プロローグ
東京都千代田区 警視庁
皇居桜田門の南。4月の訪れを告げる陽光が、道路を1本隔てて隣接する法務省赤レンガ庁舎の深い色を鮮やかに浮かび上がらせる一方で、都心の静謐な緊張感を象徴する重厚な警視庁本庁舎の無機質な白い外壁は、その光を吸い込むかのように淡く、冷たく、霞が関の街並みに沈み込んでいた。
駐車場を挟んだ南向かいには、警察庁や総務省が同居する中央合同庁舎第2号館の、格子状に並ぶ無数の窓が整然と空を切り取っている。その間を縫うように走る内堀通りには、春の気配を孕んだ風が吹き抜け、沿道に点在する桜の蕾が薄紅色の輪郭を微かに滲ませていた。
相模結弦巡査長は、両腕で抱えた段ボール箱の重みに、左肩の古傷が微かに疼くのを感じた。特殊部隊での過酷な訓練の日々、南の青い海の波音と共に記憶に焼き付いた衝撃。激痛の中で視界が白濁したあの瞬間、相模の時計は一度止まった。身体能力検査の数値がコンマ数秒、規定に届かなかった。その事実が、彼をこの全く場違いな世界へと押し流してきた。
「おい、新人。足元に気をつけろよ。そこ、段差だ」
前を歩く外事第4課庶務担当の第1係員が、振り返りもせずに投げ捨てるように言った。事務屋特有の、糊のきいたワイシャツが硬そうな背中だ。廊下は窓がなく、等間隔に配置された埋め込み型の蛍光灯が、磨き抜かれたリノリウムの床を虚無的に反射させている。
「あ、はい。失礼しました」
相模は慌ててステップを踏み直した。段ボールの中では、使い慣れない手帳や事務用品がカチャカチャと情けない音を立てている。全てが秘密のベールに包まれた日本警察最精鋭部隊、SATのエリート狙撃手から、これまた秘密に覆われた公安警察へ。しかし見た目は、引越し作業に追われるうだつの上がらない若手巡査長そのものだった。
厚い鉄扉の向こうにICカードリーダーや虹彩認証センサーが鈍く光る。厳重なセキュリティゲートをいくつも抜け、消毒液と古い書類の匂いが混ざり合う廊下を右へ左へと折れる。同じ警視庁警察官ですら立ち入りを制限されている公安部フロア、国際テロリズムに関する犯罪捜査や警備情報を司る、外事第4課の領域だ。
「ここだ。外4の第6係。『作業班』の連中だ。……ま、精々可愛がってもらえ」
案内役の男が、どこか同情を孕んだような薄笑いを浮かべてドアをノックした。
重厚なスチール製の扉が開いた瞬間相模の網膜に飛び込んできたのは、およそ「警察の執務室」からは程遠い光景だった。
部屋の隅ではヨレヨレのスーツを着た中年男が、競馬新聞を広げたまま死んだような目でこちらを見ている。デスクには使い古された灰皿と、埃を被った無線機が転がっている。その傍らには、近所のスーパーからそのまま抜け出してきたような、買い物袋を手にした主婦風の女性。さらに、無精髭を蓄え、偽物のブランドシャツを羽織ったチャラついた男が、デスクに足を投げ出してスマホを弄っていた。
相模は思わず立ち止まり、抱えた箱を落としそうになった。これが、国際テロリストを追う精鋭部隊なのか。
「……本日付で外事第4課第6係に配属されました、相模結弦巡査長です。よろしくお願いします」
男性にしては高めの声を精一杯張り上げたが、部屋の空気は動かない。換気扇の回る小さな音だけが虚しく響く。
「新入りか。案外、まともな面構えじゃないの」
声をかけてきたのは、デスクで真っ黒なノートパソコンを叩いていた女性だった。
相模は息を呑んだ。
タイトなダークグレーのパンツスーツに身を包んだ彼女は、陶器のように白い肌と、意志の強そうな切れ長な瞳を持っていた。艶やかな茶色の髪を一本のポニーテールにまとめ、一切の無駄を排したその佇まいは、周囲の混沌とした空気の中でそこだけが鋭利な刃物のように冷たく、そして美しかった。デスクには高級そうな万年筆と、英字新聞が整然と置かれている。
「あの……」
「荷物、そこに置いて。通路の邪魔」
彼女は相模の挨拶を遮るように、顎で部屋の隅を指した。その声は鈴の音のように澄んでいるが、響きは徹頭徹尾、事務的で冷ややかだ。
「ああ、すまん。適当にやってくれ」
競馬新聞の男が、欠伸を噛み殺しながら手を振った。
相模は困惑しながらも、指示された場所に段ボールを下ろした。左肩の傷を庇うように、ゆっくりと腰を下ろす。
