第2話 新宿
上空600メートル。
雲の切れ間を縫うように、警視庁航空隊のベル式412EP型ヘリコプター「おおとり」が静かに旋回している。搭載された最新のヘリテレシステムは、ジャイロスタビライザーによる強力な防振機能付きの高倍率赤外線カメラを備え、地上を歩くサイードのバックパックのジッパーが数センチ開いていること、そして彼が握りしめるスマホの画面が地図アプリを開いていることまで、鮮明に映し出していた。
その映像はリアルタイムで、渋谷マークシティの裏手に駐車する、水道工事会社のロゴマークを付けた何の変哲もない白いワゴン車――外事第4課の指揮車両――の中のマルチモニターに送信されている。
「……『ワシ』より各局。コック、道玄坂上交番前からタクシーを利用。ナンバー、『あ』のXXXX。XX交通社の緑色車両。玉川通りを大橋方面へ向かった後、神泉町交差点を右折。山手通りを北上し、新宿方面へ向かっている」
指揮車内で無線マイクを握る志賀の冷徹な声が全員のレシーバーに流れる。
「こちら『リラ』。先行して新宿駅西口、中央通りの地下ロータリー付近で待機します」
丹波が相模の腕に指を食い込ませ、スマホを耳に当てたまま小声で応じた。相模は流れるような動作で後続のタクシーを停める。
「新宿駅まで、急ぎで。特急あずさに乗りたいんです」
運転手に告げた相模の表情は、どこにでもいる、週末の旅行を控えた恋人との時間に浮かれた青年のそれだった。だが、タクシーが動き出した瞬間、彼の意識は鏡に映る後方の車列と、レシーバーから流れる状況報告のみに集中した。
「こちら『おおとり』。コックの車両、富ヶ谷交差点を通過。山手通りを代々木八幡方面へ。初台交差点を右折し、国道20号、甲州街道に入りました。高度600を維持。西新宿3丁目のパークハイアット付近を通過中。新宿駅南口方面を指向」
地上では、バイク便を装った2台の遊撃警戒車両が、西新宿の超高層ビル群の深い谷間を縫うように、タクシーの死角を入れ替わりながら先回りしていた。これは対象者に「同じバイクがずっとついている」と思わせないための徹底した偽装だ。
サイードを乗せたタクシーは、巨大な要塞のようなバスタ新宿の前を通過し、新宿御苑に近い静かな路地で停まった。
車を降りたサイードは、周囲を一度大きく見渡した後、足早に甲州街道の跨線橋を渡り、新宿駅東南口の長い大階段を駆け下りる。
「コック、階段を降りてサナギ新宿前を通過。そのまま大塚家具方向の路地へ。第2ポイントの『ボルト』、引き継いで」
志賀の指示。ニット帽を深く被った『ボルト』こと岩壁巡査部長が、人波を縫ってサイードの斜め後方、視界の死角に滑り込む。相模と丹波も、旗を掲げたツアーガイドの後ろを行く団体客の最後尾に紛れ込み、新宿3丁目の、呼び込みの声とネオンが交差する雑踏へと足を踏み入れた。
サイードは明治通りの横断歩道を渡り、新宿5丁目から歌舞伎町2丁目方向へと、迷いのない足取りで進む。
新宿区役所裏、昭和の香りが残る雑居ビルが密集し、複雑な配管が剥き出しになったエリア。彼はその一角にある、看板も出ていない、入り口に汚れの目立つ暖簾がかかっただけの小さなパキスタン料理店へと吸い込まれた。
「……『リラ』、入店します。行くわよ」
丹波が相模の腕を親しげに引っ張り、雨に濡れて錆の浮いた、急で狭い金属製の階段を上がる。
店内はスパイスの強烈な香りと、煮込まれた肉の脂の匂いが充満していた。店のカウンターで点けっぱなしにされているテレビからは、当たり障りのないニュース番組が流れてくる。どこかの県の交通事故で複数人が死亡したとか、衆議院の予算委員会で集中審議が行われたとか、中東のホルムズ海峡やアラビア海での警戒監視のために横須賀基地から海上自衛隊の護衛艦が出港したとか――。
奥の机では既に、作業ズボンを履いた友人と思しき3名のパキスタン人労働者が、湯気を立てるマトンカレーと巨大なナンを囲んで談笑している。相模たちは、彼らから2メートルほど離れた、入り口の動きと店内全体が見渡せる壁際のボックス席に陣取った。
「……準備完了」
相模はテーブルの下で、バックパックのサイドポケットから超指向性ガンマイクの先端を、メニュー立ての影に隠れるように数ミリだけ露出させた。
レシーバーを通じて、サイードたちの会話が明瞭に、かつウルドゥー語特有の巻き舌混じりの響きで流れ込んでくる。
「……『リラ』より『ワシ』、コックに特異動向、ありません」
丹波が襟に仕込まれたマイクに囁く。
指揮車のキャビン内では、警察庁長官官房技術企画課がデータセキュリティーと国際犯罪捜査での需要を考慮して独自にチューニングしたリアルタイムAI翻訳ソフトが、早口のウルドゥー語を自然な日本語に置換し、志賀が見つめるマルチモニターにテキストを流していく。
「仕事はどうだ? イスラマバードの家族は元気にしているか?」
「ああ、先月送金したよ。埼玉の建設現場はきついが、日当は悪くない。すべては神の思し召しだ」
「今夜はこれからどうするんだ?」
「家に戻って寝るだけさ。明日は朝が早いからな」
流れてくるのは、故郷の家族への想い、日本での過酷な労働環境、そして昨夜のサッカーの結果に対する熱い議論。あまりにも人間臭く、あまりにも他愛のない日常。どこをどう切り取っても、テロの準備や不穏な謀議を感じさせるキーワードは出てこない。
店の外では、配送業者のジャンパーを着た浅倉が、裏通りの非常階段の出口を塞ぐように、ハザードランプを点滅させたトラックを停めて待機している。さらには、向かいのビルの非常階段踊り場から、岩壁が一眼レフに装着した600ミリの望遠レンズ越しに、サイードのバックパックの置き方、手の震え、視線の動きを1秒たりとも逃さず記録し続けていた。
右腰のUSPコンパクトの硬い感触をまた意識した相模は、運ばれてきた香辛料で真っ赤に染まるチキンカレーにスプーンを入れながら、正面の丹波に向ける甘い笑顔の裏側で、サイードの右頬にある三日月型の不気味な傷跡を網膜に焼き付けていた。
大田区の建設会社が用意した安アパートを拠点にし、平日は黙々と現場作業に従事する。週末になれば、背後を異常なまでに気にする「点検」を繰り返しながら、インバウンド受けする観光地――昨日は横浜――を徘徊し、夜には友人や親類縁者と思しき同胞との食事を楽しんだ後、京浜東北線で蒲田方面の宿へと戻る。不自然なほど執拗な警戒行動を除けば、それは来日したばかりの外国人労働者の、あまりにも完璧すぎるルーティンだった。
「でも、本当にあの人なのかしら……もしかして、とんでもない空振りなんじゃない?」
丹波の、何気ない会話に見せかけた疑念を孕んだ呟き――「あの人」はサイードのことだ――には、相模も内心で同意していた。サイードの「点検」はあまりにも露骨で、いかにも素人くさい。自分たちが追っている、神出鬼没で冷徹な国際テロリストというイメージとは、その立ち居振る舞いがあまりに乖離していたからだ。
2人の違和感は、新宿の夜の喧騒に静かに溶けていった。




