第15話 蒲田/調布/戸塚
東京都大田区
夕闇が街の輪郭を曖昧に溶かし始める頃、相模結弦は、カーテンの隙間から漏れる微かな光の中に身を置いていた。
部屋には生活感など微塵もなく、無機質な三脚に据え付けられた光学機材と、モニターの青白い光だけが、静寂の中に浮き上がっている。
ここは大田区蒲田の建設現場からほど近い、老朽化した民間マンションの一室だ。外事第4課第6係が警察庁からの作業費を投じて確保した視察拠点である。
「……三脚の角度、もう少し左。窓枠のゴムパッキンじゃなく、ガラスの中央を狙って」
背後から低く澄んだ声が届いた。
丹波陽茉梨が、相模の肩越しに身を乗り出すようにしてモニターを覗き込む。彼女の纏う、清潔感のあるムスクの香りが狭い室内を満たした。
彼女の細い指先が相模の手に重なるようにして、レーザーの反射波をフォトダイオードで受信し、レーザーを当てた先の窓ガラスの微細な振動を音信号に戻す「盗聴器」、レーザー・マイクロフォンの調整ダイヤルを微調整する。
「……光を通すんだからガラス面じゃないと駄目よ。コツは掴んだ?」
「……はい。狙撃の│照準合わせほど細かくはないですね」
相模が低く応じ、ワイヤレスイヤホンを耳の奥に押し込む。
マンションの向かい――サイード・カーンの住居。
カーテンが閉ざされたその部屋の「音」が、光速のレーザーに乗って相模の鼓膜へと届けられた。
ザ、ザザ……というノイズの向こうから、聞き覚えのあるメロディが流れ始める。
サイードが点けているテレビの音だ。NHKの夜のニュース番組が、無機質なアナウンスを繰り返している。
『――新宿区歌舞伎町で発生した傷害事件について、逃走中の男の行方を追っています。容疑者の特徴は、右頬に大きな三日月型の傷がある男――情報をお持ちの方は、警視庁新宿警察署の捜査本部、下記の電話番号まで――』
ニュースの声は、サイードが夕食を準備するらしい、包丁がまな板を叩く規則的な音に重なった。
イヤホンからはさらに、横浜市内で発生した死亡ひき逃げ事件の続報が、日常のノイズとして流れ込んでくる。
サイードには依然として特異動向はない。彼はただ静かに東京の闇に溶け込んでいた。
数時間が経過し、廊下で微かな靴音が止まった。
ドアが三度、決まったリズムでノックされる。
「天気は?」
「大雨だ」
合言葉を交わして入ってきたのは、外事第4課第4係の応援要員だった。
「お疲れさん。交代だ」
相模と丹波は機材を引き継ぎ、夜の湿った空気が停滞する駐車場へと降りた。
パーキングに停められた、水道会社のロゴが入った白い指揮車両――そのスライドドアを開けると、モニターの光に照らされた志賀宗一郎が、吸いかけのタバコを灰皿に押し付けるところだった。
「ご苦労さん。……どうも公安総務課が、決定的な手がかりを掴んだらしいぞ」
東京都調布市
調布飛行場に近い静かな路地裏に佇むドローンショップ「多摩エア・システムズ」。店内に充満するプロペラの樹脂とハンダの匂いのなか、警視庁公安部公安総務課――「総務」という響きからは想像し難い「公安の特殊部隊」であり、共産党やカルト宗教、大衆運動などへの視察を担当する他、「ZERO」から直接指示を受けて協力者獲得やその他の特命作業を行う「作業班」も有する――、普段は新興宗教関係者への視察を業務としている2人の巡査部長は、カウンターに積み上げられた分厚いファイルと対峙していた。
警察庁警備局からの指示による、全国一斉の「しらみつぶし」の作業だ。化学兵器の原材料となりうる特定物質を含んだ化学薬品、化学テロの運搬手段となり得る大型ドローンや高圧噴霧器などの販売事業者において最近の取引記録を精査し、不自然なものを洗い出す。スパイ映画のように派手な立ち回りとは無縁の、公安警察の真髄とも言える地道な作業だった。
捜査員は指先にゴムサックをはめ、数ヶ月分に及ぶ販売台帳を一枚ずつ慎重にめくっていく。購入者の氏名、住所、連絡先。その横に綴じられた、身分証明書のモノクロコピー。数百件、数千件と続く記録のなかで、彼らの神経は研ぎ澄まされていた。
「……次です」