「相模君だったっけ? 私は一応、君の教育係を任されている。名前は……まあ、追々教えるわ」
スーツの美女が椅子の向きを変えて相模を正面から見据えた。その視線はまるでスナイパーが照準器越しに対象を観察するように、相模の全身を舐めるように動く。
「ふうん、なかなかの色男ね。ここでは『普通』であることが一番の武器よ。あんたみたいな目立つイケメンは、まずその清潔感から捨ててもらうことになるかもしれないけど」
彼女は薄く唇の端を上げ、挑発的に微笑んでいた。
相模は、隣で無精髭の男がニヤニヤと自分を見ていることに気づき、顔が熱くなるのを感じた。
最先端のハイテク機器と、生活感の漂う古臭い張り込み道具が同居するこの異質な空間。そして、目の前にいる、美しくも氷のように冷たい女性刑事。
相模結弦は背後で重く閉ざされたスチール扉の残響を聞きながら、ここに至るまでの数カ月間を反芻していた。
相模の脳裏に鮮烈な、そしてひどく熱い光景がフラッシュバックする。
湿り気を帯びた熱気が肌にまとわりつく。周囲を囲むのは、本州とは明らかに異質な植生だ。白い花をつけるムニンネズミモチや、ごつごつとした枝を伸ばすムニンヒメツバキの混交林。亜熱帯特有の乾性低木林が作り出す濃い陰影の中で、濃紺の機動隊出動服とケブラー繊維の防弾ベストに身を包んだ相模は完全に溶け込んでいた。
手元にはつや消しの黒い塗装が施された対人狙撃銃、豊和M1500。
重厚な銃身は陽光を一切反射させることなく、静かに標的を待ち受けている。スコープのレティクル越しに揺らめく陽炎の向こう側、黒ずくめの戦闘服に身を包んだ「被疑者」を見据えていた。
呼吸を整え、引き金にかけた指の指紋一つ一つが銃の一部になったかのような一体感。
「マルヒを照準しています。制圧の許可を」
「射撃は待て、まだ官邸からの命令が下りない」
無線の囁き声は、耳をつんざく絶叫によって引き裂かれた。
「対戦車ロケット弾! 伏せろッ!」
無線機から叩きつけられた悲鳴が相模の鼓膜を震わせた直後だった。
視界の端から、尾を引く白い煙が猛烈な速さで肉薄する。
直後、轟音と共に世界が真っ白に弾けた。
至近距離での成形炸薬弾の炸裂。凄まじい衝撃波が、相模の体を木の葉のように軽々と突き飛ばす。
爆風に煽られたムニンヒメツバキの鋭い葉が、無数の刃物となって肌を切り刻んだ。
「が、はっ……!」
地面に叩きつけられた瞬間、左肩に焼けた鉄棒を突き立てられたような劇痛が走った。
土煙と硝煙が混じる中、自分の肩から溢れ出した鮮血が、南国の乾いた土をどす黒く染めていくのが見えた。千切れた防弾ベストの破片と、砕けた骨の感触。
遠のく意識の淵で最後に見たのは、ひしゃげた愛銃の銃身と、青すぎるほどに突き抜けた空の対比だった。
左肩の古傷は今も重い段ボールを支えるたびに疼く。リハビリを終えた彼を待っていたのは、SATでの日々とは全く異質な再教育だった。
警視庁警察学校の公安任用科、そして警察大学校の警備専科講習。そこは、プロの戦闘員を養成するSATとはまた質の異なる、底なしの深淵だった。
座学では、共産党や過激派、右翼団体、さらにはカルト教団といった国内の視察対象団体、ロシア、中国や北朝鮮による対日有害活動の巧妙な手口から、イスラム過激派による国際テロの脅威に至るまで、公安・外事警察が対峙する広大な「敵」の構図を脳に刻み込んだ。実践的な協力者獲得工作の様々な手法も叩き込まれた。ちなみに警察大学校の講習には全国の都道府県警察から集まったベテラン公安警察官が集結しており、その中で若過ぎる相模は随分と肩身の狭い思いをしたものだが、自身を含めて受講生たち全員が偽名を名乗るよう命じられていたことの異常性には流石に気付いていた。
実技はさらに興味深かった。
雑踏の中で視察対象者に一切悟られず、風景の一部として同化する秘匿追尾。長時間の張り込み。眼鏡型カメラや、その他日用品に偽変した隠しカメラを駆使する「秘撮」、特殊な指向性集音マイク(ガンマイク)や盗聴器を用いた「秘聴」。さらには、施錠されたドアを短時間で無力化するピッキング技術。
「透明になれ」
