動
その夜、日高家の食卓は、これまでにないほど賑やかで、そしてどこか厳かな空気に包まれていた。
作造曹長の「帰還」を祝うかのように、母は贅沢に霜降りの十勝牛を使ったすき焼きを用意してくれた。濃い醤油と砂糖の甘辛い香りがリビングに満ち、父と沙織は冷えたビール缶を何度も鳴らした。
戦時中の苦労話や、曾祖父がどれだけ真面目な男だったかという古い昔話を肴に、夜は更けていく。
夜十時過ぎ。
シャワーを浴びてさっぱりした沙織は、二階の自室に戻ってきた。
すき焼きの満腹感と、心地よいアルコールの酔いが全身を回っている。
学習机の上に、昼間もらったカンガルーのぬいぐるみをちょこんと座らせ、沙織はベッドの縁に腰掛けた。手元でIQOSを加熱し、ゆっくりと吸い込む。香ばしい煙を吐き出しながら、今度はローカルコンビニで買ってきた北海道限定の冷酒『大雪乃蔵』のアルミ缶を開け、ぐいと喉に流し込んだ。
「ぷはぁ……。やっぱり、実家は落ち着くなぁ」
札幌の狭いアパートでは、常に「明日の面接」「エントリーシートの締め切り」という見えない刃が首元に突きつけられているようだった。でもここでは、窓を開ければ、涼しい道東の夜風がカーテンを優しく揺らし、夜空には満天の星頭が輝いている。牛舎の匂いすら、今は愛おしい。
長距離運転の疲労とアルコールが一気に回ってきたのか、急激に強い眠気が沙織を襲った。
「うぅ……眠い……」
沙織は這うようにして洗面所で歯磨きを済ませると、電気を消し、いつもよりかなり早めにベッドのひんやりとしたシーツの中に潜り込んだ。
瞬く間に、深い意識の底へと落ちていった。
――どれくらいの時間が経っただろうか。
カチ、カチ、カチ、カチ……。
妙に規則正しい、硬質な金属音が耳の奥に届き、沙織の意識は微かに覚醒を始めた。
(……時計の音? 私の部屋、こんな大きな音のする時計なんてあったっけ……)
同時に、じっとりとした不快感が肌を刺した。
おかしい。さっきまであんなに涼しかったはずなのに、部屋の空気が妙に熱い。まるで、真夏の南国の密林に迷い込んだかのような、むっとするような湿気と熱気が、部屋の中に充満しているのだ。
「う、ん……暑い……」
寝返りを打とうとした沙織の鼻腔を、さらに強烈な「異臭」が襲った。
それは、実家の牛舎の匂いでも、都会の排気ガスの匂いでもなかった。
――むせるような汗、大量の泥、火薬の硝煙、そして、長期間洗っていない厚手のウール生地が腐りかけたような……圧倒的に泥臭く、生々しい「男の匂い」。
(な、に……これ……?)
就活の面接で鍛えられた沙織の理性が、これが異常事態であることを瞬時に告げていた。
アルコールが一気に吹き飛び、完全に目が覚める。しかし、身体が金縛りに遭ったように、指一本動かすことができない。
暗闇に慣れてきた沙織の視界が、ゆっくりと、学習机の方へと向いた。
窓から差し込む青白い月光が、何かをを照らし出している。
暗闇のグラデーションの中に、明らかに「巨大な人間の影」が立っていた。
ガサリ、と硬い布地が擦れる音がした。
月光の下に浮かび上がったのは、ボロボロに擦り切れ、南国の泥と血痕で汚れた、大日本帝国陸軍の『九八式軍衣』。その胸元には、赤と黄色の三本線が入った「曹長」の階級章が鈍く光っている。
影は、ゆっくりと沙織のベッドへと近づいてくる。
その顔は見えない。しかし、昼間見たあの写真と全く同じ、毅然とした、そして狂気的なまでに鋭い「眼差し」だけが、暗闇の中で沙織をじっと見下ろしていた。
(第2章・完)




