第6話 借りた魔力は、倍にして返します
正午まで、あと一刻。
石橋の袂に並ぶ兵士は、いつもの倍に増えていた。結界の出力を上げる日だ。王都から、見物の役人まで来ているらしい。
「多いな」
御者台のヒューが、手綱を握ったまま低く言った。
荷台の隅で、ルカは膝を抱えていた。
懐の中で、小さな銅のコイルが、かすかに温かい。一晩かけて作った「種」だった。
昨夜、ルカが二人に説明した作戦は、こう呼ばれることになった。
種と、火と、道。
「種は、私が打ちます。橋の中央にある要石に、これを押し当てる。結界の網に、新しい頁を植えるための、ほんの小さな術式です」
「火は?」
「オズワルドさんです」
ヒューが、盛大にむせた。
「正午に、結界の出力が倍になります。その瞬間、網に殺到する魔力を、種が受け止める。今日のために用意された魔力を、そのまま書き換えの燃料にします。私の杯で足りない分は、軍に払ってもらいます」
「借りるどころか、相手の出した燃料で、相手の結界を直すってのか」
「はい。倍にして返す、と言ったでしょう」
ヒューは、笑いをこらえて、しばらく肩を震わせていた。
残るのは「道」だ。
書き換えのあいだ、余った魔力は、どこかへ逃がさなければならない。逃がす先がなければ、荷馬車の制御箱が、また赤く膨らむ。
ベルクが貸してくれたのは、長い銅の鎖だった。
『壊すなよ。……いや、お前が壊すわけねえか』
今朝も、同じ台詞を聞いた。
鎖の片端は、制御箱へ。もう片端は、欄干の外から、川の水へ。
昨日、水桶でやったことを、橋ごとやるのだ。
アリアは、いま、検問小屋のほうにいる。
『差し入れのスープを持って、兵隊さんたちとお話ししてきます!』
大きな鍋を抱えて出ていった少女は、時間稼ぎで、見張り役だった。
(失敗したら)
ルカは、懐の種を、ぎゅっと握った。
軍の結界に勝手に触れれば、反逆だ。
そう考えて、ふと、小さく苦笑した。
(いまさら、罪状が一つ増えるだけだ)
金貨三百枚の首は、どうせもう、ついている。
*
橋に入ると、肌がぴりりと粟立った。
魔力計の針が、ぴく、ぴく、と三秒ごとに跳ねる。
荷馬車は、橋の中央で止まった。
欄干に、白い石盤が埋め込まれている。結界の要石だ。表面には、細い亀裂が走っていた。
「鎖、つなぐぞ」
ヒューが、制御箱から伸びる銅の鎖を、欄干の外へ垂らした。川面すれすれで、鎖の先が揺れる。
遠くの検問小屋の窓で、アリアが何かを兵士に手渡しているのが見えた。
鐘楼の影が、石畳の上で、ゆっくり縮んでいく。
「あと、三十秒」
「ルカ」
ヒューが、荷台のルカを見上げた。
「無理だと思ったら、やめろ」
「はい」
「やめないんだろうが」
「はい」
ヒューは、短く息をついた。
「そのときは、俺が止める。他のやつらを」
ルカは、頷いた。
要石の亀裂に、種の先を当てる。
正午の鐘が、鳴り始めた。
*
一つ目の鐘で、世界が変わった。
結界の網が、一瞬で、倍の太さになった。
銀色の糸が、ゴウ、と唸りを上げて膨れ上がる。魔力計の針が振り切れ、制御箱が真っ赤に染まった。
「鎖!」
「分かってる!」
鎖が、川の水に突き刺さる。
水面が、青白く光った。
ルカは、種を要石に押し込んだ。
(お願い)
指先から、一滴。
杯の底が、削られる。
視界が、結界の内側へ落ちていった。
銀色の網。何百もの、小さな輪。
自分の署名。
(新しい耳を、作る必要はなかった)
気づいたのは、ランプの修理をしたときだった。
研究院にいたころ、削れなかった無駄な輪。
誰にも意味を聞かれなかった、ただの癖。
その一つ一つが、耳になれる。
たくさんの小さな輪を使いまわすことで、新しい術式を何百個も取り付けなくて済む。
受け手の魔力の揺れを聞く、小さな輪に。
『理由がなかったら,,,,,』
ルカは、懐かしい声を思い出した。
『そのときは、もっといいものにしてやればいい』
種の先から、細い光が走る。
一つ目の輪が、ふっと開いた。
二つ目。
三つ目。
銀の網の上を、光が波のように広がっていく。
「貴様! 結界に触れるな!」
橋の袂から、怒号が飛んだ。
兵士が一人、槍を構えて駆けてくる。
「止まれ!」
ヒューが、荷馬車の前に立ちふさがった。
「うちの坊主は、いま、修理中だ」
「どけ!」
「子供に槍を向けるな」
鞘が一閃して、槍の穂先が弾かれた。
二人目の兵士が駆けつける。
ヒューは剣を抜かないまま、鞘を片手に、二人の前に立った。
「ルカ! あとどのくらいだ!」
「あと……」
数える。
脈が、一つ。
