第13話 高田馬場
302号室と壁1枚を隔てた隣室に、SATの技術工作班は密かに進入し、壁に縦横50センチほどの正方形の機材――リアルタイム壁透視3Dシステムを押し当てていた。波長の長いマイクロ波レーダーによって、壁を隔てた室内を走査し、人間にマイクロ波が反射すればふわふわとした丸いオブジェクトが現れる筈――。
指揮車のモニターには、302号室の「内部」が、サーモグラフィのような等高線となって映し出された。
「……待て。反応がない」
伊達隊長の声が、沈黙を切り裂いた。
モニターを凝視する技術工作班員の顔から、表情が消える。
六畳間の中心。キッチン。バスルーム。どこにも、人間が発する熱源も、肺の動きを示す微細な振動も検出されない。
「逃げられたかしら?」
丹波の低い声が、相模の耳元で弾けた。
室内を支配しているのは完全なる静寂。まるで主を失った墓石のように、302号室は無機質な沈黙を保ち続けていた。
廊下で待機する制圧班の指が、引き金にかかる。扉を吹き飛ばすまでの、永遠にも似た一秒。
相模の視線の先、3階の窓ガラスには、雨の滴が音もなく、赤い警告灯の光をなぞりながら滑り落ちていった。
「突入!」
伊達隊長の静かな、それでいて裂帛の気合がこもった号令とともに、302号室の扉が爆破によって粉砕された。凄まじい閃光と衝撃波が室内に叩き込まれ、爆音の余韻が消えぬうちに、SAT制圧班が漆黒の影となって躍り込む。
彼らの動きには一分の無駄もなかった。バリスティックシールドを先頭に、H&K MP5を構えた隊員たちが、訓練し尽くされた連携で室内の死角を順次「塗り潰して」いく。
「センター、クリア!」
「レフト、クリア!」
「ルーム1、クリア!」
隊員たちの短く鋭い報告が重なり合う。彼らは決して焦らない。家具の裏、クローゼットの奥、人の潜めるあらゆる隙間に銃口を向け、機械的な正確さで安全を確認していく。
その圧倒的な暴力の精髄を、国家が許した「殺しの技術」を、相模結弦は吸い込まれるような感覚で見つめていた。心臓の鼓動が早まり、指先まで熱い血が通うのを感じる。この極限の緊張感。鎖を外された男たちが放つ、抗いがたい支配の力。相模は自らの内に疼く、禁忌に近い高揚を隠そうともしなかった。
「オールクリア!」
伊達の声が無線を通じて響き渡る。
制圧班による物理的な安全確保が完了したことを受け、階下で待機していた公安部外事第4課の面々が動き出した。SAT隊員たちは速やかに証拠保全のための警戒態勢へ移行する。
相模が煙の残る室内に足を踏み入れたとき、1人の隊員がバイザーを跳ね上げ、整った顔立ちを綻ばせた。
「相模! やっぱりお前だったのか」
それは、相模の警察学校時代からの同期であり、その端正な容姿から「SATの看板」とも囁かれる影山駿だった。影山は親愛の情を込めて相模の肩を叩き、驚きを隠せない様子で笑った。
「まさかこんな所でも会えるとはな。元気そうで安心したよ」
「影山。……相変わらずだな」
戦友との再会に、相模の頬も微かに緩む。
「後ろの美人は……」
影山が相模の耳元に顔を寄せてひそひそ囁いた。
「馬鹿野郎、先輩だよ」
相模は相変わらず笑みを浮かべている。だが、その視線はすぐに影山の背後、テロリストが潜伏していたはずの空間へと向けられた。
室内には、慌てて逃走したことを物語る生活の痕跡が生々しく残されている。まだ温かさの残る灰皿、脱ぎ捨てられたジャケット。シンクの隅には、まだ水分を含んだままの使い捨てコップ。灰皿に残された、火を消したばかりの煙草の吸い殻。そして、クローゼットの扉は不自然に半開きになり、中にはいくつかの空の段ボール箱が転がっていた。
「良いところで逃げられちまったな。あとは任せた。お前たちが奴を見つけたら、我々もまたすぐに飛んでいく」
影山が真剣な表情に戻り、自身の班を率いて廊下の警戒へと戻っていく。相模は手袋をはめ、低い姿勢で床を這うように検索を開始した。
相模は無言で、ベッド脇の小さなナイトテーブルの脚元に視線を落とした。埃ひとつないフローリングの上に、場違いな「異物」が転がっていた。
親指ほどの大きさの、透明なガラス製のアンプルだ。
相模はピンセットを取り出し、それを慎重に持ち上げた。内部には無色の液体が満たされ、ラベルには英語と日本語の併記で、ある化学物質の名称が印字されていた。
プラリドキシムヨウ化メチル――。
相模の網膜がその文字を捉えた瞬間、全身の血が逆流するような衝撃が走った。
「……丹波さん、これを見てください」
相模の声の低さに、丹波が眉を寄せて近づいてくる。ラベルを確認した彼女の顔からも血の気が引いていくのが分かった。
