第24話 青海
東京都江東区 青海
埋立地の広大なグリッドを潮風が容赦なく吹き抜けていた。北側を望めば、フジテレビ本社の銀色の球体展望室が巨大な単眼のように朝の陽光を鈍く反射している。だが南側の海へ目を向ければ鈍色に光る波が青海コンテナ埠頭の岸壁を静かに叩き、巨大なガントリークレーンの群れが、赤白のキリンのような首を垂れて沈黙を守っていた。
青海北埠頭公園の南端部、コンテナターミナルの巨大なフェンスが始まる境界線。
相模結弦はシルバーのスバル・レヴォーグを改造した覆面パトカーの運転席で、窓を僅かに開けて外気に神経を研ぎ澄ませていた。サイドミラーには、後方の公園入り口で警戒に当たる機動隊の人員輸送車が小さく写っている。相模自身は純白のワイシャツの襟元を緩めているが、その下に着込んだ黒い防弾チョッキが胸元を圧迫し、独特の緊張感を強いていた。
「カラスはどこへ行ったのかしら……」
疑念をはらんで呟く丹波陽茉梨もまた白のブラウスの上に重厚なタクティカルベストを重ね、腰のホルスターにはUSPコンパクトが収まっている。
その時、護岸の死角、大規模なコンクリート製の排水口から、腹に響くような金属的な咆哮が炸裂した。
相模の視線の先、暗い排水路の出口から、白波を切り裂いて1隻の白い高速艇が飛び出す。強力な船外機が全開で水を蹴り、艇体が不自然なほど軽々と浮き上がった。
「至急!至急!外四12から現地警備本部! 」
「至急、至急、ゲンポン、外四12どうぞ!」
「不審な高速艇が出現! 青海北埠頭公園南部、排水口よりモーターボートが発進!色は白、乗員少なくとも1名を確認、警視412、追跡を試みる!どうぞ!」
「ゲンポン了解!」
丹波が鋭い声を無線機に叩き込んで応援を呼び寄せる。
「先輩、掴まって!」
相模は右足に渾身の力を込め、アクセルを床まで踏み抜いた。レヴォーグの水平対向エンジンが牙を剥き、4輪がアスファルトを力強く掴む。
車体は猛然と加速し、行く手を阻むコンテナターミナルの境界フェンスへと突っ込んでいく。
ドォォォォォンッ!
凄まじい衝撃音とともに、頑強な鋼鉄製のフェンスがまるで紙細工のようにひしゃげ、支柱ごと地面から引き抜かれた。火花が飛び散りフロントグリルが軋みを上げるが、相模はハンドルをミリ単位で微調整し、失速することなくゲートの奥へと車体を滑り込ませた。
フェンスをなぎ倒し、コンテナ埠頭へと続く片側3車線の広大な臨海道路を疾走する。アスファルトの無機質な工業地帯。ダイバーシティやフジテレビといった華やかな「お台場」の景色が、歪んだミラーの中で遠景へと退いていく。
青海コンテナ埠頭と品川コンテナ埠頭に挟まれた、比較的波の穏やかな広い水域。そこでは既に、警視庁臨海部初動対応部隊が、水上の猛獣のごとき機動力で白い高速艇を包囲しつつあった。
波を切り裂いて迫るのは、高出力エンジンを搭載した黒塗りの水上バイク群だ。
「若鹿の6機」の銃器対策部隊から選抜されたWRT隊員は全員、防水仕様の黒いタクティカル・ドライスーツに身を包み、その上から浮力体入りの黒いタクティカルベストを重ねている。防弾ヘルメットのバイザー越しに鋭い眼光を走らせ、激しい飛沫を浴びながらも片手でスロットルを回し、もう片方の手には9ミリ機関拳銃MP-5Kを保持している。その背後からは、船外機を2基搭載した黒い│硬式ゴムボート《RHIB》が、重厚なV字の引き波を立てて追随していた。
さらに外周からは、海上保安庁東京海上保安部の巡視艇「はやかぜ」が、ディーゼルエンジンの重低音を響かせて割り込んできた。
全長18メートル、総トン数19トンの白亜の船体に刻まれた鮮やかな青い「S」のシンボルが、赤色灯の光を受けて明滅する。固定武装を持たないこの艇の「牙」は、甲板に展開した海上保安官たちだ。彼らは自衛隊と同じ濃紺の88式鉄帽を深く被り、重量感のある防弾チョッキを胸元で締め上げている。その手には、長らく陸上自衛隊の主力だった89式小銃が握られ、波に揺れる甲板の上で、照準を微動だにさせず高速艇へと向けていた。
「海上保安庁です!直ちに停船しなさい!繰り返す、直ちに停船しなさい!」
キャビン横の停船命令等表示装置、つまり細長い電光掲示板にも、停船命令が日本語と英語で流れ続けていた。
巡視艇のスピーカーから放たれた警告が風に流された直後、高速艇の船尾で、深いフードを被った「カラス」が立ち上がる。
手に握られたAK74が、白昼の青海に禍々しいマズルフラッシュを放った。
ダダダダダッ!
