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最終話 勇者の加護が消えた日

父が死んだ。


その事実を知ってから、アルトは一度も眠れていなかった。


窓の外では、朝を告げる鳥が鳴いている。


いつもと変わらない朝だった。


ただ、一つだけ違う。


「……親父」


呼んでも、返事がない。


食卓には、二つの椅子が並んでいた。


自分の椅子と、父の椅子。


幼い頃から、ずっと変わらない場所だった。


父はいつも向かい側に座っていた。


仕事で疲れて帰ってきても、アルトの話を最後まで聞いてくれた。


学校で喧嘩した日も。


ロイと川に落ちた日も。


ティアを泣かせてしまった日も。


『で、今日は何をやらかしたんだ?』


呆れた顔をしながら、必ず笑ってくれた。


「……なあ」


アルトは、誰もいない椅子に話しかけた。


「……俺、魔王倒したんだぞ」


自分でも驚くほど、情けない声だった。


「……すげえだろ?」


返事はない。


「……褒めてくれよ」


声が震えた。


「……一回くらい、すげえって言ってくれよ……」


アルトは俯いた。


魔王の前では、怖くなかった。


胸を槍で貫かれたときでさえ、ティアが無事だったことに安心できた。


なのに。


今は、怖かった。


もう二度と、父の声が聞けないことが。


父の笑顔を見られないことが。


あの大きな手で、頭を乱暴に撫でてもらえないことが。


「……帰ってきたのに……」


ぽつりと、涙が落ちた。


「……ちゃんと、帰ってきたのに……」


◇


その日の昼。


ロイは、アルトの家の前で立ち止まっていた。


手には、母親が用意してくれた食事を持っている。


隣にはティアがいた。


「……入ろうか」


ティアが言った。


「……ああ」


そう答えながら、ロイは扉を叩けなかった。


何を言えばいいのか、分からなかった。


アルトとは、物心ついた頃から一緒だった。


喧嘩もした。


馬鹿なこともした。


何度も、命を預け合った。


それなのに。


今のアルトに、何をしてやればいいのか分からない。


「……俺さ」


ロイが呟いた。


「昨日、家に帰ったら母さんが泣いてたんだ」


ティアが顔を上げた。


「……うん」


「無事でよかったって。何回も言われた」


ロイは、食事の入った籠を見つめた。


「父さんも、何も言わずに肩叩いてきてさ」


少しだけ笑う。


「……あいつにも、そういう時間があるはずだったんだよな」


ティアは何も言わなかった。


「ガルドさん、絶対泣いただろうな」


「……うん」


「泣きながら笑って、アルトの背中ばしばし叩いて……」


ロイは言葉を詰まらせた。


「……なんで、あいつだけ……」


ティアの頬を、涙が伝った。


「……私も、同じこと考えてた」


魔王との戦い。


アルトが自分を庇って倒れた瞬間が、何度も頭に浮かんでいた。


自分が狙われなければ。


自分が、もっと強ければ。


アルトはあんな傷を負わずに済んだ。


そう考えるたびに、胸が苦しくなった。


「……私、アルトが生き返ったとき、嬉しかった」


ティアは小さく言った。


「嬉しくて、嬉しくて……他のことなんて何も考えられなかった」


ロイが黙って聞いている。


「……でも、ガルドおじさんが亡くなったって聞いてから……」


ティアは唇を噛んだ。


「……どうして、こんなことになっちゃったんだろうって……」


「……ティア」


「……アルトを助けてもらったのに……」


涙がこぼれた。


「……ガルドおじさんに、ありがとうも言えなかった……」


ロイは、しばらく黙っていた。


そして、ゆっくりと扉を叩いた。