「……PAM。有機リン系神経ガスの、解毒剤……」
丹波の唇が震える。プラリドキシムヨウ化メチル、通称PAM。
それは、サリンやVXといった、人類が作り出した最も邪悪な化学兵器に曝露した際、一分一秒を争って投与すべき特効薬だった。
1995年、東京の地下鉄を地獄に変えたあのサリン事件。猛毒に曝露し、瞳孔が縮まり呼吸を奪われていく被害者たちを救うため、日本全国の病院や自衛隊部隊、この薬が文字通り「かき集められた」エピソードは有名だ。
テロリストがそんなものを持っている理由は、1つしかない。
「……自分たちがばら撒く毒から生き残るため……カラスは、東京をシリアの戦場に変えるつもりだ」
アンプルのガラス越しに反射する相模の瞳は高揚を超えた、暗い殺意を帯び始めていた。
「全員退避! 全員退避!繰り返す、SAT、機動隊、公安部、戸塚警察署、全警察官直ちに現場から離脱せよ!」
PAM発見の報告を受けた、現場指揮官である伊達警視の怒声が無線機を震わせた。
現場を支配していた熱狂は、一気に冷たい焦燥へと塗り替えられた。国際テロリストが神経ガスの解毒剤を所持していた事実は、この302号室が目に見えない死の霧に汚染されている可能性を物語っている。
「相模、早く!」
丹波陽茉梨が相模の腕を強く引き、2人はへし折れたドアを飛び越えて共用廊下へと脱出した。背後では、先ほどまで室内を検索していたSAT隊員たちも、バイザー越しに険しい表情を浮かべながら、一糸乱れぬ動作で階下へと撤退を開始した。
マンションの周囲は、即座に半径200メートルの立ち入りが完全に禁止された。パトカーの赤色灯が雨に濡れたアスファルトを真っ赤に染めるなか、捜査員たちは無言で、闇に包まれた建物を見つめるしかなかった。
高度な専門知識と防護装備を持つ警視庁公安部公安機動捜査隊――通称「公機捜」のNBCテロ捜査隊の到着には、まだ時間がかかる。その空白の時間は、現場に立ち尽くす相模たちにとって、針のむしろに座らされているような苦痛だった。
やがて、闇を切り裂いて公機捜の大型車両が姿を現した。
車体後部から降り立った捜査官たちは、宇宙服を思わせる鮮やかな黄色の陽圧式化学防護衣――レベルA防護服を身に纏っていた。自給式呼吸器を背負い、内部の圧力を高めて外気の浸入を完全に遮断したその姿は、深夜の住宅街において異様な威圧感を放っている。
彼らは骨伝導マイクを通じて不明瞭な音声を交わしながら、手にしたAP4C化学剤検知器や液晶ディスプレイを備えたガスモニターを翳し、沈黙したマンションへと吸い込まれていった。
同時に、科学警察研究所の技官や陸上自衛隊化学学校の専門家たちも、顔を強張らせて指揮車へと合流した。彼らが慎重に室内の空気を採取し、壁面の拭き取り検体を厳重に密閉された容器に入れて持ち去ったあとも、現場には重苦しい沈黙が停滞し続けた。
翌朝。高田馬場の空が、洗いたての石鹸のような、どこか寒々しい灰色に染まり始めた頃。現場近くの指揮所に、科警研からの緊急鑑定結果が届けられた。
報告書を読み上げる技官の声は、徹夜の疲労以上に、底知れぬ恐怖に震えていた。小野寺課長と志賀班長、そして相模と丹波が、端末の画面に表示された複雑な構造式を覗き込む。
「壁紙の繊維と、換気扇のフィルターから、2種類の極めて特徴的な化合物が検出されました。メチルホスホン酸誘導体と、特殊なアミジン骨格を持つ有機フッ素化合物。これら自体に致死的な毒性はありませんが、一定の比率で混合された瞬間、猛毒の神経剤、おそらく、いわゆるノビチョクの一種を生成します。バイナリー兵器です」
相模の喉が、引き攣るように鳴った。
ノビチョク。旧ソビエト連邦が冷戦時代に開発・生産した新型の有機リン系神経剤の総称。検知が極めて困難であり、一般には最強の毒ガスといわれるVXガスすら5-8倍上回る毒性を持つとされる死の処方箋。戦場に投入された前例はなく、ソ連崩壊後のロシアは保有を否定している。だがこれまでロシアの情報機関が政敵や亡命者の暗殺を狙って使用した事実は明らかであり、西側諸国を震撼させてきた。
「繰り返します通り、これはいわゆるバイナリー兵器でありまして、それ自体はほぼ無害な2種類の前駆物質を混ぜ合わせるとたちまち猛毒に変貌します。混ぜさえしなければ持ち運ぶのも保管するのも安全ですから、化学兵器としては誠に使い勝手がよい」
相模はアンプルを握っていた右手の感覚を確かめるように、拳を強く握りしめた。窓の外では、何も知らない通勤客たちが、霧雨に煙る駅へと足早に向かっていた。




