第11話 歌舞伎町
新宿区歌舞伎町、TOHOシネマズ前。ネオンの毒々しい光が雨上がりの濡れたアスファルトに乱反射するなか、紫色の旗を掲げていた水原が、自身の血の海に沈んでいた。顎は砕け、右肩からは骨が突き出し、噛みちぎられた舌の破片が泥水の中で白くふやけている。その傍らには、持ち主を失ったスマートフォンが、今なお「真実」の崩壊を全世界へ向けてライブ配信し続けていた。
「警視庁から各局、警視庁から各局。新宿区歌舞伎町1丁目1番、TOHOシネマズ前付近において、通行人による傷害事件発生。現当、被疑者は逃走。付近のパトカー、各隊、警察官は直ちに臨場せよ」
「新宿1から警視庁、現在地、靖国通り新宿区役所前。直ちに臨場する」
「2機捜21、現在、歌舞伎町2丁目付近を遊撃中。直ちに臨場する」
「新宿1から警視庁。現場臨場。被害者は3人、いずれも意識不明の重体で大量に出血。至急、救急車の臨場を願いたい。人着後報」
「警視庁了解。現在新宿消防署より救急隊ならびに消防隊が臨場中。収容先選定を急がせる」
現場には最初に新宿警察署歌舞伎町交番の勤務員、ついで新宿警察署地域課のパトカーと、遊撃中だった警視庁刑事部第2機動捜査隊の覆面パトカー、地域部第4方面自動車警ら隊のパトカーが相次いで滑り込んだ。さらに、東京消防庁新宿消防署から臨場した救急車のサイレンが重なり合い、赤色灯の光が雑居ビルの壁を激しく叩く。駆けつけた警察官たちが「KEEP OUT」の規制線を張り巡らせるなか、野次馬のスマートフォンが無数に掲げられ、惨劇の断片をデジタル空間へと吸い上げていった。
「警視庁から各局。警視庁から各局。現時刻をもって、管内全域に緊急配備を発令する。各署、各隊は指定の配備箇所において検索、検問を開始せよ。マルヒの人着はグレーのパーカー、深いフードを被った男。右頬に大きな三日月型の傷あり、目撃者より、中東系もしくは欧米系の外国人のような風貌との供述あり――」
間もなく、複数人が一瞬で重体となった事件の深刻さに鑑み、警視庁本部より刑事部捜査第1課の強行犯捜査担当、刑事部鑑識課の捜査員たちが大挙臨場してきた。ついで、歌舞伎町という土地柄から暴力団や半グレの関与が疑われることから、刑事部暴力団対策課の車両も現場の喧騒に加わる。最後に姿を見せたのは、公安部公安第3課――単独や少人数のテロリスト、いわゆるローン・オフェンダーの取締を所掌する――であった。被害者全員が、極右ポピュリストとして何かと物議を醸す国政党の活動家であることから、政治的背景のあるテロ事件が強く疑われたからだ。
大量の捜査員たちが現場周辺での多数の目撃者への聞き込み――いわゆる地取り捜査――を開始し、周辺の店舗などに設置された防犯カメラの録画データを任意提出するよう要請して回った。新宿警察署3階の会議室には、刑事部長指揮になる「歌舞伎町1丁目における複数人重傷傷害事件捜査本部」が立ち上げられ、続々と情報が集約されてきた。
東京都千代田区 警視庁
窓のない空間を照らす蛍光灯の青白い光が、デスクに突っ伏した日比野達也の項垂れた首筋を無機質に叩いている。傍らでは佐伯が充血した眼をこすりながら、川崎港周辺の防犯カメラ映像とNシステムの膨大なログを照合し続けていたが、画面に映し出されるのは、深夜の臨海部を無機質に走り抜ける物流トラックのテールランプばかりだった。
相模結弦は、自身のデスクで冷めきった缶コーヒーを口に含んだ。舌に残る安っぽい甘みと人工的な香料の味が、かえって現実感を希薄にさせる。
その時、執務室のスチール製の重い扉が、乱暴な音を立てて開かれた。
