第1話 渋谷
東京都渋谷区、スクランブル交差点。
湿り気を帯びた4月の風が、巨大なすり鉢状の地形に溜まった群衆の熱気をかき混ぜていた。ハチ公広場から溢れ出した人波は対角線上のセンター街や道玄坂へと無秩序に吸い込まれていく。頭上の巨大なデジタルサイネージが放つ極彩色の光が、行き交う人々の顔を数秒おきに赤、青、白と無機質に塗り替えていた。
相模結弦巡査長は、緩く巻いたバーバリーのスプリングコートの襟を直し、隣を歩く丹波陽茉梨巡査部長の細い肩を守るように抱き寄せた。
相模の装いは、渋谷の街に溶け込む大学生を意識したややドロップショルダーのデニムジャケットに黒のスリムチノ。足元はあえて少し履き潰して汚れを付けたナイキの白のスニーカーだ。対する丹波は、春の流行を取り入れたシアー素材の透け感のあるトップスに、光沢のあるサテン生地のタイトなロングスカート。小ぶりなパールのハンドバッグを提げ、足元は歩行距離を考慮しながらも、偽装を優先した低めのヒールを選んでいる。どこからどう見ても、週末のデートを楽しむ若いカップルそのものだった。
そのドロップショルダーのゆったりとしたシルエットは単なるファッションではない。右腰の裏、スラックスのベルトラインに固定されたインサイド・ホルスターと、そこに収まったドイツ製の自動拳銃、H&K USPコンパクトの硬い輪郭を完璧に隠匿するための計算だった。
万が一の場合、相模はコンマ数秒でコートの裾を跳ね上げ、9mmパラベラム弾を装填したUSPコンパクトのグリップを握りしめるだろう。隣の丹波もまた、ハンドバッグの中に手を滑り込ませれば、即座に同じくUSPコンパクトを引き出せる態勢にあった。
「……『コック』、ハチ公前を通過。道玄坂方面へ」
髪の毛の陰に埋もれたシリコン製の超小型骨伝導レシーバーから、指揮車に陣取る志賀警部補の声が微かに響く。相模は抱き寄せた丹波の肩に微かに力を込め、恋人に甘く囁くような仕草で、無意識にUSPのグリップ位置を確認するように右肘を自身の体側へ引き寄せた。
視界の先、雑踏の中に、志賀が「コック」という適当な暗号名を付けた視察対象者の姿があった。
人着は、首元が少しよれたグレーのTシャツに、撥水加工が剥げかけたネイビーのナイロンジャケット、そして裾の擦り切れたリーバイスのジーンズ。右肩には、容量30リットルほどの使い古された黒のバックパックを、片方のストラップだけで無造作に背負っている。男の名前はサイード・カーン、34歳。7日前、イスラマバード国際空港から成田国際空港に到着。在パキスタン日本国大使館において「特定技能」の査証発給を受け、上陸時に「特定技能1号(建設)」の在留資格で1年の在留期間を付与されたパキスタン国籍の男だ。既に受入れ先である東京都大田区内の建設会社へ身を寄せ、会社が用意した古びた木造アパートで暮らしながら、平日は基礎工事の現場作業に従事、この週末を利用して都内へ観光に出てきた体であった。
彫りの深い顔立ちの右頬には、一度見れば終生忘れられないほど凄惨な、三日月型の巨大な傷跡が刻まれている。それは鋭利な刃物で抉り取られたような、あるいは熱した鉄環を押し当てられたかのような、赤黒く盛り上がったケロイドとなっていた。誰しもが二度見せずにはいられないその「刻印」を、彼は隠そうともせず、時折ポケットから取り出した古い型のサムスン製スマートフォンを眺め、周囲を不自然なほど執拗に見渡していた。
「……コック、点検と思しき行動を確認」
相模が、自身のジャケットの襟裏に巧妙に縫い込まれたワイヤレスマイクに向かって、唇をほとんど動かさずに囁く。
サイードは突然、SHIBUYA109の巨大な円柱状の建物を回り込んだところでピタリと足を止め、背後のショーウィンドウを覗き込む仕草を見せた。最新の春物ファッションが並ぶガラスの反射を利用し、自分の後方に同じ顔が続いていないかを確認しているのだろうか。
相模は直視することを避け、丹波の耳元で何かを囁き、彼女がそれに応えてクスクスと笑う演出を加える。視線を外しながらも、視界の端でサイードの挙動を捉え続ける。
2人の数十メートル後方では、ダボついたパーカーにバギーパンツを履き、グラフィティステッカーの貼られたスケボーを持った若い金髪の男――応援として派遣された渋谷警察署警備課外事係の巡査――がスマホで自撮りをするふりをして、広角レンズの中にサイードの全身を収めていた。
この行動確認は個人の技量に頼るものではなく、高度に統制されたチームプレイの極致だ。
現場には、外事第4課の精鋭である作業班のほか、課内の他係の要員、さらには所轄の警備課員まで総勢30名以上が投入されている。サイードの周囲半径100メートル以内には、常に4から5名の視察員が、飲食店内の客、看板を眺める通行人、スマホに夢中な若者などとして絶妙な配置を維持している。彼らはサッカーの流動的なフォーメーションのように、サイードの移動に合わせて絶えず位置を入れ替え、特定の人物が長時間マルタイを追随することを避けることで、マルタイに視覚的な残像を残さないよう、計算し尽くされて配置されていた。
サイードはそのまま、湿ったアスファルトが光る道玄坂を上り始めた。
彼はまず、路面に面した大手ドラッグストアに入った。どこにでもいる外国人観光客の典型的な行動だ。彼は棚に並ぶ目薬やつぼ膏のパッケージを手に取り、裏面の成分表示を熱心に読み耽る。だが、その瞳は商品の文字を追っているのではなく、店内に設置されたドーム型の防犯ミラーや、自動ドアのガラスに映る店外の様子を、神経質なまでに掠めていた。
「……コック、1階奥の医薬品コーナー。購入せず退店。現在、百軒棚方面を指向」
店員のエプロンを羽織り、品出し用の台車を引いていた作業班の朝倉巡査部長が、商品棚の影でマイクに小声を入れる。
店を出たサイードは、今度はメガドン・キホーテの入り口付近、歩道にせり出したカプセルトイの筐体群に足を止めた。アニメキャラクターのフィギュアが入った透明なケースを眺め、小銭を入れてハンドルを回す。カチカチという乾いた音が雑踏に消える。出てきたカプセルを無造作にバックパックのサイドポケットへ放り込むが、その間も彼は、自身の背後を通り過ぎる通行人の「靴」や「歩幅」を、頭を動かさずに視線だけで細かく「点検」しているように見えた。
サイードはその後、ラブホテルや老舗の飲食店が混在する百軒棚の入り口、インドカレーの老舗店の看板の前で一度立ち止まり、深く息を吐いた。




