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東京テロ・ハンター 警視庁公安部外事第4課  作者: 中央国家安全委員会主席
第1章 異教の毒霧

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第8話 蒲田

東京都大田区 蒲田

ちょうど相模と丹波が印西市内を駆けずり回っていた頃、東京湾を挟んだ大田区では、雲一つない4月の青空から、容赦のない陽光が降り注いでいた。

午前中の雨が嘘のように上がり、熱を持ちはじめたアスファルトからは湿った土の匂いが立ち上っている。

建設現場の重機が上げる咆哮と、金属が触れ合う高い音が、春の乾いた空気に反響していた。


「コック、現場を出た。これより昼食休憩に入る模様」


現場近くのコインパーキングに停まった商用バンの車内、指揮車の「ワシ」こと志賀はモニターの隅で点滅する位置情報を睨みつけながら、低くマイクに命じた。

モニターには、オレンジ色の反射ベストを脱ぎ、地味なグレーのパーカーを羽織ったサイード・カーンの姿が鮮明に映し出されている。

彼はいつもと違って他の作業員たちと談笑することもなく、独り、現場から数百メートル離れた公園の方向へと歩き出した。


「こちらボルト。コック、公園南側の入り口から進入。視認継続」


工事作業員に扮した「ボルト」こと岩壁が、肩に担いだ脚立の陰で喉元のマイクに囁く。

サイードはベンチに腰を下ろすと、コンビニで買ったらしい安物のサンドイッチを無造作に口へ運んだ。

その仕草は、どこにでもいる孤独な労働者の風景そのものだ。


「……11時方向から不審人物接近」


志賀の隣で無線を傍受していた「レンゲ」こと浅倉が、息を呑む。

サイードの背後、木々が作り出す濃い陰影の中から、一人の男が姿を現した。

男は深いネイビーのフーディーを目深に被り、顔の半分以上が影に沈んでいる。

足元は軽快なランニングシューズ。

男がサイードの横を通り過ぎる、その刹那だった。

サイードは視線を正面に向けたまま、左手でポケットから取り出した白い封筒を、男のパーカーの大きなポケットへと滑り込ませた。


「フラッシュ・コンタクトを現認!」


指揮車内のモニターを凝視していた「ワシ」こと志賀の鋭い声が、無線のノイズを切り裂いた。

蒲田警察署内の一会議室に設けられた臨時指揮所に陣取り、志賀班以外を含む現場の統制を任された第6係長の高木は、瞬時にモニター上の配置図を走査した。


「接触相手を『(ツバメ)』と呼称。本星の可能性が高い。ハチ、レンゲ、第2、第3遊撃班は燕につけ。残りはコックを継続。燕の捕捉を最優先とする。……完全秘匿だ。絶対に悟られるな!」


視察部隊の戦力はその半分を未知の接触者へと急旋回させた。

ネイビーのフーディーに身を包んだ「燕」は、封筒を受け取った直後から、それまでの散歩のような足取りを劇的に変えた。

燕は公園を出ると、まずは入り組んだ古い住宅街の路地へと踏み込んだ。

角を曲がるたびに急に立ち止まってはスマホを操作するふりをし、画面の反射で背後の死角を精査する。

路地裏の民家のカーブミラーを覗き込み、曲がり角の先から追ってくる者の有無を確認する徹底した「点検」だ。


「こちらハチ。燕、第1京浜でタクシーを拾った」


「ハチ」こと日比野がスクーターで距離を保ちながら報告する。

燕を乗せたタクシーは国道を北上したが、わずか数百メートル先の赤信号で停車した瞬間、燕は後部座席の右側ドアを蹴るように開けて車道へと飛び出した。

後続のトラックが激しい制動音を響かせて急ブレーキをかける中、燕は中央分離帯を飛び越え、対向車線のバス停に停車している路線バスのドアが閉まる寸前、その隙間に滑り込んだ。