「……アルト」


返事はなかった。


「……入るぞ」


◇


アルトは、父の仕事場にいた。


作業台の前に座り、何かを見つめている。


「……アルト?」


ロイが声をかけた。


「……ああ」


アルトは顔を上げた。


目は赤く腫れていた。


「……来たのか」


「飯、持ってきた」


「……ありがとな」


そう言ったきり、アルトは黙り込んだ。


ティアが作業台に目を向ける。


そこには、一脚の椅子が置かれていた。


まだ完成していない。


背もたれには、丁寧な彫刻が施されている。


「……これ……」


ティアが呟いた。


「……親父が作ってたんだ」


アルトは椅子を見つめた。


「手紙に書いてあっただろ。俺が帰ってきたら座らせるって」


ロイが、そっと木の表面に触れた。


滑らかに磨かれた座面。


丁寧に削られた脚。


最後の仕上げだけが、残されていた。


「……もう少しだったんだな」


「……ああ」


アルトは小さく頷いた。


「……あと少しだった」


その言葉が、誰のことを指しているのか。


二人には、痛いほど分かった。


アルトは作業台の上から、小さな手帳を取り上げた。


「……これも、あった」


表紙には、父の字で『アルトのこと』と書かれている。


「……親父の日記みたいなもんだ」


アルトは、少し笑った。


「俺が生まれた頃から、ずっと書いてたらしい」


ページをめくる。


『アルトが初めて歩いた。三歩で転んだが、泣かずに笑っていた。』


『俺の息子は、なかなか根性がある。』


次のページ。


『アルトが木の剣を欲しがった。』


『勇者になると言って聞かない。』


『勇者もいいが、まずは靴を左右正しく履けるようになってほしい。』


「……はは」


ロイが思わず笑った。


「……お前、昔から変わってねえな」


「……だろ」


アルトも笑った。


ほんの少しだけ。


だが、次のページをめくった瞬間、その笑顔が消えた。


『今日はアルトが、母さんのことを聞いてきた。』


『どうして自分には母さんがいないのか、と。』


『うまく答えられなかった。』


『寂しい思いをさせているのだと思うと、情けなかった。』


『それでも、あいつは笑って言った。』


『父さんがいるから、別に寂しくないよ。』


『あのとき、泣きそうになったのは俺のほうだった。』


アルトの指が止まった。


「……覚えてる」


小さく呟いた。


「……親父、あのとき変な顔してたんだよ」


アルトは、無理に笑った。


「……俺、何か悪いこと言ったのかと思ってさ……」


その声が、途切れた。


「……嬉しかったんだな……」


ぽたりと。


手帳に、涙が落ちた。


「……親父……」


ティアは、何も言えなかった。


ただ、そっとアルトの背中に手を置いた。


◇


しばらくして。


アルトは、荷物の中から布包みを取り出した。


「……そうだ」


布を開く。


中には、砕けたお守りの欠片が入っていた。


「……これ、どうにか直せないかな」


ロイが覗き込む。


「……ガルドさんにもらったやつか」


「……ああ」


アルトは、欠片を一つ手に取った。


「親父がくれた、最後のものなんだ」


その言葉に、ティアの胸が痛んだ。


「……見せてくれる?」


「……ん」


アルトが差し出す。


ティアは、そっと欠片を受け取った。


指先に、微かな魔力の残滓を感じた。


「……あれ?」


眉をひそめる。


「……どうした?」


「……これ、魔法がかかってる」


「……魔法?」


アルトが顔を上げる。


「ただのお守りじゃないのか?」


「……分からない。でも……」


ティアは、欠片を見つめた。


