第十五話 勇者と魔王【後編】
ゆっくりと目を開く。
……暗い。
背中越しに感じる冷たい石床。
高い天井。
気を失ってしまったのか。
意識がはっきりしない。
身体が重い。
いったい何が起きたんだ。
状況を確認するため、ゆっくりと手を持ち上げる。
目に飛び込んできたのは、見たことのない黒い籠手だった。
「……なんだ、これは。」
掠れた声が漏れる。
異様な状況に飛び起きる。
そこに広がっていたのは、見覚えのない景色。
いや。
違う。
知っている。
ここは。
魔王城だ。
胸の奥がざわつく。
何かがおかしい。
何かを忘れている。
その時だった。
頭の奥に断片的な景色が浮かんできた。
古代神殿。
碑文。
壁画。
削り取った。
そして。
祭壇。
……そうだ。
俺は。
そこで何かを――
激しい頭痛が走る。
思わず膝をつく。
頭の奥から、何かが零れ落ちていくようだった。
思い出せない。
いや。
思い出せないようにされている。
そんな違和感だけが残っていた。
足に力を込めて、壁を支えに立ち上がる。
急がなければならない。
残さなければならない。
理由は分からないが、それだけははっきりとしていた。
足が自然と動き出す。
知らないはずの長い廊下。
その先にあった一つの部屋へと辿り着く。
石壁作りの質素な部屋。
飾りは何一つない。
静寂だけが漂っている。
ゆっくりと壁に近付き、震える指先で石壁へ触れた。
ここになら……。
指先が文字を刻むように動き始める。
神聖文字。
一文字。
また一文字。
何を書いているのか。
もう自分でも分からない。
それでも。
手だけは止まらなかった。
刻むたびに。
記憶が零れ落ちていく。
碑文。
壁画。
女神。
祭壇。
その意味だけが思い出せない。
焦りだけが募る。
最後の一文字を刻み終えた。
壁に刻まれた神聖文字が、淡く光を宿す。
まるで呼吸をするように。
一度だけ静かに脈を打った。
その光は、ゆっくりと壁の奥へ溶けていく。
やがて何事もなかったかのように、部屋は再び静寂に包まれた。
胸の奥が少しだけ軽くなる。
これでいい。
そんな感覚だけが残っていた。
部屋を後にする。
背後で重々しい音が静かに響いた。
振り返ると部屋は閉ざされていた。
まるでそこには、元々部屋などなかったかのようだった。
その壁には紋章が浮かんでいる。
それは一瞬青白い光を放ち、壁に吸い込まれていった。
一歩。
また一歩。
歩くたびに。
自分が誰だったのか。
何を知ったのか。
何を守りたかったのか。
全てが少しずつ消えていく。
自分が自分じゃなくなっていく。
それでも。
一つだけ。
未来へ託したい想いだけは。
胸の奥で静かに灯り続けていた。




