第十四話 心の支え
どれほど走ったのか分からない。
息はとっくに上がっていた。
足も鉛のように重い。
それでも止まるわけにはいかなかった。
止まれば、王女を助ける時間まで止まってしまう気がしたからだ。
朝日が山の向こうから差し込み始める。
その光に照らされた、見慣れた古代神殿。
俺は石段を駆け上がり、神殿の中へ足を踏み入れる。
あの日と何も変わらない姿が、静かにそこにあった。
ひんやりとした空気が肌を撫でる。
崩れた天井から差し込む陽光が、静かな石床を淡く照らしていた。
自分の足音だけが、広い通路へ響いていく。
以前、この場所を歩いた時。
隣には王女がいた。
『思っていたより……広いのですね。』
不意に、その声が蘇る。
俺は小さく首を振った。
思い出している場合じゃない。
立ち止まっている時間はないんだ。
広間へ駆け込む。
祭壇は変わらずそこに佇んでいた。
その背後には、一面に刻まれた碑文と巨大な壁画。
あの日と何一つ変わっていない。
「女神様……!」
祭壇の前へ膝をつく。
「お願いだ……。」
喉の奥から、震える声が漏れた。
「助けてくれ。」
「方法を教えてくれ。」
額を地面にこすりつけ願う。
俺の声だけが、静かな神殿へ虚しく響いていく。
返事はない。
立ち上がり、震える手で碑文へ触れる。
冷たい石の感触だけが指先へ伝わる。
……読めない。
あの日。
この文字を読んでいたのは王女だった。
『読みます。』
静かな声が耳の奥で響く。
俺は目を閉じる。
思い出すな。
感傷に浸るな。
今はまだ。
あいつを助ける方法を探さなければならない。
もう一度、祭壇へ額をつける。
「頼む……。」
「何でもいい。」
「なにか方法があるなら教えてくれ。」
返事はない。
ざわつきもない。
神託もない。
沈黙だけが続いていた。
俺はゆっくりと顔を上げる。
「……あれは。」
「神託じゃ……なかったのかよ。」
絶望が襲ってくる感覚。
支えにしていたものを失ってしまった。
呟きは静かな広間へ消えていく。
何も得られなかった。
何も変わらなかった。
ただ立ち上がるしかなかった。
脳裏に、一つの言葉が浮かぶ。
『私一人が犠牲になればいい。』
……あの言葉は。
そういう意味だったのか。
胸が締め付けられる。
少しだけ。
お前の言葉が分かった気がした。
だからこそ。
「違う。」
息と共に言葉が零れる。
「そんな結末を望んでいたんじゃない。」
その先の言葉は、喉の奥で消えた。
神殿を後にする。
今はもう、どこへ向かえばいいのかも分からない。
それでも足は止まらない。
目的もなくただ歩き続ける。
歩みを続ける身体とは裏腹に、頭の中ではある光景だけが何度も繰り返されていた。
最後の戦い。
魔王。
そして――
『……すまない。』
あの言葉。
最後に浮かべた笑み。
「……あれはなんだったんだ。」
小さく呟く。
「魔王は何を知っていた。」
「何を隠していた。」
歩くたびに、その笑みが脳裏へ焼き付いていく。
今となっては。
あの笑みさえ。
この状況を嘲笑っているように思えてしまう。
「……全部。」
「お前の仕業なのか。」
やがて、小川のせせらぎが耳へ届く。
水辺へ近付く。
何気なく水面へ視線を落とした。
映っていたのは、自分の顔。
……ではない。
あの時。
俺を見ていた。
魔王だった。
思わず飛び退いた。
もう一度、恐る恐る水面を見る。
そこに映るのは、疲れ果てた顔をした自分だけ。
それでも。
あの視線だけは消えない。
「……そうじゃなきゃ。」
震える唇から、言葉が零れる。
「俺は……。」
立っていられない。
拳を強く握り締める。
「だから。」
「お前の思い通りにはさせない。」
俺は怒りを胸に、再び魔王城へ向かって歩き始めた。




