13.出発
「ベルフェさん!起きてください!シーツを洗いますよ!」
夜明けと同時にベルフェはベッドから転げ落ちた。ぐぇと潰れたカエルのような声がでる。
何が起きたのかわからず寝ぼけ眼で見ると、アイリスがベルフェの布団を剥ぎ取り、狼がシーツを咥えていた。どうやら狼にシーツを引っ張られて床に落ちたらしい。床の上にひっくり返ったベルフェを狼が鼻息荒く踏んでいく。去り際にシーツを咥えたまま、チラリと振り返り勝ち誇ったようにニヤリとしたのは気のせいか。
ベルフェという同居人が増え、さらに数日が経過した。アイリスはますます庶民化し、インサとジェントに教えてもらいながら料理にも手をつけ、隠れ家の家政婦のように働いていた。
お前、攫われたのがわかっているのかと最初は散々言われたが、何を言ってもアイリスは労働から手を引かなかった。満面の笑みでこなすのと動物達のフォロー(主に猛獣の威嚇)のおかげもあり、インサもジェントもベルフェまでもが言うのを諦め好きにやらせていた。
室内に入ることのできるサイズの動物達がきちんと玄関で手足を拭いて、お邪魔しますとペコリと頭を下げて入ってきてはアイリスに付き従った。アイリスが特に何かを命令することはないが、時折、先程のやり取りのように力仕事などを動物がかって出ていた。
何だかんだと言いながらインサとジェントは助けてくれるし、ベルフェからは「面白れぇ女」と笑われていたが気にならなかった。日々、家政婦レベルが上がっていくことにアイリスは大変満足だった。
今日もよく働いたとベッドに腰掛け、一息つく。よく見えるように両手を持ち上げて、手の平側や手の甲側をひらひらと交互に確認する。洗濯で手がカサつき、料理で指先が少し切れた。それすら頑張った証のようで嬉しくてふふふと笑いが溢れる。
綺麗に整えられた手よりも今の手の方が断然好きだった。
ふと、挙げた手の向こう、格子窓から見える夜空の月の明るさに気付いた。
今日の月は満月に近くとても明るかった。いつもならすぐに眠れるのに今日はなんだか落ち着かず、水を飲もうと台所へ向かった。
「よぉ、お嬢さん。眠れねぇのか。」
声のする方を見ると台所にはすでに先客がいた。酒瓶を持ったベルフェがつまみがないかと食べ物を漁っているところだった。
「ベルフェさん、またですか。」
呆れて言うも気にした様子はない。ベルフェはよくこうして食べ物を漁るため、アイリスは何度か注意していたが本人に聞き入れる様子はなかった。
「俺が手に入れたもんだからいいんだよ。」
ベルフェはぐびりと瓶に口をつけ酒を煽る。
「んで、眠れねぇのか?」
ぷはーっと吐きだした息が酒臭かったため、アイリスは思わず一歩後ろに下がった。
「なんとなく目が冴えてしまいました。ベルフェさんは?」
「ふーん。俺はなぁ 満月が近くなると血が騒ぐってぇの?落ち着かなくてなぁ。」
「まぁ。」
そんな習性が人間にあっただろうか。
窓から見える月を見たベルフェが内緒だぞと口元に人差し指を当てる。
「俺は狼男だからなぁ。」
「ええぇ!」
思わず大きな声が出てしまい慌てて口を押さえた。
ベルフェが狼男。そんな秘密があったとは知らなかった。では同じく落ち着かないアイリスは狼女か。思わず自分の頭に耳が生え、尻尾をフリフリと振って歩く姿を想像してしまった。
「そっ、それは女性でも同じでしょうか?」
アイリスがもしも狼になった時のことを真剣に考えているとぶふふっとベルフェが息を噴き出した。
「ぐふふふっ。お前、まさか信じたのか?」
ツボに嵌ったのかベルフェの笑いは止まらない。
どうやらからかわれたらしい。
「私が世間知らずなのをご存知でしょう。まだまだ知らないことがたくさんありますもの。ベルフェさんの言う事も信じてしまいます。」
アイリスがむくれて答えるもベルフェの笑いはなかなか止まらない。
「俺はお前を攫った悪い奴だぞ?」
「でも、ベルフェさんは楽しんでいるだけで、悪い人ではないと思います。」
何を考えているのか、わからない人ではあるけれど。
「俺が悪い人じゃない、か。変な女だなぁ。まぁ確かに楽しんでいるのは否定しない。」
またぐびりと酒を飲んでいる。
「でもなぁ、気をつけろよお嬢様。楽しいことが大好きな俺は悪いことにも躊躇しないんだ。楽しいと思ったら盗みも殺しでもなんでもやっちまう。」
薄明りの中でベルフェの菫色の目が僅かに深く暗く光ったような気がした。
「さっき、連絡がきた。明日出発するぞ。」
その言葉に肩がピクリと震えた。
「どこへですか?」
「決まってるだろ~。ガヨ国さ。」
ベルフェはいつものようにへらりと笑って、さも当たり前のことのように答える。
「お別れだ、お嬢さん。」
おやすみの挨拶くらいの軽さで別れを告げる。それ以上のことは言うつもりがないらしい。
新たな酒瓶を手に持ち、アイリスの後ろにある出口へと歩き出す。
すれ違いざまにアイリスの背中をポンポンと叩いてさっさと部屋から出て行ってしまった。
一人取り残された部屋が途端に静かになり、月の明るさだけが賑やかに部屋を照らしている。
「・・・そう。もう終わってしまうのね。」
