第19話 総理大臣官邸
東京都千代田区 総理大臣官邸
永田町では4月の柔らかな夕刻の光が、重厚な石造りの外壁を鮮やかな橙色に染め上げていた。首相官邸の正面、全面ガラス張りの端正なファサードは、沈みゆく陽光を複雑に反射し、あたかも巨大な宝石のように霞が関の街並みに君臨している。敷地を取り囲む堅牢な鉄柵の周囲には、ポリスブルーの大型人員輸送車が整然と並び、警備に当たる機動隊員たちの影を長く引き延ばしていた。地上では、帰路につく市民たちが平和な春の宵を楽しんでいたが、その足元――厚いコンクリートと鋼鉄の防壁に守られた地下の要塞では、日本の命運を左右する最終決定が下されようとしていた。
官邸地下の最深部、地上での核爆発にも耐え得る危機管理センター内部、木目調の壁で囲まれた会議室。天井に埋め込まれた無数のLEDパネルが、影を一切許さない冷徹な白光で室内を照らし出している。壁一面を占める50インチ12面の大型モニターと48面のサブモニターには、警視庁航空隊のヘリテレや、周辺の視察部隊のカメラが撮影し続ける有明第4号ドックの映像がリアルタイムで映し出されていた。
ここで開かれているのは、国家安全保障会議の「緊急事態大臣会合」である。会議室の中央、危機管理関連の様々な省庁をボタン1つで呼び出せる電話と卓上ディスプレイを各席に備え付けた円卓に座る戦後最年少の内閣総理大臣、大泉進太郎は、特定秘密保護法施行令の様式に従った赤い表示が各ページに入る文書の束を強く握りしめていた。その整った顔はモニターの青白い光によって深い陰影を刻み、眉間の皺が極限の疲弊を物語っている。 彼の背後には、オブザーバーとして葛城正義警察庁長官、播磨健一統合幕僚長ら自衛隊の「制服組」、警察庁警備局長の安藤泰三、内閣危機管理監の小林孝雄、その他各省庁の事務方が、微動だにせず彫像のように控えていた。
大規模な警備実施を数多く指揮してきたキャリアを持つ歴戦の元警視総監、小林危機管理監が冷静沈着な面持ちで、整えられた書類を総理の前に置いた。
「『大規模テロ等のおそれがある場合の政府の対処について』の平成13年閣議決定に則った、テロ対策本部の設置に必要な事務はこれで完了しました」
東京23区内における大規模化学兵器テロの切迫という前代未聞の事態を受けて、小林と、実質的にその指揮下にあって各省庁の精鋭を集めた「国家危機管理室」が急ピッチで総合調整を進め、まさに全政府的な対処態勢が構築された。対策本部長は大泉総理自身。副本部長には官房長官と国家公安委員長。本部員には法務、外務、厚生労働、国土交通、総務そして防衛の各大臣、政務と事務合計3名の内閣官房副長官、そして消防庁長官や海上保安庁長官、警察庁長官、警察庁警備局長と錚々たるメンバーが網羅されている。
「全員射殺? ……他に、方法はないのですか」
大泉進太郎総理大臣の声は、地下会議室の低い天井に吸い込まれるように消えた。
「総理」
警察庁警備局長の安藤泰三が眼鏡の奥の眼光を微塵も揺らさず、静かに身を乗り出した。
「警視庁は既に新宿の傷害事件に基づく傷害容疑で、東京地裁から捜索差押許可状の発付を受けました。しかし、化学兵器を所持した国際テロリストグループに対し、一般の刑事事件のようにドアをノックして令状を提示するわけにはまいりません。実力行使、すなわちSATによる強行突入が不可避となります」
安藤は言葉を切り、総理の反応を確かめるように一呼吸置いた。
「SATがその能力を最大限に発揮できるのは、完全制圧、つまり射殺を許されたときです!」
「相手は法を解する一般の刑事犯ではなく、シリアやアフガンで地獄を見てきた軍事訓練済みの国際テロリストです。こちらが『交渉』などという甘い考えを持てば、彼らは確実に自爆スイッチを押すでしょう。非武装かつ無抵抗であると明白な状況でない限り、射殺を原則とすべきです。これは、警察官職務執行法第7条の警察官による危害許容要件、凶悪犯対処に相当し、法的には可能です」
「高田馬場でSAT出動を許可した際は、被疑者は1人だった。しかし今回は5名を超える複数名です。東京23区のど真ん中、お台場のような目立つ所で、警察が一度にそんな多くの外国人を射殺した事例など、憲政史上存在しません」
「総理、思い出してください」
安藤が一段と声を低く沈めた。
「昨年、前政権の終盤に起きたあの『事件』のとき、当時、総理は防衛大臣として、『敵』の全員を排除する高石前総理の決断を支持されたはずです!あの決断があったからこそ、SATの隊員たちは辛うじて生還できたのです」
「あれは都心から1000キロも離れた離島で、しかも高度な国防・外交政策の判断から、全ては闇に葬られた。お台場は違います」
大泉が顔を上げ、壁一面のモニターを指差した。
「しかも、あのときは既に所轄の警察官に犠牲者が出ていた。今回は、彼らは日本国内ではまだ誰も殺していない。一歩間違えれば人権問題、更には被疑者の出身国との外交問題、大変なことになる」
「総理」
小林危機管理監が静かに、しかし重厚な響きを伴って口を開いた。
「総理、テロ対策とは戦争なのです」
小林危機管理監は、眼鏡の奥の鋭い眼光を総理に固定したまま、一歩踏み出した。
「彼らが手にしているのは、目に見えず、防ぐ術もない大量破壊兵器です。確かに現時点で国内の犠牲者は出ていない。しかし、一たび化学剤が発散されれば、数分後にはお台場一帯が死の街と化し、数時間後には何万という無辜の国民が、苦悶の中で命を落とすことになります。その時になって『手続きが』『人権が』と嘆いても、死者は生き返りません」
「国際社会の常識に照らせば、大量破壊兵器を所持したテロリストに対し、躊躇なく物理的排除を行うのは当然の帰結です。ここで我々が一般刑事事件のやり方に拘泥し、結果としてSAT隊員を死なせ、国民を見殺しにすれば、それこそが国家による最大の権利侵害です。総理、今この瞬間も、現場の警察官たちは死を覚悟して引き金に指をかけています。彼らの命を、そして国民の未来を、どうか守ってください」
大泉は深く、長く、目を閉じた。
「わかりました」
目を見開いた大泉の声は、静かだが鋼のような響きを伴っていた。
「警察官と一般市民の安全を最優先として、必要なあらゆる措置を取ってください。……責任は、すべて私が取ります」




