第27話 警視庁
東京都千代田区 警視庁
事件からちょうど1カ月が経過した。報道の熱量は衰えるどころか、全容が判明するにつれてさらに過熱していた。各メディアは、政府が異例の速さで「テロの未然防止」という事実を公表した背景を分析しつつ、粛々と進む司法処理のプロセスを詳報していた。
朝刊各紙の一面には連日重々しい黒字の極太見出しが躍る。
今回の事件で法廷に立たされることが決まったのは計5名だ。東京地方検察庁公安部はまず、サイード・カーンを不正競争防止法違反、いわゆる営業秘密侵害罪で起訴した。大田区の建設会社において、ドローンの精密誘導に必要な都心部の3D地図データという営業秘密をサーバーから盗み出して取得し、氏名不詳の第三者に譲渡したとされる。テロリストらの密入国や化学兵器原料の搬入を幇助したバングラデシュ国籍の貿易業者、アブドゥル・ハキムら3名は、出入国管理及び難民認定法違反や関税法違反の罪で。また偽造免許証を用いてテロ用ドローンを購入した村松卓についても、偽造公文書等行使および詐欺などの罪で一斉に起訴された。現場で射殺されたカラスらテロリストたちの遺体は司法解剖の結果、いずれも入国記録のない不法上陸者であることが判明し、サリン防止法違反(サリン等発散未遂罪)、銃砲刀剣類所持等取締法違反、入管法違反など複数の嫌疑で、ほとんどは氏名不詳のまま書類送検されることに決まっている。警察は船舶による密入国ルートの解明に全力を挙げている。
ちなみに、印西市の「カラス」の情報を最初にもたらしたアハメドには、退去強制令書が発せられたが、警察当局への協力姿勢などが考慮された結果、上陸拒否期間の短縮決定がなされて1年後には日本への再入国が可能という寛大な処置が取られた。
夜の報道番組のスタジオでは、大型モニターに、倉庫で押収された犯行声明案の抜粋が映し出され、キャスターが沈痛な面持ちでマイクに向かっていた。
「捜査で明らかになったのは、身勝手な歪んだ大義でした」
その解説によれば、犯行声明の草案には、海上自衛隊の中東派遣や、湾岸君主国との間で締結された防衛装備移転を含む新たな経済協定への激しい非難が綴られていたという。テログループは日本を「不信仰者の新たな武器庫」と断じ、一般市民を巻き込む化学テロによって日本の外交方針を力ずくで転換させようと企てていたのだ。
新宿、渋谷、池袋、東京駅という都内で最も多くの人が密集するエリア上空から、白昼にノビチョクのエアロゾルを大量散布し、できるだけ多くの日本人を殺害するという前代未聞の無差別大量殺人計画が成功寸前まで至っていた事実は、日本の世論に極めて大きなショックを与え続けている。
ワイドショーの解説委員たちは、倉庫の管理不備や民生用ドローンの悪用といった安全保障上の「空白地帯」を次々と指摘し、視聴者の不安を煽るように議論を戦わせた。ネット上では、この惨劇を寸前で食い止めた現場の警察官たちを「英雄」と称える声が溢れ、テロ対策の法整備を求める国民的な議論がかつてない規模で巻き起こっている。
だが、どれほどメディアが騒ぎ立てようとも、第6係のような警視庁公安部の「ウラ」の組織名や、相模や丹波のような人名が表に出ることは決してない。
警視庁本庁舎の屋上、沈みゆく夕日が千代田区の摩天楼を血のような朱色に染め上げていた。
相模結弦は、手すりに置いた左手の指先で、無意識に肩の古傷をなぞった。あの熱帯の湿った風と、すべてを白く塗り潰した爆音の記憶が、初夏の穏やかな風に吹かれて不意に蘇る。
「……また、日常が始まりますね」
相模の低い呟きに、隣に立つ丹波陽茉梨が静かに視線を向けた。彼女の瞳には、都会の喧騒を見下ろす冷徹な光と、隣に立つ青年への隠しきれない熱量が同居していた。
