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東京テロ・ハンター 警視庁公安部外事第4課  作者: 中央国家安全委員会主席
第1章 異教の毒霧

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第7話 印西市

千葉県印西市 印西警察署

相模の運転するスバル・レヴォーグは、北総鉄道のコンクリート高架を背に、印西市南東部に広がる入り組んだ谷津田へと分け入っていた。

窓の外には、かつての里山が宅地開発の波に取り残されたような、独特の閉塞感が漂っている。冷たい雨が、あちこちに点在する荒廃した資材置き場や、重機が放置されたままの耕作放棄地を鈍色に濡らしていた。湿った土の匂いと、時折混じる野焼きの灰の匂いが、エアコンの微風に乗って車内に忍び寄る。


「……入管のデータベースも、結局は空振りね」


助手席の丹波が、タブレット端末の画面を見つめたまま重い溜息をついた。

志賀から警察庁国際テロリズム対策課を経由し、出入国在留管理庁の在留カードデータベースを再照合させていた。成田で顔の割れているサイード・カーンとは別に、直近数ヶ月に新規入国した者を含め、千葉県内、ひいては関東一円に在留する外国人の顔写真を科学警察研究所のAIで精査した。しかし、抽出された「右頬の三日月型の傷」を持つ男たちは、交通事故や労働災害で似たような傷を負った明らかに無関係な数人ばかりで、アハメドの語った「軍人の目」を持つ男とは似ても似つかなかった。

レヴォーグは、国道464号線の喧騒から外れ、印西警察署の裏手へと滑り込んだ。

昭和の香りを残す武骨な庁舎の脇には、地域課のパトカーが雨に打たれて整列している。


薄暗い取調室に、パイプ椅子が床を擦る不快な音が響いた。


「ですから……派遣ブローカーが勝手に連れてきた連中のことなんて、いちいち把握してませんよ。うちは深刻な人手不足なんです。真面目に働いてくれれば、誰だって良かったんだ」


スチール製の机を挟んで座る工場経営者の男は、手垢で汚れた作業着の袖を震わせ、自己保身の言葉を繰り返した。


「その『誰でもいい』の中に、右頬に深い傷のある男が混じっていなかったか、と聞いているんだ」


相模の低く、逃げ場を許さない声に、男は首を激しく横に振った。


「見てません。本当に。何度か『知り合いを数日泊めてやりたい』と言ってくる奴がいて、入管が来る数日前にもありましたが、よく知りません。どうせすぐ入れ替わっていく外国人の顔ぶれなんて、いちいち点検しちゃいない」


相模はそれ以上追及せず、席を立った。


地域課事務室。出動準備を整える警察官たちが慌ただしく行き交うなか、相模と丹波は、地域課の係長と数人の若手巡査を囲んでいた。


「……三日月型の傷跡がある外国人、ですか」


係長は、2人が差し出した警視庁刑事部国際犯罪対策課の名刺――外事警察官、ましてや秘匿性の高い「作業班」たる者、同じ警察官相手でも不用意に真の所属を明かしてはならない――を事務机に置き、自身の記憶を掘り起こすように眉間に皺を寄せた。


「いや、少なくともこの数ヶ月、管内の巡回連絡でそんな特徴のある男に当たったという報告は入っていません。印西は最近、ニュータウン側の人口が急増していますが、アハメドらがいたような古い谷津田の奥にある工場や農家、空き家なんかは、うちの若いのが一軒一軒、巡回連絡カードを更新して回っているはずですがね」


係長の視線を受け、隣にいた巡査が申し訳なさそうに補足した。


「自分も先週、アハメドがいた工場の周辺を回りました。確かにあの辺りは不法就労の温床になりやすいので重点的に当たっています。でも、外国人を見かけるとしてもアハメドのように大人しい連中ばかりで、そんな軍人崩れのような殺気立った男には一度も……。住民からの通報も、ゴミ出しのルール違反とか騒音程度です」

「そうですか。……お忙しいところ、ありがとうございました」


丹波が軽く会釈をして、相模と共に事務室を後にした。


印西警察署を後にした二人は、署の駐車場で手早く「装備」を換装した。相模は使い古したカメラバッグを肩にかけ、丹波は大手新聞社のロゴが入った腕章をダッシュボードから取り出す。今回の偽変は、特定技能制度の光と影を追う社会部の記者だ。

スバル・レヴォーグはさらに道幅の狭い、対向車とのすれ違いも困難な谷津田の奥へと進む。雨に濡れた未舗装の路地、その突き当たりに、錆びた鉄骨階段が剥き出しになった築四十年の木造アパートが立っていた。


「……ここね」


丹波が資料と照らし合わせ、アパートの向かいで農作業の手を休めていた老人に歩み寄る。


「すみません、お仕事中失礼します。私、大和経営新聞の社会部で記者をしております山田と申します。今、この地域の外国人労働者の方々の生活環境について調査をしておりまして……」


