第12話 警視庁/高田馬場
東京都千代田区 警視庁
警視庁本庁舎13階、窓を排した広大な執務室には、数百台のサーバーが吐き出す熱気と強力な冷房がひしめき合っている。壁一面を埋め尽くす巨大なマルチモニターには、都内全域に張り巡らされた防犯カメラの映像が、細胞分裂を繰り返すように無数のウィンドウとなって明滅していた。捜査支援分析センター。2009年の創設以来数々の重大凶悪事件を解決に導いてきたここは、東京都という巨大都市の「網膜」を司る聖域だ。
室内の中央付近では、捜査第1課から派遣された刑事たちが苛立ちを隠さずにモニターを凝視していた。今回の傷害事件の捜査主体はあくまで刑事部であり、傍らで静かに推移を見守る相模結弦や丹波陽茉梨ら外事第4課の面々は、表向きは「別件との関連性を確認するオブザーバー」という不安定な立場に過ぎない。
解析が始まったのは、被害者の水原が事件直前までスマートフォンで配信していたライブ映像だ。手ぶれが激しく、血飛沫で汚れたレンズが捉えたのは、一瞬だけフレームを横切った犯人の姿。SSBC分析捜査係の技官がノイズ除去フィルターを重畳させると、犯人の右頬に刻まれた深い三日月型の傷が、デジタルな階調のなかに鮮明に浮かび上がった。
「特徴点を抽出。顔認証AI、データベース照合開始」
解析官がキーボードを叩くが、画面には「該当なし」の無慈悲な文字が並ぶ。しかしSSBCの本領はここからだ。解析官は即座に追跡モードを「歩容認証」へと切り替えた。顔が隠れていても、骨格の動きや歩幅、重心の移動経路は指紋と同じく固有の情報を発する。AIは、歌舞伎町のあらゆる地点に設置された公共のカメラ、およびあらかじめ協力を得られた私設カメラのアーカイブへ触手を伸ばし、過去数時間分の映像を秒単位で逆走し始めた。
「……見つけた。事件発生の20分後、西武新宿駅のガード下です」
丹波がモニターの一点を指差した。画面には、一般人のSNS投稿から自動収集された画像が映し出されている。偶然背景に映り込んだグレーのパーカーの男。AIが弾き出した歩容の合致率は98パーセント。ここから、SSBCが誇る「リレー捜査」がその真価を発揮する。
男はガード下から職安通りを北上し、防犯カメラの死角となる路地裏へと姿を消した。刑事たちが「見失ったか」と舌打ちした瞬間、技官は周辺を走行中だったタクシーのドライブレコーダー、さらには付近のマンションに設置された「置き配」監視用のクラウドカメラの映像を次々と吸い上げた。デジタルな網の目は、アナログな死角を許さない。
男は路地を抜けた先で一台のタクシーを拾っていた。SSBCのシステムは、車体後部に貼られた広告ステッカーの僅かな歪みから車両を特定し、無線配車システムのGPSデータと瞬時に同期させる。地図上の赤いドットが、新宿の喧騒を離れて北西へと移動を開始した。
「対象車両、早稲田通りを通過。高田馬場エリアを北上」
解析官の声が響くなか、丹波は手元のタブレットで別の情報層を立ち上げていた。彼女が注視しているのは、地図情報に紐付けられたリアルタイムのSNS投稿だ。
「……これを見て。1時間前の投稿。高田馬場4丁目の住民が『家の前でタクシーがずっと止まっていて邪魔だ』と、路上に停車する車両の写真をアップしている。ナンバープレートが一致するわ」
モニターが切り替わり、神田川に近い住宅街の、街灯の乏しい路地が映し出された。タクシーから降りた男は周囲を一度も振り返ることなく、築30年は経過しているであろう3階建ての賃貸マンションへと吸い込まれていく。
SSBCの画像鮮明化技術が、エントランスの集合ポストを拡大した。男が迷いなく手を伸ばしたのは、角に位置する「302号室」のダイヤル錠だった。
「新宿区高田馬場4丁目、マンション・クレンベール。対象は302号室へ入室。以降の外出は確認できません」
技官の報告とともに、地図上のドットがその地点で静止した。
東京都新宿区 高田馬場
