第11話 赤い字の人
エドマンド・ローエン。
赤いインクで書かれたその名前を、ルカは声に出さずに読んだ。
第三研究棟の室長。
入ったばかりの頃、誰にも相手にされなかったルカの草稿を、最初に読んでくれた人だった。
『君の理論は、いつか世界を変えるよ』
赤いインクの添削を入れながら、そう言ってくれた。
事故のあと、室長は行方が分からなくなった。
爆発に巻き込まれて亡くなったのだと、ルカは思っていた。
それなのに。
ルカの名前は削られて、その上に、あの人の名前が書かれている。
「室長は、亡くなったはずです」
「生きているよ」
アーデルが、淡々と言った。
「いまは軍務庁の特別顧問。王都に、立派な部屋を持っている」
ルカの手が、綴じ帳の表紙の上で小さく震えた。
怒りなのか悲しみなのか、自分でも分からなかった。
「ルカ」
ヒューが、短く呼んだ。
それだけで、胸の奥が、少しだけ静かになった。
「持っていきます」
ルカは、綴じ帳を抱き上げた。
「この草稿は、私のものです」
その瞬間。
ジリリリリリ――。
地下じゅうに、けたたましい鐘が鳴り響いた。
壁の魔導灯が、一斉に赤く点滅する。
「持ち出し検知だ」
アーデルが舌打ちした。
「綴じ帳に仕掛けがあったか」
「やっぱり罠か」
ヒューが、階段を睨んだ。
「走れ。上から来る」
*
三人は、階段を駆け上がった。
武器庫に出た途端、扉の向こうから兵士の群れが雪崩れ込んでくる。
「止まれ!」
「侵入者だ!」
十人はいる。槍が、ずらりと並んだ。
「私が足止めする」
アーデルが、前へ出た。
「先に行って。馬は城壁の外に繋いである」
「あなたは」
「橋で会おう」
アーデルが、指を鳴らす。
床に落ちたランプの影が、波のように膨らんだ。
影は兵士たちの足元へ這い寄り、一斉に絡め取る。
十人が、同時につんのめった。
「行け!」
ルカは頷いた。
ヒューと二人で、割れ目へ駆け出す。
探知の糸が、行く手に光っていた。次に休む拍まで待っている余裕はない。
ルカは、糸の基部に、ほんの少し魔力を流した。
基部が、びくりと震える。
三十七拍に一度の休みを、自分の手で早める。
杯の底が、また少し削れた。
糸が、ふっと薄れる。
「今です!」
二人は、砦の外へ飛び出した。
*
夜が、明けかけていた。
繋がれていた馬に飛び乗って、山道を駆け下りる。
背後で、鐘の音がまだ響いていた。
やがて、蹄の音が遠くから迫ってきた。
「追ってくる!」
振り返ると、十二騎の影が朝靄の中を駆けている。
馬の鞍が、青白く光っていた。魔導鞍だ。魔石の力で速度を上げる、軍用の装備。
「速いな」
ヒューが歯を食いしばった。
「こっちの馬じゃ追いつかれる」
「橋まで、あとどれくらいですか!」
「半刻。もたん」
背後から、声が飛んだ。
「止まれ! ルカ・エルフェルト!」
ルカの背筋が、凍りついた。
本名。
軍は、もう知っている。
先頭の騎兵の槍が、ヒューの馬の尾をかすめた。
石橋が、朝靄の向こうに見えてくる。
橋の手前に、人影が立っていた。
白い外套。眼鏡。
オズワルドだった。
その後ろに、結界の兵士たちが整列している。
(ここで、止められる)
ルカは、手綱を握る手に力を込めた。
*
オズワルドが、片手を上げた。
「通れ」
ルカは、耳を疑った。
橋の入口の柵が、ぎい、と開く。
「え」
「早く」
ヒューが迷わず馬を走らせた。
ルカも続く。
二人が橋の上へ駆け込んだ、そのあとを、騎兵が追ってくる。
「技官殿! 手配犯が逃げ込んだ! 通していただく!」
先頭の隊長が怒鳴った。
オズワルドは、動かなかった。
「結界の設定変更中だ。立ち入りは許可できない」
「軍令だ!」
「そうか」
オズワルドは、眼鏡を押し上げた。
「では、通れ。ただし魔道具を持つ者は、覚悟を」
騎兵たちが、構わず橋へなだれ込む。
オズワルドが、袂の制御盤に手を置いた。
「王都の命令は、出力を倍にせよ、だったな」
小さく呟く。
「遅ればせながら、実行する」
盤の宝石が、赤く光った。
その瞬間、橋の上の銀色の網が、轟、と唸りを上げた。
騎兵たちの鞍が、一斉に赤く染まる。
魔導鞍が、ガクン、と止まった。
馬が驚いて跳ね上がり、騎兵が次々と石畳へ投げ出される。
「なっ」
隊長が、地面に転がって呻いた。
鞍の魔石が、赤く唸ったまま動かない。
橋の中ほどで、ルカは馬を止めて振り返った。
「止めてください! 怪我人が!」
「止まっているだけだ」
オズワルドが、静かに言った。
「君が最後の頁を書いてくれたおかげで、倍にしても鞍が止まるだけで済む。逃がし道は残してある」
ルカは、息を呑んだ。
銀色の網は、青白く脈打っていた。
魔道具を持たない旅人には、何も起きない。
ルカも、ヒューも、ただの石の橋を渡っていた。
「私が据えた結界の欠陥を、直したのは子供だった」
オズワルドは、ルカを見つめた。
眼鏡の奥の目が、わずかに緩んだ。
「借りは返した」
*
橋を渡りきって、ルカとヒューは馬を止めた。
背後では、投げ出された騎兵たちが、呻きながら起き上がろうとしている。
「アーデルは」
「橋で会おうと言いました。来ます。たぶん」
オズワルドが、橋を渡って二人の前に歩いてきた。
「間に合ってよかった」
「どうして」
「聞かんと言っただろう」
彼は、短く言った。
「ただ、伝えておくことがある」
懐から、封書が出てきた。
軍の公印。
「昨日、軍務庁から通達が届いた。三日後、特別顧問が橋の視察に来る」
ルカの喉が、鳴った。
「結界の再設計について、直接説明を求めるそうだ」
「特別顧問」
「エドマンド・ローエン氏だ」
世界が、ぐらりと揺れた気がした。
「知っている名か」
オズワルドが、静かに尋ねた。
ルカは、答えなかった。
オズワルドは、それ以上何も聞かなかった。
「三日だ」
封書を、懐へ戻す。
「それまでに、決めておけ」
橋の向こうで、朝日が昇った。
白い光が、銀色の網を、一瞬だけ輝かせる。
ルカは、胸に抱えた綴じ帳を、ぎゅっと握りしめた。
赤い字の人が、三日後に、ここへ来る。
第11話 了