何かが、引っかかった。


この魔力の感触。


どこかで、感じたことがある。


魔王城。


アルトが倒れた、あの瞬間。


胸を貫かれ、息をしなくなったアルトを包んだ、淡い光。


「…………」


ティアの表情が強張った。


「……ティア?」


「……ごめん」


ティアは立ち上がった。


「……少し、調べたいことがあるの」


◇


村の神殿には、古い書庫があった。


ティアは、そこで一冊の魔導書を開いていた。


古代魔法について記された、分厚い本だった。


ページをめくる手が、止まらない。


胸騒ぎがしていた。


どうか、違っていてほしい。


そんなことを考えながら、必死に文字を追った。


そして。


「……あった」


指先が、一つの項目で止まった。


『生命転移の術』


ティアは、その文字を見つめた。


『契約者の生命力を、対象者の治癒に転用する禁術。』


『対象者の傷が深いほど、契約者が失う生命力は大きくなる。』


『契約者の生命が尽きたとき、術式を宿す媒介は崩壊する。』


ティアの指が震えた。


「……嘘……」


ページの下には、さらに説明が続いていた。


『この術は、契約者本人が代償を理解し、自らの意思で生命を差し出さなければ成立しない。』


ティアは、息を呑んだ。


旅の途中。


アルトは、何度も大怪我をした。


腕を深く切られたとき。


崖から落ち、足を折ったとき。


魔物との戦いで、胸を傷つけられたとき。


そのたびに、傷は不思議な光に包まれて治った。


みんなが言っていた。


『さすが勇者だ』


『これが、勇者の加護か』


ティア自身も、そう信じていた。


でも。


違った。


あの光は。


誰かの命だった。


「……ガルドおじさん……」


ティアは、震える手で口元を覆った。


旅立ちの日。


ガルドは笑っていた。


アルトの肩を叩き、いつもの大きな声で送り出してくれた。


『無茶するなよ!』


そう言いながら。


自分の命を託していたのだ。


ティアの目から、涙がこぼれた。


「……どうして……」


それは、魔法をかけた理由を尋ねる言葉ではなかった。


理由なんて、分かっていた。


ガルドが、どれほどアルトを愛していたか。


幼い頃から見てきたのだから。


「……どうして、何も言ってくれなかったの……」


涙が、古いページに落ちた。


あの人は。


息子が生きて帰ってくることだけを願っていた。


自分が、その帰りを迎えられなくなるかもしれないと知りながら。


◇


夜。


ティアは、アルトの家に戻った。


ロイも、そこにいた。


二人は、ティアの顔を見た瞬間に何かを察した。


「……ティア?」


アルトが声をかける。


ティアは、しばらく答えられなかった。


どう伝えればいいのか、分からなかった。


真実を知れば、アルトはきっと自分を責める。


自分が怪我をしたせいで。


自分が無茶をしたせいで。


父が死んだのだと。


それでも。


知らないままでいいはずがなかった。


「……アルト」


ティアは、ゆっくりと口を開いた。


「……お守りのこと、分かったよ」


「……本当か?」


アルトの顔が、少しだけ明るくなる。


「直せそうか?」


その言葉に、ティアは胸が締めつけられた。


「……ごめん」


「……え?」


「……もう、直せないの」


アルトは、お守りの欠片を見つめた。


「……そっか」


寂しそうに笑う。


「……まあ、仕方ねえよな」


「……違うの」


ティアの声が震えた。


「……壊れたんじゃないの」


アルトが顔を上げる。


「……役目を、終えたの」


ロイが眉をひそめた。


「……どういう意味だ?」


ティアは、魔導書を開いた。