新宿区高田馬場4丁目。神田川から吹き抜ける湿った風が、古い木造住宅と中層マンションが密集する路地に、都会の排ガスを孕んだ重苦しい空気を運んでいた。
深夜の静寂を切り裂く赤色灯の群れは、標的となる「マンション・クレンベール」の正面から敢えて数百メートル離れた主要な交差点で足を止めていた。警視庁地域部自動車警ら隊のパトカーと、警備部第1機動隊の人員輸送車やゲリラ対策車などが、網の目を絞るように周辺道路を完全に封鎖し、鉄の壁となって検問を開始する。犯人を無用に刺激し、自暴自棄な行動を招くことを避けるための、慎重な距離だった。
封鎖線の先、街灯の乏しい路地を、無数の足音が静かに、しかし迅速に埋めていった。機動隊員と刑事部の私服捜査員たちが、赤色灯の届かない闇に紛れるようにして、徒歩で現場へと前進を開始した。
彼らは「マンション・クレンベール」の各戸、そして隣接する住宅のドアを一軒ずつ、執拗かつ慎重に叩いて回る。
「警察です。付近でガス漏れが発生しました。至急、指示に従って避難してください」
低く抑えられた、しかし拒絶を許さない緊迫感を含んだ声が、住人たちの眠りを揺り起こす。何が起きているのか把握できぬまま、パジャマの上にコートを羽織った住民たちが、顔を強張らせながら捜査員に導かれ、遠ざけられた規制線の外側へと音もなく押し流されていった。
住民の気配が消え、静寂が現場を支配し始める。そのタイミングを見計らったかのように、後方に停車した銃器対策警備車の影から、濃紺の機動隊出動服に身を包んだ一団が音もなく滑り出した。明らかに機動隊員とは異質な殺気を纏い、世界中の対テロ部隊で標準装備となっているドイツ製のH&K MP5K機関拳銃をローレディで据銃した、警視庁警備部警備第1課、警察庁の公刊資料では無味乾燥にただ「特殊部隊」と呼称されている「SAT」――。
「……何故だ。何故、我々に行かせてくれない」
マンションから数十メートル離れた指揮車内。刑事部捜査第1課特殊犯捜査係、いわゆるSITの指揮官が、悔しさを滲ませて無線機を握りしめていた。本来、凶悪犯立てこもりの検挙は、犯人を生け捕りにすることが主眼のSITの領分だ。
だが、その背後に立つ公安部外事第4課長、小野寺誠警視の眼光は、揺るぎない冷徹さを湛えていた。
「これは単なる傷害事件ではない。国際テロリズム事案だ。相手は軍事訓練を受けたプロだ。『交渉』の余地はない。必要なのは完全なる制圧。これは国家の決断だ」
小野寺の言葉を裏付けるように、警察庁警備局警備運用部警備第3課長から発せられた正式な命令――SATは組織編成上は各都道府県警察に属するが、実際の運用は全て警察庁が支配している――が、最前線の現地指揮本部に詰める現場指揮官、すなわちSAT隊長の伊達宗徳警視へと到達していた。警視庁本部17階の総合指揮所に陣取る警視庁の首脳部――警視総監、警備部長、公安部長と刑事部長――のみならず、警察庁警備局長の安藤泰三、そして警察庁長官。さらには深夜に公邸で叩き起こされた内閣総理大臣、大泉進太郎自身の裁可。「抵抗すれば射殺を許可する。対象を確実に無力化せよ」という苛烈な命が下されていた。
「相模。……震えてる?」
指揮車の陰、湿ったアスファルトに膝をつき、302号室の窓を注視していた相模結弦は、隣に立つ丹波陽茉梨の微かな囁きに、我に返った。
丹波の指先が、相模の左肩に触れる。厚い防弾ベスト越しであっても、彼女の体温が伝わってきた。彼女はタイトなタクティカルジャケットに身を包み、暗視ゴーグルを装着する準備を整えている。その瞳は、獲物を狙う鋭さと、相模を案じる深い熱量を同時に宿していた。
「いいえ……。むしろ高揚ですかね。この、圧倒的な力が法の名の下に解き放たれる瞬間に、心地よい快感すら覚えている」
相模は陶酔を含んだ声で短く答え、右手に握ったH&K USPコンパクトのグリップを締め直した。国家の刃であるSATが、獲物を無慈悲に粉砕する光景への期待が、彼の血管を熱く駆け巡っていた。