「公3から緊急連絡です!」
庶務担当の若い巡査がメモを握りしめている。
「歌舞伎町のTOHOシネマズ前で傷害事件発生。被害者は国政党の活動家ら3人。いずれも重体です。被疑者の人着に特異事項あり――」
志賀がメモをひったくるように奪い、目を走らせた。数秒の沈黙の後、彼の半開きの目が、獲物を見つけた猛禽類のように鋭く見開かれた。
「……右頬に、三日月型の巨大な傷。グレーのパーカー。素手で数人を一瞬にして無力化。……新宿署に帳場(捜査本部)が立つ!相模、行くぞ! 丹波も向かわせる」
「了解!」
相模は弾かれたように立ち上がり、椅子を蹴るようにして背後のキャビネットから上着を掴んだ。
東京都新宿区 新宿警察署
大会議室の壁一面のホワイトボードには、歌舞伎町のネオン下で血溜まりに沈んだ水原らの凄惨な現場写真が、無造作に磁石で固定されている。
「――だから言ってるだろう! 迷いのない急所攻撃、的確な骨の砕き方。どれをとっても素人の喧嘩じゃない。半グレの出入りでも、ここまで効率的にはやらねえよ!」
捜査第1課第3強行犯捜査担当・殺人犯捜査第1係のベテラン警部補が、パイプ椅子を鳴らして机を叩いた。
「では国際犯罪対策課がもうすぐ来るので、外国人犯罪グループの線を――」
激論の合間に、志賀、日比野、丹波、相模の一行が入室する。
先に臨場していた公安第3課の捜査員たちが志賀に目配せを送ると、捜査第1課の刑事たちの表情には露骨な嫌悪と蔑みが混じった。
事件を「政治」という名目で横取りし、情報をブラックボックスに放り込む公安への、刑事部伝統の拒絶反応だった。
「公安3課の応援ですか?これは明らかに偶発的な犯行で、テロではない。ここの公3の方々ももうすぐ引き上げると――」
「いいえ、我々は外事第4課です」
冷静な丹波の返答に、部屋の空気が一瞬にして極低温まで凍りつく。
「外事が何しに来た?ここは傷害事件の帳場だぞ。スパイごっこなら自分の部屋でやってな」
1課の刑事が、相模たちの行く手を遮るように立ちはだかって鼻を鳴らす。
相模は無言でその男を見据えた。その底知れぬ静けさに、刑事の方が一瞬、気圧されたように視線を逸らした。
「我々が別件で追っている不審者と、本件のマルヒが合致する可能性がある」
志賀が、眠たげな顔のまま事務的に告げた。
刑事たちが野次を飛ばそうとしたその時、志賀が相模に顎で合図を送る。
相模は一歩歩み出るとホワイトボードの空いたスペースに、1枚の紙を無言で貼り付けた。それはアハメドの供述をもとに作成されたやや不完全な、「第2の男」の似顔絵だった。
会議室の喧騒が、潮が引くように消える。刑事たちの目がホワイトボードの似顔絵と、自分たちが目撃者から聞き取った人着のメモの間を激しく往復した。
右頬に刻まれた、巨大な三日月型の傷。
「……こいつは、何者なんだ」
捜査1課の係長が、声を潜めて志賀に問いかけた。
「申し訳ないが我々の作業の内容は詳しく明らかにできません。しかしそもそも正体不明でしてね、我々も皆目手がかりが掴めず困っております」
「いずれにせよ、極めて危険な男だと考えています。危険物を所持している可能性もある。刑事部で発見されたときにも、決して不用意な対応はされぬよう――」
「外4が来たということは、国際テロリストか」
刑事の問いに、公安部員たちは誰も、否定も肯定もしなかった。
相模は貼り付けた似顔絵をじっと見つめていた。
「これは単なる傷害事件じゃない。……戦争の始まりだ」
相模の低い呟きは、怒号の消えた会議室に、不吉な預言のように重く響き渡った。