丹波の声は市井の人間に安心感を与える柔和な響きを帯びている。相模は一歩下がり、手慣れた様子でアパートの外観をカメラに収めるフリをしながら、周囲の監視カメラや逃走経路を瞬時にスキャンする。


「ああ、記者さんかね。最近多いねぇ、そういう取材」


老人は泥のついた軍手で額を拭い、アパートの二階を見上げた。


「あそこには色んな国籍の連中が入れ替わり立ち替わり入るから、正直誰が誰だか。……ただ、4、5日前かな。見慣れない男が1人、夜中に軽トラで乗り付けてきたのは見たよ。あの2階の角の部屋に入っていったようだけど、あれも仲間なのかね?」

「その方の特徴、何か覚えていらっしゃいますか? 例えば、お顔に目立つ印があったとか……」

「暗かったからねぇ。ただ、雨の日だったのに傘もささずに立っていて、街灯の下を通った時にチラッと見えた頬が……なんだか酷く荒れていたような気がするな。火傷の跡か何かかな。とにかく、この辺の連中とは醸し出す雰囲気が違って、怖くて声をかけられなかったよ」


丹波が手帳にペンを走らせる。その傍らで、相模がアパートの周辺に屯していた数人の外国人労働者に英語で話しかけた。


「ニュースの取材なんだけど、ここ数日、新しいルームメイトは来なかった? 凄く背が高くて、頬に三日月みたいな傷がある男なんだけど」


彼らは一様に首を振った。

「知らない」「入管に同胞が捕まってから、あの部屋には誰も近づいていない」

彼らの言葉に嘘はなさそうだった。得体のしれない不気味な何かを感じ、とにかく巻き込まれたくないのだろう。


湿った草木と錆びた鉄の匂いが混じり合うなか、2台の地味なセダンが泥を跳ね上げて到着した。降りてきたのは印西警察署警備課の私服捜査員たちだ。所轄の警備課は不法滞在など入管法違反事件も所掌していると共に、地域における公安・外事警察の欠かせない手足でもある。


「あいつですよ。あのアパートのオーナー」


若い巡査長が顎で示した先には、サイズの合わないくたびれたカーディガンを羽織り、落ち着かない様子で傘を差す中年の男が立っていた。男はこの界隈でいくつもの格安物件を抱え、身元の怪しい外国人を家賃さえ払えば黙認して住まわせていると地元でも有名だった。印西警察署警備課や東京入管にも既に目をつけられているらしい。


「大家さん、もう一度言いますよ。あんたが貸してた相手は、ただの不法滞在じゃ済まない可能性がある。協力しなけりゃ、あんたも入管法違反の幇助罪か、事と次第によっちゃもっと重い罪で引っ張ることになるが、いいんだな?」


ベテランの警備課員が、男の耳元で低く、逃げ場のない声をぶつけた。大家の男は顔を引き攣らせ、震える手でキー束を探り当てた。


「……分かってますよ。私はただ、困ってると頼まれたから貸しただけで……」


言い訳を遮るように、大家が2階の角部屋の鍵を開けた。ドアが軋んだ音を立てて開く。


「入るわよ」


丹波の合図と共に、相模が先行して室内へ踏み込んだ。だが、そこに「生活」の気配は微塵もなかった。

六畳ほどの板間に、備え付けの古いキッチン。床には埃一つ落ちておらず、不自然なほど静まり返っている。アハメドが語った「第2の男」が滞在していた形跡は、完全に拭い去られていた。

相模は無言でクローゼットの扉を開け、さらに窓枠の溝を指先でなぞった。


「……残留物は何も無い」


相模の乾いた声が、空っぽの部屋に虚しく反響した。後で鑑識も部屋に入ったが、男は去り際に、自身のDNAや指紋はおろか、一筋の毛髪さえ残さない徹底したクリーンアップを行っていた。


丹波は志賀班長や高木係長、そして千葉県警を通じて、アパート周辺から都心および成田方面へ向かう国道464号、ならびに主要地方道に設置された|自動車ナンバー自動読取装置《Nシステム》の記録を緊急で照合させていた。

しかし返ってきた報告は非情なものだった。


「対象と思われる軽トラック、その他不審車両の通過記録、いずれも該当無し(ゼロゼロ)です」


印西の台地を縫うように走る旧道や農道は街灯も少なく、防犯カメラの設置も極めて限定的だ。都心部を網の目のように覆う監視網も、この複雑に入り組んだ谷津田においては、その糸が極端に粗くなる。せめて重要防護施設である成田国際空港にもう少し近づけば、監視網もより綿密になっていくのだが――。

所轄署の捜査員たちが大家を厳しく問い詰める声が響くなか、相模と丹波は無言でレヴォーグへと戻った。難航を極める捜索。獲物を見失ったという焦燥感だけが、冷たい雨とともに2人の肩に重くのしかかっていた。



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