第68話:根の回廊と、大樹の咆哮
『根の回廊』へ足を踏み入れると、外界の猛烈な吹雪の音が嘘のように遠のいた。
代わりに三人の耳へ届いたのは、地響きのように重く低い地脈の脈動音だった。
洞窟のような回廊の壁面には、太い樹木の根が幾重にも交差し、血管のようにうごめいている。
だが、その表面は粘つきのある黒紫色の膜に覆われ、本来の瑞々しい緑の光は息絶え絶えに点滅しているだけだった。
「ひどいな……。根の奥まで、不純物の膜がびっしり張り付いてるよ」
二葉が壁際の根に視線を向けながら、顔をしかめる。
「大樹が外へ排出できなくなった不純魔力が、長年にわたって蓄積した結果だね。まるで、手入れのされていない古い用水路の底に溜まった泥と同じだよ」
三葉が壁に手を開き、微細な魔力を通して深部の状態を探る。
「奥に進むほど、この膜は厚くなっている。シルヴァンさんの言っていた通り、ここを無理に攻撃魔法で吹き飛ばそうとしたら、衝撃で根そのものが裂けて、蓄積した毒素が一気に大陸中へ逆流してしまうね」
案内するシルヴァンが、弓を握りしめながら深く頷いた。
「その通りです。過去にここへ踏み込んだ力自慢の冒険者たちは、この不気味な膜を敵と見なし、大炎魔法や破砕剣で強引に切り開こうとしました。その結果、大樹は激しい拒絶反応を起こし、狂暴化した地脈の化身に襲われて撤退を余儀なくされたのです」
シルヴァンは一葉たちを見つめ、静かに問いかけた。
「森羅の三姉弟よ。あなた方はこの巨大な澱みを、どう扱いますか?」
一葉はそっと胸元のペンダントに手を当て、壁面の根を優しく見つめた。
「壊す必要なんてありません。お部屋の掃除や、道具のお手入れと同じです。頑固な汚れなら、ゆっくりふやかして、丁寧に剥がしていけばいいんですから」
一葉の迷いのない言葉に、シルヴァンは息をのんだ。
広大な世界樹の危機を前にして、まるで家庭の日常の一コマであるかのように穏やかに語る少女。
だが、その瞳には揺るぎない確信と、経験に裏打ちされた強固な意志が宿っていた。
「頼もしいね、ひと姉! よーし、まずは目の前の通路を綺麗にしながら進もう!」
二葉が木剣を抜き、先頭に立った。
だが、三人が回廊の深部へ差し掛かったその時、頭上の巨大な根が一斉に震え始めた。
ズズズ……ッ!
黒紫色の膜が波打ち、地脈の底から膨れ上がった狂暴な魔力が集束していく。
現れたのは、樹木と漆黒の岩石が融合したような巨大な異形の獣――『地脈の歪獣』だった。
かつてここへ立ち入った者たちの攻撃魔法によって傷つき、狂暴化した防衛機構の残骸だ。
「出たな……! 過去の冒険者たちが刺激して残していった負の遺産だ!」
シルヴァンが素早く弓を構え、牽制の矢を放つ。矢は歪獣の表面で跳ね返り、不純物の膜に吸収されて消えた。
「物理的な攻撃も、単発の魔力も受け付けない……! これが霊峰の最深部を守る歪みか!」
歪獣が重苦しい咆哮を上げ、丸太のような太い前脚を一葉たちへ振り下ろす。
「させるかあっ! 【二生の根張】!」
二葉が鋭い掛け声とともに木剣を床面へ突き刺した。
回廊の床を構成する健全な根が跳ね起き、緑の魔光を放ちながら歪獣の前脚を絡め取る。
凄まじい衝撃波が回廊を揺らしたが、二葉の足元は微動だにしなかった。
「よしっ、動きは止めたよ! 三葉!」
「了解! 敵の体表を覆う不純物と、暴走している地脈核の接合点を解体する! 【三途の葉落】!」
三葉が両手を広げ、極小の分解波を歪獣の胸元へ放つ。
無敵に見えた狂暴な樹木の体表から、パラパラと不快な黒い泥が剥がれ落ちていく。
内部で渦巻いていた不純魔力の結合が精密に切り離され、巨獣の身体が急速に強度を失っていく。
「な……!? あれほど高位の精鋭たちが苦戦し、撤退に追い込まれた地脈の化身を、こうも易々と……!?」
シルヴァンが目を見開いて絶句する。
「ひと姉、今だ!」
「うん! ……この大樹が持つ、本来の優しい巡りを! 【一輪の秒芽】!」
一葉がしなやかに指を動かし、柔らかな緑の光を歪獣の核へと注ぎ込んだ。
分解され、無防備になった魔力核へ一葉の保持と浄化の光が染み渡る。
狂暴な赤い光を放っていた核は瞬く間に穏やかな翡翠色へと塗り替えられ、膨れ上がっていた歪獣の巨体はさらさらとした光の粒となって霧散していった。
あとに残されたのは、黒い膜が綺麗に剥がれ落ち、瑞々しい光を取り戻した美しい樹木の床面だけだった。
「すごい……。何一つ破壊せず、怪我すら負わずに、地脈の暴走を鎮めてしまった……」
シルヴァンは弓を握る手を緩め、呆然と三人を見つめていた。
二葉が木剣を鞘へ納め、八重歯を見せてニッと笑う。
「ふふん! 力任せに殴りつけるだけの冒険者さんたちには、この繊細な手入れの良さは分からないでしょ!」
三葉も眼鏡の奥の瞳を和らげ、静かに頷いた。
「僕たちの魔法は、壊すためじゃなく、元通りに暮らすための手入れだからね」
一葉は二人の背中を優しく撫で、奥へと続く漆黒の回廊を見つめた。
ポケットの中の結晶石は、いまや回廊全体を照らし出すほど強く、清らかな緑の光を放っている。
世界樹の心臓部――『大樹の目詰まり』の真の核は、すぐそこまで迫っていた。
「行こう。最後の一掃除を終わらせて、お家に帰ろうね」
一葉の呼びかけに二人が力強く頷き、三人は世界樹の最深部を目指して堂々と歩みを進めた。
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