「……燕、バスで京急蒲田駅方向へ!」


だが燕の動きは、外4のベテラン勢の予測をさらに上回っていた。

京急蒲田駅の改札を抜けたかと思えば、上りエスカレーターの中ほどで突如として反転。

驚く乗客をかき分け、逆走してホームへ向かう階段を駆け下りる。

ちょうど滑り込んできた品川行きの快特列車のドアが閉まりかけた、その刹那。

燕は片足を踏み入れたまま、あえてドアに体を挟ませ、再開閉のブザーを鳴らさせた。

駆け寄る駅員の目を盗み、燕は閉まりかけたドアから弾かれるようにホームへ戻ると、そのまま反対側のホームに停車していた都営浅草線直通の車両へと、ホームを横断して飛び移った。

「燕」がホームを横断して滑り込んだのは、発車間際の西馬込行きだった。


「こちらレンゲ、燕と同車! 3両目後方ドアから進入!」


浅倉は呼吸を殺し、閉まるドアの隙間に身体をねじ込んだ。周囲の乗客に不審がられぬよう、手近な吊革を掴み、視線は手元のスマホへ落とす。だが、その意識のすべては数メートル先に立つネイビーの背中に集中させていた。

電車が動き出すと同時に、燕の「点検」はさらにその密度を増した。

男は車両の連結部へと歩き出し、自動ドアを抜けて隣の車両へと移動する。浅倉も一定の距離を保ちながら、雑誌に目をやるふりをして次の中間車両へ入った。すると燕は、車両の真ん中で唐突に立ち止まり180度反転した。


浅倉は反射的に視線を逸らし、空いた座席へ滑り込む。燕は無機質な視線を車両全体に走らせ、追随する「影」の有無を網膜に焼き付けているようだった。


「……レンゲよりワシ。マルタイ、車両内を激しく移動中。各駅でドアが開くたび、ホームへ降りる素振りを見せています」


次の駅に停まるたび、燕はドアの淵に立ち、片足をホームに降ろしては、閉まる直前に車内へ戻るという「消毒」を繰り返した。浅倉はそのたびに、燕が本当に降りるのか、あるいは罠なのかという極限の二択を迫られる。燕の動きは緩急自在で、一度座席に深く腰掛けたかと思えば、次の瞬間には弾かれたように隣の車両へ走り出す。

地下鉄の閉鎖空間で、1対1の神経戦が続く。


「五反田、三田、各駅に捜査員を配置しろ!」


高木の怒号が無線に飛ぶが、地下の遮蔽物と燕の予測不能な移動速度に、地上班の展開が追いつかない。

やがて電車が品川駅のホームに滑り込んだ。

燕は開いたドアからホームへ飛び出すと、階段とは逆の方向へ全速力で疾走した。浅倉も迷わず追う。だが、燕は柱の陰で再び急反転し、浅倉と正面からすれ違う至近距離まで戻ってきた。

浅倉は平静を装い、そのまま燕を追い越して背後を突こうとした。だが、燕が柱の死角に入ったのは、わずか2秒。


再び視界に捉えたその男はネイビーのフーディーではなく、どこにでもいるビジネスマン風のライトグレーのジャンパーを羽織っていた。リバーシブルの裏地を、走りながら一瞬で翻したのだ。


「……燕が衣替えした! グレーのジャンパー、ターゲットを見失うな!」

浅倉は小声で無線のマイクに囁きながら人混みをかき分ける。だが、品川駅の殺人的な雑踏は、色を変えた「燕」を容赦なく飲み込んでいく。

エスカレーターを駆け上がった先には、港南口へ向かう無数のサラリーマンの群れ。浅倉は必死にグレーの背中を追ったが、その瞳に映るのは、似たような背広とジャンパーの奔流だけだった。


「……レンゲよりワシ。燕、完全に失尾(ロスト)……」


浅倉はコンコースの真ん中で立ち尽くし、マイクに向かって声を絞り出した。


東京都千代田区、警視庁本庁舎。

窓のない会議室の空気は、張り詰めた弦のように鋭く、重苦しい沈黙が支配していた。

円卓の中央に置かれた大型モニターには、品川駅の雑踏の中で「燕」が姿を消した瞬間の、粒子が荒い監視カメラ映像が静止画で映し出されている。


「……申し訳、ありません。完全に、私のミスです」


浅倉倫子が、絞り出すような声で謝罪の言葉を述べた。

いつも快活な彼女の顔は、今は青白く強張り、唇は細く震えている。公安総務課時代から数えきれないほどの行動確認を完遂してきた「秘匿追尾のプロ」としての自尊心は、白昼の品川で木端微塵に打ち砕かれていた。


