第10話 その警報、無駄だらけです
夜明け前の石橋は、静まり返っていた。
月明かりの下、橋の上に銀色の網が、うっすらと浮かんでいる。
ルカたちが馬を進めると、網がふわりと膨らんで、すぐに縮んだ。
呼吸している。
三日前まで荷馬車を片っ端から壊していた結界が、いまは旅人の拍に合わせて、静かに道を開けていた。
「いい仕事だね」
先頭を行くアーデルが、振り返らずに言った。
「誰の仕事か一目で分かる」
「やめてください」
ルカは、フードを深く引き下ろした。
署名だらけの橋を渡りきると、道は山へ入った。
*
旧ガルム砦は、山の中腹に黒々とうずくまっていた。
崩れかけた城壁。折れた見張り塔。百年前の戦で打ち捨てられた、ただの廃墟のはずだった。
「灯りがついてる」
ヒューが低く言った。
城壁の内側から、白い光が漏れている。魔導灯だ。それも一つや二つではない。
門の前には、見張りが四人。槍を立てて、あくびを噛み殺していた。
「正面は無理だね」
アーデルが、茂みの陰で指さした。
「だから横から。崩れた城壁の割れ目だ。あそこだけ見張りがいない」
「罠があるんだろう」
「ご名答。探知の糸が張ってある。魔力を持つものが跨ぐと、砦じゅうの鐘が鳴る」
ルカは、割れ目の手前にしゃがみこんだ。
見るだけなら、魔力はいらない。
地面すれすれに、髪の毛ほどの細い光が走っていた。
(探知の糸。構造は単純だ)
糸が魔力に触れると、基部の魔石が反応して鐘を鳴らす。それだけの術式のはずだった。
けれど。
ルカは、基部の脈を数え始めた。
一、二、三。
三十六、三十七。
その瞬間、糸が一拍だけ、ふっと薄れた。
すぐに戻る。
もう一度数える。
三十七で、また薄れた。
「三十七拍に一度、必ず休んでます」
「休む?」
ヒューが眉をひそめた。
「基部の魔石の消耗が激しすぎるんです。無駄な回路が多すぎて魔力が足りなくなって、休まないと保たない」
ルカは、振り返った。
「その一拍だけ、糸は完全に消えます。通れる幅は約二歩」
「二歩だけか」
「私の足で二歩。ヒューさんは一歩半です」
アーデルが、フードの下で小さく笑った。
「私は、それに気づくのに二晩かかったよ」
「その警報」
ルカは、無意識に言っていた。
「無駄だらけです」
言ってから、顔が熱くなる。
けれど、アーデルは真顔で頷いた。
「うん。その無駄が、君の通り道だ」
三人は、割れ目の前に並んだ。
「数えます。三十五、三十六」
ヒューが、重い鎧の肩を縮める。
「三十七、今!」
ルカが飛び出した。
一歩、二歩。
続いてアーデルが、影のようにすり抜ける。
最後のヒューが、一歩半で跳んだ。
爪先が、薄れかけた光の線をかすめる。
糸が、ぴくりと震えた。
鐘は、鳴らなかった。
ヒューが、地面に転がって息を吐いた。
「心臓が止まるかと思った」
「止まらなくてよかったです」
*
砦の内側は、倉庫だった。
石畳の中庭に、木箱が山のように積まれている。蓋には、青い印。六面切りの青魔石の印だ。
(これが、街から消えた魔石)
ルカは、数える手を途中でやめた。
数百箱はある。
「地下は、こっち」
アーデルは、倉庫の奥の、古い武器庫へ足を向けた。
壁の一面に、鉄の扉が埋め込まれている。
扉の脇に、手のひらほどの石板があった。
「私はここまで。ここは開けられない」
アーデルは、ルカを見た。
「君なら、開くかもしれない」
「私が?」
ルカは、石板を見つめた。
見覚えのある彫りだった。
第三研究棟の入口の石板と、まったく同じ形。
認証術式。登録された研究員の魔力の波形にだけ、反応する。
(私の登録は、一年前に消されたはず)
開くわけがない。
けれど、ルカの手は、自然に石板へ伸びていた。
掌を重ねる。
ほんの少し、魔力を流す。
石板が、淡く光った。
緑色の文字が浮かび上がる。
『認証 第三研究棟 上級研究員 ルカ・エルフェルト』
扉が、重い音を立てて開き始めた。
ヒューが、絶句した。
「お前、まだ雇われてたのか」
「そんなはずありません」
ルカの声が、震えた。
「登録は、事故のあとで全部消されたはずです」
「消されてなかったんだよ」
アーデルが、静かに言った。
「誰かが君の席を、空けておいた」
*
階段を降りた先に、広い空間が広がっていた。
ルカは、足を止めた。
並んだ机。壁一面の黒板。薬品棚。
窓は、なかった。地下なのだから当然だ。けれど壁には、朝の光が差し込むように、窓の絵が描かれていた。
部屋の中央には、巨大な円環の装置。その周りに、青い魔石が山のように積み上げられている。
(第三研究棟)
一年前に灰になったはずの建物が、ここにあった。
机の位置。黒板の形。棚の並び。
寸分違わない。
「写し、だ」
ルカは呟いた。
足が、勝手に動いた。
窓際の三番目の机。
そこが、自分の席だった。
机の隅に、インクの染みがある。入ったばかりの頃に、うっかりこぼしたものだ。
その形まで、同じだった。
「気味が悪いな」
ヒューが、周りを見回した。
「こんなものを、誰が」
机の上に、革の綴じ帳が一冊置かれていた。
ルカは、それを開いた。
見慣れた自分の文字。
第一章。第二章。
最後の章の、見出しだけの頁も、そのままあった。
『同期』
そこだけ、空白のまま。
そのときだった。
「止まれ!」
階段の上から、怒号が響いた。
槍を構えた兵士が、三人駆け下りてくる。
「侵入者だ! 鐘を!」
「鳴らさせるか」
ヒューが、飛び出した。
剣は抜かない。鞘のまま構える。
一人目の槍が突き出された。
ヒューは、半歩ずらして、穂先を鞘で弾いた。
二人目の足元に、アーデルの影がすっと伸びる。
兵士が、つんのめった。
その腹に、ヒューの肘が入る。
二人、倒れた。
三人目が、笛を口に当てた。
ヒューの剣の柄が、その手を打ち据えた。
笛が、床に転がる。
静寂が戻った。
「急ごう」
ヒューが、肩で息をしながら言った。
「音は立てたが、鐘は鳴らしてない。次の見回りまで、まだ時間はあるはずだ」
ルカは、綴じ帳を閉じた。
表紙に、題が刻まれている。
『術式改変 第七草案』
その下に、作者名の欄があった。
本来なら、ルカの名前が書かれているはずの場所。
そこは、刃物で削り取られていた。
そして、その上に。
赤いインクで、別の名前が書き加えられていた。
ルカは、その字を知っていた。
毎朝、ルカの草稿に添削を入れてくれた、あの赤い字。
丸みを帯びた、几帳面な筆跡。
その名前は、この世でいちばん、ルカが信じていた人の名前だった。
第10話 了




