第1章:異国からの荷物、お盆の標茶町
1. 逃避行の果ての匂い
二〇二五年、夏。
今年も日本列島は、肌を灼くような容赦のない酷暑に包まれていた。
アスファルトから立ち上る陽炎が、フロントガラスの向こうの世界をぐにゃりと歪める。
日高沙織は、バイト代をすべて注ぎ込んで買った中古の軽自動車のハンドルを握り締め、ひたすら東へ向かって高速道路を走らせていた。
札幌の大学に通う、二十二歳の大学四年生。
楽しかったキャンパスライフは、気がつけば過去のものになっていた。現在の沙織の日常を占めているのは、遅々として進まない卒業論文の執筆と、終わりに見えない就職活動の二文字だけだ。
周りの友人が次々と内定を勝ち取り、SNSに「就活終了!」の文字を躍らせるたび、沙織の胸は焦燥感で押し潰されそうになった。一日は目まぐるしく、そして残酷なほどのスピードで過ぎていく。早く就職先の内定を一つでももぎ取り、この宙ぶらりんな精神状態から落ち着きたかった。
「……少し、疲れちゃったな」
そんな本音が、エアコンの風にかき消される。
実家に長く留まる予定はなかった。お盆休みが終われば、またすぐに札幌へ戻って面接と説明会の地獄に飛び込まなければならない。やるべきことは山積みだ。
それでも、限界を迎えていた心は、無意識に「実家」という避難所を求めていた。
実家に帰れば、料理も、洗濯も、掃除も、すべて母がやってくれる。一人暮らしの狭いワンルームで、出来合いの弁当を食べながら不採用通知のメールに怯える毎日に比べれば、実家に身を置くということそれ自体が、今の沙織にとってはどれほど精神的な救いになるか分からなかった。それだけで、擦り切れた心がほんの少しだけ修復されるような気がしていた。
早朝に札幌のボロアパートを出発した車は、お昼過ぎには目的地の標茶町へと差し掛かっていた。
道東に入ると、景色は一変する。
都会の喧騒、視界を遮る高層ビルやひしめき合う車、それらすべてが背後に消え去り、フロントガラスの左右には広大な緑の畑と、のんびりと草を食む牛たちの姿が目につくようになる。
ふと、沙織は車の窓を少しだけ開けてみた。
途端に、夏の熱風と共に、独特の匂いが車内に流れ込んでくる。
排気ガスとアスファルトの焦げた都会の匂いから、青々とした草の匂い、そして濃厚な「牛舎の匂い」へと、空気が段々と変わっていくのが分かった。
「帰ってきたんだ……」
胸の奥が、すっと軽くなる。
沙織の実家は、この標茶町で代々続く酪農家だ。
子どもの頃は当たり前すぎて、むしろ少し嫌だったあの牛たちの匂いが、今の沙織にとっては、どんな高級なアロマよりも心を落ち着かせる劇薬になっていた。
「白黒のあの子たちは、今は何頭くらいいるのかな……」
そんなことを考えながら、見慣れた砂利道の坂を上り、年季の入った木造二階建ての我が家の前に車を止めた。
2. 素麺とIQOSの煙
「ただいま」
重い玄関の引き戸を開けると、ひんやりとした家特有の空気が沙織を包んだ。
奥から「おかえり!」という、聞き慣れた母の弾んだ声が響く。
リビングに入ると、日焼けした顔の父と、少し小さくなったような気がする祖母が、満面の笑みで沙織を迎えてくれた。
札幌での孤独な戦いから解放された瞬間だった。
沙織はまず、リビングの隅にある立派な仏壇の前に正座し、静かに手を合わせた。線香の匂いが、実家の記憶をさらに鮮明に呼び覚ます。
「さあ、沙織、お腹空いたでしょう。お昼は冷たい素麺にしたから、早く食べなさい」
母が手際よく、氷水の張った大きなガラス鉢に素麺を盛り付けて食卓に出してくれた。
薬味のみょうがとネギ、そして少し甘めのめんつゆ。家族みんなで囲む食卓は、静かで、優しかった。就活の進捗を聞かれることもなく、ただ「しっかり食べてるか」「車、気をつけて運転してきたか」という、他愛のない会話だけが交わされる。
都会で張り詰めていた神経が、冷たい素麺をすするごとに、じわりと解けていくのが分かった。
昼食を終え、沙織は二階にある自分の部屋へと向かった。
数ヶ月ぶりに足を踏み入れた部屋は、最後に帰省したときのままの時間が流れていた。