乾いた連射音がコンクリートの壁に反響し、並走するレヴォーグのフロントガラスを激しく叩く。強化ガラスが凄まじい衝撃でクモの巣状に砕け、無数の破片がキラキラと光を反射しながら車内へ降り注いだ。
「伏せて!」
相模の鋭い叫びと同時に、二人は反射的に身を屈めた。その頭上を、超音速の5.45ミリ弾が前部シートのヘッドレストを貫通し、リアウィンドウを突き破って抜けていく。火薬の刺すような匂いと、吹き込んでくる強風が車内を支配した。
水域では、追走する部隊が反撃に転じていた。
WRTの水上バイク隊員が水飛沫を浴びながら片手でスロットルを操作し、もう片方の手で保持したMP-5K機関拳銃を固定する。短い銃身から9ミリ弾が連続して掃射され、高速艇周囲の水面に激しい柱を立てた。
「正当防衛射撃実施!」
同時に、巡視艇「はやかぜ」の甲板でも89式小銃の3点射が開始される。だが時速70キロを超える高速艇と、それを追う激しい波のうねりが、百戦錬磨の隊員たちの照準を無情にも狂わせる。数十発の5.56ミリNATO弾は高速艇の船体を掠め、あるいは至近距離の海面を叩くが、フードを被った「カラス」には届かない。
激しい銃撃戦の最中、端正な顔にガラスの破片でできた多くのかすり傷から血を流しながらも、相模はハンドルを握り直し、砕けたフロントガラスの隙間から異常な光景を凝視していた。
「おかしい……先輩!あれを見てください!」
高速艇の船尾で銃を乱射する男は、海保やWRTに完全に挟み撃ちされ、あと数秒で進路を塞がれる致命的な状況にありながら一切の回避行動を取っていなかった。男の銃口はまるで振り子時計のように、決まった角度、決まった速度で機械的に左右へ振られ、掃射を繰り返している。その身体の動きには、死を目前にした人間の焦燥も、波の衝撃を吸収しようとする生物学的な柔軟さも微塵も感じられなかった。
やがて、海上保安官の小銃とWRTの機関拳銃から放たれた十数発の弾丸が、吸い込まれるように高速艇の船体中央、マストの根元に集中した。
火花が散り、アンテナの基部にある黒いジャンクションボックスが火花を上げて粉砕された。
その瞬間だった。
あれほど狂ったように銃弾をバラ撒いていた「カラス」の動きが、糸の切れた操り人形のようにピタリと止まった。銃口を空に向けたまま、不自然な角度で凝固する。
波に揉まれ、船体が大きく傾斜しても、その男はバランスを取ろうともせず、ただの物体として船尾に立ち尽くしていた。
「人形だ……。リモート制御のデコイだったのね!」
丹波が驚愕の声を上げた。
高速艇は主を失ったわけではなく、最初からそこに主などいなかったのだ。
WRTの水上バイクがエンジン音を轟かせながらボートを取り囲み、巡視艇「はやかぜ」からは、小銃を構えたままの海上保安官たちが、狐につままれたような顔で互いを見合わせていた。