「……生命転移の術っていう、古い魔法があるの」


そして、ゆっくりと説明した。


誰かが傷つくたびに、別の誰かの命を使って治す魔法。


傷が深ければ深いほど、失う命も大きくなること。


そして。


命が尽きたとき、術を宿したものは砕けること。


説明が終わっても、誰も口を開かなかった。


長い沈黙が続いた。


やがて。


「……じゃあ」


ロイが、かすれた声で呟いた。


「……今まで俺たちが、勇者の加護だと思ってたものは……」


ティアは、静かに首を振った。


「……勇者だから、守られていたんじゃないの」


アルトは、お守りの欠片を見つめた。


「……ガルドおじさんが、守ってくれていたの……」


アルトは、動かなかった。


ロイも、言葉を失っていた。


「…………」


アルトは、お守りの欠片を見つめた。


何も考えられなかった。


ただ、父の笑顔だけが浮かんだ。


旅立ちの日。


いつもと変わらない顔で。


笑いながら。


お守りを渡してくれた父。


『勇者だろうが何だろうが、俺の息子だからな!』


「……親父が……?」


アルトの唇が震えた。


「……俺の……怪我を……?」


ティアは頷いた。


「……うん……」


「……じゃあ……」


アルトは、ゆっくりと顔を上げた。


「……俺が腕を切ったときも……?」


「……うん」


「……足を折ったときも……?」


「……うん……」


「……あの魔物に、やられたときも……?」


ティアは、もう答えられなかった。


ただ、涙を流していた。


アルトは、震える手で顔を覆った。


「……そんな……」


ロイが、低い声で尋ねた。


「……ガルドさんは、その魔法のことを知ってたのか?」


ティアは、魔導書の一節を指さした。


「……この魔法は、自分の命を使うことを理解していないと、発動できないの」


ロイは、息を呑んだ。


「……じゃあ……」


「……うん」


ティアは、涙を拭った。


「……全部、分かってたんだと思う」


アルトは、何も言わなかった。


やがて。


「……四日前……」


小さく呟いた。


ロイが顔を上げる。


「……アルト?」


「……親父が死んだの、四日前だよな」


その瞬間。


ロイの表情が変わった。


ティアも、息を呑んだ。


四日前。


魔王討伐の日。


アルトが、胸を貫かれた日。


アルトは、ゆっくりと顔を上げた。


「……あのとき……」


その目から、涙がこぼれた。


「……俺、死んだんだよな……?」


ティアは、震える声で答えた。


「……うん」


「……息、してなかったんだよな……?」


「……うん……」


「……でも……」


アルトは、お守りを握りしめた。


「……生き返った……」


涙が、手の甲に落ちた。


「……親父が……」


声が、崩れた。


「……親父が、最後まで……俺を助けてくれたのか……?」


ティアは、答えられなかった。


答える必要もなかった。


アルトは、しばらく動かなかった。


そして。


「……ふざけんなよ……」


小さく呟いた。


「……なんだよ、それ……」


声が大きくなる。


「……そんなの、聞いてねえよ……!」


アルトは、立ち上がった。


「……なんで言ってくれなかったんだよ!」


誰も答えない。


「……俺が怪我するたびに、親父が死に近づいてたってことだろ!?」


ロイが唇を噛んだ。


「……アルト……」


「……知ってたら……!」


アルトは、叫んだ。


「……知ってたら、俺……!」


そこで、言葉が止まった。


知っていたら。


どうしただろう。


怪我をしないように戦った?


もっと慎重になった?


魔王との戦いで、ティアを庇わなかった?


