第14話 警視庁/警察庁
東京都千代田区 警察庁/警視庁
中央合同庁舎第2号館20階、警察庁警備局フロアには、かつてない濃度の緊張感が充満していた。 高田馬場での「ノビチョク」検出という戦慄の報告を受けた安藤警備局長は、局内の縦割りを排した横断的指揮体制の構築を即座に決断した。 もともとの捜査主体である外事情報部国際テロリズム対策課を中心に、警備局の歴史上数回しか設置例がない「対策室」を開設し、警備局の筆頭課である警備企画課、国内の過激派対策を担う公安課、防諜のプロが揃う外事情報部外事課、そしてテロなど緊急事態対処の中核を担う警備運用部警備第3課から精鋭の課員たちを結集、全国の警備警察を統制する巨大な「脳」が形成されたのである。
「日本警察の総力を挙げた『掃討戦』だ。1人たりとも、見落とすことは許されん」
安藤の号令は桜田門の警視庁本庁舎へと伝播し、公安部のすべての課室を戦場へと変質させた。 通常であれば互いの領域を侵さない各課が、それぞれの本来の視察対象団体を監視する戦力を限界まで削り、国際テロリスト追及のための総動員シフトへと突入した。それは1995年のオウム真理教事件以来、数十年ぶりの大規模な偏向だった。
公安第1課の極左過激派対策の精鋭や、公安第2課の右翼担当、そしてローン・オフェンダー担当の公安第3課の捜査員たちが一様に厳しい表情で資料を抱え、公安部内の対策本部が置かれた大会議室へと吸い込まれていく。 さらには対ロシア防諜の外事第1課、中国担当の外事第2課、北朝鮮対策の外事第3課までもが、それぞれの専門技術を携えてこの「作業」に合流した。 彼らの任務は、ローラー作戦による徹底したテロリスト追及だ。 関東全域で化学物質等の販売記録を精査し、また、テロリストの潜伏先となり得る不審な空き家や倉庫を一つずつ叩く全戸調査、さらには関東圏一円の宿泊施設をしらみつぶしに洗う宿泊者調査に、数千人規模の公安捜査員が投入された。見えない毒ガスを抱えた「カラス」を炙り出すための包囲網が、東京の街を音もなく、しかし確実に締め付けようとしていた。
時を同じくして、警視庁外事第4課が長年協力者として運営してきた港湾業界のネットワークが、音もなく、しかし力強く機能し始めていた。
島国日本の「玄関口」である港湾や空港は、防諜や国際テロ対策、不正輸出対策を任務とする外事警察にとって最重要のチェックポイントである。警視庁外事第4課は東京港や羽田国際空港、神奈川県警察警備部外事第2課は横浜港や川崎港、そして千葉県警察警備部外事課国際テロ対策室は成田国際空港や千葉港といった具合に各警察本部の「オモテ」の係が入管や税関のみならず、港湾当局、空港当局の幹部、海運会社や航空会社、民間の物流や倉庫業者の責任者たちと平素から緊密な業務上の協力関係を築き上げている。
一方で、志賀たちが属する「ウラ」の作業班は、さらに深く、組織の末端や現場の深層にまで協力者を潜り込ませている。それは単なる仕事上の付き合いではない。時には弱みを握り、時には金銭を介し、時には純粋な愛国心に訴えかけて構築された、網の目のごときインテリジェンス・ネットワークだ。彼らが「対象」とするのは、フォークリフトのオペレーターや深夜の警備員、あるいはコンテナの検数員といった、現場の「空気の変化」を肌で知る者たちだった。
今回、警察庁の発した「フクロウ作業」の号令の下、全国警察の外事担当部門には極秘の指令が下っていた。
「相手には事案の詳細を明かすな。だが、テロリストの密入国、テロ関連物資の密輸に繋がる僅かな違和感も逃さず吸い上げろ」
現場の捜査員たちは馴染みの業者や港湾労働者たちの元を訪ね歩き、茶を飲み、世間話を装って水を向けた。
「最近、妙な荷動きはないか?」
「夜中に許可なく出入りしている車両を見なかったか?」
「不審者や不審物を見かけたら、間違いかどうか迷うことなくすぐに通報してくれ」
当然、寄せられる情報の大部分は徒花だった。品川区、大井埠頭で「怪しい外国人の集団が深夜に徘徊している」との通報に東京湾岸警察署の警察官が急行すれば、その実態は上陸許可を得たコンテナ船の乗組員たちが、スマートフォンの電波を探してコンビニを探し回っているだけだった。あるいは「倉庫の裏に不審なドラム缶が積み上げられている」という通報をNBCテロ捜査隊が防護服姿で検分した結果、それは下請け業者が産廃費用を惜しんで不法投棄した、ただの古いエンジンオイルであると判明する。
大田区、城南島付近で寄せられた「毎夜、岸壁に接岸した不審なプレジャーボートから黒い服の男たちが何かを運び出している」という緊迫した通報も、結局は密漁したアサリを夜陰に乗じて陸揚げしていたチンピラに過ぎなかった。そのたびに所轄署の警備課員や公安機動捜査隊員が、徒労感を押し殺して現場を確認し、空振りの報告書を積み上げていく。
広大な臨海部の至る所で、こうした無意味にも思える確認作業が幾度となく繰り返されていた。しかし、この数千、数万という「空振り」のノイズの堆積こそが、外事警察が対象を追い詰めるための、唯一にして最も確実な土台となる。見えない敵を炙り出すための包囲網は、こうした地道な、そして泥臭い情報の集積によってのみ、その網の目を絞り込むことができるのだ。
そして、さらに憂慮すべき情報が太平洋の向こう側から、警察庁国際テロリズム対策課と、新宿区市ヶ谷の防衛省情報本部統合情報本部へ同時に届けられた。
米国、ハワイの真珠湾に拠点を置く|インド太平洋軍統合情報センター《JICPAC》から発せられたその極秘情報は、アメリカ機関からの提報に使われる「ピンク・ペーパー」という独特の書式で、日本警察の心臓部へ届けられた。
国際テロリズム対策課の執務室でその書面を握りしめた真壁毅警視長は、行間に滲む絶望的なまでの脅威に、思わず奥歯を噛み締めた。
「……アサドの置き土産が、市場に流れたか」
書面には、2024年末の独裁政権崩壊に伴い、ロシア軍が撤退したシリア沿岸、ラタキアの空軍基地から行方不明になっていた、特殊な化学砲弾の行方が記されていた。
かつてのバシャール・アル・アサド政権は、反体制派が支配する地域に対し、通常兵力による無差別砲爆撃や捕らえた市民への拷問・虐殺だけでなく、サリンや塩素ガスといった化学兵器まで、同じシリア国民に対して躊躇なく投入してきた。2013年のグータ地区での惨劇に代表されるそれらの非人道的犯罪は、数千人の無辜の市民を、文字通り一呼吸で地獄へと突き落とした。そしてそれら蛮行を軍事的に支援し、国連安保理による人道的介入や真相究明をも拒否権で阻み続けてきたのが、他ならぬロシアであった。
ロシアがシリアに持ち込み、撤退時に管理を逸失したとされるその「荷」は、ごく最近になって中東のブラックマーケットに姿を現し、正体不明の買い手によって落札されていた。
JICPACの提報によれば、紛失したのは最新型の二元物質式神経剤弾頭。
記載された成分表は、高田馬場で検出された「ノビチョク」の前駆物質と完璧に一致する――。




