第9話 代々木公園
東京都渋谷区 代々木公園
代々木公園の広大な敷地は、午後の柔らかな光に包まれていた。中央の草地広場を囲むケヤキの巨木たちが春の訪れを謳歌するように若葉を揺らし、隙間から漏れる陽光が地面に複雑な幾何学模様の影を落としている。
平日の午後であっても、都心のオアシスを求める人々は絶えない。ジョギングに汗を流す者、色鮮やかなレジャーシートを広げて談笑する若者、そして大きなレンズを構えて野鳥の姿を追う年配のカメラマン。その平和を絵に描いたような光景のなかに、外事第4課第6係「作業班」は、目に見えない網のように展開していた。
今回の彼らの任務は、日比野達也による協力者との接線に伴った「防衛」である。協力者が敵対勢力にマークされていないか、あるいはこの接触自体が罠ではないか。日比野の背後を守るため、作業班員たちは風景の断片となって全方位に視線を配していた。
相模結弦は、広場から少し離れた売店近くのベンチに腰を下ろしていた。手元には使い古されたスケッチブックを広げ、膝の上には数本の鉛筆を無造作に置いている。傍らには飲みかけのペットボトルの茶。どう見ても、平日の公園で写生を楽しむ少し内向的な美大生か何かにしか見えない。
相模の配置から直線距離で約40メートル。噴水の水飛沫が虹を作るすぐそばのベンチに日比野が座っている。いつものチャラついたブランド物のコピー品ではなく、今日は地味なベージュのウィンドブレーカーにキャップという、特徴を消した装いだ。その隣には、浅黒い肌に深い皺を刻んだ初老の男が、鳩にパン屑を投げながら座っていた。
バングラデシュ国籍、アブドゥル・ハナン。表の顔は中古車輸出と物流を営む苦労人の実業家だが、関東一円のイスラム系外国人コミュニティの深層に根を張っており、日比野を運営担当者とする特別協力者として警察庁|協力者獲得・特命作業指揮本部《Z E R O》に登録されている。
相模は鉛筆を動かし、噴水の輪郭をなぞるふりをしながら、視界の端で日比野たちの周囲を走査した。
「……こちら『キャット』。位置、噴水北側30メートル地点」
相模が、ジャケットの襟元に隠したマイクに、唇を動かさず囁く。
「現在、周囲に不審な視線、レンズ反射光等は認められない。4時方向のカメラマン、機材はキヤノンの純正ロクヨン。狙いは松の枝のシジュウカラと思われる。その他特異動向なし」
狙撃手として培った空間把握能力が、公園内の無数の動線を瞬時に峻別していく。子供を追いかける母親の足取り、スマホを見ながら歩く会社員の視線の角度。それら「日常のノイズ」のなかに紛れ込む、わずかな違和感――歩調の不自然な乱れや、風景と合致しない過剰な警戒心――がないか、相模の瞳は冷静に選別していた。
一方、相模から100メートルほど離れたドッグランに近い木陰のベンチには、丹波陽茉梨が陣取っていた。
彼女はシックなトレンチコートを纏い、片手に文庫本を広げながら、時折優雅な動作でコーヒーを口に運んでいる。その凛とした佇まいは、待ち合わせに遅れている恋人を辛抱強く待つ知的な女性そのものであり、周囲の男性たちの視線を惹きつけて止まない。
だが、その大きなレンズのサングラスの奥にある鋭い瞳は、相模とは異なる角度から日比野たちの背後を完璧にカバーしていた。
「……こちら『ユリ』。『叔父さん』、現在バッグから何かを取り出す仕草を見せた。『フォックス』、受領する。周囲、特異動向なし」
丹波の澄んだ声が、レシーバーを通じて相模の耳に届く。
「フォックス」こと日比野が、無線で「叔父さん」という暗号名が付けられたハナンから渡されたらしい小さな包みを、流れるような動作でポケットに滑り込ませた。2人は一度も目を合わせることなく、ただの他人同士がベンチを共有しているかのような沈黙を維持している。
ふいに、相模の視界を、一人の男が横切った。
黒いスポーツウェアに身を包み、足早に日比野たちのベンチへと近づいていく。相模の手が、無意識にスケッチブックの端を強く握りしめた。
「……11時方向から不審人物1名接近。黒のジャージ、フードを被っている。歩幅が広い」
相模の報告に、無線機の向こうで志賀の低い息遣いが聞こえた。
「各局、警戒。キャット、ユリ、介入の準備だけしておけ」
男が、日比野の座るベンチの真後ろを通る。
相模は鉛筆を置き、立ち上がる準備を整える。全身の神経が研ぎ澄まされる。
