act.3 気まぐれと暇つぶし3
「耀次?」
塀の上で満月を背にこちらを見下ろすその男の名をあたしは確認するように呟く。
見知ったその男の表情は逆光と霞んだ視界によっていまいちよく見えないが、その声色からは少し焦っているように感じる。
でもこの男はいつも怒鳴っているように声を発するから、ただ普通にあたしの名を呼んだだけなのかもしれない。
「おい憂、何だそいつは?今…"境界"から出てきたよな?」
ああ、やっぱり見られてたか。
言い訳なんてこの男には通用しない。
「耀次、今日は代々木に任務じゃありませんでしたー?」
「今帰りだ。庁舎に寄ったら隊長はいねぇし、お前は一級指令って当直に言われてな。だからこっち寄ったらちょうど警吏の連中が帰ってくのが見えたから、様子見てたんだよ」
何だか少し…くらくらするな。
んー、また貧血かな。
「憂、境界から出てきたってことはそいつは亜人か?人型に近い亜人なんてざらにいるしな、人狼【ウルフ】か…ああ、エルフか?気に入ったから始末しなかったのか?」
「…殺しますよ?」
「まあそんな力むなよ。で、どうなんだ?」
どうしてあたしの周りの連中はこうも…煽るんだろうか。楽しんでるんだろうな、反応を。
肩に担いだ剣の柄に掛けた手を降ろし、あたしは再び声を発する。
「亜人じゃないですよ。"あっちの世界"の人です」
「…は?」
「だから、日本国の人間です」
「はは。…あーっはっはは!!!」
その男は盛大な笑い声をあげて、塀から飛び降りてきた。そしてこちらに歩いてくる。
すらりと伸びた身長、広い肩幅、その身は自身と同じ漆黒の隊服に包まれており、月明かりに照らされたその髪は深い青で、頭のてっぺんで高く纏め上げている。
鋭く光る三白眼は彼の気性を表すかのような肉食獣のそれであり、非常に目付きが悪い。
この男…葉柴耀次【ハシバ ヨウジ】はあたしの同僚であり、同じく警護庁第3隊"鴉"の幹部だ。
耀次は眉間に皺を寄せ、あたしの後ろにいる少年を一瞥してからあたしに向けて荒げた声を出す。
「日本国の人間だと!?何でそんな普通の人間が境界を抜けられるんだよ!それこそ亜人じゃねぇのかよ!」
「耀次…、そんなに怒鳴らなくても聞こえますよー…」
耀次が怒鳴っているのは怒ってるわけじゃなくてやっぱり焦っているんだろうと思う。
知っている限りで裏側の世界から人間を連れてきた例なんて聞いたことないし、それ以前にあっちの世界に解放者なんて存在するわけがないんだから。
解放者を生み出すための条件は、あっちの世界では満たせない。
あたしの…幹部とはいえ一隊士のただの気まぐれで引き起こしたまさかの事態によるその後の処分やら何やらを気にしているのかもしれない。
それか…ただの防衛本能か。
耀次の事だ、きっと後者だろう。
あたしが悶々とそんなこと考えていると、耀次は歩を進め、あたしの後ろの少年の目の前に立ち…彼の胸倉を掴んだ。
「…何すんだよ」
少年は怯えることなく、ただ平然と呟く。
「あ?威勢がいいな、ガキ。どういう了見でこっち側に来たかは知らねぇが…この世界はな、生易しくなんてねぇぞ。怪しい奴って思われたら、殺されるぞ」
しまった。耀次は喧嘩っ早い。
亜人だろうと人間だろうと構わないんだろう、彼の眼にこの少年は"怪しい奴"としか映ってない。
「耀次!」
「うるせぇ、憂。亜人だろうとなかろうと、こいつに力がなけりゃいずれ死ぬんだ。その前に俺が…」
―――――バキッ
「何だ、意外と隙があるんだな」
少年の拳が耀次の頬に綺麗に入った。
うわあ…もしかして、この少年も喧嘩っ早いのかもしれない。
「…ガキ。覚悟しろ!!!!」
耀次は顔に青筋を立てて殴りかかっていった。
ふたりの殴り合いの様子を見ていたはずのあたしは、境界を出てからずっと感じていた身体の違和感はただの気のせいだと思っていたけれど…それは確実なものとなって襲ってきた。
霞む視界、荒い動悸。意識が遠のいていく。
ふと見上げた空に輝くのは満月。
―――――月が、隠れる前に…戻さない…と…
「え、おい!大丈夫か!?」
「憂!!!」
遠くの方で、少年と耀次の声が…聞こえた。