先任の捜査員が短く促し、若手がページをめくる。その繰り返しが数時間続いた。蛍光灯の下で白く反射するコピー用紙が、次第に捜査員の眼精疲労を蓄積させていく。だが、彼らの視線は、住所欄のフォントの僅かな太さの違いや、証明写真の背景に写り込んだ不自然な影、ラミネートの反射の歪みを見逃さない。
「待て」
先任の指が、ある1枚のページで止まった。3週間前に取引された、積載重量30キログラムの大型機4機、及び付属するGPS連動コントローラーの販売記録。購入者の名は、神奈川県相模原市在住の農業法人経営者「田中健一」となっている。
「これだけの金額を、現金で一括決済?今時おかしいぞ。それに……」
捜査員は懐から高倍率のルーペを取り出し、コピーされた運転免許証の印影を凝視した。神奈川県公安委員会の赤い公印。その僅かな欠け方が、本来の印影と比べてコンマ数ミリ外側に寄っている。さらに、住所を印字する数字の書体が、正規の免許証発行機が吐き出すものより、僅かに線が細いようにも思える。
「この免許証、少し変だな」
捜査員は呟き、自身のタブレット端末を取り出した。47都道府県警察と警察庁が共有する膨大なデータベース、総合照会システムへのアクセスを開始する。
端末の画面に、田中健一という氏名と免許証番号を入力する。数秒のラグの後、中央サーバーから返ってきたデータには、目の前のコピーと同じ番号、同じ住所が記されていた。
だが、システムに登録されている「真正の」田中健一の顔写真は、店に残されたコピーの男とは全くの別人だった。
「番号と住所は実在する人間から盗み、写真だけを差し替えている。……偽造だ」
捜査員はその偽造免許証の写真をスマートフォンのカメラで接写し、刑事部捜査支援分析センターと公安部各課へ即座に転送した。
「4機も現金で、販売するときおかしいと思わなかったんですか?」
捜査員が店の従業員を問い詰める。
「最初聞いたときはあれ?と思ったんですが、北海道と新潟と神奈川に4カ所農園を持ってる大きな農業法人さんだと言って、田畑の写真とか資料もちゃんと見せてもらって、こういう田畑に農薬を使いたいとか作物の生育状況をモニタリングするというんです。ネットで検索したらホームページとかSNSアカウントも確かにあったので、実在してるんだろうと……」
もし資料やWebサイト等も全て偽物だとすれば、相当大規模かつ組織的な偽装工作が行われたことを示唆する。店内の換気扇が回る乾いた音だけが、沈黙のなかに響いていた。
神奈川県横浜市 戸塚区
起伏の激しい住宅街の坂道に、夜明け前の重苦しい静寂が垂れ込めていた。国道1号線から外れた路地の袋小路に、銀色のワンボックスカーが滑り込むように停まる。エンジンは切られ、車内には警視庁公安部公安総務課の検挙班が息を潜めていた。
「マルタイ、村松良介。……行きます」
短い無線連絡とともに、数人の男たちが音もなく車を降りた。作業服や地味なウィンドブレーカーに身を包んだ彼らは、一見すれば早朝から現場へ向かう作業員にしか見えない。だが、その足取りは迷いなく、目は獲物を追い詰めた猛禽類のように鋭い。
築年数の経った木造アパートの共用階段を、足音を殺して駆け上がる。二階の突き当たり、色褪せたドアの前に展開した。班長の一人がドアノブを確かめるように触れ、次の瞬間、静寂を粉砕する暴力的な強さで扉を叩いた。
「村松、警視庁だ! 開けろ!」
反応はない。再び、腹の底に響くような激しい衝撃がドアに加えられた。やがて内側からチェーンの外れる音がし、ドアが数センチ開く。寝ぼけ眼を擦りながら顔を出した男は、目の前に突きつけられた警察手帳と、数人の男たちの威圧的な体躯を認めた瞬間、顔面から血の気が引いていった。
かつて中東系の外国人犯罪グループと結託し盗難車の密輸出に手を染めていたり、特殊詐欺グループにも関与していた前科者。公安総務課が「多摩エア・システムズ」で押収した偽造免許証の写しと、データベース上の顔写真が合致した瞬間、彼の逃げ道は絶たれていた。
「村松良介。……偽造公文書行使の疑いで、午前6時12分、緊急逮捕する」
狭い玄関先で、冷たい金属の感触が村松の手首を締め上げた。男は抵抗する気力もなく、膝から崩れ落ちるようにうなだれる。そのままワンボックスカーの横に誘導され、朝日が昇り始めた戸塚の街を背に、警視庁本庁舎がそびえ立つ桜田門へと連行されていった。