「そうね。でも、次はあなたが私を守る番よ」
丹波は相模の手に自らの手を重ね、体温を伝えるように優しく握りしめた。だが、その直後、彼女の表情は峻厳なものへと切り替わった。
「相模君。少し、話があるわ。『安全な』部屋を取ったの」
警視庁公安部内、電磁波遮断カーテンと盗聴防止装置が作動する特別な会議室。分厚い扉を大きな音を立てて閉じた丹波は相模を促し、簡素な椅子に深く腰を下ろした。
「昨年の小笠原諸島の事件。……父島に上陸した国籍不明の密航者が警察官を射殺し、派遣された機動隊が犯人を制圧した。日本中の世論が国境離島警備の重要性で沸騰した、あの事件についてよ」
相模はわずかに息を呑んだ。
「父島警察署の警察官が殺害された、あの不法上陸事案。それが何か……」
「志賀さんから耳打ちされたわ。バディとして、あなたの背負っているものを知っておく必要があると思って。警備局長からも、限定的な情報開示の許可は得ているそうよ。……あなたの左肩を壊したのは、ただの訓練中の事故じゃない。そうでしょ?」
相模は重い沈黙を破るように、視線を落とした。
「中国人民解放軍海軍陸戦隊第7旅団、蛟龍突撃隊」
丹波が呟いた固有名詞に、相模はハッと顔を上げた。
「……推定中国人民解放軍海軍の特殊作戦部隊4人が、おそらく原子力潜水艦からスクーバ潜水で父島に潜入。そうでしょ」
「本当に全てご存知なんですね」
相模の声は、深淵から響くように静かだった。
「太平洋での活動を急激に強化するPLANにとって、当時、父島に新たに配備された航空自衛隊の移動警戒用レーダーは、彼らの喉元に突きつけられたトゲでした。狙いはその破壊。サイト近くの道路で遭遇した父島署の警察官が射殺されました。討伐のために派遣されたのは、僕たちSATです。あそこは東京都ですし、離島への不法上陸者に対しては警察機関が第一義的な対処を担うことになっていますから」
相模の脳裏に、亜熱帯のジャングルの中で火を噴くロケット砲の光景がフラッシュバックする。
「当時の高石内閣は、外交的摩擦を恐れて当初、全員射殺を逡巡した。その一瞬の迷いが隙を生んだ。敵は躊躇なく対戦車ロケット弾を放ち、至近距離で炸裂した衝撃が、僕の左肩を砕いた。……僕は死を覚悟しました。結局、高石総理が決断を下し、中国兵は1人も生かさず排除された。公にすれば日中開戦、第3次世界大戦の火種になりかねない。だから両国政府は沈黙し、事件は『密航者による偶発的な殺人事件』という体裁で闇に葬られたんです」
「……政治の逡巡が、現場を殺す」
相模は淡々と、しかし地を這うような低い声で続けた。
「左肩を砕かれた瞬間、痛みよりも先にこみ上げてきたのは、決断を先送りにした国家への冷ややかな憤りでした。同時に、『敵兵』に向けて右手で拳銃の引き金を引いた瞬間に僕が感じたのは、正義感などではない。敵をこの世から抹殺することへの、抗いがたい全能感」
「この国を守る唯一の方法は、敵が引き金を引く前に、その眉間を撃ち抜くことだけだ。実力行使に躊躇を覚えることは二度とありません。むしろ、標的を排除するその瞬間にこそ、僕は自分が生きているという剥き出しの快感を感じるんです。公安部に移ってきても、僕がやりたいのは、この国の『毒』を確実に掃除する戦闘マシーンになること、それだけです」
彼は自分の左手を見つめた。
丹波が再び相模の手を取り、今度は強く握りしめた。
「……そうね。あなたは、私たちが手放してはならない、最も鋭利で残酷な刃だわ」
窓のない会議室の外では、数百万の人々が何事もなかったかのように夜の営みを続けている。
二人は互いの存在を確かめ合うように立ち上がり、再び「日常」という名の終わりのない戦争へと戻っていった。