そんなこと、できるはずがなかった。


目の前でティアが殺されそうになったら、何度だって飛び込んでいた。


きっと父も、それを分かっていた。


アルトは、膝から崩れ落ちた。


「……親父……」


お守りを胸に抱く。


「……俺……」


涙が、止まらなかった。


「……俺、親父を殺しちまった……」


「……アルト!」


ロイが叫んだ。


しかし、アルトは首を振った。


「……だって、そうだろ……!」


声が震える。


「……俺がもっと強かったら……!」


「……アルト……!」


「……俺が、あんな傷を負わなければ……!」


そのとき。


ロイが、アルトの肩を強く掴んだ。


「……いい加減にしろ!」


アルトが顔を上げる。


ロイの目にも、涙が浮かんでいた。


「……お前だけが苦しいと思うなよ……!」


「……ロイ……?」


「……俺だって……!」


ロイの声が震えた。


「……俺だって、あのとき魔王を止められなかった……!」


拳を握りしめる。


「……お前が倒れたとき、何もできなかった……!」


涙が、頬を伝った。


「……俺がもっと強ければって……何回も考えた……!」


アルトは、黙っていた。


「……でもな……」


ロイは、アルトの肩を掴んだまま言った。


「……ガルドさんが、そんなこと望んでたと思うか……?」


「…………」


「……お前が自分を責めて、これからずっと泣いて暮らすことを……望んでたと思うかよ……!」


アルトの目から、涙がこぼれた。


「……違うだろ……」


ロイの声が、崩れた。


「……あの人は……お前に帰ってきてほしかったんだよ……!」


ロイの声が、静かな部屋に響いた。


アルトは、何も言えなかった。


そのとき、ティアがそっと隣に膝をついた。


「……アルト」


震える手で、アルトの手を握る。


「……私ね、あのとき、本当に怖かった」


アルトが顔を上げる。


「……あなたが、もう目を覚まさないんじゃないかって……」


ティアの目から、涙がこぼれた。


「……だから、生きていてくれて……本当に嬉しかった」


アルトは、握られた手を見つめた。


魔王の槍がティアに向けられた瞬間。


自分は、何も考えずに飛び込んでいた。


ただ、失いたくなかった。


大切な人に、生きていてほしかった。


それだけだった。


――ああ、そうか。


アルトは、ようやく気づいた。


父も、同じだったのだ。


自分がティアを守りたかったように。


父も、ただ息子を守りたかった。


きっと、何度やり直しても。


あの人は、同じことをしたのだろう。


「……親父……」


アルトは、お守りを胸に抱きしめた。


そして、声を殺して泣いた。


◇


翌日。


アルトたちは、村の神殿を訪れた。


古い書庫の前で、一人の老司祭が待っていた。


「……アルト君だね」


老司祭は、静かに頭を下げた。


「……お父さんのことは、本当に残念だった」


アルトは、俯いた。


「……ありがとうございます」


老司祭は、しばらく黙っていた。


そして。


「……君に、話しておかなければならないことがある」


アルトが顔を上げる。


「……え?」


「……ガルドさんは、何度もここへ来ていたよ」


「……親父が?」


「君が勇者に選ばれてから、毎日のようにな」


老司祭は、ゆっくりと語り始めた。


「息子を守る方法はないかと、何度も尋ねてきた。怪我を防ぐ魔法、遠く離れた者を守る魔法……あの人は、ありとあらゆる方法を探していた」


アルトは、黙って聞いていた。


「だが、勇者が向かう先は魔王の城だ。どんな守護魔法でも、絶対に守れるとは言い切れなかった」


老司祭は、目を伏せた。


「……ある日、古い禁書のことを聞かれてな」


ティアが、息を呑んだ。


「……生命転移の術……」


老司祭は頷いた。


「私は止めたよ。命を代償にする術など、決して使ってはいけないと」


しばらくの沈黙。


「……だが、あの人はこう言ったんだ」


老司祭の声が震えた。


「『あいつが生まれた日から、俺の命はあいつを守るためにあるんです』」


アルトは、何も言えなかった。


老司祭は、深く頭を下げた。


「……私は、あの人を止められなかった」


その声には、後悔が滲んでいた。


「……すまなかった」


アルトは、しばらく黙っていた。


そして、小さく首を振った。


「……謝らないでください」


老司祭が顔を上げる。


「……親父、きっと……」


アルトは、涙を拭った。


「……何を言われても、やめなかったと思います」


老司祭は、目を閉じた。


「……ああ」


そして、静かに頷いた。


「……私も、そう思う」


◇


その夜。


アルトは、父の手帳を開いた。


最後のほうのページには、旅立ちの日のことが書かれていた。


『アルトが勇者に選ばれた。』


