よい旅を
昨夜遅くまで彼女は僕の部屋に入り浸り、カードゲームを楽しんだり、じゃれあったりしていた。
仮初めの恋人として。
彼女が楽しそうだったから。
おかしくなりそうな。
いや、もうすでに。
破綻しているのであろう僕の心は保たれていたのかもしれない。
人肌の温もりを感じた反面。
分かりきっていたことだけど。
別人だと理解はしていたけど。
彩音にそっくりな女性をこの手で抱いたのだから。
さすがに疲れて寝ているのか。
朝食のとき、彼女は姿を見せなかった。
部屋で身支度を整えて。
僕は一筆したためた封筒をボストンバッグの上に置いた。
宛名はこの旅館。
バッグの中身は三千万円の現金。
両親の遺産のほとんど。
彼女の治療費の足しにしてほしいと書いた。
そもそも。
自分が死んだ後。
その処理にあてがうために持ってきたお金。
まだ一千万円ほど残っている。
これだけあれば。
ことは足りるだろうから。
廊下に出て見た視線の先。
向かいの彼女の部屋は静かだった。
きしむ廊下を歩いて。
階段を下りる。
受付でチェックアウトを済ませ。
母親の挨拶を受けた。
靴を履いて。
引き戸の玄関から外へ出る。
「ありがとうございました」
母親の声を背中で受ける。
冷気が肌に触れて。
身震いをする。
今日は冷え込みが激しいようだ。
見上げた青い空に。
一筋の飛行機雲が描かれていた。
ん?
車の影から、ぴょんと飛び跳ねて。
彼女が姿を現した。
寒かろうに、コートも羽織らず、昨日のワンピース姿だった。
「おはよう」
「おはようございます」
深々とお辞儀をして。
宙を舞う髪に朝の陽射しが瞬いた。
「見送りかい?」
彼女は小さくうなずいて。
首をかしげた。
僕が運転席に近づくと。
前屈みに後ずさりをして。
どうぞと手を出した。
僕は微笑んで。
ドアを開ける。
ショルダーバッグを助手席に放り込んだ。
「あれ? 荷物これだけでしたっけ?」
「ん? そうだよ」
僕はしらをきる。
そのまま運転席のシートになだれ込む。
ドアを閉めて。
窓を開ける。
「じゃあ」
「うん。じゃあね」
彼女は顔の横で指をひらひらさせている。
僕はエンジンをかけて。
ハンドルを握る。
サイドブレーキを外して。
アクセルをゆっくりと踏み込む。
「よい旅を」
彼女の声が風に溶けた。
サイドミラーをのぞくと。
彼女は両手を振りながら。
飛び跳ねていた。
どんどんと小さくなって。
角を曲がって消えた。
僕はもう一度あの展望台へとハンドルを切っていた。
空に近づくにつれ。
まだ雪が残っていて。
日陰は銀世界の名残りを惜しんでいた。
何もなくなっていたはずの感情が。
笑うということさえ忘れていた。
ひとつ決めたことがある。
この島で死ぬのはやめた。
だから、今向かっているのは。
ただわ単純に晴れた時の光景を見てみたい。
そう想っただけ。
見通しのよい坂道にさしかかる。
アクセルを踏み込む。
緩やかなカーブを曲がった時。
目の前に猿の親子が現れて。
慌ててブレーキを踏む。
ん?
タイヤが滑って。
対向車線に飛び出して。
ハンドルを切り返す。
ゆっくりと視界が傾いて。
法面が迫る――
ガシャーン……
お読み下さりありがとうございます。
感謝しています。




