7.私がしたいこと
ピチチチチ チチチチ
夜明けとともに小鳥が窓辺で囀り、朝がきたことを知らせてくれる。
「ふぁぁぁ。おはようございます。小鳥さん、起こしてくれてありがとうございます。」
夜はぐっすりと眠り、夜明けとともに目覚める。
庭に出て朝日を浴びながら背伸びをして体をほぐし、水を汲み、顔を洗いついでに周囲に水を撒く。庭の植物の葉や花の水滴がキラキラと陽の光を受けて輝いている。
「気持ちのよい朝だわ。今日も良い日になりそう。」
アイリスは空を見上げ、今日は何をしようかと考える。庭にはすでに森の動物達が複数集まり、アイリスに挨拶をして貢ぎ物を差し出す。
「まぁ、美味しそうなリンゴ。きのこや魚まであるわ。皆ありがとう。」
動物達は尻尾をブンブンと振り、尻尾が無いものは跳ねたり飛んだりして喜びを表している。
受け取った食材を台所に運んでいると、台所のテーブルに伏せて寝ている男がいた。テーブルには食べかけの食事と飲み散らかされた無数の酒瓶が転がっている。
テーブルに伏せてイビキをかいて寝ている男の顔はよく見えない。派手な赤髪であることからインサでもジェントでもないことだけはわかった。
「どなたかしら?お客様?」
アイリスがそっと近付くが男は起きる気配がない。
「こんな所で寝ていたら風邪をひくかもしれないわ。」
心配したアイリスはそっと男の体に触れて揺すってみる。
「あの、もしもし?大丈夫ですか?」
しばらく揺すっていると男のイビキが止まった。
フガフガと鼻を鳴らし、まだ寝ていたいのか眉間にシワを寄せながら男の目がゆっくりと開かれる。
深い菫色の瞳だ。
「まるで羅針盤の石みたい。」
アイオライトとも言う、菫色の宝石だ。デジール公爵家の執務室に昔から飾られている羅針盤があるのを見たことがあった。その羅針盤は磁石ではなく、アイオライトが使われていたため印象に残り覚えていた。
アイリスの言葉に男がピクリと反応する。
「・・・前にも言われたことがあったなぁ。」
男の目が懐かしそうに細められる。だが一瞬のことで男は大きなあくびをしながら伸びをした。テーブルに伏せて寝てしまったため、体が凝ったようで首をコキコキと鳴らす。
「おはよう、公爵家のお嬢さん。」
椅子にもたれかかり、男がにやりと笑う。
「おはようございます。私をご存じなのですね。お会いしたことがあったかしら。」
アイリスの世界は狭い。公爵家とほんの少し参加したことがある茶会だけだった。
恐らく目の前のこの男はあの場に参加できる立場ではないだろう。
(インサとジェントもそうでしたが、この方も荒くれ者という言葉がぴったりな風貌ですものね。)
ここに来てからインサとジェントのおかげで一般的な知識がかなり広がったような気がする。少し荒っぽいような気もするがアイリスが2人にこれは何?とかあれはどうするの?と尋ねれば快く答えたり教えたりしてくれていた。
アイリスは2人が親切だと思っていたが、インサとジェントはアイリスがただ恐ろしくて親切にせざるを得なかっただけだった。家の外にいればアイリスの背後から猛獣が睨みを利かせているし、家の中にいれば窓の外から殺気を放ち2人を見ているのだ。アイリスを庇護する最恐の保護者達に2人は抗える訳もなく、アイリスが何かやりたいと言えば、どうぞ!と首を縦に振り、動かざるを得なかった。
「多分会ったことはないだろうなぁ。」
男が椅子に座ったまま身を乗り出し、傍に立つアイリスに顔を近付ける。深い菫色の目がくしゃりと細められた。
「俺はベルフェ。あるところからお嬢さんを攫ってくるように頼まれてここに一時的に攫ってきたんだが、随分とここの生活を楽しんでいるようだなぁ。」
ベルフェと名乗った男がアイリスに近付く。深い菫色の瞳が長い睫毛に陰って少し暗く光る。
「お嬢さん、あんた攫われたんだぜ。わかってんのか?」
敵意とは違う窘めるような雰囲気だがアイリスには初めて向けられる感情でよくわからない。
窓の外でクマがグルルルと牙を見せていたが、ベルフェは気にした様子がなかった。
突然、ベルフェの手がアイリスの手によってがしりと掴まれる。
「まぁ!あなたが私を攫ったのですね。それはお礼を申し上げなくては。」
「は?」
「私、家ではとても大切に育てられていましたの。ですけど、贅沢に思われるかもしれませんが毎日がつまらなくて飽きておりました。皆が競って私の世話をするものですから何もさせてもらえなかったんです。言っても無駄でしたし、諦めておりました。だから、攫っていただけて、本当に感謝しています!毎日自分で起きて自分で着替えて、自分でドアを開けて、自分で水を汲んで、自分で顔を洗って、朝だけでたくさんの初めてを経験しました!」
アイリスの自分でできることの喜びのハードルが低すぎる。
「・・・あんた、監禁でもされていたのか?」
「いいえ、大切にされ過ぎていただけです。」
「いや、それ異常だろ。」