二つ。
三つ。
銀の網が、少しずつ、脈打ちながら、色を変えていく。
無差別に流し込まれていた魔力が、荷馬車の制御箱に近づいたときだけ、弱まった。
受け手の拍を、聞いている。
「あと、三回!」
「分かった!」
七つ。
八つ。
杯の底が、軋んだ。
指先が、焼けつくように痛い。
それでも、手は離さなかった。
九つ。
十。
銀の網の、すべての輪が、同時に、ふわりと膨らんで――
縮んだ。
呼吸するように。
静かになった。
橋の上に響いていた唸りが、嘘のように消える。
制御箱の赤が、すっと引いた。
魔力計の針が、ゼロの近くまで落ちていく。
川の水が、最後に一度だけ、青白く瞬いた。
ルカの膝から、力が抜けた。
*
「ルカくん!」
駆け寄ってきたアリアが、倒れかけたルカを受け止めた。
その後ろから、オズワルドが走ってくる。
息を切らした魔導技官は、荷馬車の魔力計を、ひったくるように覗き込んだ。
針が、ほとんど動いていない。
オズワルドの目が、見開かれた。
「消費量が、倍になるはずが……」
震える指で、計算する。
「元の……百二十分の一?」
「あっ」
アリアが、パッと顔を輝かせた。
「また、百二十分の一だ! ルカくんの、いつもの数字!」
「いつも?」
「はい! 暖房機のときも、そうでした!」
ヒューが、鞘を肩に担いだまま、ぼそりと言った。
「こいつは、前科持ちか」
オズワルドは、魔力計と、橋の結界と、青白い顔のルカを、何度も見比べた。
槍を構えたままの兵士たちが、困惑して動けずにいる。
やがて、魔導技官は、深く息を吸った。
「全員、持ち場へ戻れ」
「しかし、技官殿。こいつらは結界に」
「結界の自動調整機能が作動した」
きっぱりとした声だった。
「報告は、私が書く」
兵士たちが、顔を見合わせる。
ルカは、朦朧とした意識の中で、その言葉を聞いていた。
(……庇われた?)
*
日が暮れたあとの駐屯所の裏口。
呼び出されたのは、ルカとヒューだけだった。
オズワルドは、ランプの下で、分厚い帳面を開いた。
「橋の施工日誌だ」
「軍の機密だろう」
「機密だ。見せるのは、規則違反だ」
彼は、眼鏡を外して、眉間を揉んだ。
「今日、お前は結界に無断で触れた。本来なら、拘束して王都へ送る」
ヒューの手が、無言で柄にかかる。
「だが、あの数字を、私は上に報告できない」
「なぜだ」
「結界が最初から不完全だったと、認めることになる。だから、ではない」
オズワルドは、日誌の頁を、指で叩いた。
「この結界の核は、私が組んだものではない」
ルカの喉が、鳴った。
「半年前、研究院から、封印済みの術式一式が届いた。完成品として。私は、橋に据えるよう命じられただけだ。中身は、見ていない。見ることを許されなかった」
「それで」
「気になって、日誌を見返した。ここだ」
ルカは、頁を覗き込んだ。
施工二十日目。
二十一日目。
その次が、ない。
いや、あるはずの頁が、ない。
「二十二日目から二十六日目まで。丸五日。その間、私は王都の会議に呼ばれていた。急な招集だった。戻ってきたとき、結界は、すでに稼働していた」
「五日で、核を据えた?」
「あるいは、その五日のあいだに、誰かが核を入れ替えた」
オズワルドは、綴じ目を、指でなぞった。
鋭い刃物で切り取られた紙の端が、残っている。
「誰がやったのか、私は知らん。だが、軍の人間ではない。軍なら、こんな雑な切り方はしない」
ルカは、切り口の端に、何かが残っているのに気づいた。
インクではない。
赤い、ごく薄い、判の跡。
目を凝らす。
歪んだ円の中に、小さな文字。
『王立魔法研究院 第三研……』
そこで、紙は途切れていた。
ルカの視界が、すっと狭くなった。
第三研究棟。
一年前に、爆発で灰になった、あの建物。
焼け落ちたはずの建物の印が、半年前の記録に、押されている。
「…………」
声が、出なかった。
オズワルドの視線が、ルカの横顔を、静かに測っている。
「お前の顔は、何かを知っている者の顔だ」
「いえ、私は」
「聞かん」
彼は、日誌を閉じた。
「今夜は、聞かん。お前の名前は、私の記録に残してある。それを王都に送るかどうかは、まだ決めていない」
眼鏡を、かけ直す。
「決まったら、知らせる」
*
帰り道、ルカは一度も口を開かなかった。
ヒューも、何も聞かなかった。
夜道を歩く二人の頭上で、細い月が、雲の切れ間から覗いていた。
一年前に焼けたはずの建物が、まだ、どこかで動いている。
そして、その誰かは、自分の草稿を持っている。
第6話 了