バッグから着替えを取り出してクローゼットへ移し、簡単な荷解きを済ませる。一息ついた沙織は、台所から持ってきた氷入りのアイスコーヒーをデスクに置き、ポケットからお気に入りの加熱式タバコ・IQOSを取り出した。
カチリ、とボタンを押して加熱を待つ。
独特の香ばしい匂いと共に、白い煙をそっと部屋の隅へと吹き出した。
窓の外に広がる広大な牧草地を眺めながら、沙織はふと、ここにいない兄のことを思った。
沙織には数歳年の離れた兄がいるが、彼は酪農を継がなかった。今は道内の別の地方都市で、手堅く地方公務員として働いている。
「北海道の酪農家の現在」を思えば、それは至極当たり前の、そして賢明な選択だった。生乳の廃棄問題、飼料代の高騰、後継者不足。実家の経営が決して楽ではないことを、沙織は子供ながらに察していた。だからこそ、兄が公務員になったことも、自分が札幌の大学へ進学したことも、家族の誰も責めなかった。
誰も口には出さないけれど、この美しい牧草地が、自分たちの代で終わるかもしれないという静かな諦念が、日高家には常に漂っている。
煙がゆっくりと天井へ消えていくのを眺めていると、一階から「沙織ー、ちょっと下に降りてきてくれない?」と、母の少し硬い声が響いた。
「はーい、今行く」
沙織はIQOSをホルダーに戻し、アイスコーヒーを一口飲んでから、トントンと木製の階段を降りていった。
3. 異国からの謎の段ボール
一階のリビングに入った瞬間、沙織は足を止めた。
部屋の空気が、さっきまで素麺を食べていた時とは明らかに違っていた。
食卓を囲むようにして、父、母、そして祖母の3人が、揃って見たこともないような真剣な――どこか困惑したような表情で座っている。その中心、テーブルの真ん中には、一つの四角い段ボール箱がぽつんと置かれていた。
「……何? どうしたの、みんなして」
沙織が怪訝そうに尋ねると、父が深く刻まれた眉間のシワをさらに深くしながら、重口を開いた。
「いやな、沙織。実はこの前……アメリカのNPOとかいうところから、うちに荷物が届いたんだ」
「アメリカ……?」
沙織は思わず、テーブルの上の段ボール箱に視線を落とした。
確かに、箱の表面には見慣れないアルファベットの羅列と、複雑なバーコードが印刷された配送ラベルが貼られている。日本の宅配便のラベルとは明らかに違う、無骨で異国情緒のあるデザインだ。
「誰から? うちにアメリカの親戚なんていないよね? お兄ちゃんの知り合いとか?」
沙織の矢継ぎ早の質問に、父は首を横に振った。
「いや、違う。どうやらな……お前にとっての『曾祖父さん』の遺品らしいんだ」
「曾祖父さんの……遺品?」
沙織は記憶の引き出しを探った。
日高家の曾祖父。確か、名前は日高作造といったか。
沙織が生まれるより遥か昔に亡くなった、あるいはどこかで行方不明になったと、幼い頃に祖母からおとぎ話のように聞かされた記憶がある。戦時中、この道東の地で何かをしていた人だという程度の認識しかなかった。
「なんで今更、アメリカから曾祖父さんの遺品が届くのよ。おかしいじゃない」
「そうなんだよ」
父は腕を組み、困ったように息を吐き出した。
「今の時代、海外からの国際郵便を使った詐欺とか、犯罪の可能性もあるだろう? しかも書類も案内文も、全部英語で書かれていてな。俺も母さんも、英語なんてさっぱり分からん。だから……大学に通っているお前が帰ってくるまで、怖くて開けずに置いておいたんだ」
母も不安そうに頷き、沙織の手元を見つめる。
「そうなのよ、沙織。もし変なウイルスとか、怪しい請求書とかが入っていたら大変でしょう? 悪いんだけど……お前、確認してくれないか?」
3人の真剣な、そして娘の学力にすがるような視線が、沙織に集まる。
国際詐欺。確かにニュースでよく見るワードだ。英語の書類というだけで、田舎の酪農家である両親が怯えてしまうのも無理はなかった。
沙織は少しだけため息をつき、テーブルに近づいて段ボール箱の前に立った。
卒論や就活で英語の論文を無理やり読まされている身としては、拒絶反応はなかったが、これから始まる面倒事への予感が、胸の奥をチクリと刺す。
「……別にいいけど。じゃあ、開けてみるよ?」
沙織はそう言うと、台所からハサミを持ってきて、箱を密閉している頑丈な透明テープに刃先を向けた。
(第1章・完)