だが、男は日比野たちを一瞥することもなく、そのままの速度で走り去っていった。耳にはワイヤレスイヤホン。ただのランナーだった。
「……失礼、ただのジョギングと思われる」
相模が安堵の吐息を漏らす。
本を読んでいたはずの丹波も、微かに強張らせていた肩の力を抜くのが、距離があっても相模には分かった。
やがて、ハナンが先に席を立った。ゆっくりとした足取りで原宿駅の方向へと消えていく。その数分後、日比野もまた、欠伸をしながら反対の代々木八幡方面へと歩き出した。
「接線、無事終了。各局、各自のタイミングで消毒を行いながら離脱せよ」
志賀の指示が飛び、張り詰めていた空気が緩やかに霧散していく。
相模はスケッチブックを閉じ、鉛筆をバッグに収めた。最後に一度だけ、遠くに見える丹波の背中に視線を送る。彼女もまた、本を閉じ、ハンドバッグを肩にかけて立ち上がるところだった。
春の光は依然として穏やかに公園を照らしている。相模はペットボトルの残りを飲み干すと、喧騒の渋谷へと向かう人波に身を投じた。
東京都千代田区 警視庁
日比野達也は公園で見せていた地味なウィンドブレーカーを脱ぎ捨てると、いつもの少し光沢のある安っぽい派手なシャツになり、デスクに腰を下ろした。
ポケットから、ハナンから手渡されたメモを取り出し、志賀班長の前に置く。志賀は眠たげな目を細め、その断片的なベンガル語の記述と、日比野の記憶を照らし合わせるように促した。
午後の柔らかな光が降り注ぐなか、ベンチに座る日比野の隣で、アブドゥル・ハナンは鳩にパン屑を投げながら、唇をほとんど動かさずに囁いていた。
「……ヒビノさん。あまり時間がありません。コミュニティの連中が、少し神経質になっています」
ハナンの声は、春の風に混じって消えてしまいそうなほど小さかった。
数年前、ハナンは中古車輸出の資金繰りに窮し、それとは知らずに、中東系外国人の自動車窃盗団による資金洗浄の片棒を担がされたことがあった。イスラム系外国人コミュニティの顔役である彼にかねてより目をつけ基礎調査を行っていた日比野はZEROからゴーサインを得て、絶望の淵にいるハナンへの│接触へと移行するとともに、持ち前の交渉力を駆使し、警視庁刑事部や東京地方検察庁、さらには東京入管を相手に「彼は貴重な協力者になり得る」と執拗に説得を重ねて、ハナンの立件を見送らせた。以来、ハナンにとって日比野は恩人であり、唯一信頼できる「日本の警察」となっていたのである。
「分かっている。無理はさせたくない。だが、君の耳に入った『不穏な動き』を教えてくれ」
日比野の言葉に、ハナンはパン屑を握りしめたまま、苦渋に満ちた表情で続けた。
「同業者の中に、非常に評判の悪い、胡散臭い男がいます。バングラデシュ人ですが、過激な思想を持つグループと繋がっていると噂され、コミュニティでは嫌われ者の男だ。そいつが1週間ほど前、川崎で船から数個の『特別な荷』を運び出したという話を耳にしました」
「荷の中身は?」
「分かりません。ただ、荷役に関わった者が『あれは機械類とかにしては軽すぎるし、運び出す時の扱いが、まるで卵を運ぶように慎重だった』と……。それから、その荷を預かったのは、『頬に大きな傷のある男』だったそうです」
日比野の背筋に冷たい電流が走った。
「海外から到着した貨物船なら、税関、入管や海保の立入検査があるはずだ。不審物は――」
「貨物船じゃない、ヨットだった」
「海外から大型船で搬入したんじゃないのか!?」
「沖合で移し替えたらしい。なんて言ったっけ、北朝鮮のニュースで見た、そう――」
「瀬取り、か」
「叔父さん、その『荷』は今どこにある?」
「……分かりません。ただ、男たちはそれをワンボックスに積み、首都高速に乗って東京の方向へ向かったと」
「ヒビノさん、これ以上は危険です。奴らは、ムスリムであっても疑わしき者は容赦しません。バレたら私、殺されます」
ハナンは最後のパン屑を投げると、祈るような仕草で顔を覆い、そのまま静かにベンチを立った。
「……爆発物、またはそれに類するテロ関連物資の搬入。そう見るのが自然でしょうな」
佐伯が珍しく口を開いた。志賀も唸り声を上げる。
「川崎周辺のNシステム、胡散臭いバングラ人の業者とやら、徹底的に洗おう」
「私は今から2号館へ行ってくる。すぐ警察庁に上げて、もっと大掛かりな態勢を組まねば」
高木は足早に席を立ち、電話をかけ始めた。




