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東京テロ・ハンター 警視庁公安部外事第4課  作者: 中央国家安全委員会主席
第1章 異教の毒霧

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11/12

第10話 麹町/歌舞伎町

東京都千代田区 麹町

捜査員たちの間には、底冷えするような疲弊が蓄積していた。千葉県印西市のアパートからは、鑑識の結果「残留物なし」という非情な回答が正式にもたらされていた。アハメドが目撃した「第2の男」も、川崎から運び出されたという「荷」も、東京という巨大な機構のどこかへ吸い込まれたまま、音沙汰がない。サイードへの視察は依然24時間態勢で継続されているが、特異動向は一切認められない。

そんな中、丹波陽茉梨は第6係内のローテーションに従い、数週間ぶりにほぼ定時で警視庁麹町住宅の一室へと帰宅していた。

玄関の鍵を閉め、暗い室内に足を踏み入れると、密閉空間特有のわずかに乾燥した空気が陽茉梨を迎え入れる。

1LDKの間取り、単身向けの警察住宅としては恵まれている方だが、その広さが今はかえって、事件の進展がない焦燥感を際立たせているように感じられた。

丹波はタイトなパンツスーツのジャケットを脱ぎ捨て、クローゼットに掛ける気力もないままソファの背もたれに放り出した。数週間ぶりに袖を通す部屋着は、淡いアイボリーのカシミアカーディガンと、履き古して柔らかくなったデニム。

リビングの壁際を占拠する書棚の上段には、大学時代から読み耽ってきた中東の歴史、文化や社会構造に関する専門書、付箋の隙間もないアラビア語の原典。一方で目線の高さにある棚には、最近SNSで見かけて取り寄せたフランス製のフレグランスボトルや、装丁に惹かれて購入した北欧のミステリー小説、それに数冊のファッション誌が整然と、かつ華やかに並んでいた。

デスクの片隅にはまだ火を灯していないアロマキャンドルが、無機質な官舎の空気に彩りを添えている。

キッチンで冷蔵庫を開け、冷えた赤ワインのボトルとコンビニの惣菜を取り出した。クリスタルグラスに注がれた液体が、キッチンの照明を浴びて深紅に揺れる。ソファに深く身体を沈め、一口含んだワインの渋みが喉を焼く。

ふと、意識の底から1人の男の端正な顔が浮かんできた。

バディを組むことになった相模結弦。任務を離れればどこか世捨て人のような、危うい透明感を纏う青年。SAT│狙撃支援班エ スの優秀なスナイパーだったということまでは知っているが、何故こんなに若くSATを除隊して、畑違いの公安部へ異動してきたのか――職務中の事故が原因、とだけ聞かされているものの、詳細はテロ対策部隊であるSATの運用に関わるとして、「特定秘密」の分厚いベールに覆われている。その謎以外にも、丹波の理性を掻き乱すような何かが彼にはある――。

テレビでBBCワールドニュースを点けっぱなしにしながら惣菜を口に運んだり、スマートフォンを弄って友人たちからのメッセージやSNSのタイムラインを追いかけ続けているうちに、丹波は思ったよりも長い時間が経っていたことに気づいた。

丹波はワイングラスを傾けたまま、テレビ画面の中の砂漠の風景を見つめた。低く、しかし明瞭な英語のアナウンスが響き渡る。


『Japanese Prime Minister Shintaro Oizumi has arrived in Riyadh,Saudi Arabia, where he is set to attend a landmark summit with the leaders of the Gulf Cooperation Council. In a highly anticipated move, P.M.Oizumi is expected to announce a significant expansion of green investment across the Gulf.』


(日本の大泉進太郎総理大臣がサウジアラビアのリヤドに到着しました。そこで開催される湾岸協力理事会(G C C)の首脳会合に、歴史的な招待を受けて出席する予定です。高い注目を集める今回の訪問で、大泉総理は湾岸諸国に対するグリーン投資の抜本的な拡大を表明すると見られています)


『Crucially, the talks will also focus on the signing of a new defense equipment transfer agreement. Sources suggest this deal is contingent on strict protocols to prevent the leakage of sensitive technologies—a move hailed as a historic shift in Japan's strategic engagement with the region.』


(そして極めて重要なのは、新たな防衛装備移転協定の締結です。関係筋によれば、この協定は重要技術の流出防止を目的とした厳格なプロトコルを前提としており、この地域における日本の戦略的関与の歴史的な転換点になると目されています)


白い長衣の民族衣装、トーブに身を包んだサウジアラビア皇太子と握手を交わす、高級スーツを着こなした若き日本国内閣総理大臣の姿。それは、丹波たちが守るべき国家の表舞台だ。