「ですが、物心ついた時にはその状態でしたので私もよくわかっていなかったのです。」
頬に手を添え、アイリスが悩ましいため息をつく。
「でもこちらに来てからは自分のことは自分で行わなければなりませんでした。」
「普通の人間は皆してる程度のことだろ。」
「私にはしたことがないことばかりでした。新しい発見があり過ぎて毎日が幸せです。自分で行えることがいかに尊いことか。」
アイリスは完全に自分の世界に入り込み、ベルフェを置き去りに喋り続ける。
「私、したいことなんてなかったのです。ですが、わかりました。私は労働をしたかった。自分の手を汚して働き、汗を流す。誰かのために、何かのために働くことで自分が生きているということを感じたかったのです。」
ぐっと手を握りしめ感動の涙を流す。
「私、今が一番生きていると感じております!あぁ!幸せってこういうことを言うのですね!」
ね!!と再度強調し、アイリスは鼻息荒くベルフェを見つめる。
ベルフェは引いていた。公爵家の令嬢を攫ってきて何故感謝されているのか。
(頭湧いてんなぁ。これが次期王妃?大丈夫なのかこの国は。)
完全にアイリスの独壇場になっている。ベルフェは呆れるしかなかった。
「あっ、私ばかりお話をしてしまい申し訳ございません。それで私はこの先どうなるのでしょう。まだこちらに置いていただけるのでしたら今まで通りにさせていただきたいのですが。」
「攫われてきてるのすっかり忘れてるのかと思ったぜ。お嬢さん。」
ベルフェが立ち上がり、アイリスの顎先をぐいと持ち上げた。窓の外ではクマが今にも乗り込みそうにグルルと唸って窓を引っ掻いている。ベルフェはチラリとクマを見たが気にすることなくアイリスに視線を戻した。
アイリスはきょとんとベルフェを見上げている。
「いいか、もう一度言うがあんたは攫われてきたんだ。自分の立場を理解して、ここで大人しくしてな。今後については連絡がき次第、あんたはここから出発する手はずになっている。」
顎先を掴む指に少し力を込める。アイリスの眉がピクリと動いた。
「忘れてなどいません。ちゃんと、理解しています。」
ベルフェは少し脅してやろうと軽い気持ちで言ったが、アイリスは全く怯えない。
しばらく見ていたが、やがてつまらないなと顎先から指を離した。
クマの荒い鼻息が窓を揺らし、ガラスにクマの爪痕がいくつも付いていた。
(本当に動物に守られてるなぁ。)
「怖くないのか?」
インサとジェントから聞いていたが、この令嬢は攫われてきてから一度たりとも怖がることも恐怖で泣くこともなかった。
「怖いです。でも、もっと怖いものがありましたもの。」
「もっと怖いもの?」
ベルフェが首を傾げる。
アイリスはあの家で人形のように過ごす自分が怖かった。自分が何かしようとすると周りの者がすべてやってしまう。ただ、生きているというだけで部屋に飾られている人形と変わらない自分が怖かった。
「それに、怖がっても何も変わりませんもの。」
ふふふとアイリスは笑う。
「私は自分のことは自分でしてみたかったのです。せめてここにいる間だけでも今までのようにさせてください。」
お願いしますとアイリスは頭を下げる。
ベルフェは何も答えず沈黙が流れる。だが、怒っている訳ではなさそうだ。
「それはそうと、私はどちらへ連れて行かれるのでしょうか。」
「あ?言ってなかったか?」
「えぇ、伺っておりません。」
ちょいちょいと手招きされ、アイリスがベルフェに近付く。すると今度はベルフェの顔がアイリスに近付いた。アイリスのサイドの髪を優しく耳にかけ、その耳に口を寄せる。
「ガヨ国さ。」
小さな囁くような声でベルフェが告げるとそのまま頬に口付けた。
「まぁ。」
行先と頬への口付けのどちらにも驚いたアイリスが頬を抑えてベルフェから一歩後ろに引いた。
アイリスの中に少しの警戒心が生まれているのを楽しむようにベルフェは口角を上げ、アイリスと同じく一歩後ろに下がった。
「連絡が来るまではこの家の中と庭までなら好きにしたらいい。お嬢さんの言う”労働”を存分に楽しみな。」
窓をぎりぎりと引っ搔いて、さらに傷を増やしているクマを尻目にベルフェは笑った。
本当に動物に好かれている。いや、守られているのだろうか。依頼主はこのことを知っているのだろうか。
(まぁ、俺には関係のない話だ。俺はアイツに会えればいい。)
とりあえずこの攫ってきたお嬢さんがどうなろうと知ったことではない。ベルフェはベルフェの目的を果たすだけ。
(あぁ、早く帰りてぇなぁ。)
娘は帰れないことに喜んでいるようだが、ベルフェは帰りたかった。ここではない、自分の家が恋しかった。
(貴族のくせに、なーんもわかってねぇのアイツと一緒だな。)
どうせ言ったところで、この娘は理解などしないだろう。ベルフェはそこまで親切ではない。
「さて、連絡がくるまでは俺もここにいるとしよう。よろしくなお嬢さん。」
こうして、同居人が1人増えることになった。




