第25話 青海
青海の広大なコンテナヤード、数百、数千と積み上げられた色とりどりのコンテナが、巨大な迷路となって捜査員たちの視界を遮っている。
「どこ……。どこに隠れているんだ?」
相模は防弾ベストの無線機を握りしめ、目を凝らした。コンテナの隙間、トレーラーの底、錆びついた倉庫の陰。地上をどれほど検索しても、そこにあるのは無機質な鉄の塊だけだ。
その時、陽茉梨がふと、視線を水平線から垂直の空へと跳ね上げた。
「高い場所……」
「どうしたんです?先輩」
「……遠方まで飛ぶドローン群の飛行状況を把握し、適時に制御するには、当然電波が遮られず最も遠くまで届く、見通しの良い高所が最適なはず」
「しかしテレコムセンターや港湾合同庁舎、その他の高層ビルには全て警戒部隊を――」
「ああいうクレーンは?」
彼女の言葉に相模の身体が反応した。粉砕されたフロントガラスの破片が散らばるダッシュボードを乗り越え、バックミラーに鋭い視線を走らせる。
後方、数百メートル。青い空を背景に、赤と白の巨大なキリンのようにそびえ立つ、ガントリークレーン。
その地上50メートル。海に突き出した長いブームの付け根に位置する、全面ガラス張りの運転席。
青海全域が立入禁止となっている今、そこに作業員がいるはずはない。それなのに、その四角い小部屋の奥で、何かがキラリ、と陽光を撥ね返した。それは金属の反射ではない。光学レンズ特有の、深い青みを帯びた光。
「……見つけた」
確信に満ちた低く冷たい声とともに相模はシフトレバーを叩き込み、レヴォーグを猛烈な勢いでバックさせた。砕けたガラスの破片が車内に躍り、焦げたゴムの臭いが鼻を突く。彼は最短経路を選び、当該のガントリークレーンにほど近い、背の高いコンテナの山陰へと車体を滑り込ませた。そんな状況の中でも、丹波は現地警備本部へ無線で最低限の状況報告を続けていた。
「先輩、降りて! 狙われる可能性がある!」
「え、ちょっと相模くん!?」
車が完全に停止する前にドアを蹴り開け、相模は丹波の細い腕を掴んだ。2人は姿勢を低く保ち、コンテナが作り出す巨大な影を縫うようにして、遮蔽物のないアスファルトを全速力で駆け抜ける。上空からの視線を意識し、一瞬たりとも足を止めない。
やがて2人は、クレーンの巨大な4本の支柱のうち、運転席のほぼ真下に位置する1本の陰へと飛び込んだ。
「テレコムセンターか合同庁舎の屋上にいるSATの狙撃支援班――相模君の仲間じゃ無理なの!?」
「あそこから1.3キロはあります!M1500の射程外です!」
見上げれば、50メートルの高みに突き出したオペレータールームのキャビンが、赤く塗装された重厚な鋼鉄の梁に支えられて鎮座している。ガントリークレーンの運転席は、足元のコンテナを正確に視認するため、床面の一部が強化ガラスで構成された透明な構造だ。それは同時に、真下からの射線が通る唯一の「急所」であることを意味していた。
相模は荒い息を整えながら、腰のホルスターから黒光りするH&K USPコンパクトを引き抜いた。
掌に伝わるポリマーフレームの冷たい質感。だが、状況は絶望的だった。
「……高さ、およそ50メートル。垂直射撃か」
独り言のように呟く。USPコンパクトで十分な命中率と殺傷力が見込める有効射程は、水平射撃の通常条件下で約50メートル。今、ターゲットはその限界点ギリギリの高度にいる。しかも、重力に逆らって真上へと弾丸を打ち上げなければならない。弾道は直線上にあるとはいえ、空気抵抗と重力による威力減衰は避けられず、わずかな風の揺らぎが着弾点を数十センチ単位で狂わせかねない。
相模は震えそうになる右手を左手で押さえ、支柱の陰からじりじりと、自身の射撃姿勢を確保できる位置へと身体をずらした。
「相模君……」
丹波の不安げな、だが信頼を湛えた瞳が彼を射抜く。
相模は返事をする代わりに、ハンマーを親指で起こした。カチリ、という硬質な金属音が響き渡る。
背負っていたコンテナの角からじりじりと身を乗り出し、巨大なガントリークレーンの真下へと足を進めた相模の見上げる視界を遮るものは何もない。高度50メートル。それは拳銃にとって、もはや「狙う」場所ではなく「弾を飛ばす」のが精一杯の領域だ。