その時、ローテーブルの上で仕事用のスマートフォンが、寝入っていた獣が目覚めたかのように激しく震えた。

表示された名前は、本部待機中の志賀。


「……はい、丹波です」


受話器を耳に当てた瞬間、彼女の背筋は自然と伸び、カシミアの柔らかさに包まれていた瞳に、刃物のような鋭さが戻っていた。


東京都新宿区 歌舞伎町

巨大なゴジラの頭部が虚空を睨むビルを見上げ、靖国通りの喧騒から一本入った路地には、行き交う人々の体温と、色とりどりのネオンサインが放つ排熱を吸い込んだ粘りつくような湿気が淀んでいた。

頭上のデジタルサイネージからは、流行りのダンスミュージックが無機質なリズムを刻み続け、客引きの甲高い声と、泥酔した若者たちの嬌声が、都会の夜の騒音という名の濁流となって街を埋め尽くしていた。


「……見ろよ。またあそこにも不法移民の侵略者(インベーダー)がいやがる」


濁った声を発したのは、紫色のネクタイを締め、胸元に「国政党」のシンボルマークを象る安っぽいバッジを光らせた中年男だった。

名は水原。地方都市で小さな商売に失敗し、現在は、「大和民族を取り戻す」というスローガンを掲げて外国人排斥や反グローバル資本などを主張する新興政党の、熱心な地域活動家となっている。


「皆さん、見てください!これが日本を蝕む『外来種』の実態です。小麦と添加物に脳を焼かれ、グローバリストの手先となった今の政府は、こうした連中を野放しにしている。我々が真実に目覚め、大和魂を取り戻さなければ、この国は内側から腐り落ちるんです!」


水原は自撮り棒に固定したスマートフォンを、通り過ぎようとする一人の男の顔に突きつけた。

男は深いフードを被り、右頬には耳元から顎にかけて這うような、凄惨なケロイド状の傷跡があった。その手に握られているのは、ずっしりと重そうな黒いボストンバッグだ。

男は、水原の存在を完全に無視しようとした。視線すら合わせず、ただ機械的な足取りで横を通り抜けようとする。

だが水原は満足しなかった。視聴者からの「もっと攻めろ」「愛国者なら実力行使だ」というチャット欄の熱狂が、彼の歪んだ正義感をさらに加速させた。


「待てよ、聞いてるのか? お前、そのバッグの中身は何だ。違法薬物か?大人しくIDを出せ。拒否するなら、国民の知る権利として強制的に検閲させてもらう」


水原は、男の行く手を遮るように回り込んだ。男は足を止め、無機質な視線をわずかに水原の足元へ落とす。そして、衝突を避けるように再び右側へステップを踏んだ。

だが、水原は嘲笑を浮かべ、再びその進路を塞いだ。「不良外国人を取締り新宿を浄化する」と称して今夜このミニ集会に集まっていた背後の支持者たちも、紫色の旗を掲げながら包囲網を狭めていく。


「逃げるのか? 疚しいことがある証拠だ。覚醒した日本国民を舐めるなよ」


水原は、男が大切そうに抱えていたバッグのストラップを強引に掴み、引き寄せようとした。

その瞬間、男の「無視」という選択肢が消滅した。

男の動きは、周囲の野次馬の目には残像としてすら映らなかった。水原がバッグを引き寄せようとした力は、そのまま彼の喉元へと返された。男の掌底が、水原の顎を真下から垂直に跳ね上げる。鈍い音が響き、水原の舌が歯列に挟まれて半分以上が断裂した。絶叫を上げる暇すら与えず、男は水原の腕を掴むと、解剖学的に不可能な方向へと一気に捻り上げた。乾いた木が折れるような音が続き、水原の右肩は一瞬で脱臼し、複雑骨折を起こして皮膚を突き破った。


「あ、が……あ……」


口から溢れる鮮血と千切れた舌の破片を撒き散らし、水原は地面に崩れ落ちた。だが、男の手は止まらない。彼は「障害物」を完全に排除する作業に入っていた。男の軍用ブーツが、水原の膝の皿を的確に踏み砕く。

さらに、横から詰め寄ろうとした別の支持者の鳩尾に、男の肘が吸い込まれるように叩き込まれた。支持者は内臓を破裂させたような音を立て、胃の内容物を紫色のスカーフに吐き出しながら昏倒した。

男は、呻き声を上げることもできず悶絶する水原を見下ろすことすらしなかった。

ただ、手に持ったバッグが汚れていないかを確認し、乱れた呼吸一つ乱さず、再び歩き始めた。

「真実」を叫んでいたカメラは、今や地面に転がり、持ち主が絶望の中で血を流す無様な姿を全世界へ配信し続けていた。

男は、恐怖に凍りついた群衆の間を割るようにして、雨の新宿へと消えていった。

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