第9話 名前を呼ぶ人
「ルカ・エルフェルト」
暗闇の中で、名前を呼ばれた。
ルカは、寝台の上で凍りついた。
宿の二階、一番奥の小さな部屋。窓の外は深い夜だった。
鍵は、かけたはずだ。
椅子が一脚、軋んだ音を立てる。
壁際の闇の中に、誰かが座っていた。
目深にかぶったフード。口元だけが、ゆるく弧を描いている。
「こんばんは。この呼び方のほうが通りがいいかな」
アーデル・ノクスだった。
「……人違いです」
「そう言うと思った」
アーデルは、楽しそうに言った。
「一年ぶりに本名を呼ばれた人は、たいていそうなる」
廊下から、荒い足音が駆けてくる。
扉が蹴り開けられた。
「ルカ!」
剣を抜いたヒューが、飛び込んできた。隣の部屋で、物音を聞きつけたのだろう。
「誰だお前は!」
ヒューが踏み込む。
その足元で、何かが動いた。
影だった。
ランプの灯りが作った床の影が、ふっと伸びて、ヒューの剣先を縫い止めるように床板へ貼りついた。
「……っ!?」
ヒューの腕が、動かなくなる。
詠唱はなかった。杖もない。指一本、動いていない。
ルカは、息を呑んだ。
(魔力が、ほとんど動いていない)
それなのに、これだけの術式を。
無駄が、どこにもなかった。
美しい。
こんなときにそう思ってしまった自分に、ルカは少し呆れた。
「傷つけるつもりはないよ」
アーデルは、座ったまま肩をすくめた。
「話をしに来ただけ。落ち着いてくれないかな。宿の人が起きてしまう」
「ふざけるな。ルカに何の用だ」
「ルカ・エルフェルト」
アーデルは、もう一度その名を口にした。
ヒューの顔が、止まった。
「……エルフェルト?」
ルカは、膝の上で拳を握った。
検問小屋の壁に貼られていた、あの似顔絵。
金貨三百枚。
全部、知られた。
沈黙が、部屋を満たした。
ヒューの視線が、ゆっくりルカへ向く。
ルカは、顔を上げられなかった。
「お前」
ヒューが、低く言った。
「あの手配書の、ルカか」
「……はい」
声が、掠れた。
「黙っていて、すみません」
ヒューは、しばらく何も言わなかった。
それから、短く息を吐いた。
「それがどうした」
「え」
「あの橋で、俺の荷馬車を直した奴が。じいさんの馬を守るために、素手で熱い箱をこじ開けた奴が。
建物を吹き飛ばすような真似をするか」
影に縫い止められた腕のまま、ヒューは鼻を鳴らした。
「俺は、自分の目で見たものを信じる」
ルカの視界が、にじんだ。
「ありがとうございます」
「礼はいい。それより、こいつだ」
ヒューは、顎でアーデルを示した。
「何者だ。ルカをどうする気だ」
アーデルは、くすりと笑った。
「いい護衛さんだね」
指先が、軽く動く。
影が、すっとほどけた。
ヒューの腕が自由になる。それでも、彼は剣を収めなかった。
「さて、本題だ」
アーデルが、ルカのほうへ身を乗り出した。
「君の第七草案。最後の章は、見出しだけだった」
「……っ」
「『同期』」
ルカの心臓が、跳ねた。
あの見出しを知っているのは、草稿を取り上げた人間だけのはずだ。
「どうして、それを」
「読んだからね」
「草稿は燃えたはずです。棟ごと」
「燃えたのは、棟だけだよ」
アーデルは、静かに言った。
「草稿は燃えていない。写しが、旧ガルム砦の補給廠の地下にある。魔石の行き先と同じ場所だ」
部屋の空気が、変わった。
二百八十箱。
西の山の向こう。
夕焼けの中で見た、あの黒い稜線。
「写しの表紙には、別の人の名前が書かれていた」
「え」
「君の名前は、消されていた」
ルカの喉から、かすかな音が漏れた。
取り上げられた草稿。
認められなかった研究。
それが誰かの手柄になっているなんて、考えたこともなかった。
「どうして、私に教えるんですか」
ルカは、声を絞り出した。
「あなたは、何者なんです」
「ただの旅の魔術師だよ」
「嘘です」
「うん、嘘だ」
アーデルは、あっさり認めた。
「でも、今は名乗らない。信じてもらうには時間がかかりそうだから。代わりに、取引をしよう」
「取引?」
「写しの現物を、君が自分の目で見る。それが君の無実の証拠になる」
アーデルは、人差し指を立てた。
「見返りに、君の頭の中にある最後の頁をもらう」
ヒューが、ルカの前に踏み出した。
「やっぱり、それが目的か」
「お断りします」
ルカは、即答した。
ヒューが、驚いて振り返る。
「私の最後の頁は、人を守るために書くものです。誰かに渡すために書くものじゃありません」
アーデルは、一瞬だけ目を丸くした。
それから、肩を揺らして笑い出した。
「いいね。即答だ。断られると思っていたよ」
「じゃあ、なぜ」
「だから、条件を変えよう」
笑いを収めて、アーデルは言った。
「写しを確認するだけでいい。見返りはいらない。見て、君が自分で決めればいい」
「信用できません」
「うん。それが正しい」
アーデルは、立ち上がった。
「ただし、時間はあまりない」
「時間?」
「君が橋でやった仕事は、君の署名だらけだ」
ルカの背筋が冷えた。
「術式の癖は指紋と同じ。見る人が見れば、一目で分かる。橋の結界の数字は、もう王都に届いているはずだよ。研究院の人間が見れば、誰の仕事かすぐに思い当たる」
「……」
「三日もつかどうか」
アーデルは、窓際へ歩いた。
「砦の守りは、夜明け前に一度、手薄になる。行くなら今夜だ」
「今夜」
「逃げるのも一つの選択だよ。止めない」
アーデルは、窓の外の夜を見ていた。
ルカは、膝の上の拳を、ゆっくり開いた。
逃げれば、きっと楽だ。
この一年、そうしてきた。
けれど、あの橋の上で、書き残した頁の続きは、自分にしか書けなかった。
今度は、あの日取り上げられた頁の行方を、自分の目で確かめたい。
「行きます」
ルカは、顔を上げた。
「ただし、あなたを信じたわけじゃありません。草稿を見て、自分で決めます」
「それでいい」
「俺も行く」
ヒューが、剣を鞘に収めた。
「最初から、そのつもりだ」
「ヒューさん」
「お前の背中を預かると決めたんだ。名前が何だろうが変わらん」
ルカは、言葉に詰まった。
アーデルが、小さく笑った。
「準備ができたら、宿の裏口へ。夜明け前には出よう」
窓枠に、片足をかける。
そこで、アーデルは、ふと振り返った。
「そうだ。一つだけ」
「何です」
「写しの表紙に書かれていた別の名前。君もよく知っている人だよ」
ルカの息が、止まった。
「誰ですか」
「それは砦で」
アーデルの口元が、静かに弧を描く。
「先に聞いたら、君は砦まで歩けなくなる」
そう言い残して、アーデルは窓の外の闇へ、音もなく消えた。
残された部屋に、冷たい夜風だけが吹き込んでいた。
第9話 了