『まったく、あいつには驚かされてばかりだ。』


『小さい頃から勇者になると言っていたが、本当になるとは思わなかった。』


『嬉しい。誇らしい。』


『でも、それ以上に怖い。』


アルトの指が止まった。


『あいつが帰ってこなかったら、どうしよう。』


『そう考えるだけで、胸が苦しくなる。』


『父親として、笑って送り出してやりたい。』


『あいつは、世界を救いに行くんだから。』


『でも、本当は行かせたくない。』


『ずっと家にいてほしい。』


『俺より先に死ぬようなことだけは、絶対にしてほしくない。』


アルトの視界が滲んだ。


旅立ちの日。


父は、笑っていた。


いつものように、大きな声で。


背中を叩いて。


送り出してくれた。


あの笑顔の裏で。


こんなことを、考えていたのか。


ページをめくる。


『父親ってのは、勝手なものだな。』


『立派になってほしいと思うくせに、危ないことはしてほしくない。』


『遠くへ羽ばたいてほしいと思うくせに、ずっと目の届くところにいてほしい。』


『あいつが生まれた日から、俺はずっとそんなことばかり考えている。』


アルトは、涙を拭った。


さらに読み進める。


『俺は、あいつに何かを返してもらいたいわけじゃない。』


『父親として立派だったとも思わない。』


『料理は下手だし、洗濯物はよく溜めるし、仕事で帰りが遅くなることもあった。』


『母さんがいたら、もっと上手に育てられたのかもしれない。』


『でもな。』


『あいつと過ごした十八年間は、俺の人生で一番幸せな時間だった。』


アルトは、唇を噛んだ。


『もし生まれ変わって、もう一度人生をやり直せるとしても。』


『俺は、またアルトの父親になりたい。』


『何度だって、あいつを抱き上げたい。』


『何度だって、転んだあいつを起こしてやりたい。』


『何度だって、くだらない話を聞いてやりたい。』


『そして、何度だって。』


『あいつが生まれてきてくれてよかったと、思うんだろうな。』


「……っ……!」


アルトは、手帳を抱きしめた。


「……親父……!」


声が、崩れた。


「……俺だって……!」


涙が、止まらなかった。


「……俺だって、また親父の息子がいいよ……!」


ロイは、顔を背けた。


ティアは、口元を押さえて泣いていた。


アルトは、もう一度手帳を開いた。


最後のページ。


そこには、少しだけ文字が乱れた、父の言葉が残されていた。


『アルトへ。』


『お前がこれを読む頃には、きっと立派な大人になっているんだろうな。』


『いや、案外、昔と変わらず馬鹿をやってるかもしれない。』


『どっちでもいい。』


『父さんは、お前が笑ってくれていれば、それでいい。』


『一つだけ、覚えておいてほしい。』


『父さんの分まで生きようなんて、思わなくていい。』


『お前は、お前の人生を生きなさい。』


『できれば、父さんよりずっと長く。』


『そして、父さんと同じくらい幸せになってくれ。』


アルトは、何度もその言葉を読んだ。


父さんの分まで生きなくていい。


自分の人生を生きなさい。


それは、命令ではなかった。


父が、息子に残した願いだった。


「……親父」


アルトは、涙を拭った。


「……俺、まだ何も返せてねえよ……」


声が震える。


「……育ててもらって……飯食わせてもらって……」


何度も、息を吸った。


「……最後は、命まで……」


アルトは、手帳を見つめた。


「……なのに……」


そのとき。


ロイが、静かに言った。


「……返さなくていいんじゃないか」


「……え?」


「……ガルドさん、そう書いてるだろ」


ロイは、手帳を指さした。


「……お前と過ごした時間が、幸せだったって」


ティアも頷いた。


「……きっとね、アルト」


涙を拭いながら、微笑んだ。


「……ガルドおじさんにとって、アルトが生まれてきてくれたことが、一番嬉しかったんだと思う」


アルトは、手帳を見つめた。


父は、何も求めていなかった。


立派な勇者になることも。


世界を救うことも。


自分のために何かを返すことも。


ただ。


息子が生きて、笑ってくれること。


それだけを願っていた。


「……そっか……」


アルトは、涙を流しながら笑った。


「……親父……」


手帳を胸に抱きしめる。


「……ありがとう……」


ずっと、伝えたかった言葉。


帰ったら、必ず言おうと思っていた言葉。


「……俺、親父の息子で……」


声が震えた。


「……幸せだったよ……」


◇


翌朝。


アルトは、父の仕事場にいた。


窓から、朝日が差し込んでいる。


作業台には、あの椅子が置かれていた。


父が、帰ってくる息子のために作っていた椅子。


アルトは、しばらくそれを見つめた。


「……なあ、親父」


