第62話:深緑の谷と、澱みの楔
街道を北へ折れ、ゆるやかな傾斜を下っていくと、切り立った岩壁に囲まれた「深緑の谷」の入口が見えてきた。
本来なら豊かな湧き水と深い緑に恵まれているはずの場所だが、足を踏み入れると、肌を刺すような乾いた風が吹き抜けていく。
谷底を流れていたはずの小川は完全に干上がっていて、ひび割れた川底の粘土が痛々しく広がりを見せていた。
「ひどいな……。川の跡だけじゃなくて、岩肌にしがみついている苔まで全部白く枯れ落ちてるよ」
二葉が乾いた川底へ足を踏み入れ、脆く崩れる土を木剣の先でちょんと突く。
「湿気だけじゃないね。大気に含まれる魔力の密度が、この谷に入った途端に極端に薄くなっているよ」
三葉が周囲の岩壁を見上げながら、少し不穏そうに呟いた。
「地脈の流れが完全に切られているというより……どこか一点に無理やり引き込まれて、そこで留まって腐っているような感覚だね」
一葉はそっと胸元のペンダントに手を当てた。
緑の結晶は不規則に明滅を繰り返し、谷の奥を指し示すようにかすかな熱を帯びている。
手紙と一緒に封箱に入っていた透明な結晶石も、ポケットの中で北西の方向へ向かって小さな光を放っていた。
「奥へ行ってみようか。商人さんが言っていた『重い音』の正体も、きっとそこにあるはずだから」
三人は警戒しながら、干上がった川筋に沿って谷の奥へと足を進めた。
奥へ進むにつれて風の音が途切れ、足元から不気味な重低音が伝わってくるようになった。
ズ……ン……。ズ……ン……。
心臓の鼓動というにはあまりに重く、地盤そのものが悲鳴を上げているような不快な振動だ。
谷の最奥部、巨大な一枚岩が突き出た崖の下に辿り着いたとき、三人は思わず足を止めた。
そこには、大雨か地震の落盤によって塞がれた地下水脈の出口があった。
崩れ落ちた巨大な岩塊の隙間から、ドロリとした黒紫色の濁流が滲み出し、広場の中央にどろどろとした気味の悪い溜まりを作っている。
「あれ……水じゃないよね?」
二葉が顔をしかめた。
「水脈の出口に土砂が崩れ落ちたことで、地下を通る循環魔力の流れが完全に止まっちゃったんだね。行き場を失った地脈の魔力がその場に溜まり続けて、土砂の不純物や過剰な鉱物成分と混ざり合って『腐敗の楔』になっちゃってるんだ」
三葉が溜まりの周囲を観察しながら、状況を手短に整理する。
「あの岩塊を取り除かない限り、水脈も魔脈も通らないよ。だけど、下手に破砕魔法なんかで衝撃を与えたら、溜まった濁質が一気に弾けて、谷全体に汚汚染が広がる危険があるね」
「壊すんじゃなくて、解きほぐして押し流そう。いつものやり方で」
一葉が二人を見つめ、静かに頷いた。
「二葉、まずは溜まりの周囲の地盤を固定して、これ以上崩れ落ちないように支えてくれる?」
「任せて! 【二生の根張】!」
二葉が木剣を地面へ深く突き立てた。
乾ききっていた岩肌の隙間から、緑の魔力を帯びた力強い根が芽吹き、網の目のように伸び広がっていく。
根は崩れかけた岩塊や不安定な土砂を優しく、かつ強固に包み込み、崖全体の歪みをしっかりと抑え込んだ。
「よしっ、地盤はしっかり固定したよ! 三葉!」
「了解! 【三途の葉落】!」
三葉が手をかざすと、微細な分解波動が黒紫色の泥溜まりへすーっと浸透していった。
固着していた不純物と、ドロドロに沈殿していた粘質成分が極小単位で精密に切り離されていく。
ドロリとしていた不快な濁質が、さらさらとした本来の無色透明な水と、ただの乾いた砂粒へと分かれていった。
「不純物の分離、完了したよ! ひと姉!」
「うん、ありがとう。じゃあ、固定するね。【一輪の秒芽】」
一葉は呼吸を整え、指先から柔らかな光を解き放った。
ペンダントから広がった緑の魔力が、二葉の根で支えた岩肌と、三葉が綺麗に分離した清流の状態を包み込み、そのまま空間へと穏やかに定着させていく。
ゴゴゴゴ……!
不快な地響きがすっと消え去り、詰まっていた岩塊の隙間から、清涼な湧き水が澄んだ音を立てて勢いよく溢れ出し始めた。
黒く濁っていた水たまりは瞬く間に透き通った清流へと塗り替えられ、干上がっていた川筋を辿って谷の入口へと勢いよく流れていく。
さらさらと響く水音とともに、湿り気を帯びた心地よい風が谷全体を吹き抜けた。
岩肌を覆っていた白い枯れ苔の下から、瑞々しい青緑色の芽がかすかに顔を覗かせている。
「ふぅ……。上手くいったね!」
二葉が木剣を引き抜き、額の汗をぐっと拭った。
「うん。これでこの谷の水脈も地脈も、再び本来の循環を取り戻したよ。麓の街道沿いの木々も、じきに元気を取り戻すはずだね」
三葉が川底の澄んだ水を見つめながら、柔らかい表情を見せる。
一葉はそっとポケットの中の結晶石を取り出した。
先ほどまで不規則に揺れていた光は、いまや一直線に北の空を指して、静かに澄み切った輝きを放っている。
「一つひとつの滞りは小さくても、放っておけば世界全体が乾いちゃう……手紙に書かれていた意味が、少し分かった気がするな」
一葉が呟くと、二葉と三葉も同意するように頷いた。
「さ、水も綺麗になったことだし、ここで少し休憩して、お母さんのスープを食べてから出発しよう!」
「そうだね。温かいものを食べて、次の宿場町まで一気に進もう」
三人は清らかな水音が響く谷間の中でリュックを下ろし、次の旅路に向けた準備を始めた。
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