空に近づいて
山の上の寺の名前は西龍寺。
標高500メートルほどの麻霧山。
その頂き付近にあるという。
そこへと至る山道はまだ雪が残っていた。
「お兄ちゃん、無理かな?」
顔を付き出してフロントガラスを見つめている彼女。
「チェーン着けるから、心音は中で待ってて」
「私も手伝う」
そう言いながら。
彼女は口を両手で覆いあくびをした。
「大丈夫。平気だよ。それより心音、お腹いっぱいだろ? 素麺大盛り食べたんだから、ちょっと待ってて」
「うん。分かったよ」
少し口を尖らせ不満気にも。
満足気にも見える表情。
僕は彼女を車内に残して車を降りた。
陽は差し込んでいるものの。
辺りは冷気に包まれていた。
トランクからチェーンを取り出す。
運転席と助手席の間から。
彼女は顔を出して。
手を振っていた。
笑顔を返し作業する。
かじかむ指に息を吹きかけながら。
人生で初めてのチェーン装着。
案外スムーズに出来た。
「お待た……せ」
車内に乗り込むと。
彼女は居眠りをしていた。
どこか、あどけなさを残す寝顔。
僕は息をついて。
着ていたハーフコートを脱いで。
彼女の膝の上にかけた。
ん?
脇に逸れていた彼女の左手。
袖口からわずかにのぞく手首に細い線の傷痕。
咄嗟に彼女の顔を見た。
「彩音……」
色白の顔が眠っている。
安心しきったように寝息をたてながら。
僕はそっと、シートに凭れた。
彼女も――
命を絶とうとしていたのか。
病気が原因なのだろうか?
明るくて朗らかな様子からは垣間見れない、何かがあったんだろう。
僕と接する佇まいからは、穢れない清らかな。
それこそ、純白の雪のよう。
死を受け止め、彼女なりに生を全うしようとしているように見える。
まあ、昨日知り合ったばかりなのだから、分かるはずもない。
僕はハンドルを切った。
西龍寺への道は勾配もきつく。
ヘアピンカーブばりの切り返しを何度も行う。
そして、空が眩しく広がると駐車場に着いた。
エンジンを切って。
彼女の肩を揺する。
「心音。着いたよ」
「ん、んんっ……」
膝にかけたコートを顔に引き寄せながら。
ゆっくりと目を開ける。
パチパチと瞬きをして僕を見た。
「あっ、やだ。寝ちゃった……ごめんね、お兄ちゃん」
「いや、気にしないで」
「もう。起こしてよね!」
コートを僕に押し付けながら睨む彼女。
「いや、気持ちよさそうだったし」
それを受け取りながら想う。
さっきまですやすや寝ていたのに。
目覚めた途端に不機嫌になる。
「もう。私は一分一秒楽しみたいの。寝ちゃった私も悪いけど……」
猫なで声で少しうつむいて。
膝の上で両手を組んだ。
「分かった。今度はちゃんと起こすから」
「ふふふ。お兄ちゃんは私にあまあまだぁ」
「なんだそれ?」
機嫌を取り戻した彼女の微笑みは、青空や雪に負けないくらい。
輝いていた。
寺へと伸びる、長い長い階段。
その両側に石灯籠が整然と並んでいた。
息を切らして上り。
山の斜面のわずかな空間に広がる境内を彼女の案内で歩く。
人が通る部分は雪かきがされていた。
岸壁からそりだしたお堂が頭上に。
本堂は岩肌にはめ込められたように。
不思議な場所だった。
参拝を済ませ、さっき頭上に見えたお堂に着いた。
見下ろせば、境内が見渡せる。
そして――
視界におさまりきらない広大な風景が広がる。
寒霞渓の展望台からの眺めにも負けないパノラマだった。
冬の午後のすでに傾き始めた太陽が、まっさらな水面を淡く金色に染め上げていた。
遠く、対岸の四国の山も白一色。
「すごいな……」
漏れた言葉に彼女は満足気に微笑む。
そして、指を差しては景色の説明を始めた。
「んー。少し分かりづらいけど、東には鳴門海峡大橋、西には瀬戸大橋も見えるんだ」
「へえー」
「ほらほら、見て。あそこ」
「ん?」
「小さな島が、四つ見えるでしょ?」
「ああ、見える」
「あの、一番陸に近い島との間が、エンジェルロードだよ」
「そうなんだ」
「ここもね、私好きなんだ」
「心音は、島が好きなんだ」
「うん。好きだよ。こんな風に山の上にいくつもお寺があるの。どこも眺めがきれいなんだよ」
「え? 他にもあるんだ」
「あるよ。八十八ケ所の霊場なんだよここも。だから、お遍路さんも来るんだよ」
「ふーん」
何処までも見渡す限り。
空と海と山。
くいっと、つないでいる手を引っ張る彼女。
「どう? お兄ちゃん。空の中にいるみたいでしょ?」
「確かに……」
「天空のお寺みたいでしょ? この景色も天国からも見えたらいいのになぁ」
「……見えるでしょ。心音なら」
「ふーん。意外とロマンチックなんだ。お兄ちゃんって」
「……たぶんね」
彼女を見ると、白い歯を見せて笑っていた。
ガサッ。
どこかで雪が落ちる音がした。
「あっ! おじゅっさん! こんにちは!」
彼女は欄干に捕まり下へ向けて手を振る。
落とした視線の先には坊主頭の眼鏡をかけた男性がこちらを見上げていた。
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