第28話 警察庁
東京都千代田区 警察庁
中央合同庁舎第2号館20階、警備局フロアの会議室に漂う空気は夜が深まるにつれて密度を増し、出席者たちの顔を険しく歪ませていた。卓上に散らばった断片的な情報は、一見すると関連性のない不確かな事実の羅列に過ぎないが、それらが結びついた瞬間に浮かび上がる輪郭は、あまりにも巨大で禍々しいものだった。
「米側に、今回のテロと関連する化学兵器の情報があれば共有してほしいと要請を出していまして、先ほど届いたのがこれです」
国際テロリズム対策課長、真壁警視長は、|米国インド太平洋軍統合情報センター《JICPAC》から届いた「ピンクペーパー」を指で弾きながら、苦々しい表情で声を落とした。
「ブラックマーケットで化学砲弾を落札した者の正体が判明しました。イラン革命防衛隊、コッズ部隊です」
コッズ部隊は、IRGCの特殊部隊として、中東・アフリカや西側など世界数十か国でイラン・イスラム共和国の利益のためにテロや諜報活動を行なっていることで有名だ。
「しかしですね、IRGCが仕入れた砲弾の中身はただの水だったと、手の込んだ詐欺です。売ったのはシリア人とイエメン人の怪しい自称武器商人で、イランの報復を恐れて逃げたのでしょう、行方不明です。要するに、カラスたちISIL-Kのテロリストが今回ノビチョクをブラックマーケットで仕入れた、という線はなくなりました」
「更に、シリアの新政権によって拘束された旧アサド政権軍の幹部、さらには欧米へ逃れたロシア人亡命者への聴取結果などを総合しても、当時シリア国内にノビチョクが持ち込まれたという証拠は掴めていないそうです。あくまで噂の域を出ないと」
「しかし、我々が青海で回収したノビチョクは、間違いなく推定最新鋭の本物です。このねじれは何を意味するのか」
シリアからの流出ではないとすれば、もう1つ考えられるのはロシア本国――。
そもそもアフガニスタンとパキスタンの山中を拠点とし、これまで中東やヨーロッパでの活動歴はあるものの日本を含む極東で起こした事件は皆無であったイスラム過激派が、ドローン購入の偽装工作や瀬取りによる密入国を含めこれほど手際よく完遂できていた点を含めて少し奇妙だ、というのが、警察庁警備局関係者の誰もが脳裏に抱き続けている疑問だった。
その言葉を引き継ぐように、「露華鮮」からの「対日有害活動」に対する防諜の責任者、外事情報部外事課長の高峰和正警視長が冷静な口調で補足した。
「ご存じの通り、未公表の事実ですが、現場で射殺された男のうち1人の指紋が、かつてロシア軍特殊部隊に所属し、現在は行方不明となっていたロシア国籍のチェチェン人と一致しました。ただロシア側は、当該人物はイスラム過激派に傾倒したためロシア国籍を剥奪済みだ、の一点張りで関与を否定しています」
「もう1つ特異動向がありました。ロシア大使館の動きです。事件前日から翌日まで大使や公使、参事官など対外情報庁機関員と目される幹部連中が揃って、館員の慰安旅行と称して北海道へ行っていた。まるで化学テロを事前に察知し避難していたようではありませんか」
外事課外事情報対策官の佐伯真也警視正が、手元のタブレットに映し出された移動ログを提示しながら言った。
「更に些細な点を付け加えるならば、最初にカラスの足取りが確認された千葉県印西市周辺についてです。警視庁外事第1課の4係では、場所は未特定ですが、在京のSVR機関員の埋没連絡スポットが、ここ1年以内にあの周辺で新たに開設されたものとみております」
デッド・ドロップとは、スパイがやり取りする情報資料や金銭、資材などを特定の場所に埋めるなどの方法で隠匿し、スパイ同士が直接顔を合わせることなくやり取りする技法のことだ。
「ウクライナ侵略が泥沼化して久しく、欧米日の西側諸国が連携して政治・軍事・経済面での対露圧力をかつてないほど強化しているいま、西側陣営のアジアの要である日本が大混乱に陥れば、ロシアの国益には間違いなく大きなプラスでしょう」
首都東京で化学兵器による大虐殺が繰り広げられ、その人的、経済的被害と政治的混乱をもろに受ける日本は、欧米との安全保障協力を続ける余裕などなくなるだろう。更にあわよくば、最も重要な同盟国の首都で大量破壊兵器による無差別大量殺人を起こされたことに対し、同盟国日本のためにアメリカがテロ組織への報復攻撃やその他「対テロ戦争」強化にでも乗り出すことになれば、またアメリカを中東の血の泥沼に引き込んでどこまでも弱体化することができる。
安藤警備局長は、組んだ両手の上に顎を乗せ、視線を鋭く走らせた。
「どれも決定的証拠とは言えない。1つ1つを積み重ねいっても、なお全て偶然の一致だとも言えるだろう」
「だが、もしロシアの国家的関与の可能性が些かでも存在するならば、ことは極めて重大だ。引き続き、今回のテロに関するすべての未解明ルートの実態解明を急ぎ、あらゆる関連情報に留意せよ。事件はまだ終わっていない」