「……先輩、身体を貸してください。この距離を当てるには、身体をしっかり固定する依託が必要です」
「いいわ。どうすれば」
「僕の身体をクレーンの支柱に密着させればおそらく」
相模は太い鋼鉄の支柱に背を向ける形で立ち、その背中と支柱の間に丹波が文字通り楔となって入り込んだ。
丹波は無線のマイクロフォンに向かって「これより拳銃使用による被疑者制圧を実施する」旨を相手の反応も待たずにまくし立てつつ、太く角張った支柱を背にして、相模の背後から彼の脇の下に自らの両腕を通す。そのまま相模の胸部を抱きしめるように強く固定し、自らの背中を冷たい鉄の壁に叩きつけた。これにより、相模の両腕は肩から先が完全に自由になり、かつ体幹は丹波の体重と支柱によってほとんど動かない3点固定の状態が完成した。
丹波のブラウス越しに伝わる体温と、防弾チョッキが擦れ合う硬い音、激しいビートを刻む互いの心臓の鼓動。相模の視界は遮られることなく、真上にそびえる死の標的だけを捉えている。
相模は銃把を握った両腕を垂直に近い角度まで突き上げた。銃のポリマーフレームが、陽光を浴びて黒く沈んでいる。
床面がガラス張りになった運転席。その透明な足場の向こうに、ドローンの制御装置と思しき四角い物体を携えた「カラス」と思しき胴体が、歪んだ輪郭で浮かび上がっていた。
「……1発じゃ、足りない」
相模が低く、熱を帯びた声で言った。
50メートル垂直射撃。9ミリ弾は重力に抗いながら、速度を落とし、わずかな海風に流される。しかも標的との間には強化ガラスという「屈折の障壁」がある。
相模は狙撃手としての完璧主義のプライドを捨て、確実な「殺害」を選択した。
垂直射撃において、拳銃弾は空気抵抗と重力の二重の壁に阻まれる。急所である頭部は面積が小さすぎ、ガラスの屈折率を計算に入れれば外すリスクが高い。狙うは、最も面積の広い、胴体の下側。
相模の呼吸が止まり、世界から雑音が消えた。
背後にいる陽茉梨の鼓動だけが、正確なメトロノームとなって彼の指先にリズムを刻む。
フロントサイトが標的の中心に吸い付く。
――ッ、ッ、ッ、ッ、ッ!
静寂を切り裂く、雷鳴のような連続音。火薬の力で叩き出された9ミリ弾が、重力に逆らって天へと昇っていく。
1発目が運転席底面のガラスを叩き、そこに目に見えない亀裂を走らせた。
2発目がその亀裂を粉砕し、3発目が弾道を狂わせることなく「カラス」の腹部を貫く。
相模の指先は跳ね上がろうとする銃口を丹波の安定した支えを利用して力ずくで押さえ込み、4発目、5発目と立て続けに同じ穴へと吸い込ませた。
7発目まで数えたとき、頭上のガラス張りの床一面が、内側から吹き出した鮮血により、どす黒い赤に染まった。
糸が切れた操り人形のように、カラスの影が制御端末の上に崩れ落ちるのが透けて見える。
相模はそれでも容赦しなかった。軍事訓練を受けた狂信的なテロリストならば、瀕死の重傷を負った最期のコンマ数秒間でさえ、やれることは多い。爆破スイッチを押すなり、人質に突きつけた銃の引き金を引くなり、できるだけ多くの「異教徒」を道連れにしようとするだろう。だから必要なのは確実な「完全制圧」――相模は数秒間で更にUSPコンパクトの引き金を引き続け、弾倉の13発を全て叩き込む。
「……もう死んでるわ」
ガラス片が雪のように舞い落ちる中、丹波が相模を抱きしめていた腕の力を、ゆっくりと緩めた。
その時、頭上から何かが空気を切り裂く鋭い音と共に落下してきた。50メートル上空から自由落下した「それ」は、相模と丹波のわずか30センチ横、コンクリートの地面に凄まじい衝撃音を立てて叩きつけられた。爆発かと見紛うほどの衝撃でプラスチックの破片が四散し、基板や電子部品がアスファルトの上で無残に弾け飛ぶ。
粉々になったその残骸の中に、力なく点滅を繰り返す赤いLEDと、折れ曲がったアンテナの先端が見えた。それがドローン群を操っていた黒いコントローラーであったと理解できたのは、衝撃の余韻が周囲の静寂に溶け込んでからのことだった。
相模の右腕が力なく下ろされる。USPの銃口からは、細く青い硝煙が青海の空へと頼りなく昇っていった。