小さくぽつりと呟いたはずが、意外と響いてしまった。耳に届く自分の声が案外悲しげで驚いた。
ここでの生活はほんの少しの期間の仮初のものだと初めからわかっていたが、いざ終わりを告げられると寂しい思いが湧きあがってくる。
最初はすぐに捜索隊か騎士団によって見つけられるだろうと思っていたが、その気配もなく気付けば欲が生まれてしまっていた。今日はこれをしよう、明日はあれがしたいと思うようになった。自分で何かを成し遂げることが嬉しく楽しかった。だから、その先に待っている現実に目を向けずに過ごした。わからないことは怖い。だから楽しい時間に恐怖を感じたくなくて目を閉ざしてしまった。
「少しの間でしたけど、ベルフェさんに感謝を。ありがとうございました。」
ベルフェは悪人だ。アイリスを攫い、どこかに引き渡そうとしている。引き渡された先で自分がどんな扱いを受けるかもわからない。ベルフェはわかっていてもきっと教えてくれない。
それでも、アイリスはベルフェが去って行った方を見つめペコリと頭を下げた。攫われなければ経験できないことばかりだったから、その部分には感謝をしたかった。
朝を迎え、いつも通り動物達と過ごしていたところで、ベルフェが馬を二頭引きつれ森の中から姿を現した。まだ寝ていると思っていたが夜中のうちに抜け出して馬を調達していたらしい。全く気付かなかった。
「俺とお嬢さんが一緒の馬な。」
あっという間に出発の準備が整えられ、アイリスはベルフェと共に馬に跨る。インサとジェントはそれぞれ一頭ずつ馬に跨った。皆、深い緑色のマントを頭から被り合計三頭の馬が隠れ家から出発した。
先頭をアイリスとベルフェが乗った馬がゆっくりと進む。赤の森は古代樹も立ち並ぶ森であり、草も鬱蒼と茂っているため速くは進むことができない。
アイリスは初めて乗る馬の心地よい揺れを感じていた。乗馬などしたことがなく馬に触るのも初めてだった。馬の体に触れるとドクドクと力強い心臓の鼓動が伝わってきた。
これから自分がどうなるのかわからない不安はあったが、ベルフェがすぐそこまでの散歩のような呑気さで手綱を操っているせいでアイリスの不安はそこまで膨らむことはなかった。
出発して一時間は経っただろうか。一行は道なき道を迷いなく進む。まるで道がわかっているかのように進路を見極めるベルフェが不思議だった。
「あの、ベルフェさん。聞いてもよろしいですか。」
アイリスが前でベルフェが後ろに座っているため、ベルフェの胸のあたりからアイリスの後頭部から背後が密着しており、距離がとても近くアイリスは振り向けない。前を向いたままベルフェに聞こえるように少し声を張り上げた。
「なんだ?」
「赤の森は迷いやすいと聞いたことがありますが、ベルフェさんは道がわかるのですか?」
「あぁ、俺の目は特別なんだよ。お嬢さんが俺と初めて会った時に言っただろう?羅針盤の石みたいだって。あれ、あながち間違いじゃねぇんだよなぁ。」
初めてベルフェと会った時にアイオライトのような瞳が公爵家の執務室にあった羅針盤の石と同じだと思って思わず口に出してしまったことを思い出した。
「俺の目は磁気がわかるんだ。赤の森は磁気を纏った鉱物がたくさんある。森の中心に行くほどに人が入らないから鉱物がたくさんあって磁気が強く、入り口に近付くほどに弱くなる。だから磁気が弱い方向を目指して進めば自然と森から抜けられるのさ。まぁ他にも色々とコツがあるんだけどなぁ。」
全部は教えてくれなさそうだ。ベルフェによると赤の森を抜けてすぐにガヨ国との国境があるとのことだった。森を抜ければ旅人としてガヨ国に入れるよう許可書もすでに偽造して用意してあるとのことだった。
丁度良い速度で進む馬に揺られているとアイリスは昨夜なかなか眠れなかったこともあり、うとうととし始めた。
「おぃおぃ。緊張感のねぇやつだなぁ。危ねえから俺にもたれてろ。本気で寝るなよ。」
ベルフェの小言を聞き流しながらも遠慮なく彼の胸に寄りかかった。馬の鼓動と自分の鼓動が混ざり合ってトントントントンと優しくリズムを刻む。それが眠り歌のようでアイリスは目を閉じた。
「・・・おぃ、起きろ。」
どれくらい経っただろうか。ベルフェが警戒した声でアイリスを起こした。
思いがけず寝入ってしまったことに驚き、慌てて姿勢を正す。
「どうかされましたか?」
「囲まれてる。」
「え?何にでしょう?」
「わかんねぇ。追手かねぇ。ちょっと飛ばすぞ。」
ベルフェかピュイと指笛を吹くと馬を走らせるスピードを上げた。しっかり捕まってろと言われ、必死に馬のたてがみを握った。
アイリスが振り向くと後方のインサとジェントも馬のスピードを上げて追いかけているのが見える。
「国境までもうすぐだ。抜けちまえば問題ない。」
三頭がスピードを上げ、赤の森を駆け抜ける。出口が近いためか普通のサイズの木がまばらに生えているだけになってきていた。
アイリスも振り落とされないように必死に掴む。
見ると前方が段々と明るくなってきている。出口が近いのだろう。
馬は更にスピードを上げ、馬の荒い息遣いが聞こえていた。
出口はすぐそこだった。