小さく笑う。


「……俺、木工なんて全然得意じゃないんだけどさ」


壁に掛けられた道具を手に取る。


「……最後くらい、手伝わせてくれよ」


慣れない手つきで、木を削り始めた。


うまくいかなかった。


何度も失敗した。


父なら、きっと笑っただろう。


『お前は本当に不器用だな!』


そんな声が、聞こえてきそうだった。


「……うるせえよ、親父」


アルトは、笑った。


涙を拭いながら。


少しずつ。


少しずつ。


椅子を仕上げていった。


やがて、昼過ぎ。


一脚の椅子が完成した。


少しだけ、歪んでいた。


背もたれの模様も、途中から不格好になっていた。


それでも。


父と息子が、二人で作った椅子だった。


「……できたぞ」


アルトは、椅子を撫でた。


「……親父」


その声は、もう震えていなかった。


「……俺、幸せになるよ」


静かな仕事場に、声が響く。


「……たぶん、これからも馬鹿やるし、ロイにも怒られるし……」


少し笑った。


「……ティアにも、心配かけると思う」


そして。


「……でも、ちゃんと生きるから」


アルトは、窓の外を見た。


青い空が広がっていた。


「……親父が守ってくれた命で、俺の人生を生きるよ」


風が、優しく吹き込んだ。


「……だからさ」


アルトは、笑った。


「……見ててくれよ」


◇


――十八年前。


小さな家の寝室。


窓から、柔らかな朝日が差し込んでいた。


若いガルドは、ベッドの傍らに座っていた。


腕の中には、生まれたばかりの赤ん坊。


アルトだった。


その隣には、一人の女性が横たわっていた。


アルトの母親。


彼女は、弱々しく微笑んでいた。


「……ねえ、ガルド」


「……ん?」


「……この子、あなたに似てるね」


ガルドは、笑った。


「……そうか?」


「……うん」


女性は、小さな手を伸ばした。


赤ん坊の頬に、そっと触れる。


「……きっと、元気な子になるね」


「……ああ」


ガルドは、赤ん坊を見つめた。


「……元気すぎて、困るくらいになりそうだ」


女性が、小さく笑った。


そして。


「……ねえ、ガルド」


「……なんだ?」


「……この子が大きくなったら……」


女性は、ゆっくりと言った。


「……どんな子に育ったか、いつか私にも聞かせてね」


ガルドは、少しだけ目を伏せた。


そして。


「……ああ」


優しく笑った。


「……約束する」


◇


――遠い、どこか。


白い花が、一面に咲いていた。


穏やかな風が、花を揺らしている。


一人の男が、ゆっくりと歩いていた。


ガルドだった。


その先に。


一人の女性が、立っていた。


十八年前と、変わらない笑顔。


ずっと、会いたかった人。


「……久しぶりだな」


ガルドは、照れくさそうに笑った。


女性は、優しく微笑んだ。


ガルドは、ゆっくりと隣に腰を下ろした。


そして。


「……約束、覚えてるか?」


女性が、顔を上げる。


「……あいつがどんな子に育ったか、いつか聞かせてくれって……言ったよな」


ガルドは、少しだけ目を伏せた。


「……すまない」


小さく呟いた。


「……あいつが家族を持つところまでは、見届けられなかった」


女性は、静かに首を振った。


ガルドは、少しだけ笑った。


「……でもな」


その目には、誇らしげな光が浮かんでいた。


「……あいつは、きっと幸せになる」


そして。


「……俺たちの息子だからな」


女性が、優しく微笑んだ。


ガルドは、遠くの空を見上げた。


「……さて」


小さく笑う。


「……何から話そうか」


少し考えた。


幼い頃、初めて歩いた日のこと。


木の剣を振り回していた日のこと。


転んでも泣かずに、笑っていた日のこと。


勇者に選ばれた日のこと。


旅立ちの日、振り返らずに歩いていった背中のこと。


話したいことは、いくらでもあった。


嬉しかったことも。


心配したことも。


誇らしかったことも。


すべて。


すべて、覚えていた。


ガルドは、嬉しそうに笑った。


「……あいつのこと、話したいことが山ほどあるんだ」


穏やかな風が、二人の間を吹き抜けた。


その先には。


どこまでも、青い空が広がっていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


少しでも心に残る作品になっていましたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります。


他にも切なく心に残るような短編作品を書いていますので、よろしければそちらも読んでいただけると嬉しいです。

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