「頭を上げろ、浅倉。責めているわけじゃない」


志賀が、眠たげな目をさらに細めながら、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。

その視線は、モニター上の「燕」がリバーシブルのジャンパーを翻した、わずかコンマ数秒の動作に固定されている。


「むしろここまで食いついたことも立派だ。燕はプロだ。俺が昔相手にしてた狸穴や麻布の機関員どもにも引けを取らない」


狸穴は駐日ロシア大使館、麻布は中国大使館。それぞれ本国の情報機関員が外交官の偽装(オフィシャルカバー)で赴任し、警視庁公安部外事第1課や第2課と日々熾烈な諜報戦を繰り広げている。


「そんな奴とこれまたフラッシュコンタクト、つまり典型的な諜報形態の接触を行ったサイードも、当然ただ者ではない。サイードが『カラス』、燕はその部下、支援要員もしくは戦闘員(コンバット)……」


志賀の言葉に高木係長が深く頷いた。


「問題は、マルタイが2人に増えたことだ」


高木がリモコンを操作すると画面が切り替わり、今度は千葉県印西市の荒廃したアパートと、アハメド・ユルマズの断片的な供述に基づく不完全な似顔絵が並んだ。


「班長。千葉の件を報告します」


丹波が凛とした声を発した。


「印西のアパートにいた男も、右頬に三日月型の傷跡があるという証言を得ました。しかし、男は入管の摘発直前に姿を消しており、部屋には指紋1つ、毛髪1本すら残されていません。徹底したクリーンアップです。現在、千葉県警の外事課が周辺の聞き込みを継続していますが、足取りは完全に途絶えています」

「どちらが『カラス』なのか。あるいは両方がそうなのか……」


浅倉が、切れ長な瞳に深い疑念を湛えて呟いた。

彼女の指先が、テーブルの上で無意識に複雑なリズムを刻んでいる。


「サイードは成田の入国審査で顔が割れています。本物のカラスなら、そんな目立つ傷を晒して堂々と働くでしょうか? むしろ印西で消えた男こそが本星で、サイードは我々の戦力を引きつけるための、巨大な(デコイ)ではないですか。入管の水際で一切引っ掛かっていない点からも、高度の隠密性を持ったプロの行動かと」


丹波が高木と志賀に交互に視線を向けながら言う。


「だが、サイードが今日、プロと思しき不審人物と諜報形態の接触(コンタクト)を行ったことは紛れもない事実だ。封筒の中身が何であれ、奴がテロ計画の中核にいる可能性は極めて高い」


日比野が珍しく激論に加わった。

会議室の熱量は、結論の出ない問いを巡って上昇し続ける。


「捜査方針を決定したい」


志賀の声に、全員の視線が集中した。


「千葉の『第2の男』の捜査は継続する。だが、所在不明な幻を追って戦力を分散させるわけにはいかない。明日以降も、作業班の主軸は蒲田のサイード、および失尾した『燕』の再捕捉に投入する。奴らが再び接触するポイントを叩く。係長、それでよろしいですかね」


高木が志賀の判断を了とし、会議は散会した。


「浅倉、顔を洗ってこい。明日の起床時から再び視察に入るぞ。今夜のサイードの視察は、公安総務課(コウソウ)と蒲田署に任せてある」


警視庁の廊下を歩きながら、相模は左肩の古傷に触れた。

幾重にも重なる「影」の断片が、東京という巨大なキャンバスの上で1つの巨大な、そして破滅的な絵を形作ろうとしている予感があった。


前を歩く丹波が、ふと立ち止まって振り返った。蛍光灯の光が、彼女のうなじの白さを際立たせている。


「……私たち、何を見落としているのかしら」

「分かりません。でも、奴らは必ず動きます」


相模の瞳には、獲物をどこまでも追い詰める鋭い集中力の光が宿っていた。


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