教官の言葉が耳の奥でリフレインする。かつて1キロ先の標的を射抜くことに心血を注いだ相模は、持ち前の頭脳とSAT時代に習得した監視技術の素地を活かして公安の技術をみる見るうちに吸収し尽くし、今や1メートルの至近距離で対象の呼吸を盗む術を身に着けていた。
「おい、いつまで突っ立ってる。新入り」
低く、枯れた声が部屋に響いた。
相模が弾かれたように顔を上げると、部屋の奥にあるパーテーションの向こうから、一人の男が姿を現した。後退し始めた額と、白髪混じりの無頓着に伸びた髪。ヨレヨレのスーツを纏ったその男は、どこからどう見ても、定年を間近に控えて精根尽き果てた窓際サラリーマンにしか見えなかった。
だが、相模の狙撃手としての直感が警鐘を鳴らす。この男の周囲だけ、空気の密度が違う。
「班長の志賀だ。……ま、座れ。箱はそこらへんでいい」
志賀警部補は、眠たげな半開きの目で相模を一瞥すると、デスクの上の灰皿を弄りながら、部屋にいる面々を顎で示した。
「紹介しておく。俺たちは外事第4課第6係、通称『作業班』だ。言うまでもなく外4の任務は国際テロ対策であり、他係の日常業務はモスクなどイスラム系外国人コミュニティ、それにイランなどの大使館と機関員に対する『視察』だ。しかし我々『作業班』の仕事はそれにとどまらない」
「警察庁警備局から直接特命を受け、国家的に重大なテロ情勢に対処するあらゆる作業を行う。通常の協力者工作や視察の他、法律上だいぶグレーなことでも平気でやる。当たり前だが全てが機密だ。家族だろうと恋人だろうと同じ警察官だろうと、『作業』の中身を喋ることは絶対に許されない……これはSATも同じだろうから、君について特段心配はしていない」
「ちなみに公安総務課にも『作業班』はあるが、連中は警察庁協力者獲得特命作業指揮本部の手下で、国内公安をメインに何でも屋というところだ。うちの『作業班』は国際テロ対策専門に設置された。だから警察庁サイドの親玉はあくまで国際テロリズム対策課だ」
志賀は、まずノートパソコンに向かっていたクールな美女を指した。
「教育係の丹波陽茉梨巡査部長。中東情勢とアラビア語のスペシャリストだ」
丹波は視線だけを相模に向け、短く頷いた。その瞳は相変わらず氷のように冷ややかだ。
「競馬新聞に熱中してるのが、秘匿追尾で右に出る者はいない浅倉倫子。その隣、無精髭でチャラついてるのが、潜入工作のプロ、日比野達也だ」
浅倉が「よろしくね」と快活に笑い、日比野はスマホを弄ったまま片手を上げた。
「で、隅で機材を弄ってるガタイのいいのが岩壁剛。元機動隊特殊技術訓練隊員で、侵入工作と技術支援の担当だ。……あとは、今外に出てるが、分析屋の佐伯もいる。係長とか他班のこともおいおい紹介しよう」
志賀は椅子に深く背を預け、相模をじろりと見据えた。
「外4の相手は国際テロリスト、それにイランなど中東諸国の機関員だ。やつらは容赦なく殺しに来るし、失敗すれば日本の国益が吹き飛ぶ。俺たち作業班は、法律の限界線上を歩きながら、泥にまみれて情報を吸い上げるのが任務だ」
相模は喉の奥が乾くのを感じた。この部屋に漂う空気は、視界不良の中で銃弾が飛び交うSATのフィールドともまた異質な、目に見えない無数の糸が絡み合う、複雑で危険な戦場を予感させた。
「最初は、先月送致した事件の残務整理をしてもらいながら、ここの仕事のイメージを掴んでもらう。……それが終わったらすぐに、丹波について現場を這いずり回れ」
志賀の言葉が終わるか終わらないかのうちに、丹波が立ち上がり、カツカツと鋭い足音を立てて相模に歩み寄った。
「準備はいい?」
彼女の纏う微かなムスクの香りが相模の鼻腔をくすぐる。至近距離で見つめるその瞳には、相模の動揺を見透かすような冷徹な光が宿っていた。
「……了解しました。よろしくお願いします。丹波……さん」
相模は、左肩の痛みを押し殺し、決意を込めて答えた。
「よろしくね。まずはあなたのその清潔すぎる格好をどうにかしなきゃ」
丹波は翻り、颯爽と部屋を出ていく。相模は慌てて段ボールをデスクに押し込み、彼女の背中を追った。
実際の外事第4課には第5係まであるそうです。第6係は架空です。
「作業班」は警察庁警備局警備企画課「ZERO」の直轄部隊を指すのが一般的らしいです。




